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百本の花


自分の事を語るのは……そうだな、とても面倒だ。そう形容するしかない。というのも、兄の話は外せないからだ。
よく家がクリスチャンなのかと聞かれるが、うちは兄と俺以外は神道だ。俺も兄の影響で宗旨替えしたに過ぎんしな。
意外か?これでも兄思いのいい弟をしていたんだぜ?
兄も以前ここの神学科に通っていた。
逆蔵皇綺こうき。兄の名だ。
色々あってキリストの神に導かれて教会の門戸を叩いた。まあ家族は割合寛容で、特に気にしたふうもなかったが驚きはした、という感じだったろうか。
以前、というのももう兄は死んだ。六年前だ。
事故だった。どうしようもないくらいに普遍的な交通事故。敬虔なカトリックの学生で、うちの数代前の生徒会長をやっていた。
毎朝毎夕祈りを欠かさぬひとだった。それでも無情に命は刈り取られた。兄貴は、あれだけ祈っていた神のもとへ行けたのだろうか。その答えを知りたくて、それまで興味のなかった神学科の、カトリックのコースに来た。
ここの神学科は推薦制だからな、慌てて地元近くの教会で洗礼を受けて推薦を貰った。兄貴の事があったからかそこの神父も親身になってくれてな。聖書だなんだと貰って死ぬ程読み込んで、神の教えとやらを耳にタコができるほど聞き込んで、そうこうしている間に神学科の生徒会長に持ち上げられた。
……努力家だ?ハッ、こんなもん努力の内にも入らねえよ。どうせ学んで学んで学んだ先に、確認しようのない事を永遠に追い続けるんだ。不毛に過ぎる。だがそれでも辞めない。当たり前だ。これは俺が選んだ道だからな。滅多な事じゃ変えん。
そうそう、うちの実家は酒造店でな、田舎のちょっとした酒蔵だ。もしかしたら知っているかもな。ん?ああ、そう、それだ。まあ日本全国どこの酒屋にも置いてるだろうな。
凄い?うちは分家だから本家ほどじゃないと思っていた。比較対象が他にわからん。
実家があるのはどこにでもある田舎の町だ。本家はそこの地主で、うちは分家になる。
本家筋といえばうちの音楽科のチェロ専攻に嫡男が通ってるぜ?同い年でな、よく家の集まりで会ってるんだが家に反対して音楽科に行ったから親とは冷戦状態らしい。
俺とは似ても似つかない優男で、女からの評判も良い。ま、それと女と付き合った事があるかは別の話だが。
俺の家の跡継ぎ問題?ああ、うちは姉が継いでるさ。だから俺も妹も自由気ままなもんでな。
あ?姉妹がいんのがそんなにおかしいかよ。うちは四人きょうだいで十歳上の姉、七つ歳上の兄、二つ下の妹だ。元々は女系家族だからな、親戚も結構女が多いから親族が集まった時は姦しくて仕方ねえ。
姉妹なんざ碌でもないぞ。いい事なんざ一つもねえ。姉は散々俺をおもちゃにしてきたし多分着せ替え人形くらいにしか思っちゃいねえ。妹は欲しいものがあるとすぐに駄々を捏ねて甘えまくる面倒くさい奴だ。父も母も妹にクソほど甘いからな、我儘女王だぞあいつは。
親父はいつも酒蔵に篭っては仕事に打ち込んで、いる振りをして酒浸りだし俺にも飲ませてくるから酒蔵には余り近づかなかったな。家の中ではいつもお袋に頭が上がらなくて尊敬する所は数少ない親父だった。
尊敬する背中としては俺はいつも自分の前を行く兄であったし、兄が亡くなってからは昔から懐いてしょっちゅう構ってもらっていた従兄弟の玄人兄さんだろうか。
兄より二歳上で、大人びていて、何でも知っている凄い人だ。
一番古い記憶の地層の中で印象深いのが、俺が河で溺れているのだが血相を変えた玄人兄さんが必死に泳いで助けに来てくれた事だ。いつも悠々と余裕綽々な人なんだが、あの幼い日以来そんな姿は見た事がない。記憶違いかと思って昔兄に聞いてみれば実際あった出来事らしく、親戚で河にバーベキューに来ている中目を離した隙に俺が河に近づいて足を滑らせて溺れて流されたらしい。玄人兄さんが河に飛び込んだ様子で家族も状況を理解したようで、俺は助けられた後に人生で最初で最後、親父に殴られたらしい。
両親と兄がとても沢山のお礼の言葉を言い頭を下げるのを、玄人兄さんは「当たり前の事をしただけだ」と淡々と返し素っ気なかったらしい。それでも兄からすれば、ほっとしたような表情だったという。
「くろ兄はお前の命の恩人なんだぞ」
そう言って頭を撫でる兄と、ドヤ顔で煙草に火を点ける玄人兄さん。そういえば、未成年の頃から吸っていたな。兄が誕生日にと家族に内緒で贈った聖マリアの刻印のあるジッポライター。今でも使い込まれて滑らかな光沢を見せるそれ。
玄人兄さんは玄人、と書いてくろうど、と読むのだが初見では大抵くろうと、と読まれるから成人してから数年して漢字を蔵人、と変えた。
「全く、この世の者は馬鹿ばっかりか」
かつて百花の普通科生徒会長を務めた玄人兄さんは事あるごとに周囲を馬鹿にした態度を取るが、それなりに世界を愛しているしそんな馬鹿相手といえども人に教える事に手を抜かなかった。助教授という現在の職は玄人兄さんにとても良く合っているのだろう。
だがまあ俺は割と自分より不出来な馬鹿はあからさまに馬鹿にしたしそれは口にも態度にも出ていた。兄に言われても直さなかった短所ではあるが、ある時玄人兄さんが言った言葉で俺は少しだけ態度を改めた。
