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幕間

2DKの孤独の世界

その日はどうしても往哉にやってもらわなければならない仕事ができて、連絡しようと電話をかけた。
数コール鳴って奴は出た。
「……もしもし」
「相変わらず体調わっるそうな声してるねえ。あのさ、今度芸術科全生徒対象でやる大型コンペなんだけど、どうしても往哉のサインが要るんだけど出てこれる?……訳ないか」
特例で二年の半ばから急遽引き継がれた生徒会長と副生徒会長業務。進学や才能などの理由で前倒しで引き継がれる事があるというが自分たちにその白羽の矢が揃って立つとは思わなかった。そのせいで来年までは往哉と関わらずに済むだろうと思っていた俺の目論見は早々に破綻した。
俺たちの抜けた穴の生徒会役員は俺が二人の同級生たちを推薦して収まった。
そして学園祭も近付く中、今までは往哉がいなくてもなんとかなっていたものたちが立ち行かなくなっていって、とうとう電話をかける事になったのだ。
連絡先も芸術科生徒会に入ってようやく交換した仲だ。こうやって電話をかけたのも初めてだった。
電話先の往哉はぜえ、と喉に引っかかるような呼吸音の後に嫌に掠れた声を出した。
「少し、難しい……」
「少しどころじゃないでしょ」
思わず厳しい言葉が口から出てしまったが仕方ないだろう。今にも死にそうな声だ。
「往哉って寮だっけ?学校から近い?」
そう聞いてしまった。寮であれば大抵近いからとっとと行って寝ながらでもサインしてもらおうと考えていた。少しの間があって、往哉は答える。こいつは独自の間で話すから苦手だ。
「……いや、アパートに住んでる」
「どこか借りてるの?」
と聞くと、ええと、だとかううん、だとか唸り声だか何だかぼそぼそと不明瞭な言葉が返ってきてつい苛ついてしまった。
「どこなの、はっきり言ってよね」
キツめの言い方をしてしまった、と思ったが吐いた言葉は取り消せない。電話先で少し言い淀んだような感じがして、答えが返ってきた。
「昔、会いにきてくれたアパート、覚えているだろうか」
それだけ聞けば充分だった。
すぐ行くから、と言って返事も聞かずに電話を切った。

ついでに書いてもらうつもりで何枚かの必要な書類を集めて鞄に詰め込んだ。
あいつの家は隣町にあるから、学園からは少し距離がある。近くのバス停に向かい時刻表を確かめると、数分後にそちらに向かうバスが来る事が分かり待つ事にした。
それにしてもまだあそこに住んでいたとは。よく生活圏が被らなかったなと不思議に思うが、そういえばあそこの地区ならば中学は一緒だったのではないだろうか?と思うがあいつは在校していなかった。どこか別の中学に通っていたのだろうか。
バスに揺られて二十分くらいだろうか、確かこの近くだったはずだ、と思うところで降りた。流石に昔とは周囲は変わっていたから辿り着けないだろう。俺はスマホを取り出して再び往哉に電話をかける。
「もしもし往哉?今、朝霞ってバス停に着いたんだけどここからどう行ったらいい?」
聞いたものの、往哉はこのバス停を知っているだろうかと不安になったが、あいつはバス通学のはずだから知っているはずだろう。多分。
「ええと、その道を真っ直ぐ行ったら、丸いポストがあると思う……そこを右に曲がって、三本めの道を……左に行けば辿り着けると、思う」
そこまで聞いて了解、とだけ返してまた電話を切る。一本め、大きな道。奥にコンビニが見えた。二本め、細い道。車がすれ違うのがギリギリ出来るくらいだ。三本めの道。さっきよりも細く車が一台しか通れない道幅。そこを曲がるとああ、と思い出した。小さい頃に通った記憶があった。真っ直ぐ行くと昔と変わらない古びた二階建てのアパートが建っていた。生け垣より俺の背丈の方が高くなっていた。
敷地に入り幾つも並んだ郵便受けを見ると、赤羽の字が一◯五号室の郵便受けに書いてあった。郵便受けには多くの郵便物に溢れていて、鍵が掛かっていなかったから開けてそれらを全て手に取って持って行ってやる事にした。ただの気まぐれだ。
部屋の前に立ちインターホンを押すとピンポン、と甲高い音が響く。じっと待っているとスマホに着信が入った。
