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百花学園の愉快な日常 ACT:1


移動教室の途中、視界に入った色に一二三は軽く驚く。
「ん?珍しいな」
特別教室の多い青龍館だが、芸能科の姿はほとんど見ない。彼らが使うのは二階の視聴覚室くらいのものだからだ。だから今いる三階で芸能科を見かけるのは街中でパンダを見る程度には珍しい。
芸能科の紅地に白のツートンカラーの目立つ制服。それに袖に付いた飾りボタンは俳優専攻、それも舞台俳優コースだろう。
彼は長身で良く目立った。きっと舞台でも映える事だろう。シェイクスピアの真夏の夜の夢に登場するライサンダーなど似合うだろう。定番だがロミオとジュリエットのロミオ。もしくは漫画のベルサイユの薔薇のアンドレとかどうだろう。舞台でやるならば適役だと一二三は思う。
彼はきょろきょろと辺りを見回していたかと思うと、一二三と目が合った瞬間つかつかと歩み寄ってきた。優雅な姿勢の良いモデル歩き。歩く姿すら何かのワンシーンのように決まっている。
「アナタ、音楽科の市古センセ知らない?舞台のBGM作成に協力してくれるって話でね最終調整したいのに何処にもいないのよ」
ふう、とため息を吐いて一二三の前で腰に手を当てて仁王立ちする。優に百七十センチは越す身長に、一二三は見上げねばならなかった。
「それにこの青龍館って何でこんな広いの?勝手が全然分からないわ。ていうか、学校が広過ぎなのよ、全くもう……。で、知ってる?知らない?」
矢継ぎ早に発せられる言葉の海の中、この人綺麗な言葉遣いだなあと一二三は思いながら、思考を巡らせる。
「音楽科は今上にいますよ。第二音楽室でヴァイオリンコースのレッスンをしているはずです。市古先生もそこにいるんじゃないですかね」
すると彼は「メルシーボークー!」と言って一二三の頭を撫でて、去り際に投げキッスを一つ。
「ありがとねお嬢さん」
蝶のようにひらひらと指の長い手を振って階段を上って行った。
完全に姿が見えなくなってから、友達が喜色満面に声をかけてくる。
「ちょっとひふみ!今の役重先輩じゃない!」
役重、その名前に一切の聞き覚えがなかったので首を傾げると、彼女はきゃあきゃあと騒ぎながら説明を始める。
「役重雪飛先輩だよ!芸能科の生徒会長で、この間も演劇コンクールで主演男優賞貰ったりして、一般の色んな劇団から誘われてるんだって!才能もあってカッコいいなんて反則よね、凄い女子に人気あるんだから。まあ戌神先輩には敵わないけど」
へえ、と曖昧に相槌を打つ。どうやら自分は興味ない人物を上手く記憶する術がないらしい。道理でテレビや芸能人の話題についていけないわけだ。
それにしても市古先生は芸能科の手伝いまでしているのか。確かに手抜きを許さない自他共に厳しいあの人なら良い仕事をするだろうから、求められるのは分かると納得した。


帰りのエントランスで一二三は夜須を見つけて手を振ると向こうも気づいたのか会釈をした。
今日は部活動もなく、といっても二人とも活動的とは言えない同好会なのでそう毎日顔を合わせるほど頻繁に会うわけでもない。それなりのほどよい距離感が互いに気の置けない仲にしていた。
「そういえば日曜に美術館行ったんですけどそこで芸術科の副会長さんに会ったんですよ」
夜須の口の形が真一文字からああ、と変わる。声は出ていない。いつもの事だ。
「賑やかな人でした。会議でもあんなによく喋るんですか?」
聞くと静かに頷く。基本的に夜須と二人の時は一二三が喋り夜須が否定と肯定を繰り返す。
「賑やかと言えば今朝芸能科の生徒会長さんにも会ったんですよ。クラスの女子たちがあの人が現れたというだけできゃあきゃあと賑やかになりました。そんなに人気のある人なんですね。初めて知りました」
