あやめも知らぬ恋もするかな
「ボクは後家兼光。キミが新しい主? 戦う条件はお腹いっぱい食べさせること。あ、ボクじゃなくて、上杉の刀に」
目の前に現れた男に、審神者はまたとんでもない美丈夫が来たな、と思った。
「初めまして後家兼光。私はここの本丸の審神者。貴方の力を貸して欲しい」
「うん! よろしくね」
後家は人のよさそうな笑顔で握手を求めてくる。審神者はそれを握り返して、近侍である長義に本丸の案内をするよう頼んだ。
霊力を沢山使ったせいで、少し疲れている。空腹を覚えてしまい、自分の腹を押さえた。
「……やだな」
空腹を感じることを、罪だと思いながら。
数時間後、審神者は部屋でパソコンに向き合っていた。新しい刀が顕現したのだから、彼を含めた編成や当番を考えなくてはいけない。
ぐう、と情けなく腹の虫が鳴って、それを抑えようと手を当てる。いけないと思って、部屋にストックしてある完全栄養食のドリンクに手を伸ばした。
「主! お昼だって!」
障子が開いて、笑顔の後家が入ってくる。
「ボクの歓迎だからって、おにぎり祭りするんだって! 早く行こう!」
おにぎり。そんなもの、もう何年も食べてなかった。
「……いらない。後家だけ行って」
「なして? お腹空いてない?」
「違う。私ご飯食べないの。お昼はこれで充分だから」
そう言って後家にドリンクを見せる。彼は言っている意味がわからないという風に首を捻った。
「……お昼が、それ? 飲み物だけ?」
「栄養取れればいいから。私のことは気にしないで」
審神者はパソコンに向き直って、また部隊の編成を考え始めた。
「えっ、だめだよ!」
後家は隣に座って、審神者の肩を掴んだ。
「主、ごはん食べないと元気出ないよ!? 一緒に食べようよ!」
「……っ、離して! いらないって言ってるでしょ!」
どんなにおいしそうなものを目にしたって、自分を律してそれを口にすることはなかった。この先もずっと、一生それを続けていく覚悟がある。
「後家兼光、そこまでにした方がいい」
声を聞いてやってきたのか、部屋の入り口に長義が立っていた。
「彼女は何があっても食事は摂らない。ずっと俺たちが勧めても拒み続けたんだ。新しく来た君が何を言ったところで聞き入れはしないだろう」
「でも……!」
「長義の言う通りだから、もう放っておいて」
審神者は後家を振り払った。後家はありえないものを見る目で審神者を見つめる。
「主……ほんとうに、食べないの?」
「食べない。別にいいでしょう。他の誰かに強要しているわけでもない、誰かに迷惑をかけているわけでもないんだから。栄養は摂ってるし、それでちゃんと生活してきたの。風邪だって引いたことない」
「…………」
「仕事の邪魔だから出ていってくれない。貴方になんの仕事を割り振るかは、追って説明するから」
「行くよ、後家兼光。皆が待っている」
長義が後家を連れて部屋を出る。赤い髪の男は、ずっと寂しそうに審神者を見つめていた。
「主ーっ! 雑炊作ったよ! 食べて!」
「北谷菜切の畑仕事終わるだろうから差し入れして」
「主、主! 手巻き寿司作ったんだけどどう?」
「博多がお腹空いたって言ってたから、持っていって」
「ねえ主! おにぎり……」
「そろそろ山姥切の国広がお使いから帰ってくるからあげて」
審神者が食事を摂らないと聞いてから、後家は毎日彼女に食事を持っていった。けれど彼女は一瞥もせずに、それをいらないと言う。
「今日もだめだったあ……」
いらないと言われたおにぎりは、目の前の山姥切国広がもしゃもしゃと食べている。
「あんたも懲りないな」
「だって主にごはん食べてほしいよ……何も食べないで飲み物だけなんて、絶対身体によくないし、楽しくないよ」
「俺も他の刀も主に食べさせようと努力はしたが、ここまで粘り強いのはあんたが始めてだ」
そういえば山姥切国広はこの本丸の初期刀だ。彼女と一番付き合いが深いと言える。
「なんで主が食べないか、知ってる?」
「不必要だから、とは言っていたな。それ以上は語ろうとしなかった。きっと何か事情はあるんだろうが……」
「そっかあ……」
後家はぺしょん、と項垂れた。原因もわからないのなら彼女を食に向き合わせることもできない。
「ただ……」
「ん?」
「俺が修行から帰ってきた時、主が言っていたことは、ずっと気になっている」
「なんて言ったの?」
「『羨ましい』──そう、言っていた。何が羨ましいのかまではわからない」
「戦えるから羨ましい、とかじゃないの?」
「違うと思う。主は適材適所が大切だと常日頃から言っているからな。実戦は自分の領分じゃないと理解しているはずだ」
山姥切国広は最後のおにぎりを掴んで、ぽつりと呟いた。
「もしかしたら彼女も、かつての俺のように、何かに囚われているのかもしれない」
前に山姥切国広と話した時、彼はかつて山姥切の名前に囚われていたと話していた。それと同じ──ある種の呪いが、審神者を苦しめているのかもしれない。
「何かって、なに?」
「それが分かれば簡単なんだがな。ひとつ言えるとしたら……」
あぐ、と大きな口でおにぎりが食べられていく。彼女もこれくらい食事を楽しんでくれたらいいのにと思わずにはいられない。
「他人からしたらくだらない悩みでも、本人からしたら深刻だということもある。もし主が囚われているものがわかったとしても──それを、くだらないなどと言わないでくれ」
それは、山姥切という名前にこだわり、囚われていた男からの願いだった。
「……うん、わかった」
「それにしてもツナマヨのおにぎりというのはうまいな。米によく合う」
「でしょ!? あーあ、主にも食べてほしかったなあ……」
「俺たちには無理だったが、あんたならもしかするともしかするかもしれないな、頑張れ」
「うん! 明日は肉巻きおにぎりで頑張ってみる!」
ガッツポーズをする後家を、山姥切国広はふっと笑って応援した。
「主、主ー! 今日は炊き込みごはん持ってきたよ!」
「一期が書類整理頑張ってるから、差し入れてあげて」
審神者はそっけなく後家を突っぱねる。でもと言い続ける彼をじっと睨むと、彼は肩を落として去っていった。
「……随分冷たいんだね」
部隊の編成の相談に乗ってくれていた長義がぽつりと呟く。
「皆に分け隔てなく接する君が、珍しい」
「……毎日言ってくるから、つい」
「それにしても彼も諦めが悪いな。もう二ヶ月になるのに折れる様子がない」
後家がやってきてから少しの時間が経った。彼は毎日凝りもせずに、食事を持ってくる。何故か全て米の料理を。
「後家に悪気がないのは、わかってるんだけど……」
「そうだね、純粋な善意に見えるよ」
「でも、私は食べたくないの。誰に何を言われたって、何も食べたくない」
「……俺も他者に理解されないものに固執していた身だ。何かを言う筋合いはない」
長義は修行に出るまで、『山姥切』の名前にこだわっていた。修行が終わって帰ってきてから、憑き物が落ちたようにそれから解放された。
もう写しである国広に対して嫌味を言う姿も見ないし、前以上に近侍としての役割を果たしてくれている。
「……そんな、大したものじゃないよ、信念とかそういうのじゃないの」
もっとわがままで、汚い感情だ。それこそ、一生誰にも言えないくらいのくだらなさかもしれない。
それでも、自分にとっては生涯背負うほどのものなのだ。あの時傷ついた十代の少女は、自分に罪を課した。
『お前さ、それマジで言ってんの?』
男の子の、冷笑。それがずっとずっと頭から離れない。
「彼も負ける気はないようだから、頑張るといいよ」
「……うん」
「では話を戻そう。第三部隊は──」