「いいか、皇逹。この世は馬鹿ばっかりでお前くらい頭が良い奴はほんの一握りだ。お前にできる事は殆どの人間は出来ねえ。お前の知識を他に分け与える必要はないが、お前の知識を守る為にもお前自身を守る為にも、ほんの少しだけ馬鹿に合わせろ」
あの、あまりにも悪人じみた笑みは忘れないだろう。
そんなこんなで性格に影響を与えたのは確実に玄人兄さんだろう。
兄の後を追って百花学園に通い始めて、他学科の教師に見覚えのある人物が何人かいた。
記憶の糸を辿れば、昔兄と連んでいた者たちだった事を思い出し、つい声をかけてみた事がある。
「おお!お前、皇綺の弟か!大きくなったのう!そうか、あのちびがもう高校生になるとはなあ、そりゃわしらも歳を取るわけじゃ」
工業科の教員として在籍する江角てこ、そして農業科の草刈草司、音楽科の市古友也、商業科の假屋侑正。そして俺の兄、逆蔵皇毅が神学科の生徒会長として同学年同世代の統括生徒会メンバーだった。
割と喧嘩ばっかりする三人は何故かよく一緒にいて、その喧嘩をやれやれ、と止めに入る草刈草司にそれらをにこにこと微笑んで見ている兄の姿が印象的だった。
「皇綺兄さんの友達はいつも喧嘩してるんだな」
実家から遊びに来ていた俺が兄の友人たちが口論を始めたのを見ながら言うと、兄は目を細めて笑った。
「きっと本質が似ているからだよ。専攻とか見た目とか性格はそれぞれ全然違うけれど、ひとの本質が似ているから会話が成立する。価値観の違うひとたちは、会話が成り立たないからね。そして、似ているがゆえに喧嘩するんだ。見ていて微笑ましいよ」
兄が誰かを否定しているのを見た事がなかった。あの人にとっては全てが愛すべき隣人なのだろう。
俺は兄と同じ道に進みながらもそんな聖人君子のようにはなれない。腹立つ奴は多いし性格が合わない奴も多い。敵も、目障りな奴も。
百花に入ってからは癖の強い奴が多くてその傾向は特に増加した。ここにいる者達どころか、俺はやはり、人間というものが嫌いなのだろう。兄曰く価値観の違い者というのは会話が成り立たない、との事だったが会話は出来る。だがその会話に費やす時間が惜しかったり苦痛を耐えるのに俺はとても、とても疲れるのだ。
余りにもむしゃくしゃして他人に対して距離を取り冷たい態度を繰り返せば、入学して夏休みに入る前に既に俺は一人でいる事に成功した。関わらなければ腹が立つことも少ないからだ。
そして一人でいるという事は更に勉学に対して集中出来るという事だ。
しかしまあ、その頃からだろうか。煩わしい奴に絡まれる事が増えた。
そいつの名前は女郎花透。同じ神学科、と一括りにされたくはない、寺の跡取り息子で神学科の密教系列の生徒で明るく周囲にはいつも人が溢れている、どう考えても俺とは全く接点の無い人間の筈だった。
「皇逹くんここにおったんかあ。なあ次の日曜日良かったら外出せえへん?確かミューゼスホールで合唱コンクールがあったやん?あれを理由にすれば出られると思うんやわあ」
一人で気ままに食堂で昼飯を食べていれば必ずと言っていいほど声をかけてきた。
「皇逹くん」
何度も何度も許していないというのに下の名前で呼びやがる。後を追う奴は振り返るまで呼ぶものだからいつも眉間に皺を寄せて振り返ると、嬉しそうに笑うから苦々しく舌打ちする。
どれほど酷い言葉を並べようが、酷い態度を取ろうが、後ろにいて。そして遂には並んで歩いていた。
「テメエは何でそんなに俺に構いやがる?」
ある日嫌な事が重なり、八つ当たり気味にそう尋ねた事がある。そうしたら奴はけろりとした顔で答えた。その答えは、流石の俺でも引き攣った顔になった。
「うちなあ、家が全てを決めてるんやわ。大学も将来も。多分結婚相手もそうや。ここにいる間だけは、自由。友達を選ぶのも誰と遊ぶかも。逆蔵皇逹は実家が一番嫌いそうな人間で、実際そうやった」
そう屈託なく笑う女郎花の事を俺は。
哀れんだ。
自分とは対になる家の束縛。
「勿論始めはそういう打算やったよ?でもなあ今は皇逹くんが一番一緒にいて楽しめる人間なんやわあ」
逆蔵の本家筋たる三木家の坊ちゃんといい、この女郎花という男といい、俺の周囲にいる人間は家による束縛に苦しんでいる。
正反対とも言えるほどに逆蔵の家の俺や兄、従兄弟の玄人兄さんは自らの進みたい道を自分で選択できた。それはきっと幸せと呼べるものなのだろう。玄人兄さんはそろそろ結婚しろと実家からしつこく言われているようだが、無視して日本中を飛び回って研究に没頭している。きっと、奴らはそれを選択できない。
俺は女郎花が辺りをうろちょろするのを見逃す事にした。それが俺の傲慢への代償とでも形容すべきかは分からない。
俺は変わらない。これまでも、これからも。それで良い。何も問題ない。変化しない変容しない事は真実への追求に必要なものだ。こちらがぶれてしまっては如何なるものも観測できない。
だが俺は寛容さを見せる。
俺の周囲が変わる事を許す。構わない。何故なら周囲が俺に変化をもたらす事はないのだから。
なあ神よ。そこにいるか?
神よ。俺の声が聞こえているのなら答えてくれ。
信じる者しか救わない傲慢な神よ。
あんたを信じた兄は、救われたのか?
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