一二三がそう言うと夜須は難しい顔をする。基本的に自分に関わりのない人間の顔や情報を覚えられない一二三を相変わらずだなと呆れた目で見つめる。
「あら?ヤッさんじゃないの。元気?」
その独特の雰囲気と目つきの悪さと、夜須の「や」でヤッさんと呼ばれる夜須。
親しげに声をかけて来たのは一二三が午前中に会った、話題の芸能科の役重雪飛だった。噂をすればなんとやら、だ。
「統括生徒会以来ね。相変わらず会議室以外では無口だこと」
夜須鹿薙は工業科生徒会長で、統括生徒会で顔見知りなのだろうと一二三は思っていたが、一見正反対だがこの二人仲は良さそうに見える。
「そちらの子、今朝道を教えてくれたお嬢さん?あの時はありがと。お陰で市古センセに会えたわ。アタシ、道とか覚えるの苦手なのよね。台詞とか文字なら良いんだけど、図面ってまるきり駄目なのよ。ほんと助かったわあ」
「いえいえ。……ああ、なら場所を文字にして覚えるのはどうですか?第四音楽室は青龍館三階女子トイレの横の曲がり角突き当たり、とか。全部説明して、メモすれば」
「あらあら!頭いいわねアナタ。それならイケそうだわ。今度誰かに作ってもらおうかしら。花下とか得意そうだし。ねえお嬢さん、お名前教えてちょうだいな。アタシは役重やくしげ雪飛せつひ。良い名前でしょ?本名なの。吹雪の中生まれたからって」
握手を求めて指の長い整った大きな手が差し出された。一二三も手を差し出す。
「大饗一二三です、えーと普通科二年進学系列普通理数コース。一二三っていうのは一番でも二番でも三番でもいい、自分が出来ることをしなさいという意味が込められているそうです」
手を握った。
「へえ、とても良い名前。大饗って中々ない苗字だけどもしかして医療科の大饗潤一君と親戚?」
「ああ、弟を知っているんですか。双子の弟なんです。出来た弟で」
隣で夜須が静かに頷いている。弟という部分か出来たのきう部分にかどちらに頷いているかはわからない。
「戌神とよく一緒にいるわよね。目立つ子だわ。うちの演劇部に欲しいわね」
演劇部は総勢80人を超える人気の部活だ。本格的で幾多もの大会で賞を取っている。そのうちの半数くらいは役重の手柄だと言われている。
「そうそう、これあげる。朝のお礼、と言ってもチャリティー公演でタダ同然なんだけど。良かったら募金してくれると嬉しいわ。これで二人入れるから友達呼んでおいでなさいな」
役重は鞄の中からチラシとチケットがホチキスで留めてある紙を取り出した。
「はい、ヤッさんもどーぞ。えっいらない?この役重雪飛の演技が見たくないワケ?用事?なら仕方ないわね。今回は大目に見てあげるわ。市民ホールを借りてやるのよ。今回はオペラの演劇版、カルメンやるのよ。アタシメインで出るからぜひ来てね。今回も凄いの見せるから」
そう言ってウインクするとモデルのような美しい歩き方で去って行ってしまった。
「……嵐のようなひとですね」
そう一二三が言うと夜須は頷かず代わりに口を開いた。
「……又は、歩く天災とも言う」
久々に聞いた夜須の声はとても耳に心地よく響く音で、一二三は笑った。


一二三は翌日の朝、みちかを捕まえて一緒に行く約束を取り付けようとする。
「あの人がカルメンをやるみたいなんだよ」
チラシの表にでかでかと役重雪飛が真っ赤なドレスに身を包んでいる姿が載っていた。裏にはチャリティー公演の概要が書いてあり、チケット代や当日置かれている寄附金BOXに入れられたお金は、施設のレンタル代以外は全て児童虐待防止団体への寄附に使用されると書いてある。
「役重、先輩は、女性の役の方が多い、のよ」