長義の冷静な声が耳に届く。一瞬後家の寂しそうな表情がよぎって、ぶんぶんと頭を振ってそれを払った。
雨の音で目が覚める。ばちばちばち、と大きな雨粒が屋根に当たる音がした。
「雨……」
天気が荒れるとは聞いていたが、こんなになるとは思わなかった。畑が荒れないといいのだが。
瞬間、大きな稲妻が、目の前を走った。
「ひゃっ……!」
庭に植えられていた松の木に、雷が落ちたのだ。眼前に来た雷に、へたりと座り込む。
また落雷。次は隣の木だった。早く部屋に入らなくてはと思うのに、恐怖に足が震えて動かない。
耳をつんざくような大きな音がして、審神者は頭を覆った。
「きゃあっ……!」
怖い、怖い。逃げたいのに、怖くて動けない。
「っ……」
もし、次に雷が自分の上に落ちてきたら。きっとひとたまりもなく死んでしまう。そう思っているのに、足は動いてくれない。
「だ、れか……」
誰か助けて、と呟いた。こんな夜に、誰かが来るわけもないのに。
「主!」
聞き慣れた声がする。はっと顔を上げると、そこには寝間着姿の後家がいた。
「主の部屋の近くに雷落ちたかと思って……だいじょーぶ?」
「ご、ごけ」
審神者の声は震えていた。普段あんなに冷たくしているのに、わざわざ様子を見に来てくれたのだろうか。
「立てる?」
「……っ」
ふるふる、と首を振る。後家は触るよと断りを入れてから、そっと審神者を姫抱きした。そして審神者の部屋には行かず、駆け足で廊下を歩き出す。
辿り着いたのは、後家にあてがわれた部屋だった。部屋の中には一組の布団が敷いてある。
「主の部屋だとまた近くに落ちるかもしれないから、今日はボクの部屋で寝て」
「っ……う、ん」
後家は優しく布団の上に身体を降ろしてくれた。そして敷布団をかけて、子どもをあやすように頭を撫でる。
「じゃあ、ボクは他のところで寝るから」
「え……でも、ここは後家の部屋なのに」
「布団ひとつしかないから。だいじょーぶ、なんとかなるよ」
部屋を出ていこうとする後家の寝間着の袖を、気がつけば引っ張っていた。
「ま、まって」
「どしたの?」
「そ、の……」
さっきの大きな音がまた来たらと思うと、怖くて眠れない。けれどいい年をした大人が雷が怖いなんて、口に出せるはずもなかった。
「……ひとりで寝るの、こわい?」
後家はそれを察したのか、隣に寝転んでぽんぽんと背中を叩いた。
「じゃあ、主が寝るまで一緒にいるよ。変なことは絶対にしないから、安心して」
「……あり、がとう…………」
後家の体温はあたたかかった。背中から温もりが伝播して、それが安心となって胸を満たす。
「……後家は……」
「うん?」
「なんで私に優しくしてくれるの。私は後家に冷たくしてるのに」
いつも彼が用意してくれる食事をそっけなく断るのに、どうしてここまでしてくれるのかわからなかった。
「冷たくはしてなくない? あと、ボクは自分が大好きな人に優しくしたいだけだよ」
「好っ……」
さらりと後家が髪の毛をなぞる。ゆっくりゆっくり、慈しむように。
「おやすみ。いい夢見れますように」
「……お、おやすみ、なさい」
言葉の真意は聞けなかった。けれど、生まれて初めて貰った言葉に、ぽかぽかとあたたかい気持ちになる。
審神者は後家の優しさに包まれながら、そっと目を閉じた。
「主、お昼だよ、ごはん食べよう?」
後家は今日も食べ物を持ってくる。今日は雑炊だった。とてもおいしそうだと思いながら、それを口にすることは許されない。
「……いらない。後家が食べて」
「これは主の分だよ。ちょっとだけでもいいから、ね?」
「もう食べたからいいの。構わないで」
「またいつもの飲み物でしょ? それだと身体壊しちゃうよ」
「栄養は摂れるんだからいいでしょ」
後家を視界から外して、パソコンに向かう。今日はやりたいことがいっぱいあるのだ。
「主、なんでそんなに……」
ふと、部屋の外から風が吹いて、ふわりと鶏がらの香りが鼻をくすぐった。瞬間、腹からぐううう、と情けない音がする。
「…………」
「主、お腹空いてるんじゃん」
後家は隣に座って、器を差し出した。
「食べよ?」
「……っ、いらないって言ってるの!」
恥ずかしさと苛立ちで大声を出してしまう。どうして一生懸命我慢しているのに、彼は食事を勧めてくるのだろう?
「なして?」
後家の目が鋭く光った。今までに見たことのない視線。嘘を許さないと言っているようだった。
「身体は食べたいって言ってるのに、なんで聞いてあげないの? 主、自分をいじめてるみたいだ」
「っ……」
食べたい。本当は、食べたいと思っている。皆がおいしそうに食卓を囲んでいるのが、ずっと羨ましかった。けれど、だけど。
「食べちゃ……駄目なの……」
本音が零れた。食べたくないのではなく、食べてはいけないのだ。まだ学生だった頃に、自分にそう課した。
「誰がそんなこと言ったの? 食べたら誰かに怒られるの?」
「違う……そうじゃ、なくて……」
言い淀むのを、後家は真剣な表情で待った。誰にも明かしたことのない、心の傷が開かれようとしていた。
「食べたら……太っちゃうから。可愛くないから、せめて痩せてたいの……」
「……え?」
「昔……いっぱい食べてたら、ふ、太ってるって言われて……だから、食べちゃ駄目なの」
本当は太ってるよりもひどい、直接的な言葉も言われた。好きだった男の子に言われたあの言葉を、一生忘れることができない。
「────誰が、言ったの」
後家の声には怒りが孕んでいた。いつも優しいその瞳が、誰かに対して本気で怒っている。
「同級生だった、男の子……」
初恋の人とは言えなかった。言ったら、恋に傷ついた愚かな自分をもっと晒してしまうような気がした。
「主」
後家が、審神者の手を取る。そして強く強く握りしめて、審神者を真っすぐに見つめた。
「人の見た目にそんなこと言ってくる奴の言葉、大事にしないで」
「でも……太ってるのも可愛くないのも、本当のことで……」
「ねえ主、そんな奴の言葉じゃなくて、今目の前にいるボクの言葉を聞いてよ」
後家は嘘偽りのない瞳で、審神者の呪いを斬る。
「主は魅力的な人だよ。かわいいところがいっぱいある、素敵な人だよ。ボクは主が大好きだよ」
「────」
「だから主にはおいしいものいっぱい食べてほしいよ。いっぱい笑っててほしいよ」
そんな真っすぐな言葉を貰ったことなんてなかった。いや、あったかもしれないけれど、心に届かないようにしていたのかもしれない。本心を縛っていた糸が、ぷつんと切れる音がした。
「ボクが大好きな主のこと、大切にしてほしい。主が自分のこと大切にできるまで、何回でも言うよ」
──────本当は、本当は、ずっと。
「──食べ、たい……」
おいしいものを、食べたい。ずっと、誰かにそれを許してほしかった。
「後家の作ったごはん、食べたい……」
「うん、どーぞ」
差し出された器を手に取る。ゆっくりとひと口を含むと、慈味が口いっぱいに広がった。
数年ぶりの、米の食感。何度も噛むと、米本来の甘みが舌に馴染んでくる。お酢が入っているのか少し酸味があって、それがまたひと口を進ませた。
「おいしい……」
気がつけば視界が滲んでいた。もう、空腹を我慢しなくていいのだと理解して、肩の重みがふっと消えたような気がした。
「っ……ふ、うっ……」
みっともなく涙を流しながら雑炊を食べ続ける。ごくんと嚥下すると、後家はそっと背中をさすってくれた。
「もうちょっと食べられる?」
「うん……」
背中越しに伝わってくる彼の体温が、どうしようもなく優しかった。」
一度抑えていたものを解放すると、数年分我慢していた食欲は爆発してしまった。もっと食べ物が欲しくなって後家と一緒に厨に行くと、そこには薬研がいた。
