百花学園の愉快な日常 ACT:1
ACT-6 優雅と規律
薄ピンクのシャツに汚れ一つ見当たらない純白のベストとパンツは遠目からでもよく目立った。本人お気に入りのループタイではなく、今日は紅茶染めのクラバットを着けている。
音楽科ヴァイオリン 担当教諭の市古友也は廊下を足早に進む。市古がきょろきょろと辺りを見回すと大饗一二三が見えた。他に顔を知る生徒も近くにはいなかったので声をかける事にした。
「大饗、ちょうど良かった。役重を見ていないかい?」
立ち止まって振り返る一二三は首を傾げた。
「知り合いにその名前の人はいないんですけれど」
「……は?役重雪飛を知らないとでもいうのかい?」
目を瞠り、驚いた様子で市古は一二三に問い掛けると、一二三はいつもの如くあはは、と笑った。
「いやあ面と向かって名乗られたなら顔も名前も覚えられるんですけど、話題の人とか有名人とかはどうにも覚えられなくて」
「覚える気がない、の間違いだろう。芸能科の生徒会長だよ。といっても君は忘れるのだろうね。近々演劇部の舞台があって音響として手伝うんだ。やっぱり芸術というのは心の栄養だね。どんなものであれ美しいものは不変だ」
「それは同意します。芸術なければ人間は発展してこなかったと思いますよ」
「君のそういうところは買っているよ。そうとも。人によっては芸術など生きるのに不要だ、と言う意見を馬鹿馬鹿しくも口にするのもいる。だが肉体に栄養が必要不可欠なように、心にとっても芸術という栄養は必要なのだよ。確実にね。この点、やはりこの国は他国に劣っていると断言できるね」
いささか話過ぎたと気付いたのか市古はこほんと咳払いをする。
普通科の一二三は音楽の授業を選択していない。出来ない、と言った方が正しい。ここでは音楽の授業を、一流の音楽の授業を受けられるのは音楽科の学生のみだ。勿論、部活動としては吹奏楽部や合唱部などは音楽科のみならず他の学科でも人気である。
一二三はそういう部活ではなく、また市古もそういう部活の顧問ではない。てこや草司と出会ったのは入学後のてこに登山同好会に勧誘されたからだが、市古と出会ったのはてこと知り合いてこや假屋と喧嘩をしているところを見たからではない。
勿論、部活動も市古が顧問としているのは芸術愛好会というもので登山同好会とは全く違う部類である。芸術愛好会は音楽、絵画、彫刻、映画等々あらゆるジャンルの芸術に類するものを文字通り愛でる会だ。一二三も芸術は好きな方であるが部活や同好会活動としてやる気はない。
市古との出会いは入学してひと月経った頃だっただろうか。
授業が全て終わり、エントランスに向かう途中何となしに掲示板を見ていた。
特に目を引いたのは校内新聞で、一枚の紙に大まかに三つの情報が書かれていた。その中でも大きく取り上げられている写真付きの記事。
「おや、『新しい』校内新聞も人気あるみたいだね」
急に声をかけられて一二三は振り返る。
純白の三揃いに紺地に黒の細い縦ストライプのシャツ、淡色パールと銀細工のアクセントが光るループタイ。あまりにも学校という場にそぐわない出で立ちだった。
「それ、僕が載ってるんだよ。ほらこれ」
ほっそりとした指先が指し示したのは一番大きな記事。よくよく内容を見てみれば、それはこの学校の教師・生徒混合のオーケストラが来月海外の著名人を招いて大きなコンサートを開くというものだった。指を差された箇所、練習風景の写真の中で指揮者の左に座るヴァイオリニストが確かにこの人物に違いないようだった。
「これはコンサートマスター、というやつですか?」
「そうだよ、普通科なのによく知っているね!コンマスは第二の指揮者とも呼ばれる。何かあった時にはコンマスが指揮を取るからね。第一ヴァイオリンの首席奏者であり、分かりやすく誤解を招くと分かりつつも簡潔に言えば、このオケのヴァイオリニストの中でも一番優秀だということだよ。この学園に於いて、僕より優秀な人材は今のところいないから」
