百花学園の愉快な日常 ACT:1
購買とは、戦争である。
四十五分の間の昼休み前半、およそ十五分ほどの間は購買は戦場と化する。
あの不真面目を形にした四元ですら忙しく働いている。昼休み前に各種パンを並べ、そしてチャイムが鳴った瞬間から体育科・工業科を始め各学科の生徒が全速力で走ってくる。
各々パンを掴み怒涛の如く押し寄せる会計に流石の四元も真面目にやらざるを得ない。普段の二倍速くらいの動きで、テキパキとレジを捌く姿は見ものだと生徒たちから言われている。
最初にその姿を見た一二三は「意外だ」と呟いたが大半の生徒はそう思うだろう。生徒の事などお構いなしにだらだら会計をしそうだというのに、しっかり働いている。ピーク時間が過ぎれば肩で息をして薄らと汗をかくほどに動き回っていた。
ピークが過ぎた後、一二三は購買にやって来た。トマトを齧りながら。
「よっちゃんお疲れ様〜大丈夫?」
声をかけるとカウンターの奥でぐったりと椅子に寄りかかっていた四元はバッと起き上がり片手を上げる。
「ひふみ〜疲れたマジ疲れた。生徒たちって何で来る時にでもパン買って来ないの?バカなの?……ねえひふみ、何でトマト齧ってんの?」
ぐだぐだと愚痴をこぼしていたかと思えば、ズレたピンク色のサングラスを掛け直し、一二三を直視する。
どこからどう見てもトマトだ。新鮮そうなみずみずしいトマト。右手で持って齧っているが左手にももう一つ持っている。
「え?え?もしかしてそれお昼ごはんとか言わないよね?ダイエットなんてバカげた事はやめるんだ!許さないぞ!そのままのキミでいて!」
「違うよこれは農業科のトマトテロくんから押し付けられたやつ。学園七不思議の。お弁当食べた後で結構お腹いっぱいだからもう一個はあげる」
はい、と手にした真っ赤なトマトをカウンター越しにきょとんとしている四元に渡す。両手で受け取った四元はトマトと一二三の顔を交互に見る。
「七不思議ってあれ?農業科の温室付近で無差別にトマトを配りまくる交換留学生のイタリア人」
「そうそう、通りかかったら貰った。いいひとだよ」
「そうやって知らないヤツから不用意に物貰ったら危ないぜ〜、て餌付けしてる俺が言うべきじゃねえなあ」
「餌付けの自覚あったんだ」
貰ったトマトを四元も大口を開けてかぶりつく。渇いた喉が潤う。酸味よりも甘味が強い。
「意外と美味しい」
「だよね。あのひとのトマトに対する執着心は凄いなって思うけど美味しいものを作ってて偉いなって思う」
トマトを食べ切った一二三は無邪気に笑う。
「そういやひふみ、今朝江角ちゃんに怒られてなかった?何したの?」
がぶりと一口が大きい四元がトマトを咀嚼し飲み込んでから聞く。
「あは、あれねでこ先生にウエストサイド物語おすすめされて映画観たら楽しくって、映画の始まりのシーンの指パッチンして迫り来るやつを有志を集めてでこ先生にやったら怒られたんだよ」
「何それ超面白そうじゃん!何で誘ってくれなかったんだよ〜!」
「あれはヤングがやるから良いのであって」
「ちくしょう……若者に含まれないのがこんなにも悲しい日が来るなんて……ってか俺普通に若者なんだけど!?」
予想通りの四元の反応に一二三はけらけらと笑う。
「アンタ!今日という今日は許さないわよ!観念しなさい!」
腹から出ている大声に周囲の生徒が一斉に振り返る。その合間を風のように走り抜ける生徒と、注目を浴びている声の主。視線は逃げる生徒よりも声を発した者の方へと行く。それはそうだろう、芸能科生徒会長の役重雪飛だ。
一二三も何事かと一呼吸置いて振り向こうとしたら、その駆けてくる生徒と見事にぶつかり尻餅をつく。
「ちょっと、大丈夫ひふみ!?」
