百本の花
あまり過去を語るのは得意じゃない。
言えば大抵が暗い話になるばかりだからだ。……至って、裕福で恵まれた家庭だったとは思う。
日本画の巨匠として地位ある父は若い頃より頭角を現して、海外でも画展を開く程だった。そこへ現地スタッフとして手伝いをしていた母と熱烈な恋愛をし、日本へ連れて帰って電撃結婚。帰国後一年程で俺が産まれた。
……が、時を同じくして親父は帰国後すぐに浮気。相手は行きつけの風俗嬢で、妊娠が発覚したのは俺が腹の中にいると分かって二ヶ月後。ほんと、よくやると思ったね。親父は認知しなかったから、母さんも当分の間知らなかった。
当分の間、というのは俺がひょんな事から異母兄弟が居ると知ったせいだ。
審査員だかに酷く言われた日には決まって親父は深酒をした。その日は母もいなくて、居間で親父が一人手酌で泥酔していた。とばっちりが怖くて普段はそんな時に近づかないのだが、その時何を思ったのか俺は居間で絵を描いていた。小学校に入ってすぐの頃だったと思う。
親父はいきなり俺の頭を掴んで「お前は俺に似ているところが一つもなくて可愛げがない」と言った。
俺は母似で、ふわふわの癖毛に日本人離れした彫りの深い顔、ぱっちりとした二重まぶたと厚めの唇、何を取っても母に似ていた。そのくせ、母は性格は親父に似ていると言うものだから幼いながらに自分は性格以外は何も似ていないのかと思っていた。
それでも直接言われると悲しくなって、涙ぐむところに親父は更に追い打ちをかけるように呟く。
「あいつはあんなにも俺に似ているのに、お前は本当に何も似ていないな」
あいつ?と返したのを覚えてる。親父は俺を見ていなくて、酔って赤くなったまなこで俺じゃない誰かを映していた。
「ゆきや、お前の弟さ。同い年のな。隣町の……桂花町に寂れたアパートに母親と二人で住んでる。それはもう、俺にそっくりで可愛いんだ」
凄く嬉しそうに言って、親父はそのまま寝た。風邪をひいてしまうと思って毛布を持ってくる道すがら、言われた言葉よりも俺には弟がいるのだと嬉しくて嬉しくて舞い上がりそうな気持ちだった。
父親が寝てから、俺は小賢しくも居間の奥にある戸棚から昔の、父のアルバムを引っ張り出してきて親父の小さい頃の写真を見る。似ているということはこの自分と同じ年くらいで写っている父親とそっくりのはずだ。その中でも顔が分かりやすい一枚をこっそりと抜き取って、逃げるように自分の部屋へと帰った。
明日は学校が休みだから買ってもらった自転車に乗って行ってみよう、と思いながら布団の中で一枚の写真を宝物のように、枕の下に隠した。
昼ごはんを食べて、ピカピカの青色の自転車に乗って「遊びに行ってきます!」と言うと母は暗くならないうちに帰っておいで、とスペイン語で言った。
隣町までは行ったことがなくて初めての一人での遠出に胸を躍らせた。しかも、弟に会いに行くのだ。
隣町までは国道沿いに一本走れば良く、大体子供の自転車の速度でも30分もかからない。大体隣町だと見当をつけると俺は手当たり次第に写真を見せてこの子を知らないかと聞いて回った。
引っ越した友達を探していると言えば大抵の大人は親身になってくれた。
そんな中ああ知っていると一人のおばさんが言って近くのアパートを教えてくれて俺は天使のようだと常日頃言われる笑みを浮かべてお礼を言った。
自転車を引いて数分歩けばさっきの人に聞いたとおり、そこには生垣に囲まれた寂れた二階建てのアパートがあった。
木の隙間からそっと覗いてみると、小さなこどもが座って絵を描いていた。写真と全く同じ顔。違うところといえば写真の父より肌が青白く、不健康そうなところだろうか。
好奇心に誘われて木々を抜け、少年の前に立つ。彼に影が差す。
「きみが、ぼくの弟?」
そう言って聞けば、写真によく似た顔がこちらを向いた。
線の細い、神経質そうな顔立ち。細く柔らかな髪と真っ白な肌。すっと涼やかな眼に薄い唇。細い指はクレヨンを握って、手元のスケッチブックに何かを描いていた。
「きみはだれ?」
小さな唇が開いて言葉を発する。こんなに小さないきものが、こんなに似ても似つかぬものが、自分の弟なのか。そう、思った。これが、父の愛する父に似た、子。