「もしもし?往哉?」
「鍵、開いてるから、入っていいよ」
玄関に出てくる事も難しいのだろうか。ドアノブに手をかけると確かに開いていて、お邪魔しますと一応言って中に入る。
玄関には学校指定の革靴と黒のスニーカーが一足あるだけだった。靴を脱いで上がると台所があり、古ぼけたフローリングの床がぎしりと鳴った。
奥に一部屋、その隣にもう一部屋あるようで、台所から見える部屋に布団があった。ここが、往哉の家。数々の名作が生まれる場所。見える限りに絵がないから、ここから見えない部屋がアトリエなんだろうか。
「往哉?体調どうなの」
……思えば、往哉が体調を悪くしているのを初めて見たかもしれない。今までは学校で体調が悪くなった事がない訳じゃない。けれど俺の知らないところだったり、青ざめた顔で動けるくらいの軽症の時くらいだった。
だから、こんな風に布団の中で今にも瀕死と言えるような状態が衝撃すぎて言葉が止まった。
妹も小さい頃はよく風邪を引いたりして看病なんかもした事はある。熱で魘される妹が可哀想だったりしたけれど、今目の前に横たわる往哉はそれとは比べられなかった。
熱が出ているのだろう、いつも青白い顔が目元や頬が紅くて汗も多くかいているのだろうぐしゃぐしゃになった髪は顔に張り付いている。呼吸をする度にぜえ、と苦しそうな音がする。
薄く目蓋が開く。
「サインが、いるんだったっけ……書くから、少し、待って」
先ほどから一言一言区切って話していたのは、言葉を発するのもしんどいという事なのだろう。必死に起き上がろうとする往哉の側にしゃがみ込んで軽くその薄い肩を押すと呆気なく布団に戻った。
なにを、と唇を動かすだけで声を出す事もしんどそうだ。触った肩は熱かった。
その額に手を当てるととても熱くて、俺の平熱は三十七度はあるから、ゆうにそれ以上ある。何だか無性に腹が立ってきて往哉に聞く。
「何かご飯食べた?薬は飲んだ?薬ある?」
端的に言えば往哉の視線が泳ぐ。はあ、と大きめの溜息を吐いて立ち上がる。
「ちょっと何か買ってくるから、食べたいものとかある?何食べられる?薬は市販薬買ってくるけどアレルギーある?」
きょとん、とした目。ぱちぱちと瞬きをして、ええと、と遠慮がちに小さな声が聞こえる。
「薬は何でも大丈夫……えっと、ゼリーとか、ヨーグルトが、食べたい……」
「わかった。大人しく寝ててよ」
俺は財布を尻ポケットに突っ込んで鞄を適当に部屋の隅に置いておく。
視界に冷蔵庫が目に入りつい中を見てみたが、ほとんど何もないと言って良かった。
部屋を出ていく前に一度振り返ればとても辛そうな顔で目を瞑る往哉の顔が目に入った。

辺りでドラッグストアがないか地図アプリを開くと幸いな事に歩いて五分くらいのところにあった。スマホを手に歩き出す。
ドラッグストアで買い物カゴを手にして入り口付近の薬コーナーで解熱剤を探し、いつも自分が使っている物をカゴに入れた。額に貼る冷却シートと、それから液体の栄養剤の三本パックも入れる。
あとはヨーグルトかゼリー。淡々と必要なものを探していく。売り場に着いた満は、そういえばヨーグルトやゼリーと言われても往哉の好物を全く知らない事に気付く。少しだけ悩んで、いくつかの種類をカゴに入れた。まああっても困る事はないだろう。
もうレジへ向かっても良かったけれど、あの空っぽの冷蔵庫を思い出し一旦止まる。辺りをきょろきょろと見回すと、ドラッグストアなだけあって他の食料品も色んなものが売っていた。

「往哉、起きてる?」
重たい買い物袋を手にアパートに戻ると、往哉は寝ているようで返事はない。
袋を冷蔵庫の前に置いて往哉の方へ行くと熱が上がっているのか汗びっしょりでしんどそうだ。とりあえずハンカチで額の汗を拭ってやって冷却シートを額に貼って、台所へ戻りゼリーやヨーグルト類を冷蔵庫に入れる。
よし、と腕まくりをして台所下の収納スペースを見ると、おおよそ使っていないであろうアルミ鍋を見つけて安堵した。それを取り出して一度洗いコンロの上に置く。
買い物袋からレンジで温める米飯と卵、だしの素を取り出して作業スペースに並べる。ご飯を電子レンジに入れて、四つ入り卵の一つだけ取り出して残りは冷蔵庫に入れておく。米飯は三個パックだったので余った二つは冷蔵庫横にあるろくに何も入っていない収納ラックに入れる。
