百本の花
自分の話ほどつまらない事ないね。
物心ついた時には父はいなかった。
寂れた山村の育ちで、この村に子供は俺一人きりだった。だから保育園も幼稚園というものにも通った事はなく、小学校は山を超えた隣の村に行くしかなかった。
母は記憶にある限り昔から足を悪くしていて、歩く事は出来ても走るのは出来ないようだった。小さい俺が走って行く後を「待ちなさい、待ちなさい」ととろとろと歩いてついてくるのを何度も振り返って待っていた。
母は家で仕事をしていて、外国の童話の翻訳家をしている。
幼い頃からよくそれらの読み聞かせをしてもらった。
母の収入は微々たるもので、母子が生活するのにギリギリだった。俺が持っているおもちゃは物心つく前に買ってもらった砂場用おもちゃと積み木、そして母の仕事の関係で貰えた数冊の絵本と児童書だけだった。
近くに住む祖父母は俺には優しかったが実の娘の母には冷たく、家に来る事もなければ支援なんてしてもらっていない。昔はここいら一帯の地主だったという母の実家は、苗字が地名になっている程名の通った家のようだったが、その恩恵に母があやかる事はなかった。
詳しくは聞いてないし興味はないが、母は所謂出戻り、というやつらしく両親の反対を押し切って駆け落ち同然に父と村を出て行きそして何があったか離婚して、足を悪くしてこの村に戻ってきたという。
二人きりで住む家は村の中でも外れの方に位置する平家の狭い家で、二人きりならちょうど良い大きさだ。
六歳頃に祖母が手作りのお手玉を作ってくれて、じゃらじゃと音が鳴るのが気になり「これ中に何が入っているの?」と聞いた。祖母はしわを深くさせながら笑う。
「これはね、小豆が入っているんだよ。昔はねこうやって中に米や小豆を入れて保存食にしていたのよ」
と教えてくれた。
家に帰って俺はすぐにお手玉の糸をハサミで切ってお手玉四つ分の小豆を取り出して母の元に持って行って「これ食べよ」と差し出した。
母は顔色が一瞬変わったが、俺の後ろのお手玉の残骸と俺の顔を見て少し悲しそうな顔で俺の頭を撫でながらそうね、と言った。小豆は砂糖を加えて煮て食べた。菓子のようなものを久しぶりに母と食べてとても美味しかった。
中学に通うようになってからは早朝に起きて新聞配達と牛乳配達のアルバイトを始めた。中学校も小学校と同じく山を一つ越えた先にあるので、配達を終えてから登校すると必ず遅刻した。担任から何度も電話で注意を受ける母を見て、せめて自転車でもあればな、と悲しくなった。生活がギリギリだから働いているのに、そんな物買う余裕なんてない。
新聞配達は走って行って、牛乳配達は店の自転車を使っていた。俺は店の人に掛け合って、新聞配達と牛乳配達を一緒にやってもいいと許可を得た。どちらの店の人も俺に同情していたから、話はすんなり通った。これで時間は短縮できて、あと少し足りない時間は山道を走る事で解決した。
通学路とされている唯一の舗装された道路は結構な回り道になってしまうから、獣道を走り小川の石を跳び移り渡って、段差や溝を飛び越えた。恐ろしく体力がついて、体育の成績はいつも五だった。
田舎の学校だったせいか片親だ出戻りだと陰口を言われる事もあったが、俺は成績が学年で一番良かったし、毎日の労働と通学で身体は鍛えられていて、直接何かをされる事はなかった。
俺の中の転機は放送委員に所属した事だろう。
部活には入らなかったが(時間の無駄で)委員会だけはどれかやらなければならなかった。委員会を選ぶ時、どれが楽かな、なんて考えていたのだが放送委員と聞いた時、小学生の頃音読の宿題をしていた時母が嬉しそうに聞いて「読むのが上手ね」と褒めてくれたのを思い出した。挙手したらあっさりと決まった。
意外にも放送委員の仕事は性に合っていたようで、喋るのも好きだし登下校の運動のせいだろうか肺活量も人並みはずれていて先輩から褒められた。
昼の放送でもクラスメイトから「聞きやすい」「落ち着く声をしている」と概ね好評だった。