四元が購買のカウンターをひょいと乗り越えて一二三の元へ向かい、膝をついて様子を確認する。
「うん転んだだけ」
その言葉を確認して四元はほっと息を吐いて立ち上がり、ぶつかってそのまま立ち尽くす生徒の胸倉を掴む。
「キミね、廊下を走ったり何かやらかして逃げるのは構わないけど、今やった事だけは許されないよ。分かってんのか?あ?煙ヶ坂よぉ」
相手の生徒は芸能科の制服を着ていた。地が垣間見える四元に睨まれているというのに顔には笑み。
そこへ追いついた雪飛が「ちょっと煙ヶ坂!何やってんのよもう!」と声を上げる。
雪飛は呆気に取られたままの一二三に手を貸して立ち上がらせて、「大丈夫?ごめんね」と声をかけて四元と、煙ヶ坂と呼んだ生徒の間に割り込んだ。
「よっさんも落ち着いて、ひふみちゃん怪我はなかったんだから。でも煙ヶ坂、アンタは駄目。まず謝りなさい。あとさっきの件の反省文提出しなさい」
人差し指を煙ヶ坂の胸に突きつけながら雪飛が詰め寄る。
一二三は煙ヶ坂という生徒を見た。
まず目につくのは目立つサングラスだ。サイクロプスサングラスと呼ばれる形で、レンズはミラー加工で目元が完全に見えない。短く切られた髪はアシンメトリーで、上着を脱いだシャツ姿にトリニティーノットで結ばれたタイ。雪飛と違った意味で一目見れば忘れない容貌だった。
胸倉を掴まれていた煙ヶ坂だったが、四元が雪飛に促されて手を外しシワになった胸元を整えながら一二三に向き直る。
「あー、えーと、ごめん。悪気はなかったんだよ」
「悪気がなかったで済んだら警察いらないよね?ね?ホント、どうやって落とし前つけるのかな?」
メンチ切りながら詰め寄る四元を抑えて一二三が笑う。
「いやいや、謝ったならもういいよ。わざとじゃないんだし」
「……うーん、そんな可愛くお願いされちゃったら頷くしかないなあ。ひふみに感謝しなよね、煙ヶ坂ちゃん」
目だけはまだ怒りを湛えた四元が煙ヶ坂から下がる。一二三に向かってにっこりと笑い、頭を撫でる。
「ぎゃー!髪がぐしゃぐしゃになる!」
「あはは、ひふみは優しいなあ。それで、煙ヶ坂ちゃんはなんで逃げてたの?今日はゲリラ放送やってなかったじゃないの」
ゲリラ放送、と聞いて一二三は思い出す。昼の放送を時折ジャックして好き勝手話す者がいる事を。ジッキー、と名乗りそしてその人物こそ芸能科副会長として君臨し、己の権力をこれでもかと使うので下手に注意できないという問題児。
「いやねー、ほらゲリラ放送以外にも俺ちゃんってば色々やってるじゃん?それで面白い遊び思いついちゃって、カフェテリア前でね軽音楽部の奴らと組んでさあ」
「あ、あ。ごめん。全く興味ないからいいよ。義理で聞いたけど興味ホントないの」
おおよそ最低な言葉を吐く四元に、いつもへらへらと笑っている煙ヶ坂も流石にへの字口になり不機嫌そうだった。
「よっさん、アナタねえ……」
見かねた雪飛が口を出そうとした時、大きな影が皆の前に出てきた。
「すまない、邪魔だったろうか」
巨体に似合わず申し訳なさそうに少し頭を下げているのは体育科の藤咲虎太郎だった。
「あらま、藤咲どうしたの?」
雪飛が驚いた顔を見せる。雪飛の知る虎太郎という人物は、厄介ごとに巻き込まれる性質であっても厄介ごとに首を突っ込みに行くタイプではない。だから余計に驚いた。
「あ、藤咲先輩こんにちは」
「ええと大饗だったか。うむ、こんにちは」
律儀に挨拶を返して雪飛の質問に答える。
「いや実はな先程杏一郎が体操服を破いてしまったようで買いに来たのだ。急がなければ昼休みが終わってしまうから、出来れば早く買いたいのだが」
「昼休みに体操服破けるって何してんの?以劔ちゃん馬鹿だ馬鹿だと思ってたけどプロレスでもしてたの?」
呆れた様子の四元に虎太郎は苦笑する。