鍋に水を張って火にかけたところでレンジが鳴った。
お粥なんて久しぶりに作るな、と思った。前に妹が風邪を引いて、母さんが出かけていてすぐに戻れなかったから俺が看病をしたことがあった。
お粥を作って、すり下ろしたりんごをあげたり嫌がるのを何とか宥めて薬を飲ませたり。汗を拭いてやって着替えも手伝って。割と人の世話を焼くのが向いているというか、好きなほうなんだなと驚いたのを覚えている。
しかしまさか、往哉に看病をするとは思わなかった。
因縁、なんて言い方が合っているかは分からない。しかしそう形容する以外に俺が往哉に対して抱いている感情は説明できない。そんな相手に。まさか。
そんな風に考えていたらあっという間に卵粥は完成した。
流石に食器は最低限あって、しかしお盆はなかったから器に入れてそのまま往哉の寝ている布団へミネラルウォーターと一緒に運んだ。
「往哉、起きて」
声だけかけると目蓋が薄っすらと開いて視線が合った。
「お粥、作ったから食べなよ。起きれる?」
おかゆ、と不思議そうに唇だけ動かして聞いてきた。頷いてみせると動かし辛そうな体を無理矢理起こして、二回瞬いて俺の手元を見た。
「俺に、その、作ってくれた、のか」
「他に病人いないでしょ。食べれるんなら早く食べて、薬飲んで」
器を渡すと目を見開いて驚いていて、匙で掬ってふうふう、と冷まして食べ始めた。もぐもぐと咀嚼する往哉に「どう?うまいでしょ」なんて軽口を言いたかったけれど、多分俺たちは馴れ合ってはならないと思う。だから俺は何も言わなかった。
のに。
往哉はごくんと飲み込んで、一言。
「とても……美味しい」
そういうこと言うから。
反応に困って。
結局何も言う事もなく往哉が食事を終えて薬を飲んだところまでただぼうっと携帯を見ていた。
そして往哉がぽつりと呟く。
「書類……書かなきゃいけないやつ、どれ……?」
すっかり忘れていた。俺は自分の鞄を引き寄せてファイルから数枚の書類とボールペンを取り出して往哉に差し出す。
お碗を布団の脇に置いて往哉は受け取った。布団の上で書き辛いだろうに、嫌になるほど丁寧な字がさらさらと書かれていく。その作業はすぐに終わり、ボールペンと書類が返ってきた。
「もう終わりでいい?」
顎を伝う汗を服の袖で拭いながら往哉は言う。俺は無言で受け取って鞄へとしまう。
そのまま立ち去ればいいのに、つい聞いてしまった。この家に入ってきた時からの違和感。
「お母さんは?今いないの?」
やめておけば良かったのに。
この家に足を踏み入れた時、他に誰かがいるという感じがしなかった。生活感のない部屋。この部屋だって今往哉がいる布団と、画材が入っている比較的新しいカラーボックスと、何かが乱雑に入っている古びたカラーボックスくらいしかない。
往哉は瞬きをぱちりと一回して、食べ終わった器を見つめて何事もないかのように言う。
「母さんは、昔居なくなってから、いない」
は、と気の抜けた声が出た。往哉は淡々と話す。
「昔、薬やってたっぽくて逮捕されてそれ以来見てない。俺は親戚の家にいて、百花に通う事になってここに戻ってきた。だから、母さんが今どこにいるのか知らない」
どうりで中学が同じではない訳だ。
「俺、同情はしないよ」
咄嗟に出た言葉だった。だが真実だった。突き放すような……違うな、突き放した言い方は無意識だったけど本心だ。俺たちは馴れ合うべきじゃない。さっき思った事がもう一度頭を過ぎる。ここに来たのも間違いだったのかも知れない。変に世話して気を遣るんじゃなかった。
「……それで、構わない」
往哉の視線はゆっくりと布団の端に移動して、それから古ぼけたカラーボックスに移る。見る限り中身は紙類だとか小物が適当に沢山入っているようだ。
もうそこで立ち上がって出ていけばいいのに、俺はまだ腰を上げない。自分の頭と体が別物のようで気持ち悪い。
口が勝手に開いて聞く。
「そのカラーボックス、何が入ってるの?」
往哉の視線の先のカラーボックスを指差すと、往哉は酷く驚いたようにこちらを見て瞬きする。
その薄い唇からは、え、と声にならないかすれた音が出た。