さらりと自慢をされても一二三は取り立てて腹を立てたり嫌な気分になったりはしない。この学園に於いては優秀であると自ら言うのであれば、おおかたその通りなのだからだ。
「僕は音楽科弦楽器系列ヴァイオリン担当教諭、市古友也。名前くらいは聞いた事ないかな?」
「いいえ全く。しかしうちの学校の先生なら優秀なかたなんだなあってのは分かりました」
自分を知らない事に僅かばかり苛立ちはしたものの、優秀だと言われて市古は気を良くする。
「これでも日本一のオーケストラに所属している名高き天才ヴァイオリニスト。CDも何枚か発売しているよ。是非とも聴いてみてくれたまえ。僕とてここの卒業生。後悔はさせないから」
自信満々に言い切るその姿は確かにこの学園の卒業生らしいな、と一二三は思う。
「来月第一週金曜の七限の時間にやるんだ。君は一年生だろう?まだ授業がないはずならば来るといい。至上の芸術を見せてあげるから」
そう言って市古友也と名乗る男は去っていった。一二三は幼い頃にピアノを習っていたのもありクラシックには馴染み深い。音楽のコンサートであれば潤一も来るだろうと踏んで一二三は行こうと決めた。
そして翌月、潤一と共に音楽ホールに行った。そこで一二三は才能に愛された者という言葉の意味を知ったのだった。
重厚に奏でられるブラームス、穏やかなるドビュッシー、軽快なるクライスラー、華麗なるモーツァルト!どれもこれもが素晴らし過ぎた。頭を直接殴られたかのような衝撃。
帰り道に一二三と潤一はあそこが凄かった、冒頭のトランペットソロが華々しかった、あそこのクラリネットが、フルートも、と話し合いそして、あの市古友也のヴァイオリンは最高だった、と口を揃えて言った。
翌週一二三と潤一は市古を探し出して口々に褒め称えると、市古はそれみたことか、と嬉しそうに笑ったのだった。それが出会いで、それからは顔を合わせれば何かと話すようになった。
「さて、役重を探しに行かなければ。昼休み中に見つけ出す」
見つかるといいですね、と声を掛ければ市古は会釈をして去っていった。
芸術、といえばこないだの美術館での展覧会はとても良かったと一二三は思い出した。
特にあの藤棚の絵は本当に素敵だった。目に焼き付いた絵を思い出す。それと、あの夕焼けの向日葵の絵も。
そしてあの手紙の主の事も結局何も分からずじまいだったのが気にかかった。どうせならば本人に会ってみたかった。
どんな絵を描くのだろう。私を呼んだのであれば、見せたい絵があったのだろうか。
行く前の時のような思考の泥沼へと沈み込んで行くのがわかる。意識が大海へと落ちていく。
寸前。
「ひふみ、教室に戻るところ?」
双子の弟の潤一が声をかけた。医療科に配布されている携帯端末を小脇に抱え、一二三の方へと駆け寄ってくる。「潤。そうだよ。この後は私の大好きな物理だから早めに戻っておきたかったんだった」
「ひふみ何でそんなものが好きなのか双子の俺でも理解できない」
みあはは、私が医療科に進まないのと同じさ」
そう返せば納得したように頷いた。
「そういや、芸術科の比企島満ってひと知ってる?」
「ん?ああ知ってるよ。あの人、副会長だから副会長会議でも生徒総会でも会うし話すし、色んな人にすごく良く話す人だから。どうかしたの?」
「いやこなちだ美術館行った時に会ってさあ。てか副会長業務しながら会長代理業務やってんの?凄いなあ」
「うん、凄い人だよ。父親も画家らしいんだけど、あの人はとにかく努力の人、って感じ。こないだ書類届けにアトリエに行ったけど、物凄い量の絵があったよ。手、見た?ペンだこってあんな風にまでなるんだね。結構軽く見える人だけどさ、絵にかける情熱……違うな、執念は、本物だよ」