「あながち間違っていないのが困ったところでな。獅子崎と掴み合いの喧嘩をして、仲裁に入った俺が獅子崎の腕と杏一郎の胸ぐらを掴んだまま、獅子崎に回転するように投げられて思いっきり杏一郎の体操着が破れた」
「流石柔道部のメスゴリラ、容赦がない」
煙ヶ坂が思ったままを言うと虎太郎は至極真剣そうな表情で「それを本人に言えばお前も同じ運命を辿るぞ」と言い放った。
「その場合体操服を弁償すべきなのは麗央那先輩なのでは?」
思ったままを口にした一二三だったが、虎太郎は律儀に首を振って否定する。
「いや、俺が咄嗟に手を離さなかったのがいけなかった。俺の判断ミスだ」
真面目だなあ、と一二三は思い尊敬の念を抱く。そして先日放り投げられなかった皇逹がとてもラッキーだったのではと思い至った。
「そういう訳で体操着のL Lサイズを一枚いただきたい」
虎太郎が四元に言うと四元は購買の奥へと向かい、ビニール袋に包まれた体操着を持ってきた。「そういうところはちゃんと仕事するんだよな〜」と煙ヶ坂が揶揄する。
「はい、 L L一枚ね。そっちIDかざして。こう見えて購買の仕事自体は気に入ってんの!」
購買のレジ横にある電子端末は、門や校内の自動販売機や食堂の食券売り場でも見かけるものだ。
数年前に生徒手帳が無くなり、全て顔写真付きのカードになった。独自の電子マネーを搭載しており、このカードだけで校内で買い物には困らない。
「助かった、これでどやされずに済む」
ほっとした表情の虎太郎は体操服を小脇に抱えた。そして周囲の人々を見回す。
「それにしても何を揉めていたんだ?四元さんが購買の外まで出てきているとは」
当然の質問に雪飛がかいつまんで状況を話すとなるほど、と頷いた。
「体育科にも血気盛んな問題児たちは多いが煙ヶ坂みたいなタイプはいないからな、大変そうだ」
「それって俺ちゃんに失礼じゃん!目の前で言うなんてサイテー!」
煙ヶ坂は怒りながらも茶化している。雪飛はそれを見て溜め息を一つ吐く。
「アンタねえ、少しだけでいいから大人しくしてよね。こないだの劇が終わったからってアタシも暇じゃないんだから」
「また何かやるんです?観たいなあ」
のんびりと一二三が言うと雪飛はにっこりと大輪の花のような笑みを浮かべる。
「そう言ってくれると嬉しいわあ!あのね、今度サロメやるのよ。しかもただのサロメじゃなくて『喜劇サロメ』。どう?普通に興味ない?」
「へえ!面白そうですねえ。ぜひ行きたいです!役重先輩がサロメなんですよね?」
「もちろん!アタシ以外に演れる奴なんていないわ。じゃあ今度またチケットあげるわね。楽しみにしてて!」
華麗にウインクをする雪飛。
「サロメか、良ければチケットを俺にも譲って貰えないだろうか?」
「あら、藤咲が欲しがるなんて珍しいわね。興味あるなんて意外」
「その話は好きでな。杏一郎たちも誘って観に行きたい。四枚都合つくだろうか?」
恐縮した様子の虎太郎に雪飛は、今度はにやにやとした笑みを浮かべて頷く。
「あらあ、二枚じゃなくていいの?」
「な、なぜだ」
あからさまに動揺した様子の虎太郎に、四元や煙ヶ坂もにやついた笑みを浮かべにじり寄る。
「そんなの分かり切ってるじゃ〜ん?デートに誘うなら他二人のぶん要らなくない?」
「ふふふ俺ちゃんの情報網見くびらないでね!なんて言う前に結構知れ渡ってる事実だからね!わっかりやす!」
二人がかりで冷やかし始めて虎太郎はたじろぐ。
「い、いや俺は皆で観に行きたいのであってな……で、デートなどとそんな浮ついたものなどでは」
言い訳がましくしどろもどろに説明する虎太郎を好奇の目で見遣る一同だったが、その視線に耐えられず虎太郎は廊下を全力で走って逃走した。体育科の全力疾走、あっという間に姿は消えた。