その姿は、俺なんかと違って、とても、父と似ていた。
その瞬間に自覚した。自分は、彼を、羨んで、憎んでいることに。
「……ぼくはね、きみの、お兄ちゃんなんだよ」
上手く笑えてるといい。どうか上手に笑顔が作れていますように。
「おにいちゃん?」
「そ。ひきしまみつるっていうの。きみの名前は?」
ひきしま、と彼は小さく呟いて、そっか、と言った。
「ぼくは、あかばねゆきや」
ゆきや、父が言った通りの名前だ。
「いい名前だね」
「お母さんがつけてくれたんだ」
「お母さん今いないの?」
「寝てる。夜お仕事だから」
ふうん、と言って彼の手元のスケッチブックを覗き込んだ。
そこに描かれていたのは多分、一生忘れられない絵。
自分と同じ小学一年生とは思えないほどの腕。
百円均一で売っているスケッチブックとクレヨンとは思えない繊細な色合い。
今まで見た全ての絵より素晴らしい精密さ。
何をとってもそれは、『芸術』としか言い表しようがない産物だった。
俺はそこで一生分の敗北感を味わったんだと思ったけれどそれは序章に過ぎなかったよね。俺はそれ以来一度たりとてあいつに勝ったことなどないのだから。
この同い年の弟は父から愛されて芸術の神にも愛されて、全てを持ってると思った。
「お兄ちゃん、も絵を描くの?」
声に顔を上げればこちらを見上げる嬉しそうな顔。
自分の事を兄と呼ぶその声に顔に嬉しさがなかったとは言えない。嬉しかった。だがそれよりも身を焼き焦がさんばかりの昏い感情が身の内を這い回る感覚の方が上回った。
「……描くよ、父さんも描くから」
「へえそうなんだ!見たいなあ」
「また今度、ね」
もう行かなきゃ、と言って俺は後退りをした。一刻も早く、一瞬でも早く、この場を立ち去りたかった。
「ねえ、また会える?」
「……きっとね」
かろうじてそう口にしてばいばい、と付け加え俺は、逃げた。
俺は自転車に乗って全速力で走った。逃げ帰るように家へと向かう。追ってくるものなどいないのに、それは追われている感覚。
それはきっと焦燥感。俺を追うもの。
今すぐにでも絵を描かなければならない。俺はあの怪物より優れているのだと証明しなければならない。俺の方が父に似ていると、その才こそは似ていると証明せねばならない。
それからの俺は狂ったように絵を描き続けた。時折学校に行くのすら嫌がって描き続けるものだから普段は優しい母もこれは何かあったと思ったのだろう、優しい、それは優しい口調で尋ねられた。俺はあまりにも集中してずっと絵のことしか考えていなかったから、それが言ってはいけないことだと気がつかなかった。
「弟に負けたくないから」
そう言って絵を描き続けながら説明すれば、相槌を打っていた母が徐々に無言になり、最後には静かになった。俺はやっと何も聞かれずに静かに作業が出来ると新しい紙を取ろうとした時だった。
普段優しい母が悪魔のような形相で俺の腕を思い切り掴んだ。
「それ、本当なの?」
静かだが灼熱の炎のような声。
そこからの我が家は地獄の有様だった。
父が帰ってくるなり母は掴みかかってビンタをかまし、何の事だかよく分からない父は目を白黒させて頬を押さえ母を宥めようとするが火に油。まあここは色々とえげつない事になったので割愛させてもらうよ。結果だけ言えば親父は腹を刺されて入院した。俺は夫婦喧嘩の間もひたすらに絵を描いていたよ。
母はその事が原因で一度母国へと帰った。その際、俺は度重なるストレスだったのかは分からないが高熱を出し家に置いていかれた。
うわ言でひたすら置いていかないでと言ったと思う。
その時から俺は置いていかれるのも捨てられるのも裏切られるのも極度に嫌悪を表すようになった。まあ大抵の人間が嫌なんだろうけど、俺は、それが許せない。
俺は置いていかれたくない。置いて行く側になる。多分、ここが俺の転換期。
母さんが帰って来てからはもうべったりだったな。家にいる間もうどこにでも引っ付いて行って。そして絵を描いていた。母さんも強く言えなくてそのままにしていたら俺は一年くらい不登校しちゃった。
その後仲直りしたみたいで妹がお腹に出来たと分かると俺は手のひらを返したように母に引っ付くのはやめたんだよね。