潤一が手放しに褒めるのを戌神聖以外で初めて聞いたな、と一二三は軽く驚く。
「最近、結構生徒会長とか副会長と知り合うのだけれど、改めてうちの学園って凄いひとが多いんだねえ」
そう一二三が言えば潤一は溜め息を吐いた。
「ようやく理解した?地元っ子だから俺たちはあんまりピンとこないけど、百花って全国の中学生の憧れの進学先なんだよ。普通科、商業科、工業科以外は寮住まい多いし。比企島先輩は地元みたいだけど。あっと、そろそろ行かなきゃ。また後でね」
「うん、後で」
潤一と別れた後、またもや一二三は声をかけられて足を止める。
「大饗、少し良いか」
声をかけられたのは商業科簿記担当教諭の假屋 優征 だ。吊るしのスーツだがきちんと手入れされ、シャツはパリッと糊が効いている。清潔感のある人だ。
よく捕まる日だなあと笑いながら一二三は返す。
「假屋先生どうも。良いですよ。さっき市古先生にも質問されてたんで」
わざと名前を出してみるとあからさまに嫌そうな顔をする。大人というものは自分たちと全く別の生き物だと思っていたのに、この先生たちを見るとどうもやっぱり大人というのは子供の地続きであるんだと感じざるを得ない。それが妙に嬉しくて愉快で、一二三はつい意地悪をしてしまう。
「あの脳内薔薇畑の男の事などどうでもいい。お前の所の貝羽教諭を見なかったか?次の試験の事で話があってな」
「假屋先生も人探しですか。何でみんな携帯で連絡しないんですか?」
「機械音痴の市古と一緒にするな。私は充電が切れてしまって使えないだけだ」
「それは失礼しました。文緒先生なら喫煙所だと思いますよ。さっきそっちに向かうの見かけたんで」
この広い校内に一ヶ所しかない喫煙所で、喫煙者の教諭たちは肩身狭そうに吸っている。生徒たちは喫煙所に近づく事は許されないが、遠目では見えていて何だかその背中が寂しそうに見えるのは気のせいだろうかと一二三は思っていた。
「なんかたばこ吸うひとたちって何であんなに肩身狭そうなんですかね」
「ふん、仕方ないだろう。この世界は大多数の意見に従うようにされている。徐々に少数派となっていってる喫煙者の場所は奪われていくし、何よりここは教育の場であるのだから、生徒たちに受動喫煙などさせてはならない。それは加害だ。故に奴らは自らを閉じ込める」
軽口に対しても堅苦しい言葉遣いは相変わらずだな、と一二三は苦笑いした。
假屋との出会いもまた、市古とのように別個であり突然のものだった。
假屋は風紀委員の担当教諭でこれ以上ない適任であろうと今の一二三は思う。
この学校は頭髪などに縛りはないがアクセサリーの着用不可や制服の着こなしなどは厳密に規定がある。
制服に関しては特に細かなパーツによって系列やコースが分かるようになっている為、着崩したり勝手に変えたりはしてはいけない。家政科被服系列という例外はあれど、まず行ってはならない。ベストは指定以外の物は許されないがカーディガンやパーカー、コートなどは自由であるというのは假屋には納得いかない部分である。そこまで徹底しているのであれば指定の物を作ればいいと思っている。コートに関しては被服系列のOBがデザインを提案し、現在検討中との事であるが。
十二の学科とそれに連なる数多の系列の制服のルールを細かく把握している教諭は少なく、大抵が自分の所属する学科の者ばかりである中、假屋優征という男は風紀委員の担当になるとなった日から全てのルールに目を通しデザインを覚えた。
てこからは「変態じゃ、変態の極みじゃ」と揶揄されたが假屋からしてみれば与えられた役割を果たすのは社会人として当然だった。
朝、門のところで抜き打ちチェックをしている時に一年生の一二三は捕まった。市古と出会った頃と同時期だったはずだ。葉桜が風でざわざわと鳴っていたのを覚えている。