「おう大将。厨に来るなんてどうしたんだ?」
「あ……えっと、なにか、食べたいな、って……」
素直に口にすると、薬研は目を見開いた。
「食べたい? あの大将が? 誰に何言われても食おうとしなかったのに」
「雑炊食べられたんだよね、主」
「……うん。なんか、一回食べたらもっとお腹空いちゃったの」
「……そうか、そいつはよかった。けど大将、急に腹一杯にするのはよくないな」
「え……なんで?」
「大将はずっと断食してたんだ。急に食いもんを胃に入れたら消化器官に負担がかかっちまう。まずはそうだな、おかゆとかスープとか、柔らかく煮た野菜なんかを少しずつ食うのがいい」
「……そう、なんだ……」
「じゃあ、お味噌汁はいい?」
「ああ大丈夫だ。ただし、具なしでな」
「じゃあすぐ作るから、主は座って待ってて」
後家は審神者を椅子に座らせると、コンロの前に立ってお湯を沸かし始めた。
「それにしても大将、なんで急に食おうと思ったんだ?」
薬研が隣に座ってたずねてくる。それもそうだろう。審神者はこの本丸に来てから、一度も食事をしたことがなかった。
「……後家に、説得されて……食べてもいいのかなって、思ったから」
「へえ、なんて言われたんだ?」
『主は魅力的な人だよ。可愛いところがいっぱいある、素敵な人だよ。ボクは主が大好きだよ』
『ボクが大好きな主のこと、大切にしてほしい』
さっき言われた告白のような言葉を思い出して、顔が赤くなる。
「……いい言葉をもらったんだな?」
薬研は何を察したのか、にやにやと笑う。
「っ……そ、そういうんじゃなくて…………」
「まあ主のプライベートに首突っ込むつもりはないさ。俺っちは陰ながら応援しておくぜ」
「だから違くて……!」
後家の言葉は、自分を主として好いているという意味だ。決して男女の情があるわけではない。
「おまたせ、主。お味噌汁できたよ」
「っ……ありがとう、後家」
「あれ? 顔赤くない? どしたの?」
「赤くない! なんでもないから! いただきます!」
「おいおい大将、ゆっくり飲めよ。胃が驚いちまう」
薬研に言われたように、ゆっくり味噌汁を口に含む。久しぶりの味噌の味が、じんわりと舌になじんでいく。
「おい、しい……」
「本当に食えるようになったんだな……。じゃあ厨当番に、主用の回復食を作るよう頼んでおかないとな。今晩は粥と湯豆腐あたりにしておいた方がいい」
「……ありがとう、薬研」
「じゃあボクが伝えてくる! 主はゆっくりお味噌汁飲んでて!」
後家は嬉しそうに厨を飛び出していく。審神者が食事を摂るだけで、あんなに嬉しそうにするなんて。
「愛されてんな、大将」
「その言い方……なんかやだ」
「大将は今まで我慢しすぎたんだ。ちょっとくらい後家に甘やかされたって、誰も咎めないさ」
薬研は保護者のような顔をして、楽しそうに笑った。
夕食時、食堂にやってきた審神者に、全ての刀たちが驚いた。
「主、食事ができるようになったというのは本当か」
長義はありえないという風にたずねてくる。本当に、自分でもまだ信じられない。けれど。
「うん……みんなと、ごはん食べたい……今さらかもしれないけど…………いいかな」
そう願うと、長義はふっと笑みをこぼした。
「心境の変化には驚くが……駄目なんてことがあるはずないだろう。むしろようやく、だ。さあ座って」
「主! 後家くんから聞いたよ、ごはん食べられるようになったんだって?」
燭台切が盆を持ってこちらやってくる。
「ごめんね燭台切。ひとりだけ違うメニューって面倒だったでしょ」
「そんなことないよ。卵粥と湯豆腐にしたんだけど、食べられるかな」
土鍋の蓋が開く。そこにはつやつやの豆腐があった。隣の器には湯気を立てている卵粥があるわ
「おいしそう……」
「お粥はおかわりもあるけど、少しずつ食べないといけないって聞いたから、まずはこれくらいね。湯豆腐はポン酢でどうぞ」
「ありがとう」
長義の隣に座って、手を合わせる。
「いただきます」
れんげで湯豆腐を取り分けて、ポン酢を垂らす。息で冷ましてからはくりと食べると、柔らかくてつるっとした食感がした。ポン酢の爽やかな味わいが嬉しい。
ゆっくり、ゆっくりと咀嚼して、豆腐を飲み込む。卵粥を口に含むと、優しい素朴なおいしさが舌に馴染んだ。
「おいしい……」
顔を上げると、食堂に集まっている全ての刀たちが、審神者が食事をするのを見守っていた。
「あ、主が本当に食べた!」
誰かが叫んだのを皮切りに、皆がわあっと沸き上がる。中には祝いだ酒だなんて言っている刀もいた。
「かこつけて酒を飲みたいだけじゃないのか」
長義ははあ、とため息を吐いてから、審神者に向き合った。
「よかったよ、主。君の意思を尊重すべきと思っていたが……俺もずっと心配していたんだ。もう断食はしてはいけないよ」
「うん……ごめんね」
「あ、主!」
後家が食堂に入ってきて、にこにこの笑顔で隣に座る。
「ごはん食べられてる! よかったあ。それお粥?」
「うん、卵のお粥と、湯豆腐」
「お米おいしいもんね!」
「そうだね。まだ少ししか食べられないのが残念なくらい」
彼はひどく上機嫌だ。そんな様子を見て、長義はなるほどと呟いた。
「主が食べられるようになったのは君のお陰なのかな、後家兼光。毎日のように説得をしていた甲斐はあったというわけだ」
「うん!」
「あそこまで意固地になっていた主をどうやって説得したか、教えてくれないか?」
「えっとね、主はかわいいよって伝えただけ」
「っ、後家!」
審神者の過去の傷やら何やらを隠した上で事実を伝えたのだろうが、それではまるで口説いているようではないか。
「……主を口説き落としたということかな」
「口説くっていうか、本当のことを言っただけだよ」
「……わかった、俺も長船のくくりだ。そのよしみで、女性に対する言葉のかけ方というのをしっかり教えてやろう。場合によっては刺されかねないぞ」
「ん? そーなの?」
審神者はいたたまれなくなって、ふた振りの間で静かに俯いた。
「主! 団子の差し入れだよ!」
後家が満面の笑みでみたらし団子を持ってくる。審神者は書類を書く手を止めて、彼に向き合う。
「……ありがとう、いただきます」
団子を受け取って、ひとつを食べるとみたらしの濃厚な甘さが舌の上で踊った。
「おいしい」
「よかったあ!」
「いやあ、主はおいしそうに食べるもんだね」
隣で書類作成の様子を眺めていた次郎太刀が嬉しそうに笑う。
「最近は何でもよく食べるじゃないか。いいことだよ。アタシはもうずーっと心配だったんだから」
「うん! 食べ物食べてる主、かわいいよね」
可愛い、と言われて顔が火照る。後家は何かにつけて審神者を可愛いと言うのだ。
「可愛いし、栄養しっかり取ってるからか、肌も髪も艶が増したような気がするよ。女の子ってのはどんどん綺麗になるね」
「……あり、がと」
「主の髪は真っ黒で綺麗だよね。つやつやで、お姫様みたい」
「姫っ……!?」
そんなこと、言われたことがない。後家に褒められると、胸がぎゅうっと苦しくなるのに、嬉しくて宙にふわふわと浮いたような心地になる。
「あはは! 確かに主の髪は綺麗だ。アンタ姫鶴の髪を梳いてやってんだから、主のもしてあげたらどうだい?」
「ちょ、ちょっと次郎太刀」
「そうだね! じゃあ主、櫛持ってくるから待ってて!」
後家はばたばたと走っていってしまう。断る前に行ってしまった。
「……惚れてんだ?」
次郎太刀に核心を突かれて、びくりと身体が跳ねる。
「な、なんのこと?」