何故かって?新しく生まれてくるものが、愛おしくて堪らなかったから。俺より後に生まれるもの。俺を置いて行かないもの。嬉しくて、嬉しくて。
立派な兄になろうと決めた。ちゃんとした兄になろうと。
往哉は、駄目なんだ。あいつは、俺を置いて行くから。置いて行く側だから。
往哉と再会したのはこの学校に入ってから。入学早々、芸術科で話題になった天才。俺は何度もコンクールでその名前を見ていたし他の同級生もそうだっただろう。同世代の神才。
あの後から会わなかったのは出しているコンクールが違うのもあったけれど、俺は意図的に避けていた。……親父に、きっと前より似ているだろうから。
俺にとって神は父だった。生まれた時から周りから賞賛され讃えられていた父。その父が愛した子。よく似ている子。
芸術科に入ってその姿を再び見る事になって更に確信したのだ。
彼は神に愛されているのだと。
専攻は同じ絵画系列と言えど往哉は西洋画コース、俺は日本画コースだったから会う事も少ないだろうと思っていたら、往哉は身体が弱くあまり登校出来てないと人伝てに聞いた。内心ほっとしたのも束の間、入学からひと月、とうとうその日はやってきた。
校内のカフェテリアで一人課題の草案を練りながら珈琲を飲んでいた時だった。
「比企島、満、さんです、か」
戸惑うように呟かれた音はとても、そうとても父に似ていたから俺は振り向くのが怖かった。
俺は何とか、上手く、笑顔を作って見せれたと思う。振り返って驚かないように、きっとそこには親父と同じ顔があるから。
「そだけど、なあに?」
ああ、やっぱり。あの頃から変わらず、いやもっと、父に似た相貌の同い年の弟がそこにいた。
さらさらとしたストレートの長めの髪。色白で鼻筋の通った綺麗な美貌。涼やかな目元はほんとにそっくり。うつくしいハシバミ色の瞳がゆっくりと瞬きをする。薄めの唇が開いて声を出す。
「覚えて、いるだろうか。俺は、赤羽往哉、という。貴方の、弟の」
どこか不安そうに制服の袖を握りしめて言うものだから、ああなんてこいつはそんなに恵まれているのにこんなにも自信なさげなのだろうと呆れてしまった。
「覚えているよ。昔、俺が会いに行ったもん。忘れる訳がないよ」
「貴方の絵を、見た。貴方の名前を忘れないようにして、ずっと待っていた。今まで会う事は叶わなかったけれど、コンクールで、多くの貴方の作品を、見た。名前を見た。とても、とても素敵な作品ばかりだった」
ガシャン、と音がしたのは俺の手元で、コーヒーカップがソーサーに叩きつけられた音だった。
言われたくなかった。言われたくなかった。言われたくなかった!
「……あんな必死な絵のどこが?」
「え?」
「お前の才能に勝てもせず只管描き続けた血塗れの作品群を俺は好いてない。あの日見たお前の絵に、コンクールで見続けた進化していくお前の絵に勝てもせず、燃え上がるような嫉妬の炎に身を焼き焦がせながらも筆を走らせるしかない男の絵の、どこが?いいって?」
きょとん、としたその顔が、むかつく。
「絵のためなら俺は何だって捨てれる。家族も可愛い妹も身の回りの全てを、それこそ俺の命だって捧げてもいい、そんなにも焦がれる才能をお前が持ってる。お前の吐く賞賛なんか強者の驕りだ。虫唾が走る、やめろ」
「……何を、言っているのかさっぱり、分からないけれど。得る覚悟もないくせに」
「血を吐く程求めないくせに!」
「俺は、貴方みたいに勝つ為に絵を描いてない。貴方が求めるものは、陸上選手が水泳選手に勝ちたいと思うようなものだ。手に届かぬものを欲して偽の翼諸共焼け死ぬ所業だ」
「俺は描きたい、もっと上手くもっともっと巧く。その為なら何だってやる。偽物の翼でだって飛ぶ。魂を悪魔に売るくらい平気でやる」
「貴方程恵まれて何を言うのか!?」
「俺が恵まれてる!?俺の何を知って言うんだ!」
今にも掴みかからん勢い、とはあの事を言うんだろうねえ。実際、俺も往哉も周囲が抑えなきゃ掴みあってたと思うもん。
結局往哉が何を知ってて何を考えてああ言ったのか、理解したくない。あいつだってそうだろう。
俺たちはないないないの無い物ねだりだ。互いに一番欲しいものを持って足掻いてる。