「そこの普通科の生徒、待ちなさい」
潤一と一緒に登校していた一二三は心当たりがなく、びっくりして立ち止まった。
「はい、何ですか?」
制服はまだ新しくぴかぴかの新品同様だ。どこかがほつれている訳でもなくサイズもぴったりだ。隣で潤一も首を捻っている。
假屋はつかつかと歩み寄ってきて眉間にシワを寄せている。
「君が履いている靴下は指定の物ではないね?普通科の生徒は白か紺のハイソックスで校章が入った物を着用しなければならない」
一二三が履いていたのは普通の紺のハイソックスで量販店で売っていた物だ。
「あはは、すみません。指定の靴下全部洗濯中だったんで……。次からは気をつけます」
「そうしなさい。制服というのは学校の看板であり、それをきちんと着用していなければ学校の評判が悪くなる。どういう事か分かるかね?」
潤一は嫌な先生に当たったと内心辟易していたが、一二三は「学校が困るんですね」と言った。
すると、假屋は眉間のシワを更に深めた。
「大いに間違えている。つまり、学校の評判が悪くなればそこに通う生徒たちの評価が悪くなる。君たちの進学や就職に対して不利になる。また、君たちの後に入ってくる後輩たちも困る事になるんだ。たった靴下一つ、と思ってはいけない。社会ではもっと理不尽な事が多い。社則では指輪やピアスが可とされているのに上司が許さず『あいつは身嗜みがきちんと出来ていない』といって評価に響くなどね。これは極端な例ではあるし今回とは反対のケースであるが、まずはきちんとルールを遵守し、自らを守るべきだ。義務教育は終わり、大人に近づく君たちはルールの必要性を学ばなければならない。分かったかね」
理路整然と語られ、その内容に納得して一二三はもう一度きちんと謝った。
それからというもの、一二三は質問すれば子供と侮らずちゃんと答えてくれる假屋に懐き、登山同好会として活動を始めてからはてこたちと賑やかに喧嘩する様を見ては笑った。愉快な先生たちが一二三は大好きだ。
薄ピンクのシャツに汚れ一つ見当たらない純白のベストとパンツは遠目からでもよく目立った。本人お気に入りのループタイではなく、今日は紅茶染めのクラバットを着けている。
音楽科ヴァイオリン 担当教諭の市古友也は廊下を足早に進む。市古がきょろきょろと辺りを見回すと大饗一二三が見えた。他に顔を知る生徒も近くにはいなかったので声をかける事にした。
「大饗、ちょうど良かった。役重を見ていないかい?」
立ち止まって振り返る一二三は首を傾げた。
「知り合いにその名前の人はいないんですけれど」
「……は?役重雪飛を知らないとでもいうのかい?」
目を瞠り、驚いた様子で市古は一二三に問い掛けると、一二三はいつもの如くあはは、と笑った。
「いやあ面と向かって名乗られたなら顔も名前も覚えられるんですけど、話題の人とか有名人とかはどうにも覚えられなくて」
「覚える気がない、の間違いだろう。芸能科の生徒会長だよ。といっても君は忘れるのだろうね。近々演劇部の舞台があって音響として手伝うんだ。やっぱり芸術というのは心の栄養だね。どんなものであれ美しいものは不変だ」
「それは同意します。芸術なければ人間は発展してこなかったと思いますよ」
「君のそういうところは買っているよ。そうとも。人によっては芸術など生きるのに不要だ、と言う意見を馬鹿馬鹿しくも口にするのもいる。だが肉体に栄養が必要不可欠なように、心にとっても芸術という栄養は必要なのだよ。確実にね。この点、やはりこの国は他国に劣っていると断言できるね」
いささか話過ぎたと気付いたのか市古はこほんと咳払いをする。
普通科の一二三は音楽の授業を選択していない。出来ない、と言った方が正しい。ここでは音楽の授業を、一流の音楽の授業を受けられるのは音楽科の学生のみだ。勿論、部活動としては吹奏楽部や合唱部などは音楽科のみならず他の学科でも人気である。