「へえ〜!背が高いのにね。でも確かに美人だから似合うんだろうなあ。みちかは演劇部の劇観たことある?」
廊下を歩きながら一二三が聞くと、みちかは小さく頷いた。
「ここの演劇部は、とても有名だから……。去年の文化祭の時にやったトゥーランドットを観たわ」
「ああ、私がクラスの出し物で行けなかったやつだ。気にはなっていたのだけれど。どんな感じなの?」
問われてみちかは思い出すように少しだけ首を傾げた。
「ええと、その、存在感がとにかく凄くて……他の役者さんが、その……霞んじゃうくらい」
「それは演劇として成立するのかい?」
純粋な疑問にみちかも困ったように笑う。
「そこが役重先輩の凄い、ところで……ううん、うちの演劇部が、凄いのかな……他の役者さんたちは存在感を食べられても食べられても、動いてるのよ。確かに主役は、あの人なんだけど、主役以外もちゃんと動く。そうね……肖像画が動いたと思ったら、肖像画の背景も動いてる、感じ」
「それは凄いね、気になるなあ。みちかも行く?カルメン」
「あ……うん、うん。行くわ、行きたい……」
「じゃあ決まり!来週の日曜日だって。えっ昨日市古先生にBGMの相談うんたらって言ってたのに早いんだなあ」
驚きつつ、日曜日に集合場所と時間を決めて二人は別れた。


市民ホールは別名ミューゼスホールと呼ばれ、ギリシャ神話の文芸を司る女神たちの名前を冠する事から分かるように、各種音楽や演劇の舞台として使われそれら芸能に親しめる街づくりの一環として作られた。
その規模や絢爛さは近隣の県でも随一で、世界的音楽家や名だたるオーケストラなどもここで演奏している。
かといって敷居が高いかといえばそうではなく、こういった学生のチャリティー公演にも使われたりする。勿論名高い百花の演劇部であるというのも借りられた理由の一つだが。
一二三はみちかとホールのエントランスで待ち合わせしたのだが、今日の公演の話題性もあってエントランスやホール前は大賑わいだった。
そのほとんどは若い女子で、多分百花の学生なのだろうと思う。そこかしこから『役重雪飛』の名が聞こえてくる。
エントランスに集まる人たちの中にはいかにも業界人ぽいブランドスーツを身に纏った大人たちも混ざっている。
さて、みちかはどこだろうと待ち合わせの時間に一度たりとて遅れた事のない友人を探す。
「あれ先生方も来てたんですか」
遠目からでも目立つ馴染みの先生四人組……ではなく、一人市古友也の姿だけがないのは舞台のBGMの最終確認や音響の手伝いにでも行っているのだろう。
「早乙女さんを探しているんですか?」
いつも通りのおっとりとした口調で草司が聞くと一二三は頷いた。
「そうです。見ませんでした?」
「……そうだな、あそこだ」
假屋が辺りを見回したかと思えば、すぐに一方向を指差した。
「あっほんとだ。みちかー!」
大きな声で呼びかけつつ手を振るとみちかが既にこちらに向かってきていた。
「良かった合流できた」
「……先生たち、目立つから」
はにかんでみちかは一二三の隣へと移動した。
「席取りに行っといた方がいいぞ。思っていた以上に盛況じゃからな。最悪立ち見になるがそれは嫌じゃろ」
そう言われて慌ててながらてこたちに会釈をして会場内へと向かった。
既に人が座っていたり、上着や鞄などを置いて席を確保してあるのが結構あった。
会場の前の方はほとんど埋まっており、中段の真ん中より少し左側が空いていたのでそこに一二三とみちかは上着を置いておいた。
「時間まだあるし喉渇いたし戻って何か飲み物買おっか」
一二三の提案にみちかは頷く。

話をしながらエントランスに戻ろうとする二人だったが、どん、という音と共にみちかがつんのめった。すれ違い様に中年の男性がぶつかってきたのだ。相手は舌打ちをしながら去っていく。