「あはは、藤咲先輩って分かりやすい方なんですね」
一二三が虎太郎が消えた先を見つめて言った。
「じゃ、こんなとこでぶらついてないでとっとと行くわよ。次の授業始まる前にまずカフェテリアに寄って謝ってこなきゃ。本当アンタって放っておくとろくな事しないし止められるのは濡羽お姉様だけだし。とりあえず後で説教してもらってね」
「あのババアは関係ないじゃん!?やだやだやだ!」
「やだじゃないわよ、カフェテリアと中庭はアンタのアレのせいで今週いっぱいもう使えないじゃないの!たっぷり搾られなさい」
雪飛が暴れる煙ヶ坂の首根っこを引っ掴みながら連れて行く。煙ヶ坂の方が背は高いが、演劇部で鍛えた雪飛の方が腕力は上で敵わないと諦め連行されていった。
「ほんと何したんだろうなあ……今度聞いてみよ」
去り行く二人を見つめながら一二三が呟いて、四元は教室に向かおうとしない一二三に首を傾げる。
「ひふみは急がなくていいの?」
「うん。次の授業は担任の先生が出張中で自習なの。そういえばよっちゃんって昼休みと放課後以外って何してるの?購買やってないよね、この時間だけ来てるの?」
ふと思った疑問をぶつけると四元はにんまりと笑っていつものように冗句を交えて返す。
「やだ〜ひふみったら俺の事そんなに気になっちゃう?特別に教えちゃうけど俺は昼から夕方は購買の奥の部屋でお昼寝してるから、遊びに来てね全力でもてなすよ!」
両手を大袈裟に広げてウェルカムの姿勢を示すが一二三はいつも通りの笑顔で首を横に振る。
「ううん行かなあい」
「冷たい!流石!」
何が流石なんだろうと首を傾げながらも一二三はこれは好機なのではと思い至る。生徒達がそれぞれ各教室に向かう中、ここは今他に人がいない。そして一瞬脳裏をよぎったのは、奥の部屋で昼寝というのが少しの嘘が混じっているという事。授業中、或いは休憩時間に校内を自由に歩き回っている事を。しかしそれが何を意味するのかわからないから、一二三は追及しなかった。
だから、一番聞きたかった事を聞く事にした。
「ねえよっちゃん、カリスマの残滓ってさこの学校の生徒なんだよね?よっちゃんはそれが誰か知ってるんだよね?」
一二三が問いかけると四元はいつものにやにやした笑いでもなくただ微笑む。
そして静かで低めの低音が響く。
「うん、知ってるよ。ちゃんと『誰か』って分かってる。『どれ』が『誰か』の残滓なのか、知ってるよ。どの先生が、どの生徒かってね」
「待って、先生もなの?先生にも残滓がいるの?残滓は、種類があるの?」
詰め寄る一二三の頭を四元は撫で、腰を屈めて視線を合わせる。
「かわいいかわいいひふみ、キミだから教えたげる。そうだよ、いる。そしてカリスマの残滓なんてものだけじゃない、カリスマそのものが、いる。誰だと思う?俺からは教えないけど」
まるで愛しい恋人にするような仕草と声色、そして柔らかい表情に一二三は困惑する。話の内容と行動が一致していない。殺伐とした話題にこの動作は似合わない。その事に不安を覚えぞわりと背筋が凍りつくが一二三は更に問い掛ける。
「なんでよっちゃんは知っているの?知り合いなの?」
「知ってるよ、俺の世代だからね。カリスマって奴らは何人もいた。今は色んなところに散らばってるけどね。そのうちの最悪の奴がここにいるよ。素知らぬ顔して教鞭を取ってる。愉快だよね、ホント。」
教鞭、という言葉が頭に引っかかるものの、口から零れ落ちた言葉は「世代?」だった。四元の正確な年齢は分からない。しかし同年代くらいといえば。
そう考え至ろうとした時、四元の鋭い言葉が刺さるように発せられる。
「ひふみ、それ以上はまだ、だめだよ」
有無を言わさぬ言い方に一二三は黙る。四元は一二三の癖のある髪を一筋掬い取り、名残惜しげに離す。