一二三はそういう部活ではなく、また市古もそういう部活の顧問ではない。てこや草司と出会ったのは入学後のてこに登山同好会に勧誘されたからだが、市古と出会ったのはてこと知り合いてこや假屋と喧嘩をしているところを見たからではない。
勿論、部活動も市古が顧問としているのは芸術愛好会というもので登山同好会とは全く違う部類である。芸術愛好会は音楽、絵画、彫刻、映画等々あらゆるジャンルの芸術に類するものを文字通り愛でる会だ。一二三も芸術は好きな方であるが部活や同好会活動としてやる気はない。
市古との出会いは入学してひと月経った頃だっただろうか。
授業が全て終わり、エントランスに向かう途中何となしに掲示板を見ていた。
特に目を引いたのは校内新聞で、一枚の紙に大まかに三つの情報が書かれていた。その中でも大きく取り上げられている写真付きの記事。
「おや、『新しい』校内新聞も人気あるみたいだね」
急に声をかけられて一二三は振り返る。
純白の三揃いに紺地に黒の細い縦ストライプのシャツ、淡色パールと銀細工のアクセントが光るループタイ。あまりにも学校という場にそぐわない出で立ちだった。
「それ、僕が載ってるんだよ。ほらこれ」
ほっそりとした指先が指し示したのは一番大きな記事。よくよく内容を見てみれば、それはこの学校の教師・生徒混合のオーケストラが来月海外の著名人を招いて大きなコンサートを開くというものだった。指を差された箇所、練習風景の写真の中で指揮者の左に座るヴァイオリニストが確かにこの人物に違いないようだった。
「これはコンサートマスター、というやつですか?」
「そうだよ、普通科なのによく知っているね!コンマスは第二の指揮者とも呼ばれる。何かあった時にはコンマスが指揮を取るからね。第一ヴァイオリンの首席奏者であり、分かりやすく誤解を招くと分かりつつも簡潔に言えば、このオケのヴァイオリニストの中でも一番優秀だということだよ。この学園に於いて、僕より優秀な人材は今のところいないから」
さらりと自慢をされても一二三は取り立てて腹を立てたり嫌な気分になったりはしない。この学園に於いては優秀であると自ら言うのであれば、おおかたその通りなのだからだ。
「僕は音楽科弦楽器系列ヴァイオリン担当教諭、市古友也。名前くらいは聞いた事ないかな?」
「いいえ全く。しかしうちの学校の先生なら優秀なかたなんだなあってのは分かりました」
自分を知らない事に僅かばかり苛立ちはしたものの、優秀だと言われて市古は気を良くする。
「これでも日本一のオーケストラに所属している名高き天才ヴァイオリニスト。CDも何枚か発売しているよ。是非とも聴いてみてくれたまえ。僕とてここの卒業生。後悔はさせないから」
自信満々に言い切るその姿は確かにこの学園の卒業生らしいな、と一二三は思う。
「来月第一週金曜の七限の時間にやるんだ。君は一年生だろう?まだ授業がないはずならば来るといい。至上の芸術を見せてあげるから」
そう言って市古友也と名乗る男は去っていった。一二三は幼い頃にピアノを習っていたのもありクラシックには馴染み深い。音楽のコンサートであれば潤一も来るだろうと踏んで一二三は行こうと決めた。
そして翌月、潤一と共に音楽ホールに行った。そこで一二三は才能に愛された者という言葉の意味を知ったのだった。
重厚に奏でられるブラームス、穏やかなるドビュッシー、軽快なるクライスラー、華麗なるモーツァルト!どれもこれもが素晴らし過ぎた。頭を直接殴られたかのような衝撃。
帰り道に一二三と潤一はあそこが凄かった、冒頭のトランペットソロが華々しかった、あそこのクラリネットが、フルートも、と話し合いそして、あの市古友也のヴァイオリンは最高だった、と口を揃えて言った。