みちかの体を支えながら、腹が立ちその背に向かって「ぶつかっておいていい大人がその態度か!」と叫ぶが男は足早に角を曲がり見えなくなった。
「くそ、何なんだよ。最近多いよな。変にぶつかってくる奴。道幅だって広いんだからわざととしか思えない」
「……いつも困らせてごめんね」
悪いわけではないのに申し訳なさそうな、今にも泣き出しそうな顔をするみちか。
「何を謝る。全然気にしていないのに。本当に、大丈夫だ」
うん、と小さく頷くみちかに、一二三は言葉を重ねる。
「私だってこうやっていきなり誘って迷惑じゃないだろうかとか、連日付き合わせて悪いとか、思ってる」
「そんな、嬉しい、私は……」
そう。いつだって一二三と会えるのは嬉しい。話せるのは楽しい。言葉にしようと思っても喉から言葉が出てこない。そんなみちかに一二三はにこっと笑う。
「そうか。じゃあお互いさまだしお互い嬉しいのなら何も問題ないだろ?私はみちかの世話を焼くのが好きなお節介者だし。じゃ、この話おしまーい!」
軽くぱん、と両手を合わせる仕草が道化じみていて、空気が変わる。こういった優しさに何度救われているか知らない。
「あっれ、早乙女ちゃんにひふみちゃんじゃないの」
底抜けに明るい声が聞こえ一二三は振り返り、みちかは動きを止める。
「あ、満先輩」
先日、知り合ったばかりの彫りの深い顔に笑みが刻まれる。
「満ちゃん、でいいよお」
冗談めかして言い、なんちゃんって、と続けようと口を開く比企島より早く順応能力の高い一二三は素直に返した。
「満ちゃんも劇観にきたんですか?」
開いた口から何とか言葉を絞り出す。まさか、呼んでもらえるとは。
「……今度の舞台背景、俺たち芸術科が頑張ったのよ!」
そうなんですか?と驚く二人に、いつも通りを取り戻した比企島は説明する。
「うちの演劇部って有名じゃない?だから俺たち芸術科の奴らも美術スタッフとして入部してるの多いのよ。そういう道に入りたい奴もいるし。んで、今回カルメンはスペインが舞台だから俺も要請受けて参加する事になってね。ほら俺、スペインとのハーフだからさ、何回か母さんの国に行ったことあるってだけで助っ人に呼ばれたの。カルメンの舞台って母さんの地元の方だし。それに帰宅部だから時間あるでしょって。エグすぎ!まあ近くにコンペもないしさ、受けても良いかな〜って軽い気持ちで承諾したらさ、肉体労働までさせられて大変だったのよう。雑用までさせられる副会長なんてそんな事ある!?せっちゃん、芸術科生徒会長の役重雪飛ちゃんね。唯我独尊っていうか女王様気質?人使い荒いのよ。人をこき使うのに慣れているっていうかさあ。前にもね劇の背景美術手伝ってんのに欠員が出たからって端役やらせたのよあり得る!?台詞もちょいあるしさあ、せめてそこは芸能科から出すでしょ普通!」
止まる気配のない言葉の勢いに一二三は笑い、みちかは言葉を失う。
話しながらも自販機のミネラルウォーターを買い、一二三たちに自販機を指差しながら聞く。
「あっ二人とも何か飲む?太っ腹な俺が奢っちゃうよお」
「わーい!じゃあそのメロンラテで!」
遠慮のない一二三に気を悪くするふうもなく、「早乙女ちゃんは?」と聞く比企島に遠慮して首を横に振るみちか。
「みちかはその右下のコーヒーが好きです」
「おっけー!りょーかい」
そう言って購入し、お礼を言う一二三と恐縮するみちかにそれぞれ缶を渡し、比企島はまだ口を閉じない。
「今日の演目楽しみだよねえ、せっちゃんがカルメンでしょ。いやあ見ものだろうなあ。ドン・ホセもエスカミーニョも背高い子が演るんだけどヒール履いたせっちゃんよりは低いのよね。まあ前に椿姫演じた時も違和感なかったから大丈夫だと思うんだけど」