「端から見てりゃわかるさ。惚れた奴に可愛いって言われてるアンタ、どこからどう見ても可愛らしい乙女だったよ」
「……っ」
「向こうだって悪くは思ってないと見えるけどね。伝える気はないのかい?」
「……後家は、優しいから。私に自信がつくように言ってくれるだけで、そういう目で見られてないし……」
「好いてもいない女を、姫なんて呼ぶかね?」
「長船だし、言いそうかなって」
「偏見がすごいねえ……アンタ長船をなんだと思ってるんだい」
「流れるように褒め言葉言ってくる刀たち……?」
「うん、まあ……間違っちゃいないけどさ」
審神者はふたつ目のみたらし団子に手を伸ばす。
「あのアンタに飯を食うように説得するくらい、あっちは主を想ってくれてると思うけどね」
「……ただの審神者と、刀の関係だから」
後家のような誰にでも優しくて強い刀が、仕事だけが取り柄の自分を恋愛感情で好きになってくれるとは思えない。この恋は、密かに抱えていたかった。
「男の心女知らずかあ。大変そうだね」
昨日の宴会で飲み過ぎたと言っていたはずの次郎太刀は、くっと杯を煽った。
前髪が伸びてきたな、と思って、審神者は加州の部屋をおとずれた。美容院が苦手だと言ってから、審神者の髪を整える役は彼が買ってくれている。
「加州、ごめんいいかな?」
「んー? なにー?」
「前髪、また切ってほしくて」
「はいはい、どーぞー」
部屋に入ると、足を投げ出してリラックスしている加州がいた。
「いつもお願いしちゃって、ごめんね」
「別にいいって。とびきり可愛くしてあげる」
加州は化粧棚からはさみを取り出す。もう彼に何度髪を切ってもらったか分からない。
「……うん、お願い」
可愛く、なれたら。後家は可愛いと言ってくれるだろうか。
「……主、なんかヘン」
「え、え?」
「いつもなら『可愛くなくていいから普通のにして』って言うのに」
「あ、えっと、その……」
もごもごと言い淀んていると、加州はふっと笑みを零した。
「可愛くなりたいんだ?」
「……」
「別に恥ずかしがる必要ないって。主もおしゃれに目覚めたんだね」
「う……その、いい年した大人が、今更なんだけど……」
「年なんて気にしない! でもそういうことなら、今日は俺のヘアカットはおやすみね」
「へ?」
「美容院、行こ!」
加州は満面の笑みで、恐ろしいことを言った。
「こちらでいかがでしょう?」
加州に連れてこられたおしゃれな美容院で、一時間ほど施術を受けた。髪を洗ってもらうのも、こんな綺麗な場所で切ってもらうのも初めてだ。
そして目の前の自分は、それまでの厚くて野暮な前髪が嘘のように可愛らしく仕上がっていた。腰まであった髪の毛も肩につくくらいに短くなっているし、梳いてもらったお陰で頭が軽い。
「すごい……」
「主めっちゃ可愛い! いいじゃんいいじゃん」
「か、加州、これ私? 本当に?」
「本当だよ。あー原石ようやく磨けて大満足。早くみんなに自慢しよ?」
席を立って会計を済ませようとすると、今日は俺のおごりと加州が俺が出すと財布を取り出す。申し訳ないと断ったのに、彼は断固として譲らない。
「主が可愛くなりたいって思った記念なの! ここは俺に払わせる!」
そう言って、加州は現金で支払いを済ませてしまった。
本丸に帰ると、みんながとても可愛いと褒めてくれた。見違えた、と言った刀もいた。
「やーやっぱ可愛いんじゃん。主自信持ちなよ」
「でも、やっぱり落ち着かないっていうか……」
「どうせなら髪色も変えたりすればよかったのに」
「それはその……黒い髪が綺麗って言われたから、変えたくなくて」
前に後家につやつやしていて綺麗と言われたから、色を抜きたくなかった。
「ふうん? 誰に?」
「っ……言わない!」
「あれ? 加州?」
後家の声がして、審神者はびくっと身体を震わせた。廊下の向かいから歩いてきた彼に見られたくなくて、思わず加州の背に隠れる。
「……主、なして隠れるの?」
「いや、その……」
「主今日イメチェンしたんだ。ほら主、後家にも見せてやんなよ」
「イメチェン? 見せて見せて?」
後家がこちら側に回り込んできて、ばっさりと切った髪を見られてしまう。
「わ、すごく切ったんだね。さっぱりしてる。かわいいよ」
可愛い。そう言ってくれた。審神者はおずおずと後家を見る。
「……本当に?」
「うん、前髪も短くなって、主のかわいい顔がよく見えるよ」
「っ……!」
嬉しいやら恥ずかしいやらで感情が追い付かない。加州の背中に顔を埋めると、加州がははーんと呟いた。
「じゃあボク、畑仕事行ってくるね」
「はいはーい、いってらっしゃい」
後家が去ってから、ようやく加州から離れる。
「黒髪が綺麗って言ったの、後家でしょ」
「…………う、ん」
「可愛いってさ。よかったじゃん」
「……うん…………」
「主さ、スキンケアちゃんとしてる?」
「して、ない」
「したらもっと可愛くなるよ。教えてあげよっか」
「……お願いします…………」
どうやら加州には全てお見通しらしい。じゃあ俺の部屋にれっつごー、と号令がかかり、審神者は加州と廊下を歩き始めた。
「変、じゃ……ないかな」
審神者は改めて自分の格好を見る。出先で見つけた、白くてレースのついたワンピース。いわゆる一目惚れ、だった。
可愛いと思ってしまって、値段を見たら自分の手持ちで買えるもので。じっと見つめていたら店員に勧められて試着をしてしまい、気がつけば買っていた。
こんな可愛らしい洋服、着たことがない。正直似合っているのかわからないし、自信もない。けれど。
「かわいく、なれたら……」
後家に、可愛いと言ってもらえたら、嬉しい。
加州に習ったばかりのメイクはまだ慣れないけれど、一生懸命頑張った。自分が出来る最大限のおしゃれをしたつもりだ。
姫鶴に後家がどこにいるか聞いたら、万屋に買い物に行ったと教えてくれた。帰りを待つ手もあったが、気持ちがはやって外に出てしまう。
万屋までは歩いて十分もかからないし、一本道だ。きっとすぐ会えるだろう。
「……でも、会って何話せばいいの? 新しい服買ったとか言っても、困らせるだろうし……」
こちらから強要するのではなく、彼の本心で可愛いと言ってもらいたかった。こんなことを考えるなんて、自分は相当面倒な性格をしている。
「ええと、そう、私も万屋に買い物があったってことにしよう。確かキッチンペーパーが切れそうって歌仙が言ってたし……」
ぶつぶつと言い訳を考えながら歩いていると、後家の背中が見えた。
「後家!」
可愛いと言ってくれるだろうか。おしゃれをした自分を褒めてくれるだろうか。審神者は胸を弾ませて────。
「ね、ちょっと遊ぶだけだって」
────女性の声が聞こえた瞬間、ぴたりと足が止まった。
後家の背中で見えなかったが、彼はふたりの女性に囲まれている。
「ボクお使いの途中なんだ、ごめんね」
「お使い? カワイイなぁ」
「じゃあせめて連絡先だけでも──」
女性たちはとても背が高かった。足はすらりと伸びていて、ミニスカートから綺麗な肌が出ている。髪も艶やかで、メイクが洗練されている。目は審神者の二倍はあるのではないかというくらい大きくて可愛らしかった。
比べて、自分は。
己の容姿を見て、静かな絶望が心を侵していった。本当の『可愛い』は、きっと彼女たちのためにある言葉だ。
どんなに頑張っても、どんなに可愛い服を着ても、審神者はあんな風にはなれない。
「っ……」
来た道を全速力で戻る。審神者は目に涙を浮かべて、息が切れるほど走った。ただひたすら、コールタールのような心を抱えて。
「はあ、はあっ……!」
