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百花学園の愉快な日常 ACT:1

「それをお前にだけは言われとうなかったわい!」
いつも生徒に本気で怒る事のないてこが、こめかみに青筋を浮かべ、皮肉のつもりか口元だけは笑っている。目は完全に激怒を表しているが。
対しているのはすっとつり上がった目をした、口元に黒子のある男性。歳はてこと同じくらいだろう。肩にかかる髪を手で後ろに払うという仕草にも気品か漂う。美意識と自信と自己愛に満ち満ちた人物。彼は音楽科弦楽器系列ヴァイオリンコース担当教諭、市古友也。
日本有数の大オーケストラに所属する有名ヴァイオリニストとして活躍する一方、この学園の未来ある若者の育成にも力を入れている。彼自身、僅か数年前のここの卒業生でもある。
「あっは、何度でも言ってあげるよ。君みたいな、いや君達みたいな男共には、教鞭を執る資格はないって」
愉快そうに笑う市古はてこと、そしてもう一人の男を嘲る。
もう一人の男、假屋優征。商業科教諭。ノーフレームの眼鏡をかけた、冷たい眼差しの男。てこと市古と同じくこの学園の卒業生にして同期。
無言だった假屋が今度は口を開く。
「市古、貴様自身に一番言える事だろうそれは。自覚しろ」
「へえ?君がそんな風に言うんだ?このコミュニケーション不足の陰気眼鏡!」
「市古、それは悪口にはなっとらんじゃろ。この万年ボキャブラリー不足どころか皆無男」
「江角、貴様もだ。木ばかり相手にしているせいか?お前はコミュニケーション能力もボキャブラリーも貧困だぞ」
「うるさいわい假屋!わしはこの中で一番生徒から人気が高いわ!」
「人気?馬鹿にされてるの間違いじゃないの?」
「お前はむしろ敬遠されているんだろうがな」
「はは、假屋、一番苦手な教師代表みたいな男が何を言っとる!」
ぎゃあぎゃあと大の男三人が廊下で罵り合っている。正直みっともない光景ではあるのだが、いつもの事なので止める者は誰もいない、はずだったが。
「てこ、友也、優征。ここをどこだと思っているんだい?すぐそこの会議室で記念すべき第一回めの統括生徒会会議が行われているんだよ?それが、教師のする事かい」
おっとりとした口調の中にも厳しさが見える声を発したのは、農業科担当教諭、草刈草司。三人の同期で、三人の喧嘩を止められる唯一の人物だ。近くで口論している、と生徒から聞き急ぎやってきたのだった。
「そ、草司、じゃがこいつらがじゃな」
慌てるてこに鋭い視線を向け、そして順に假屋、市古にも向けられる。
「大人げない事はおやめなさいな。大体、生徒の喧嘩は止める我々教員が、自分達の喧嘩で真面目にやってくれている生徒の邪魔をするなんて言語道断、恥を知るんだ恥を。もう学生じゃない。社会人だろう、僕も君らも」
そう言われてぐうの音も出ない三人は、やはり大人げなくそれぞれに舌打ちをして(勿論草司にではなく他の二人に向かって)去って行った。
草司がやれやれと肩をすくめると同時に、会議室の扉が開いて、芸術科生徒会長代理の副生徒会長にうるさいから静かにしてよね、と怒られてしまった。自分じゃないと反論しようとするもその前にぴしゃりと扉は閉められてしまった。

江角てこ、市古友也、假屋優征、草刈草司の四人は数年前のここの卒業生にして何代も前の統括生徒会メンバーだった。各学科の生徒会長として関わる以前から色々な偶然から関わり、そしてその内の三人が犬猿の仲となった。その始まりを知るのはもう当の四人しか居ない。
優秀な師としてこの学園になくてはならない人材たちではあったが、それでもこのように顔を合わせると小学生のような口喧嘩が始まってしまうのは誰もが辟易していた。
一人となった草司は溜息をひとつ吐いて、夕暮れに染まる廊下を歩く。
「学生の頃とはもう違うんだと、早く彼らも気付いてくれればいいんだけれど」
誰にともなく呟いた言葉は春の黄昏の寒さの中に溶けていった。

その生徒会議が終了したのは最終下校時刻ぎりぎりだった。
みちかは席を立ちながら、そっと奥の席を見遣る。……そこには、全校生徒の話題の中心、戌神聖がいた。長い睫毛の下、色素の薄い瞳がまだ書類を見つめている。
正直、この会議中みちかは生きている心地がしなかった。どうしても発言しなければならない時、その目がこちらを見ているのが怖ろしくてたまらなかった。何がと聞かれても答えられないが、漠然とした不安や恐怖が込み上げてくるのだ。