「椿姫もですか……凄いですね。ていうかカルメンもですけどオペラを演劇でやる事自体が凄いなって思うんですが」
「ね!専属の台本作家の花下、だっけかな。彼がそういうの得意なんだって。台詞回しが上手いんだよね。まあ有名な曲とかは二つ三つ歌うと思うよ。美術班は稽古場とは違うから練習見れてないけど、きっと今回だって凄いよ。って、もうこんな時間!やば、席取った?」
腕時計を見て慌てる満に頷く一二三。
比企島はペットボトルをジャケットのポケットに突っ込むと二人に挨拶をして走って行った。
「慌ただしい人だねえ。私達も行こうか」
みちかは僅かに頷いた。

ホールに戻ると席の大半は埋まり、結構な賑わいを見せていた。みな口々にカルメン、役重雪飛、といった単語を発しており、いかに期待が高いのかを物語っていた。
人をかき分け、前の方に陣取った席へ行くと、当然の如く隣に座っている人がいた。それは見覚えのある姿で。
「あれ、皇逹くん来てたの」
「げ」
先日、カフェテリアにて出会った神学科生徒会長、逆蔵皇逹。その奥から人好きのする笑みで手を振っているのは副会長の女郎花達だった。あれ以来、校内で出会えば挨拶や他愛もない会話を交わすようになったが、女郎花の方はいつも話に乗ってくれるが皇逹の方はあのお節介はどこへやら、一変して鬱陶しそうな態度を見せていた。しかしそんなもので怯む一二三ではないので、親しげに話しかける。
「へえ意外。こういうの来るんだね」
げ、とあからさまに嫌そうな声と顔をしたにも関わらず、一二三は平気で話しかけ上着を座席から取り皇逹の隣に腰掛ける。みちかも一二三の隣に静かに座った。
眉間のしわを深くして皇逹は不機嫌さを隠しもしない。
「役重に来いってチラシを押し付けられたんだ。それにこういうのでもないと外出許可が下りないしな」
「へー、神学科って大変だね」
「全員寮住まいだからな。外出許可なんざ行事かボランティアくらいでしか下りねえんだ。神学科は厳しくて有名でな。ま、これが終わったら適当にハメ外して帰る」
「美味しいパンケーキのお店があるって皇逹君楽しみにしててなあ、この後予約してあるんですわあ」
「はは、それは可愛らしいハメ外しだ!」
「女郎花、後で覚えてろよ!」
ダン、と音がする方を見れば皇逹が女郎花の足を踏もうとして失敗した所だった。女郎花はけらけらと笑っている。
ちょうど開演のアナウンスが鳴り、会場の照明も暗くなる。
仕留め損ねて舌打ちをする皇逹に苦笑しつつ、正面を向く一二三。
今、幕が上がる。

詳細は省く事にする。それはどんな言葉を以ってしても表現し得ないものであるからだ。それは全ての演劇に言える事だろう。
言える事があるとすれば、それは高校生の演劇部として在るには余りにも優れ過ぎたと言うべき代物であった。
オペラをここまで演劇世界に落とし込んだ脚本、オペラで使われる楽曲をBGM用にアレンジした大胆な構成。曲だけでなく時折混じる歌唱は音楽科声楽系列に匹敵するのではないだろうか。場面転換も客を飽きさせない演出がされていて、演者の動きの中に物を移動させる動きを取り入れ場を白けさせない。
衣装は家政科被服系列が作っているのであろう、豪華絢爛にして既存に囚われる事のない若者特有の斬新なデザイン。勿論既存イメージは損なわれる事のないものであった。舞台美術も素晴らしい完成度。芸術科が参加しているだけの事はある。小道具に至るまで妥協はなく、高校生の演劇部とは到底思えない。舞台上は確かにスペインのアンダルシアだった。
そして他に類を見ない、男が演ずるカルメンの完成度。どれを取っても称賛に値するものであるのは、幕が降りた時の観客のスタンディングオベーションが物語っている。