翌週一二三と潤一は市古を探し出して口々に褒め称えると、市古はそれみたことか、と嬉しそうに笑ったのだった。それが出会いで、それからは顔を合わせれば何かと話すようになった。
「さて、役重を探しに行かなければ。昼休み中に見つけ出す」
見つかるといいですね、と声を掛ければ市古は会釈をして去っていった。
芸術、といえばこないだの美術館での展覧会はとても良かったと一二三は思い出した。
特にあの藤棚の絵は本当に素敵だった。目に焼き付いた絵を思い出す。それと、あの夕焼けの向日葵の絵も。
そしてあの手紙の主の事も結局何も分からずじまいだったのが気にかかった。どうせならば本人に会ってみたかった。
どんな絵を描くのだろう。私を呼んだのであれば、見せたい絵があったのだろうか。
行く前の時のような思考の泥沼へと沈み込んで行くのがわかる。意識が大海へと落ちていく。
寸前。
「ひふみ、教室に戻るところ?」
双子の弟の潤一が声をかけた。医療科に配布されている携帯端末を小脇に抱え、一二三の方へと駆け寄ってくる。「潤。そうだよ。この後は私の大好きな物理だから早めに戻っておきたかったんだった」
「ひふみ何でそんなものが好きなのか双子の俺でも理解できない」
みあはは、私が医療科に進まないのと同じさ」
そう返せば納得したように頷いた。
「そういや、芸術科の比企島満ってひと知ってる?」
「ん?ああ知ってるよ。あの人、副会長だから副会長会議でも生徒総会でも会うし話すし、色んな人にすごく良く話す人だから。どうかしたの?」
「いやこなちだ美術館行った時に会ってさあ。てか副会長業務しながら会長代理業務やってんの?凄いなあ」
「うん、凄い人だよ。父親も画家らしいんだけど、あの人はとにかく努力の人、って感じ。こないだ書類届けにアトリエに行ったけど、物凄い量の絵があったよ。手、見た?ペンだこってあんな風にまでなるんだね。結構軽く見える人だけどさ、絵にかける情熱……違うな、執念は、本物だよ」
潤一が手放しに褒めるのを戌神聖以外で初めて聞いたな、と一二三は軽く驚く。
「最近、結構生徒会長とか副会長と知り合うのだけれど、改めてうちの学園って凄いひとが多いんだねえ」
そう一二三が言えば潤一は溜め息を吐いた。
「ようやく理解した?地元っ子だから俺たちはあんまりピンとこないけど、百花って全国の中学生の憧れの進学先なんだよ。普通科、商業科、工業科以外は寮住まい多いし。比企島先輩は地元みたいだけど。あっと、そろそろ行かなきゃ。また後でね」
「うん、後で」
潤一と別れた後、またもや一二三は声をかけられて足を止める。
「大饗、少し良いか」
声をかけられたのは商業科簿記担当教諭の
よく捕まる日だなあと笑いながら一二三は返す。
「假屋先生どうも。良いですよ。さっき市古先生にも質問されてたんで」
わざと名前を出してみるとあからさまに嫌そうな顔をする。大人というものは自分たちと全く別の生き物だと思っていたのに、この先生たちを見るとどうもやっぱり大人というのは子供の地続きであるんだと感じざるを得ない。それが妙に嬉しくて愉快で、一二三はつい意地悪をしてしまう。
「あの脳内薔薇畑の男の事などどうでもいい。お前の所の貝羽教諭を見なかったか?次の試験の事で話があってな」
「假屋先生も人探しですか。何でみんな携帯で連絡しないんですか?」
「機械音痴の市古と一緒にするな。私は充電が切れてしまって使えないだけだ」
「それは失礼しました。文緒先生なら喫煙所だと思いますよ。さっきそっちに向かうの見かけたんで」
この広い校内に一ヶ所しかない喫煙所で、喫煙者の教諭たちは肩身狭そうに吸っている。生徒たちは喫煙所に近づく事は許されないが、遠目では見えていて何だかその背中が寂しそうに見えるのは気のせいだろうかと一二三は思っていた。