自分の部屋の障子を勢いよく開ける。もう何もかもがどうでもいい。白いワンピースを脱ぎ捨てて、布団に飛び込む。きっとメイクは涙でぐちゃぐちゃだ。
井の中の蛙大海を知らずとはまさにこのことだ。自分程度の人間が努力したところで、本当に魅力的な人間に敵うはずもないのに。
「っ、ぐずっ……っ、うっ……!」
今すぐ消えてしまいたい。ほんの少しでも可愛くなろうとした事実を消してしまいたい。審神者はいつまでも自分を呪いながら、布団の中で泣き続けた。
「主? そろそろごはんだよ」
声がかかったのはどれくらい経ってからだっただろうか。よりにもよって一番会いたくない、彼の声だった。
「……いらない」
「……なして?」
「いらないったらいらないの! 放っておいて!」
どうして後家の前では子どものようになってしまうのだろう。感情のままに叫んで、彼を遠ざけようとする。
「入るよ」
「嫌! 入らないで!」
けれど障子が開いてしまう。審神者は絶対に顔を見られないように、布団を深く被った。
「……主?」
整理整頓された部屋に放り捨てられた洋服に、彼も気づいたのだろう。
「主、どうしたの」
「後家には関係ない! どっか行ってよ!」
ぐず、と鼻をすすると、後家が布団の傍にやってきた気配がした。
「泣いてるの? 悲しいことでもあったの?」
「構わないで!」
「主が悲しいと、ボクも悲しいよ。ねえ、どーしてそんなに泣いてるの?」
「っ……うる、さいっ!」
どうしてそんなに優しくするのだろう。後家が優しいから、自分はつけあがったのだ。自分も可愛くなれるのではないかと、ありもしない夢を見た。
審神者は枕を後家に投げつけた。
「わっ、ほんとにどうしたの」
「私がっ……私が頑張っても無駄じゃない! どんなに努力したって、本当の美人には敵わないんだから!」
すらりとした長い手足も、整った顔もない。可愛い要素なんてどこにもない、平均以下の人間。それが自分だ。
「馬鹿みたい……! こんな可愛いワンピースなんか買って、どうしようもない馬鹿よ!」
隣に並びたかった。けれど、それはしょせん夢だった。
「私みたいな可愛くない人間、後家の隣に立てるわけないじゃんか……!」
感情がぐちゃぐちゃになって、どうしていいのかわからない。
「かわいく、なりたかった……後家が一緒にいた綺麗なお姉さんたちみたいに、なりたかった……」
ぎゅう、と強く布団を握り締める。馬鹿馬鹿しくて仕方がない。こんなに惨めな思いをするなら、おしゃれなんてするんじゃなかった。
「主」
視界に光が入ってきて、身体を覆っていた重さがなくなる。顔を上げると、そこには真剣な表情の後家がいた。
「主はかわいいよ」
「っ……嘘つかないで!」
「嘘なんかつかないよ」
後家は審神者を腕の中に閉じ込めた。あたたかな体温が身体を包む。
「主は素敵でかわいいって、ボクはいつも言ってるよ?」
「っ……そうじゃない! 後家と釣り合うくらい可愛い女の子に生まれたかった!」
「……すごい、熱烈な告白だなあ」
彼は穏やかに微笑む。そして、あやすように審神者の頭を撫でた。
「主もボクのこと、大好きでいてくれるんだね」
「っ……!」
「大好きだよ、主。ボクのために頑張ってくれる子が、かわいくないわけないよ」
「違う、の……後家の好きと、私の好きは違うの……私はもっと卑怯なの……」
後家の純粋な好意とは違う。卑しくて、ずるくて、もっとわがままな感情だ。どろどろのぐちゃぐちゃの、汚い恋心だ。
「違くないよ? ボクはずっと、主のこと女の子として見てたよ」
「……え?」
顔を上げると、後家はやっとこっち見てくれたと笑った。
「何回も告白してたつもりだったんだけど……気づいてなかったのかあ。主って結構鈍感だね」
「な、んで?」
こんな自分に、好いてもらえる要素があるなんて思えない。
「ずっと言ってるよ? キミが魅力的で、かわいい女の子だから」
後家がそっと涙を拭う。顎を掬われたと思ったら、唇が重なっていた。
「ご、け」
「かわいい主。やっと両想いだね」
「両、想い……?」
強く身体を抱き寄せられる。審神者はふわふわとした感覚に、これが都合の夢ではないかと思ってしまった。ああ、けれど夢ならどうか、今はまだ覚めないでほしい。
「後家、ごけ……」
「うん」
「後家のこと、好きでいて、いいの……?」
「いーんだよ、ボクのこと、大好きでいて?」
審神者はおずおずと、後家の背中に腕を回した。
どれくらい後家の腕の中で泣いていただろうか。ようやく涙がおさまると、後家が申し訳なさそうに言葉を口にした。
「あのさ、主……」
「……なに?」
「そろそろ、何か着てくれると助かるなあって……」
照れている彼を見て、はっと気づく。ワンピースを脱ぎ捨てたまま布団に入ったから、今の自分は下着だけだ。
「うわあっ!?」
キャミソールを両腕で隠して、あわあわと震える。後家は脱ぎ捨てられたワンピースを手渡してくれた。
「はい、これ」
「ご、ごめん……! 変なもの、見せて……」
「好きな子の肌とか見てると、ね? ボクもちょっとドキドキしちゃうから」
急いでワンピースを頭から被る。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。
「うう……本当に、ごめんなさい……」
「主、そんなに謝らないで。そのワンピース、新しいの?」
「う、ん。一目惚れして、買ったの」
話題を切り替えてくれたことに感謝して、素直にワンピースを買った経緯を口にする。
「すーっごく似合ってるよ、かわいい」
後家は背中をさらりと撫でて、満面の笑みで褒めてくれた。
「ワンピース、ほとんど着たことないから、緊張した……」
「びっくりするくらいかわいいよ? ねえ、他の刀に見せたりした?」
「あ、えっと、姫鶴に……」
「うーん、おつうに先越されたかあ、残念。ボクが一番最初に見たかったな」
後家の嫉妬が、どうしようもなく嬉しい。顔を赤らめていると、後家がそっと手を繋いできた。
「今度デートしよっか。その服着た主の時間、ボクにちょーだい?」
「……うん」
こくりと頷くと、後家はほんとうにかわいいなあ、と呟いた。
「ね、主」
ゆっくりと頬を撫でられる。そして、彼の顔が近づいて。
「いい?」
口づけを求められているのだとわかった。審神者はぎゅっと目をつむって、彼を待つ。
唇に生あたたかいものが触れて、そっと抱き締められる。どうして、皮膚が触れ合っているだけなのにこんなにも満たされるのだろう。
「ん、んっ……」
どうやって呼吸をしたらいいのかわからない。苦しくて後家の胸を叩こうとした瞬間、部屋の障子が開いた。
「ねー、ごっちんもう帰って……あ」
そこにいたのは、姫鶴だった。
「……うわ、そーゆーこと?」
姫鶴はうげえ、と顔をしかめた。ばっと後家から離れて、言い訳をどうにかしようと考える。けれど、口づけ合っているところをしっかりと見られてしまった。どう言えばいいのだろう。
「ごっちんのちゅーとか、見たくなかったんだけど」
「ひ、姫鶴、その、これにはわけがあって! ええと、そのっ……!」
必死に取り繕おうとするがうまく言葉が出てこない。慌てていると、後家が審神者を腕の中に閉じ込めた。
「へへ、かわいいでしょ」
「はいはい惚気惚気。いつか刺されっからね」
「だって主、ほんとうにかわいいんだよ」
「知らんて。あーあー、これからずっとこの調子なのかと思うとうざ」
「おつう、主のこと口説かないでね? 誰にもあげないから」
「するわけないじゃん」
「ひ、姫鶴、あの……」
「ん? なーに」
「今のことは、その……内緒にしておいてもらえると、嬉しいんだけど……」