一二三は手が痛くなる程に拍手をし、興奮冷めやらぬ様子で隣を見ると、同じく感動した友人がいた。みちかもこちらを見る。
「凄かったね」
聞こえていないであろう拍手の嵐の中で、口の動きで分かったのかみちかは何度も頷いて、拍手をする。
反対の席を伺ってみれば、これまた皇逹も女郎花も立ち上がり猛烈な勢いで拍手を送っている。
素晴らしい、本当に素晴らしい舞台だった。
芸能科生徒会長。その肩書きが身に染みて理解できる。校内で出会った役重雪飛と、舞台の上での彼は別物だ。普段でもその存在感は他を圧倒せしめるものであったけれど、今舞台の上で輝く役者の彼は、他と比べ物にならない。
誰もがあのカルメンに恋をした。大輪の薔薇のような美貌に何者にも束縛されない自由さを持ち、それを邪魔するものは許さない苛烈な荊棘。『彼女』から目が離せなかった。
役重雪飛、彼は別格だ。

照明が灯り、アンコールが終わって皆帰り支度を始める。
まだ舞台の余韻から抜け出せず呆けたように椅子に座っていると、声を掛けられる。
「おい、いつまでもいるとスタッフの邪魔になるぞ」
皇逹がいつもと変わらないしかめ面で仁王立ちして一二三の前に立った。女郎花は若干目を腫らしているようだった。
一二三がみちかを見ると彼女は声もなく頷き、二人は立ち上がりそのまま四人連れ立ってその場を後にした。

「いやあ本当に凄かったですわあ、あのカルメン!」
女郎花が声高に褒めちぎるがそれに意を唱える者はいなかった。一二三、みちか、皇逹と女郎花は劇場の中にある休憩所にて座って話していた。
「ヒール込みで身長百八十センチは超えていたのに、そんな威圧感を全く感じさせなかったねえ!ほんと、凄いひとだ」
一二三が思い出しながら話す。それに対して皇逹も頷いた。
「やはり、これが歴代最高とまで言われる演劇科生徒会長の実力か。舞台を重ねる毎に進化していってるな」
「皇逹くんもあのひとの舞台観た事あるの?」
一二三の質問に何をくだらない事を、とでも言いたげな溜息を吐く。
「部活紹介、新入生歓迎会、演劇発表会、学園祭、大きなものだけでもこれだけあるし、去年の卒業生送別会なんぞは語り草だぞ。むしろ今まで観た事がないという奇跡に驚きだ。芸能科以外も観れるからと毎度生徒が殺到するというのに」
「去年やったトゥーランドット、DVDの学内販売は即売り切れ、映研までもが手伝わされてDVDの焼き増しに駆り出されてたわあ。今度貸そか?大きい舞台のならほとんど持っとるよ。寮住まいやと娯楽に飢えとるもんで、神学科は演劇部のファン多いんよ」
「へえ、じゃあ今度借りたいな。演劇部が有名なのは知っていたんだけれど観ようにもいつも満員で入るの面倒だなあって思ってて機会逃してたんだよね。これは損していた」
しみじみと語る一二三の視界に、誰かがこちらに向かって小走りで駆け寄ってくるのが映った。
「……ええと、すまない。大饗一二三、さんでいいだろうか」
近づいて来た男は百花の経済科の制服を着ていた。初めて見る顔だよな、と人の顔を覚えるのが苦手な一二三は思った。問いに頷くとほっとした顔をする。
ぴょんぴょんと跳ねた癖っ毛にどこか自信なさそうな目は下がり眉のせいだろうか。背はそこそこ高く、体も薄く見えるがそれなりにしっかりとした体つきだった。長い指が困ったように口元に当てられている。大きいのにどこか小動物を思わせるような人だと一二三は思った。
「これはこれは花下先輩。お久しゅう。副会長会議以来ですなあ」
女郎花が気安げに話しかけると知り合いの顔を見て安心したのか目尻を下げて笑う。
「ああそうだね、久しぶりと言ってもついこないだの気がするんだけれど」