「なんかたばこ吸うひとたちって何であんなに肩身狭そうなんですかね」
「ふん、仕方ないだろう。この世界は大多数の意見に従うようにされている。徐々に少数派となっていってる喫煙者の場所は奪われていくし、何よりここは教育の場であるのだから、生徒たちに受動喫煙などさせてはならない。それは加害だ。故に奴らは自らを閉じ込める」
軽口に対しても堅苦しい言葉遣いは相変わらずだな、と一二三は苦笑いした。
假屋との出会いもまた、市古とのように別個であり突然のものだった。
假屋は風紀委員の担当教諭でこれ以上ない適任であろうと今の一二三は思う。
この学校は頭髪などに縛りはないがアクセサリーの着用不可や制服の着こなしなどは厳密に規定がある。
制服に関しては特に細かなパーツによって系列やコースが分かるようになっている為、着崩したり勝手に変えたりはしてはいけない。家政科被服系列という例外はあれど、まず行ってはならない。ベストは指定以外の物は許されないがカーディガンやパーカー、コートなどは自由であるというのは假屋には納得いかない部分である。そこまで徹底しているのであれば指定の物を作ればいいと思っている。コートに関しては被服系列のOBがデザインを提案し、現在検討中との事であるが。
十二の学科とそれに連なる数多の系列の制服のルールを細かく把握している教諭は少なく、大抵が自分の所属する学科の者ばかりである中、假屋優征という男は風紀委員の担当になるとなった日から全てのルールに目を通しデザインを覚えた。
てこからは「変態じゃ、変態の極みじゃ」と揶揄されたが假屋からしてみれば与えられた役割を果たすのは社会人として当然だった。
朝、門のところで抜き打ちチェックをしている時に一年生の一二三は捕まった。市古と出会った頃と同時期だったはずだ。葉桜が風でざわざわと鳴っていたのを覚えている。
「そこの普通科の生徒、待ちなさい」
潤一と一緒に登校していた一二三は心当たりがなく、びっくりして立ち止まった。
「はい、何ですか?」
制服はまだ新しくぴかぴかの新品同様だ。どこかがほつれている訳でもなくサイズもぴったりだ。隣で潤一も首を捻っている。
假屋はつかつかと歩み寄ってきて眉間にシワを寄せている。
「君が履いている靴下は指定の物ではないね?普通科の生徒は白か紺のハイソックスで校章が入った物を着用しなければならない」
一二三が履いていたのは普通の紺のハイソックスで量販店で売っていた物だ。
「あはは、すみません。指定の靴下全部洗濯中だったんで……。次からは気をつけます」
「そうしなさい。制服というのは学校の看板であり、それをきちんと着用していなければ学校の評判が悪くなる。どういう事か分かるかね?」
潤一は嫌な先生に当たったと内心辟易していたが、一二三は「学校が困るんですね」と言った。
すると、假屋は眉間のシワを更に深めた。
「大いに間違えている。つまり、学校の評判が悪くなればそこに通う生徒たちの評価が悪くなる。君たちの進学や就職に対して不利になる。また、君たちの後に入ってくる後輩たちも困る事になるんだ。たった靴下一つ、と思ってはいけない。社会ではもっと理不尽な事が多い。社則では指輪やピアスが可とされているのに上司が許さず『あいつは身嗜みがきちんと出来ていない』といって評価に響くなどね。これは極端な例ではあるし今回とは反対のケースであるが、まずはきちんとルールを遵守し、自らを守るべきだ。義務教育は終わり、大人に近づく君たちはルールの必要性を学ばなければならない。分かったかね」
理路整然と語られ、その内容に納得して一二三はもう一度きちんと謝った。
それからというもの、一二三は質問すれば子供と侮らずちゃんと答えてくれる假屋に懐き、登山同好会として活動を始めてからはてこたちと賑やかに喧嘩する様を見ては笑った。愉快な先生たちが一二三は大好きだ。