審神者である以上、ひと振りだけを特別扱いするのはあまり外聞がよくないだろう。後家との関係は秘密にしておきたかった。
「言いふらしたりすると思ってる?」
「ないけど、一応……」
「別におれから誰かに言ったりしないよ。ま、すぐにばれると思うけど。わかりやすいし」
姫鶴はもうおれ帰るね、とすたすた歩いて行ってしまった。
「いやあおつうでよかったね。他の刀だったらもっと騒ぎになってたかも」
「……私が後家のこと好きなのは、内緒にさせて欲しい……」
「うん、秘密の関係ってやつ? それも燃えるね」
後家は慈しむように髪を撫でてくる。これからもこんな調子で愛でられるのかと思うと、心臓が持ちそうにないと心配になってしまった。
「やっぱし人多いね」
地下鉄から出た瞬間、人の波が目の前に現れる。今日は後家とふたりきりで、現世に来ていた。
約束通り、ワンピースを来てデートをすることになったのだ。
「そうだね、そういえば後家は人混みって大丈夫なの?」
「うん、だいじょーぶ」
後家はすっと手を差し伸べてきた。
「はぐれないように、手繋ご?」
「……うん。」
大きい手を、そっと握る。後家は幸せそうに微笑んで、手を握り返してくれた。
「なんて、ボクが主と手繋ぎたかっただけなんだけど」
「……っ」
どうしてそんな言葉をあっさりと言ってしまえるのだろうか。審神者は絶対に言えない。
「主、どこか行きたいところある?」
「えっとね、近くに美術館があるんだ。いろんな美術品が展示されてるらしくて……いいかな」
「もっちろん、行こ?」
「……あと、ね」
「ん? どしたの? 他にも行きたいところある?」
「ハワイアンパンケーキっていうのが食べてみたくて……それと、タピオカミルクティーも飲んだことがないから、行きたい……」
ずっと我慢していた、おしゃれでおいしいもの。願いを告げると、後家は驚いていた。
「ご、ごめん! 食い意地張りすぎだよね。忘れて」
「ううん、どっちも行こうよ。主が自分から食べたいなんて言ったことなかったから、嬉しくて」
「カロリーオーバーになっちゃわない……?」
「食べ過ぎたって思ったら、一緒に運動すればいいよ」
「ご、後家についていけるかな……」
「へーきへーき。なんとかなるよ。主は今までの分、食べたいもの好きなだけ食べるの」
まるでそれが決定事項であるかのような物言いだ。
「じゃあ、夕飯を少なめにしようかな、おにぎりだけとかにして」
「うん! じゃあおにぎりはボクが作るね。何味がいい?」
「山姥切国広が後家のおにぎりはツナマヨがおいしいって言ってたから、食べてみたいな」
「へへ、任せて! おいしーの作ります!」
後家はふふんと自慢気だ。そんなころころと変わる彼の表情は見ていて飽きないし、可愛らしいと思う。
「ねえ、後家」
「なーに?」
「私、後家のこと好きだよ」
彼のように砂糖みたいな甘い言葉は言えないけれど、自分の気持ちくらいは伝えたかった。
瞬間、後家がぴたりと止まってその場にしゃがみこんでしまう。
「はあああ……」
「ご、後家?」
「やっと聞けた……」
後家の頬は赤く染まっていた。照れている彼なんて、初めてかもしれない。
「言ってなかった、よね。ごめん」
「……なんか、すごいほっとしてる。あーよかったぁ……」
一生聞けないかと思った、なんて呟いて、後家は立ち上がる。
「じゃあ、正真正銘のデートしよう?」
「……うん、したい。しよう」
ひとりとひと振りは、喧騒に紛れていく。
これは、自分を呪っていた女の子と、愛の戦士の小さな恋の物語。
目の前に現れた男に、審神者はまたとんでもない美丈夫が来たな、と思った。
「初めまして後家兼光。私はここの本丸の審神者。貴方の力を貸して欲しい」
「うん! よろしくね」
後家は人のよさそうな笑顔で握手を求めてくる。審神者はそれを握り返して、近侍である長義に本丸の案内をするよう頼んだ。
霊力を沢山使ったせいで、少し疲れている。空腹を覚えてしまい、自分の腹を押さえた。
「……やだな」
空腹を感じることを、罪だと思いながら。
数時間後、審神者は部屋でパソコンに向き合っていた。新しい刀が顕現したのだから、彼を含めた編成や当番を考えなくてはいけない。
ぐう、と情けなく腹の虫が鳴って、それを抑えようと手を当てる。いけないと思って、部屋にストックしてある完全栄養食のドリンクに手を伸ばした。
「主! お昼だって!」
障子が開いて、笑顔の後家が入ってくる。
「ボクの歓迎だからって、おにぎり祭りするんだって! 早く行こう!」
おにぎり。そんなもの、もう何年も食べてなかった。
「……いらない。後家だけ行って」
「なして? お腹空いてない?」
「違う。私ご飯食べないの。お昼はこれで充分だから」
そう言って後家にドリンクを見せる。彼は言っている意味がわからないという風に首を捻った。
「……お昼が、それ? 飲み物だけ?」
「栄養取れればいいから。私のことは気にしないで」
審神者はパソコンに向き直って、また部隊の編成を考え始めた。
「えっ、だめだよ!」
後家は隣に座って、審神者の肩を掴んだ。
「主、ごはん食べないと元気出ないよ!? 一緒に食べようよ!」
「……っ、離して! いらないって言ってるでしょ!」
どんなにおいしそうなものを目にしたって、自分を律してそれを口にすることはなかった。この先もずっと、一生それを続けていく覚悟がある。
「後家兼光、そこまでにした方がいい」
声を聞いてやってきたのか、部屋の入り口に長義が立っていた。
「彼女は何があっても食事は摂らない。ずっと俺たちが勧めても拒み続けたんだ。新しく来た君が何を言ったところで聞き入れはしないだろう」
「でも……!」
「長義の言う通りだから、もう放っておいて」
審神者は後家を振り払った。後家はありえないものを見る目で審神者を見つめる。
「主……ほんとうに、食べないの?」
「食べない。別にいいでしょう。他の誰かに強要しているわけでもない、誰かに迷惑をかけているわけでもないんだから。栄養は摂ってるし、それでちゃんと生活してきたの。風邪だって引いたことない」
「…………」
「仕事の邪魔だから出ていってくれない。貴方になんの仕事を割り振るかは、追って説明するから」
「行くよ、後家兼光。皆が待っている」
長義が後家を連れて部屋を出る。赤い髪の男は、ずっと寂しそうに審神者を見つめていた。
「主ーっ! 雑炊作ったよ! 食べて!」
「北谷菜切の畑仕事終わるだろうから差し入れして」
「主、主! 手巻き寿司作ったんだけどどう?」
「博多がお腹空いたって言ってたから、持っていって」
「ねえ主! おにぎり……」
「そろそろ山姥切の国広がお使いから帰ってくるからあげて」
審神者が食事を摂らないと聞いてから、後家は毎日彼女に食事を持っていった。けれど彼女は一瞥もせずに、それをいらないと言う。
「今日もだめだったあ……」
いらないと言われたおにぎりは、目の前の山姥切国広がもしゃもしゃと食べている。
「あんたも懲りないな」
「だって主にごはん食べてほしいよ……何も食べないで飲み物だけなんて、絶対身体によくないし、楽しくないよ」
「俺も他の刀も主に食べさせようと努力はしたが、ここまで粘り強いのはあんたが始めてだ」
そういえば山姥切国広はこの本丸の初期刀だ。彼女と一番付き合いが深いと言える。
「なんで主が食べないか、知ってる?」
「不必要だから、とは言っていたな。それ以上は語ろうとしなかった。きっと何か事情はあるんだろうが……」
「そっかあ……」
後家はぺしょん、と項垂れた。原因もわからないのなら彼女を食に向き合わせることもできない。
「ただ……」
「ん?」