あいつに会ってからの何枚何十枚何千枚何万枚何十万枚の絵を俺は一枚たりとも手を抜いて描いた事はない毎日毎日血豆を潰して描いて描いて描き続けて、それでも届かない境地。それをあいつは始めから持ってた。俺みたいに必死にならずとも、始めから、なんて。
そんなの、ずるい。
それから一年近くは話す事もなかったんだけど、俺たちは芸術科の生徒会に招待されたから自ずと会う事になった。
まあその一年で何回か学園内のコンテストで負けてるんだけど、今はいいか。
あいつは俺が聞いていた以上に身体が弱いらしく、生徒会に所属していても滅多に芸術科生徒会会議に参加しなかった。通常の授業すらまともに受けれていないらしく、それも徐々に悪化の一途を辿っている。
本来の実力ならあいつは二年の時で既に生徒会長になってもおかしくなかったんだけど、その出席率からどうしても就けなかった。
あいつはこの学校特有の特待生制度を使って辛うじて在学している。あいつに付加された特待制度は出席日数。その代わりに月に一度は校内外でのコンクールで優勝、という馬鹿げた条件だったけど、病床ですら絵筆を置かないあいつは良くやったよ。
二年の半ば頃にはもう次の生徒会長にあいつは指名されていて、俺も副生徒会長に、と指名を受けた。
またここでも負けか、なんて考えながらそれでも俺は描きたい。まだまだ描き足りない。
彫刻コースも取ってる話はまあ置いとく?話した方がいいか。うん。
丁度その頃かなあ、担当の先生にね他の、日本画以外にも目を向けてみればどうって言われたのよ。正直、技法とかいろいろ、もう学校で教わる事はなかったし先生もそれを思って気分転換にでもどうだって意味だったとは思うよ。俺もちょっとスランプ気味だったしまあいいか、ってやる事にした。
三年の授業選択で他のコースのも選んでいいって言われて、おんなじ絵画コースでも西洋画は絶対に嫌だったから、じゃあ何をやってみようかと色んな系列やコースを見て回って、これは面白そうだなって思ったのが、彫刻。
彫刻系列の事は知ってる?軽く説明すると一年生で基礎、二年で素材別に分かれるのよ。塑造、石彫、木彫、金属ってね。三年はひたすらに作品作り。同好会レベルだとカービングで石鹸とか革に細工してるのあるよ。
俺は副生徒会長なのもあって全部試させて貰えたんだけど、権力って凄いよね。別の系列の授業なんて普通受けれないからさ。まあそれでこれやりたいって思えたのとそこそこ才能があったのが石彫。
二年の半ばで、他系列の人間が自分とこの専門に来るなんて本当、俺ならめちゃくちゃ腹立つと思うんだけどまあそういうのは少なくて、ってのもうちの芸術科の奴らは大抵俺みたいに血眼になって自分の作品に向き合っているからそんな余裕ないのよね。
世界が変わる瞬間ってあの時二度目だったかな。一回めは往哉のね。
今まで平面で描いていたものを立体で描き出す。本当、新鮮な体験でさ。楽しくて楽しくて、授業だけじゃ足りなくてつい自分のアトリエ、ああそう生徒会長と副生徒会長には自分のアトリエが貰えるの、凄いでしょ。アトリエに持ち込んで要らない時間ぜーんぶ使って造り上げた。彫り終わったあとの満足感が凄かったなあ。それを見た彫刻系列の先生がコンペ出すべきって絶賛して調子に乗って出してみたら審査員特別賞を貰ったのよ。技術はまだまだだけど伸び代がある、てね。技術も何も初めて作ったんだからそりゃそうだ、って思ったんだけど、日本画ってさ、結局俺は親父の背中を追い続けてやり始めたものだったから、出来て当たり前、やれなきゃ俺の存在価値がないってずっと思ってた。でもなんの知識もなく培った技術もなく、ただ俺の思い描いたものを削り出して生まれたそれを褒められたのが無性に嬉しくて。
それから俺は授業の半分を彫刻系列石彫コースに当ててる。彫刻もいいもんだよ、俺に新しい発想をくれる。
ま、こっちはお遊びだよ。俺は、絵が上手くなりたいから。日本画の巨匠、比企島天の息子として俺は描き続けなきゃいけないし、俺もそうしなきゃとずうっと思ってえがいてる。俺は親父の息子だから、似ている筈だから。そして親父を超えたい。超えなくちゃならない。だから俺は死ぬまで、筆を置かない。この身を削り出して生まれる作品群の中で満足いくものは一枚もないのだから。