一二三はこれだけは聞いておくべきだとまだ、もう一歩、踏み込む。
「よっちゃんは残滓ではないんだよね?カリスマでもない?誰の、味方でもない」
「そうだぜ。俺はむしろ世界の流れに逆らったレジスタンスだ。反抗して対抗して抗った。そして、負けた。それはもう惨めにねえ。ただの時代の敗者だ」
その言い方はあまりにも卑屈じみていて、いつもの四元らしくなくて一二三は不安を覚えた。
「前に俺が天才どもだいっきらいって話したよね?あいつらは簡単に『やれ』『やればできる』『やらないのは言い訳だ』なんて言う。そんなものは才能ある奴の言う傲慢だ。そのスタート地点に立てない奴だっている。動けない理由を言い訳だと断定するその考えを絶対に俺は許さない。認めない。酷いと思わない?ね?自分の物差しでしか測れないひどい奴ら。……童謡でポケットの中のビスケットを叩いたら増える歌あったでしょ?いやホントはそんなポケットが欲しいって歌なんだけどね。子供の頃さあ増えないかなって歌のとおりにやらかしてポケットの中大惨事になったんだけど、その時分かったんだよ。ポケットの中のビスケットは増えなくて、一枚のビスケットが割れるだけなんだって。当たり前の事をね。そして気付いた。人間の持つ才能だって一緒。どれかが得意な事で大きい欠片、苦手な事は小さな欠片。総量は変わらず一枚のビスケットなんだ。天才って呼ばれる奴らだって同じ。その突出した才能が大きいビスケットの欠片で、だから他が小さな欠片。天才と馬鹿は紙一重っていうのはここら辺じゃないかな。その才能が突出しているが故に他の能力が低い。……でもさ、知ってる?そのポケットの中のビスケットが二枚も三枚も元から入ってる奴だっているんだ。初めから、スタートから違う奴らがいる。ビスケットを一枚丸々頬張ってもその手にまだビスケットがある奴ら」
「……それが、カリスマってひとたち?」
一二三の問いに四元は口元だけ笑みを浮かべる。
「さあ、もう行きなよ。日常に戻らなきゃいけない時間だ」
一二三が去った後、四元は購買のドアの鍵を閉めようとした。
そこへコツリとハイヒールの踵が鳴り、四元が購買の外へ視線を向けると既知の女性が無表情で立っていた。ブルネットのストレートの髪は背の半ば程、黒に近いパンツスーツに押し込められた身体は男性を魅了するには充分すぎるほどである。赤い七センチ程のハイヒールの踵を揃え、切長の目は真っ直ぐに四元に向けられている。
「四元副理事長、そろそろ会議の時間です」
冷たい表情に似合う冷たい声が響く。しかしそれを気にする風もなく、四元は購買の鍵を掛けるのをやめて奥へと向かう。
「分かったよ、着替えたら行くよ」
橙色のスーツのジャケットを手に取りながら四元は入口に立つ彼女に向かって振り返る。
「二人しかいないんだしそんな他人行儀な呼び方やめない?古い仲なんだし。ねえ?
「その呼び方はやめて下さいと何度も申したはずです。今も昔も、貴方のほうが立場が上なのですから」
以前より四元の右腕として働く彼女は一定の距離を保つ。今や理事会に所属する立場であっても、彼女は四元のサポートに徹する。ほぼ秘書と言って過言ではない。そこまで四元の身近にいながらも、彼女は決して自らの決めた一線以上を越えようとしなかった。
四元はやれやれ、と言いたげに首を振って奥の部屋へと入って行った。
その背をじっと見つめながら女性はぽつりと誰にともなく零す。
「そう、決して貴方と馴れ馴れしく行動を起こしてはならないのです。私は」
それが聞こえた筈はないのに、奥の部屋から声がかけられる。
「もしかしてまだ草薙ちゃんの事怒ってる?もう十年も前の事じゃない」
それに対する返答はなかった。