会議室に見知った顔が在るだけでも少しだけマシで、そう話していないというのに幾度となく逆蔵皇逹の顔を伺ってしまって、向こうは気付いたら少しだけ面倒臭そうに片眉を上げるだけだった。
会議の内容は新年度の始まりで新たな統括生徒会となった皆の自己紹介であったり(ほとんどが校内で名を知られた存在なので必要性を感じなかった)新学期早々に始まる行事などの確認などだった。
皆の視線から逃げるように会議室を抜け、教室に戻ろうとした時に思わずあ、と声を上げた。
「ん?早乙女か。会議が終わったのかの?」
江角てこが渡り廊下に居た。みちかはその性格ゆえか、人の感情の動きに聡い。一瞬でてこの機嫌が悪いと見抜いた。
「あ……の、どうか、されたんです……か?」
びくびくしながらやっとの事で言葉を絞り出す。すると、てこは怒りが込み上げてきたのか、引きつった笑顔を返してくる。
「いやのう、市古と假屋がまあた突っかかってきおっての、会議中に外が煩うなかったか?」
そう言われれば途中、外から喧騒が聞こえてきて呆れ顔で芸術科の副会長が注意に席を立っていた。
「……はあ」
「全く、何でこうも奴らは感に触るのか。わしが腹立つんじゃない、奴らが腹立たせるんじゃ。あいつらは昔から……」
こうなると話は長い。一二三なら適当に切り抜けられるが、タイミングをうまく掴めないみちかはいつも長話に付き合わされる。
が、今日は下校時刻を知らせるチャイムに助けられた。工業科の職員室へと去って行ったてこを見送り、今度こそ教室に向かう。
みちかは教室が嫌いだった。今まで、その空間が好きだったのは一度しかない。去年、一二三と共に居た時だけ。
みちかにとって一二三は、人生で唯一の友達だった。優しく人想いで、勘が鋭く感情や思いを見抜く術に長けている。自分よりも人を気にする彼女が、みちかは好きだ。
多分人生の中でもこれ以上の友達は出来ないだろうと思っている。
しかし、一二三は誰にでも好かれる。
分かっている。自分にとって彼女が唯一でも、彼女にとって自分は唯一ではない。一二三はみんなに優しい。
優しくて優しくて、胸が押しつぶされんばかりだ。独り占めなんて、叶わない。
……きっと、一二三の弟、潤くん。彼もまた似たような思いを抱いているのではないかと、みちかは感じている。きっときっと同属であるのだろうと。憧れの対象というものが別にあるのを除いて。みちかは、友情も愛情も憧れも、好意の全てが一二三に傾いているからだ。
「早乙女くん」
急に声がかけられてみちかは飛び上がる程に驚いた。
振り向くとそこにいたのは商業科の教師、假屋だった。冷たい眼差しでみちかを見つめている。「な、なんでしょうか……先生」
この広大な学校の中でみちかでさえ全ての教員の名前や顔を覚えてはいないものの、假屋は一二三が仲良くしている教員の一人だったので記憶していた。が、まさか相手の方が自分なんかを知っているとは思わなかったみちかだが、普通科の生徒会長を務めているのだから当たり前といえば当たり前だった。
神経質そうに眼鏡を中指で押し上げる假屋。
「最終下校時刻が近い。春先は変質者が多いから気をつけて帰りなさい」
厳しいと有名な先生の口からそんな言葉が出た事に驚いてすぐに返事を返せないでいると、つかつかと假屋はみちかに近づいてくる。
「それと、君は戌神をどう思ったかね?」
意味の分からない質問にみちかは小さくえ、と返す事しか出来ない。
「戌神聖、だ。質問の意図が読めないかね?彼を、君も素晴らしい人物と、思っているのか、だ。まるで聖人君子や救世主かだとでも、奴が見えるのか、と」
「……どう、いう……事、でしょう?」
何でこの先生はそんな事を聞くのだろう。まるで、まるで戌神聖という人物が、悪人だとでもいうように。潤くんは、戌神先輩を尊敬している。この学園の大半の生徒も彼に憧れ、好意を抱いていると言ってもいい。それなのに。なのに、なぜ先生は……。
「……いや、いい。君ならと、思ったが……」
最後の言葉は小さくて二人の間に消えてしまい聞き取れなかったのでみちかは首を傾げる。
假屋はもう一度気をつけて帰りなさいと言って、踵を返して去っていった。
何を、疑っているのだろう。何を問題視しているのだろう。
みちかはそれ以上考えず、明日一二三に聞いてみようと思った。そう、みちかの頭脳ブレインは自分の頭に入っているものではなく、一二三なのだ。計算に使うもの以外の、無駄で無用なものと切り捨てたすべて。