「俺が修行から帰ってきた時、主が言っていたことは、ずっと気になっている」
「なんて言ったの?」
「『羨ましい』──そう、言っていた。何が羨ましいのかまではわからない」
「戦えるから羨ましい、とかじゃないの?」
「違うと思う。主は適材適所が大切だと常日頃から言っているからな。実戦は自分の領分じゃないと理解しているはずだ」
山姥切国広は最後のおにぎりを掴んで、ぽつりと呟いた。
「もしかしたら彼女も、かつての俺のように、何かに囚われているのかもしれない」
前に山姥切国広と話した時、彼はかつて山姥切の名前に囚われていたと話していた。それと同じ──ある種の呪いが、審神者を苦しめているのかもしれない。
「何かって、なに?」
「それが分かれば簡単なんだがな。ひとつ言えるとしたら……」
あぐ、と大きな口でおにぎりが食べられていく。彼女もこれくらい食事を楽しんでくれたらいいのにと思わずにはいられない。
「他人からしたらくだらない悩みでも、本人からしたら深刻だということもある。もし主が囚われているものがわかったとしても──それを、くだらないなどと言わないでくれ」
それは、山姥切という名前にこだわり、囚われていた男からの願いだった。
「……うん、わかった」
「それにしてもツナマヨのおにぎりというのはうまいな。米によく合う」
「でしょ!? あーあ、主にも食べてほしかったなあ……」
「俺たちには無理だったが、あんたならもしかするともしかするかもしれないな、頑張れ」
「うん! 明日は肉巻きおにぎりで頑張ってみる!」
ガッツポーズをする後家を、山姥切国広はふっと笑って応援した。
「主、主ー! 今日は炊き込みごはん持ってきたよ!」
「一期が書類整理頑張ってるから、差し入れてあげて」
審神者はそっけなく後家を突っぱねる。でもと言い続ける彼をじっと睨むと、彼は肩を落として去っていった。
「……随分冷たいんだね」
部隊の編成の相談に乗ってくれていた長義がぽつりと呟く。
「皆に分け隔てなく接する君が、珍しい」
「……毎日言ってくるから、つい」
「それにしても彼も諦めが悪いな。もう二ヶ月になるのに折れる様子がない」
後家がやってきてから少しの時間が経った。彼は毎日凝りもせずに、食事を持ってくる。何故か全て米の料理を。
「後家に悪気がないのは、わかってるんだけど……」
「そうだね、純粋な善意に見えるよ」
「でも、私は食べたくないの。誰に何を言われたって、何も食べたくない」
「……俺も他者に理解されないものに固執していた身だ。何かを言う筋合いはない」
長義は修行に出るまで、『山姥切』の名前にこだわっていた。修行が終わって帰ってきてから、憑き物が落ちたようにそれから解放された。
もう写しである国広に対して嫌味を言う姿も見ないし、前以上に近侍としての役割を果たしてくれている。
「……そんな、大したものじゃないよ、信念とかそういうのじゃないの」
もっとわがままで、汚い感情だ。それこそ、一生誰にも言えないくらいのくだらなさかもしれない。
それでも、自分にとっては生涯背負うほどのものなのだ。あの時傷ついた十代の少女は、自分に罪を課した。
『お前さ、それマジで言ってんの?』
男の子の、冷笑。それがずっとずっと頭から離れない。
「彼も負ける気はないようだから、頑張るといいよ」
「……うん」
「では話を戻そう。第三部隊は──」
長義の冷静な声が耳に届く。一瞬後家の寂しそうな表情がよぎって、ぶんぶんと頭を振ってそれを払った。
雨の音で目が覚める。ばちばちばち、と大きな雨粒が屋根に当たる音がした。
「雨……」
天気が荒れるとは聞いていたが、こんなになるとは思わなかった。畑が荒れないといいのだが。
瞬間、大きな稲妻が、目の前を走った。
「ひゃっ……!」
庭に植えられていた松の木に、雷が落ちたのだ。眼前に来た雷に、へたりと座り込む。
また落雷。次は隣の木だった。早く部屋に入らなくてはと思うのに、恐怖に足が震えて動かない。
耳をつんざくような大きな音がして、審神者は頭を覆った。
「きゃあっ……!」
怖い、怖い。逃げたいのに、怖くて動けない。
「っ……」
もし、次に雷が自分の上に落ちてきたら。きっとひとたまりもなく死んでしまう。そう思っているのに、足は動いてくれない。
「だ、れか……」
誰か助けて、と呟いた。こんな夜に、誰かが来るわけもないのに。
「主!」
聞き慣れた声がする。はっと顔を上げると、そこには寝間着姿の後家がいた。
「主の部屋の近くに雷落ちたかと思って……だいじょーぶ?」
「ご、ごけ」
審神者の声は震えていた。普段あんなに冷たくしているのに、わざわざ様子を見に来てくれたのだろうか。
「立てる?」
「……っ」
ふるふる、と首を振る。後家は触るよと断りを入れてから、そっと審神者を姫抱きした。そして審神者の部屋には行かず、駆け足で廊下を歩き出す。
辿り着いたのは、後家にあてがわれた部屋だった。部屋の中には一組の布団が敷いてある。
「主の部屋だとまた近くに落ちるかもしれないから、今日はボクの部屋で寝て」
「っ……う、ん」
後家は優しく布団の上に身体を降ろしてくれた。そして敷布団をかけて、子どもをあやすように頭を撫でる。
「じゃあ、ボクは他のところで寝るから」
「え……でも、ここは後家の部屋なのに」
「布団ひとつしかないから。だいじょーぶ、なんとかなるよ」
部屋を出ていこうとする後家の寝間着の袖を、気がつけば引っ張っていた。
「ま、まって」
「どしたの?」
「そ、の……」
さっきの大きな音がまた来たらと思うと、怖くて眠れない。けれどいい年をした大人が雷が怖いなんて、口に出せるはずもなかった。
「……ひとりで寝るの、こわい?」
後家はそれを察したのか、隣に寝転んでぽんぽんと背中を叩いた。
「じゃあ、主が寝るまで一緒にいるよ。変なことは絶対にしないから、安心して」
「……あり、がとう…………」
後家の体温はあたたかかった。背中から温もりが伝播して、それが安心となって胸を満たす。
「……後家は……」
「うん?」
「なんで私に優しくしてくれるの。私は後家に冷たくしてるのに」
いつも彼が用意してくれる食事をそっけなく断るのに、どうしてここまでしてくれるのかわからなかった。
「冷たくはしてなくない? あと、ボクは自分が大好きな人に優しくしたいだけだよ」
「好っ……」
さらりと後家が髪の毛をなぞる。ゆっくりゆっくり、慈しむように。
「おやすみ。いい夢見れますように」
「……お、おやすみ、なさい」
言葉の真意は聞けなかった。けれど、生まれて初めて貰った言葉に、ぽかぽかとあたたかい気持ちになる。
審神者は後家の優しさに包まれながら、そっと目を閉じた。
「主、お昼だよ、ごはん食べよう?」
後家は今日も食べ物を持ってくる。今日は雑炊だった。とてもおいしそうだと思いながら、それを口にすることは許されない。
「……いらない。後家が食べて」
「これは主の分だよ。ちょっとだけでもいいから、ね?」
「もう食べたからいいの。構わないで」
「またいつもの飲み物でしょ? それだと身体壊しちゃうよ」
「栄養は摂れるんだからいいでしょ」
後家を視界から外して、パソコンに向かう。今日はやりたいことがいっぱいあるのだ。
「主、なんでそんなに……」
ふと、部屋の外から風が吹いて、ふわりと鶏がらの香りが鼻をくすぐった。瞬間、腹からぐううう、と情けない音がする。
「…………」
「主、お腹空いてるんじゃん」
後家は隣に座って、器を差し出した。
「食べよ?」
「……っ、いらないって言ってるの!」
恥ずかしさと苛立ちで大声を出してしまう。どうして一生懸命我慢しているのに、彼は食事を勧めてくるのだろう?