そして中学二年生の時に全国放送コンクールで優勝し、母もすごく喜んでくれた。学校でも史上初の快挙だともてはやされた。
貰った賞状は居間に飾られた。額は手作りだった。
俺の生活で母と共にいる以外で初めて楽しみが出来た。
昼の放送は俺の担当は週に一回。そのために学校に行っていると言っても過言ではないくらいに楽しかった。
ある日、母が夕食を食べながら聞いてきた。
「将来は何になりたいの?」
おそらく、初めて聞かれた質問だった。俺は味噌汁を飲み込んで、返す言葉を思いつかず黙り込んだ。
母とずっと一緒にいられさえすれば何だっていいと思っていた。中学を出て工場とかでも働いて、それでお金を貯めてこの村から母を出して、二人でどこかでのどかに暮らせさえすれば、それだけで良い。実にささやかな幸せだと思う。
俺は考えた事をそのまま伝えた。すると母はとてもとても悲しい顔をした。
「お母さんの為に将来を使わないで。あなたには才能があるでしょう?実はね、学校の先生から提案をされたの。お宅の息子さんを、ある学校に入学させませんかって。そこには芸能科っていう学科があって、アナウンサーを目指す為の授業を受けられる専攻もあるらしいわ。先生が言うには来年の放送コンクールでも優勝か準優勝すれば充分受かるんだって。ねえ、行ってみる気はない?」
そう言われて俺は呆気に取られた。
「お母さんは俺がアナウンサーとか、そういうものに向いていると思うの?」
確かに話すのは好きだ。最近はお昼の放送も趣向を変えて質問コーナーだとか情報コーナーだとかラジオっぽい事までしていた。だが、それはあくまで趣味だとか好みの事で、学生時代だけの楽しみで将来の、ましてや飯の種になるなんて考えてもみなかった。
母は真面目な顔付きで頷いた。
「あなたをお母さんで縛りたくないの。重荷にこれ以上なりたくないの。あなただけの人生なんだから好きに生きなさい。学費は心配いらないから、よく考えてみて」
そしてその晩、布団の中でじっと天井を見つめていた。この小さな家で俺と母は布団並べて寝ている。隣からは小さな寝息が聞こえて来る。
今俺は十四歳で、既に母の背は追い越した。この人をこの小さな背を、今度は俺が守らなければならない。
母を置いていく事は幼い頃だけで充分だ。待っていれば追いついてきて、もう!と言うのが好きだった。
母を置いて家を出たら、後悔する気がする。けれど母の意に沿うものではない。
……俺は、確かに提示されたものに対して魅力を感じている。もっとやってみたい。この機会を逃せば、きっと選べない道だろう。本当に、俺の望みを叶えていいのなら。もう少しだけ猶予が貰えるのなら。
翌朝、その旨を伝えると母は驚いた顔をして。そしてとても嬉しそうに、笑った。
俺は翌年の全国放送コンクールでも優勝し、そして例の学校からスカウトが来た。特待生制度を適用され、学費の免除が約束された。
この事は祖父母も喜んでくれて、新しい制服や、向こうで寮に住むと知り色々用立ててくれた。年明けには決まったので引越しの三月まではバタバタと慌ただしかった。
一度制服を買いに祖母と新幹線に乗って、通うことになる学校の近くまで来た。
後日制服が届くなり、祖父母に見せるよりも早く一番に母に着て見せた。母はこの派手なな服に喜んでいた。
そして、その日はあっという間にやってきた。
俺は昨日のうちに祖父母に挨拶を済ませていて、早朝玄関で母に別れを告げた。
「行ってきます、お母さん。電話かけるよ。身体大事にしてね、無理しないでね」
「ふふふ、これじゃどっちがお母さんか分からないわね。気をつけてね。身体に気をつけるのよ。……名残惜しいわね。……いってらっしゃい」
家を出て振り返る事はしなかった。きっと辛くなるから。バスの通っている隣町に行く為に、リュックを背負い直して目の前にそびえ立つように行手を阻む煙ヶ坂という坂をゆっくりと登った。