「……あれは、昔取った賞状とか……副賞とか……そういうのが、入ってる」
「管理雑すぎない?いや俺もああいうの捨てれないし量だけあって邪魔だけどさ」
確かによくよく見れば紙の隙間から表彰楯とか覗いている。昔から見て歯痒かった色んなコンクールでの赤羽往哉の名前。その副産物としてはその量は不思議じゃなかった。
「あと……図書カードとか」
ぽつりと言った言葉を聞き逃しかけて、耳に入ってきた言葉を理解してああと頷く。
「ああ貰うよね子供のコンクールとかって。画集とか欲しくて貯めたお小遣いと一緒にがんがん減っていったな〜懐かしい。往哉は何使った?」
つい話を振ってしまった。世間話が好きな母の影響だろうか、どうでもいい事をぺらぺらと話すし相手にも聞くのが癖になっているみたいだ。
聞かれるとは思っていなかったのだろう、往哉も驚いた顔をしている。視線をあちこちに漂わせて狼狽していた。聞いた事を後悔する。
「……えっと……特に、欲しいものがなくて、使ってない……」
ぼそぼそとそう言われて俺はとても驚いて、世間話の続きをしてしまう。
「うっそ!?子供の頃なんて図書カード貰えたら何に使うかめちゃくちゃ迷うくらい嬉しくない!?欲しい漫画とかさ、画集とか画法の本とか」
と、言ってからこの部屋に本の類が一冊もない事に気付く。往哉も俺が気付いた事に気付いたようで、消え入りそうな声で「俺は、本はあまり読まなかったから」と言った。
「えっじゃあ使ってないの?」
無言で頷かれる。
「勿体ない〜えっめちゃくちゃ勿体なさすぎ!今からでも何か買えば?どうせ家にずっといて暇なんだし、画集とか買えば勉強になるし。俺のおすすめ教えようか?」
心底勿体ない!と思って出た言葉に往哉は何を驚いたのか目を見開いてこちらを見ている。俺の往哉に対してだけの失礼な物言いはいつもの事だったし、何をそんなに驚いたのか分からない。
そしてハッとして往哉は視線を逸らす。
「……そうだな、使った、方がいい、のかもしれないな……」
それから会話が続くはずもなく、俺はようやく立ち上がって鞄を掴んで出て行こうとする……訳じゃなくて、立ち上がって箪笥に近付く。
おもむろに箪笥の引き出しを開けていく俺に慌てた往哉の声がかかる。
「えっ……一体何を、えっ」
着替えのパジャマを往哉に向かって放り投げる。受け取り損なって見事に上半身に当たりもがく往哉。
「汗、かいてるんだから着替えなよ。熱悪化するから」
そう言うとパジャマから抜け出した往哉が納得したように頷いた。
「じゃあ俺は行くから。また今度いつ来るか知んないけど来たら生徒会室に来てよね。めちゃくちゃ忙しくって猫の手も病人の手も借りたいくらいなんだから」
ましてやお前は生徒会長なんだし。
そう付け加えると往哉は着替えながら分かった、と言った。
「今日は、ありがとう……本当に」
その言葉に返す事なく、俺は振り返る事もなくその部屋から出て行った。
……多分これがきっかけで、多少なりと往哉と普通の会話をしたり茶化したり出来るようになったと思う。それが良い事なのか悪い事なのかは分からない。いつも俺は分からない。
この腹違いの弟の事はいつも分からない。
春になって唐突に電話で「好きなひとが出来たんだ」と、恋話を切り出された時も頭を抱えて何と返すか分からないくらいに、俺はこいつの考えが分からない。
使わない図書カードとか、帰らない母と住んでいたアパートにまだ居続ける事だとか、何を考えて俺と話しているのか。
あの2DKの部屋でずっと病に閉じ込められて思うあいつの言葉なんて考えなんて理解できるはずもない。健康体で外を歩き回って刺激を受けて創作物に消費できる俺と、ひたすら孤独の世界で閉じこもり絵を描くあいつと。正反対の互いが理解できるわけがない。
分からない事だらけだ。
それでも。
理解出来ずとも、理解したくなくても、俺たちは話さなければならない。
馴れ合う訳じゃなくて、生徒会の仕事だからってだけでもなくて。
友人とか肉親という言葉で表せない俺たちの関係が、どんな言葉で言い表せるのかまだ俺は分からない。
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