「そんなの言葉の綾ですわあ!それよりどうしたんですの、一二三ちゃんに用って。顔見知りでもないみたいですし」
そう言われて今度は困ったような表情を見せる。歯切れ悪くええと、その、あの、と繰り返してから一二三に向かって本題を口にした。
「その、俺は経済科の三年で演劇部で脚本を書いてる花下かげ時胤ときつぐっていうんだけれど、雪飛が君を呼んできて欲しいって頼まれたんだ。良ければ楽屋に来てもらえないだろうか?」
「役重先輩が?分かりました。でもよく私が大饗一二三って分かりましたね」
純粋な疑問を口にする。互いに面識があるわけでなし、向こうも恐る恐る聞いてきたので確信はなかっただろう。
「ええと、そうだね。その、雪飛が逆蔵君と一緒にいたと言っていたから。逆蔵君に透、それから君の後ろに隠れているのは普通科生徒会長の早乙女みちかさん、だろう?だったら残る君がそうだろうと思って」
「ああなるほど。頭良いですね」
「じゃあ俺は役重に会いたくねえしそろそろ行くぞ」
「お店の予約時間もあるもんなあ。ごめんなあ二人とも。今日楽しかったわあまた皇逹くんと遊んだってな」
「テメェは俺の母親か!」
騒がしく去っていく二人を苦笑しつつ見送り、花下は一二三たちを楽屋のある方へと案内した。

「あらあ!本当に来てくれたのね、どうだった?アタシの舞台。最高以外は言わせないわよ」
玉のような汗を浮かべて舞台の王、役重雪飛はにやりと笑った。
ウィッグ とウィッグ ネットを外した頭は、雪飛自慢の真紅の髪を汗で湿らせていたほどだった。
「とても凄かったです。喩える言葉が出てこないほどに」
「嬉しい褒め言葉!ほんとはこういう裏方見せたくないんだけれど、畏れ多くもこの役重雪飛の舞台を今更ながらに初見だなんて人の感想聞きたかったのよね」
辺りでは疲労困憊といった役者陣と、緊張が解けたものの後片付けに入らなければという裏方仕事の者たちが小休憩を挟んでえっちらおっちら仕事を始めていた。
パイプ椅子にどかっと座ってハイヒールを脱ぐ雪飛に一二三は更に言葉を重ねる。
「特にドン・ホセを魅了するシーンでのあの歌。オペラでも見せ場ですけれど役重先輩の歌、本当凄かったです。あそこを歌と台詞を交えて語るなんて下手したら覚めてしまう演出なのに」
「あれは花下が上手いのよ。アンタねえ、そんな隅にいないでもっと堂々としなさいよ!」
そう言って雪飛は近くで縮こまるように背を丸めていた花下の背中をばしんと叩いた。
あはは、と笑って一二三は感想を続けた。
「そしてラスト、あれはカルメンは殺されるんじゃなくて、自らの誇りの為に死を「選んだ」と納得できる演技力。毅然とした気高さが素晴らしかった」
あの燦然と輝く舞台を思い返す。
「ここまで言われると何だか照れちゃうわね。今回新作劇で自腹切ってまで演って良かったわ、ねえ花下?寄附金もかなり集まったし。手続きとかは濡羽お姉様がやってくれるのよね?」
「あ、ああ。支援団体への振り込みとかは全部冠木先生がやってくれるらしい。それと、専門家たちからの今回の劇が評価高くて統括生徒会に部費の追加予算を申請出来るんじゃないかってさっき言っていたよ」
「さっすがお姉様!頼りになるわあ。でも今回の、じゃなくて今回も、でしょ。あっそうだひふみちゃん、ひふみちゃんって呼ぶけど良いわよね?そう呼ばせてもらうから。ヤッさんにも今日のアタシの素晴らしさ、伝えておいてね。あの唐変木、違うわね朴念仁?アイツ大抵山に登るって言ってアタシの舞台観に来ないんだから!」
そう言う雪飛の顔は、やはりカルメンのように自信満々で誇り高く、美しかった。
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