全て、一二三が考えてくれる。
大丈夫、何も心配いらない。と、いつも一二三は言ってくれるのだから。

翌日、正門のところでみちかは一二三を待っていた。
待つ事十五分、一二三と潤一がやってきた。一二三は片眉を上げ、おや、と呟いた。
「どうしたの、みちか。浮かない顔だね」
と言ってもみちかは常に困ったような顔をしている。下がり眉がそう思わせるのか、おどおどと揺れる瞳がそう思わせるのか。それでもみちかが本当に不安な時の顔を一二三は見抜く。
「ひふみ、あのね……」
言葉にしようと口を開く。が、潤一が隣にいて言うのを躊躇った。彼の前で話してはならない内容だと、みちかでも分かる。
どうしようかと悩むみちかに一二三はふっと笑う。安心させるように。
「大丈夫だよ、不安は口にしなよ。潤、先に行ってて。みちか、エントランス寄って行こうか?」
はきはきと判断をする一二三に安心したみちかはほっと息を吐く。いつも通りだ。大丈夫、一二三に任せれば何でも上手く行くんだ。
エントランスは普通科もある本館一階にあり、とても広く談話室もあって生徒達の憩いの場として使用されている。
しかし始業時間も差し迫ると休み時間は満員となるその談話室も人はほぼいない。一二三とみちかはふかふかのソファに向かい合って座った。一二三は華美なガラステーブルに鞄を無造作に乗せて、肘置きにもたれかかる。
「で、どうしたのみちか。今なら二人きりだ。誰も聞いてないよ」
そう促すとみちかは小動物のように目をきょろきょろと動かしながらも口を開いた。
「……きっ、昨日、統括生徒会があった、でしょう?あれね……戌神先輩が、恐ろしくて仕方なかった。怖いの、あのひと……。何がって、説明……できないけどね、戌神先輩は他の人と何か違う……。雰囲気、言葉、あぁ違う。きっと、あの目が、怖いんだわ、私。確かに私、人の視線が怖い。でも、あの人の怖いは、別なのよ……。怖すぎて、喋れない。考えられないの……。それに、会議が終わった後、あの、假屋先生が」
「ん?あの人が、どうかしたの?」
一二三は学科こそ違えどてこや假屋、市古や草司など、色んな教員と仲が良く、可愛がられている。假屋とは入学式早々科が違うというのに制服の乱れについて怒られた仲だ。未だに何かにつけ小言を頂戴している。
「假屋先生、私に……言ったの。君は、彼が聖人に見えるのか、て。私、その場では意味が分からなくて、返せなかったけど、よくよく考えてみたら……会議の時を思い出してみたら、その假屋先生の言葉が、怖くなった」 みちかはぶるりと体を震わせ、怯えた目を下に向ける。
何をそんなに恐れているのだろうと、一二三は考える。戌神、そして假屋先生。……潤一は、戌神聖という男に心酔していた。聖人では、ない?裏があるのか、何か……生徒の知らないもの?假屋先生は非常に公平を愛し規律を重んじる性格だ。人を見抜く術にも長けている。そんな先生が、意味もなく否定の言葉を発するとはとても思えない。
「みちか、わたしはその戌神聖をよく知らない。だから言えることは少ない。でも假屋先生が何の意味も根拠もなしに言葉を吐く人じゃないのは知ってる。……今言える事は、みちか自身が深入りするな、かな。雉も鳴かずば撃たれまい。目立つなってこと。関わらなければ、大丈夫。大丈夫」
そ、とみちかの頭に手を乗せて撫でる。小さな子供をあやすように。……ふと、みちかの目からぽろぽろと涙が溢れる。安心したのだろう。
唯一、彼女が安心できるのは一二三の傍だけなのだから。
「み、みちか!?大丈夫?ごめん、あまり良い事言えなくてごめん。ああ、もうすぐ授業が始まる。泣かないで、泣かないで」
「……っ、ごめ、んね……ひふみ。ありがとう、うれ、しいの……ひふみが、あったかいか、ら」
あたたかい?
みちかの言葉の意味を図りかねていると、予鈴が鳴り響いた。
慌てて自分の教室へと向かう二人。走りながらみちかはうっすらと笑っていて、一二三はほっと胸を撫で下ろした。
そんな二人だったから、二人の後からもう一人、談話室から出てきたのに気付かなかった。
その男は二人の後ろ姿を見つめ、小さく笑う。が、目だけは決して笑っていない。男は誰にともなく呟いた。
「戌神聖が聖人ではない、ね」
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