「なして?」
後家の目が鋭く光った。今までに見たことのない視線。嘘を許さないと言っているようだった。
「身体は食べたいって言ってるのに、なんで聞いてあげないの? 主、自分をいじめてるみたいだ」
「っ……」
食べたい。本当は、食べたいと思っている。皆がおいしそうに食卓を囲んでいるのが、ずっと羨ましかった。けれど、だけど。
「食べちゃ……駄目なの……」
本音が零れた。食べたくないのではなく、食べてはいけないのだ。まだ学生だった頃に、自分にそう課した。
「誰がそんなこと言ったの? 食べたら誰かに怒られるの?」
「違う……そうじゃ、なくて……」
言い淀むのを、後家は真剣な表情で待った。誰にも明かしたことのない、心の傷が開かれようとしていた。
「食べたら……太っちゃうから。可愛くないから、せめて痩せてたいの……」
「……え?」
「昔……いっぱい食べてたら、ふ、太ってるって言われて……だから、食べちゃ駄目なの」
本当は太ってるよりもひどい、直接的な言葉も言われた。好きだった男の子に言われたあの言葉を、一生忘れることができない。
「────誰が、言ったの」
後家の声には怒りが孕んでいた。いつも優しいその瞳が、誰かに対して本気で怒っている。
「同級生だった、男の子……」
初恋の人とは言えなかった。言ったら、恋に傷ついた愚かな自分をもっと晒してしまうような気がした。
「主」
後家が、審神者の手を取る。そして強く強く握りしめて、審神者を真っすぐに見つめた。
「人の見た目にそんなこと言ってくる奴の言葉、大事にしないで」
「でも……太ってるのも可愛くないのも、本当のことで……」
「ねえ主、そんな奴の言葉じゃなくて、今目の前にいるボクの言葉を聞いてよ」
後家は嘘偽りのない瞳で、審神者の呪いを斬る。
「主は魅力的な人だよ。かわいいところがいっぱいある、素敵な人だよ。ボクは主が大好きだよ」
「────」
「だから主にはおいしいものいっぱい食べてほしいよ。いっぱい笑っててほしいよ」
そんな真っすぐな言葉を貰ったことなんてなかった。いや、あったかもしれないけれど、心に届かないようにしていたのかもしれない。本心を縛っていた糸が、ぷつんと切れる音がした。
「ボクが大好きな主のこと、大切にしてほしい。主が自分のこと大切にできるまで、何回でも言うよ」
──────本当は、本当は、ずっと。
「──食べ、たい……」
おいしいものを、食べたい。ずっと、誰かにそれを許してほしかった。
「後家の作ったごはん、食べたい……」
「うん、どーぞ」
差し出された器を手に取る。ゆっくりとひと口を含むと、慈味が口いっぱいに広がった。
数年ぶりの、米の食感。何度も噛むと、米本来の甘みが舌に馴染んでくる。お酢が入っているのか少し酸味があって、それがまたひと口を進ませた。
「おいしい……」
気がつけば視界が滲んでいた。もう、空腹を我慢しなくていいのだと理解して、肩の重みがふっと消えたような気がした。
「っ……ふ、うっ……」
みっともなく涙を流しながら雑炊を食べ続ける。ごくんと嚥下すると、後家はそっと背中をさすってくれた。
「もうちょっと食べられる?」
「うん……」
背中越しに伝わってくる彼の体温が、どうしようもなく優しかった。」
一度抑えていたものを解放すると、数年分我慢していた食欲は爆発してしまった。もっと食べ物が欲しくなって後家と一緒に厨に行くと、そこには薬研がいた。
「おう大将。厨に来るなんてどうしたんだ?」
「あ……えっと、なにか、食べたいな、って……」
素直に口にすると、薬研は目を見開いた。
「食べたい? あの大将が? 誰に何言われても食おうとしなかったのに」
「雑炊食べられたんだよね、主」
「……うん。なんか、一回食べたらもっとお腹空いちゃったの」
「……そうか、そいつはよかった。けど大将、急に腹一杯にするのはよくないな」
「え……なんで?」
「大将はずっと断食してたんだ。急に食いもんを胃に入れたら消化器官に負担がかかっちまう。まずはそうだな、おかゆとかスープとか、柔らかく煮た野菜なんかを少しずつ食うのがいい」
「……そう、なんだ……」
「じゃあ、お味噌汁はいい?」
「ああ大丈夫だ。ただし、具なしでな」
「じゃあすぐ作るから、主は座って待ってて」
後家は審神者を椅子に座らせると、コンロの前に立ってお湯を沸かし始めた。
「それにしても大将、なんで急に食おうと思ったんだ?」
薬研が隣に座ってたずねてくる。それもそうだろう。審神者はこの本丸に来てから、一度も食事をしたことがなかった。
「……後家に、説得されて……食べてもいいのかなって、思ったから」
「へえ、なんて言われたんだ?」
『主は魅力的な人だよ。可愛いところがいっぱいある、素敵な人だよ。ボクは主が大好きだよ』
『ボクが大好きな主のこと、大切にしてほしい』
さっき言われた告白のような言葉を思い出して、顔が赤くなる。
「……いい言葉をもらったんだな?」
薬研は何を察したのか、にやにやと笑う。
「っ……そ、そういうんじゃなくて…………」
「まあ主のプライベートに首突っ込むつもりはないさ。俺っちは陰ながら応援しておくぜ」
「だから違くて……!」
後家の言葉は、自分を主として好いているという意味だ。決して男女の情があるわけではない。
「おまたせ、主。お味噌汁できたよ」
「っ……ありがとう、後家」
「あれ? 顔赤くない? どしたの?」
「赤くない! なんでもないから! いただきます!」
「おいおい大将、ゆっくり飲めよ。胃が驚いちまう」
薬研に言われたように、ゆっくり味噌汁を口に含む。久しぶりの味噌の味が、じんわりと舌になじんでいく。
「おい、しい……」
「本当に食えるようになったんだな……。じゃあ厨当番に、主用の回復食を作るよう頼んでおかないとな。今晩は粥と湯豆腐あたりにしておいた方がいい」
「……ありがとう、薬研」
「じゃあボクが伝えてくる! 主はゆっくりお味噌汁飲んでて!」
後家は嬉しそうに厨を飛び出していく。審神者が食事を摂るだけで、あんなに嬉しそうにするなんて。
「愛されてんな、大将」
「その言い方……なんかやだ」
「大将は今まで我慢しすぎたんだ。ちょっとくらい後家に甘やかされたって、誰も咎めないさ」
薬研は保護者のような顔をして、楽しそうに笑った。
夕食時、食堂にやってきた審神者に、全ての刀たちが驚いた。
「主、食事ができるようになったというのは本当か」
長義はありえないという風にたずねてくる。本当に、自分でもまだ信じられない。けれど。
「うん……みんなと、ごはん食べたい……今さらかもしれないけど…………いいかな」
そう願うと、長義はふっと笑みをこぼした。
「心境の変化には驚くが……駄目なんてことがあるはずないだろう。むしろようやく、だ。さあ座って」
「主! 後家くんから聞いたよ、ごはん食べられるようになったんだって?」
燭台切が盆を持ってこちらやってくる。
「ごめんね燭台切。ひとりだけ違うメニューって面倒だったでしょ」
「そんなことないよ。卵粥と湯豆腐にしたんだけど、食べられるかな」
土鍋の蓋が開く。そこにはつやつやの豆腐があった。隣の器には湯気を立てている卵粥があるわ
「おいしそう……」
「お粥はおかわりもあるけど、少しずつ食べないといけないって聞いたから、まずはこれくらいね。湯豆腐はポン酢でどうぞ」
「ありがとう」
長義の隣に座って、手を合わせる。
「いただきます」
れんげで湯豆腐を取り分けて、ポン酢を垂らす。息で冷ましてからはくりと食べると、柔らかくてつるっとした食感がした。ポン酢の爽やかな味わいが嬉しい。
ゆっくり、ゆっくりと咀嚼して、豆腐を飲み込む。卵粥を口に含むと、優しい素朴なおいしさが舌に馴染んだ。
「おいしい……」
顔を上げると、食堂に集まっている全ての刀たちが、審神者が食事をするのを見守っていた。
「あ、主が本当に食べた!」
誰かが叫んだのを皮切りに、皆がわあっと沸き上がる。中には祝いだ酒だなんて言っている刀もいた。
「かこつけて酒を飲みたいだけじゃないのか」
長義ははあ、とため息を吐いてから、審神者に向き合った。
「よかったよ、主。君の意思を尊重すべきと思っていたが……俺もずっと心配していたんだ。もう断食はしてはいけないよ」
「うん……ごめんね」
「あ、主!」
後家が食堂に入ってきて、にこにこの笑顔で隣に座る。
「ごはん食べられてる! よかったあ。それお粥?」
「うん、卵のお粥と、湯豆腐」
「お米おいしいもんね!」
「そうだね。まだ少ししか食べられないのが残念なくらい」
彼はひどく上機嫌だ。そんな様子を見て、長義はなるほどと呟いた。
「主が食べられるようになったのは君のお陰なのかな、後家兼光。毎日のように説得をしていた甲斐はあったというわけだ」
「うん!」
「あそこまで意固地になっていた主をどうやって説得したか、教えてくれないか?」
「えっとね、主はかわいいよって伝えただけ」
「っ、後家!」
審神者の過去の傷やら何やらを隠した上で事実を伝えたのだろうが、それではまるで口説いているようではないか。
「……主を口説き落としたということかな」
「口説くっていうか、本当のことを言っただけだよ」
「……わかった、俺も長船のくくりだ。そのよしみで、女性に対する言葉のかけ方というのをしっかり教えてやろう。場合によっては刺されかねないぞ」
「ん? そーなの?」
審神者はいたたまれなくなって、ふた振りの間で静かに俯いた。
「主! 団子の差し入れだよ!」
後家が満面の笑みでみたらし団子を持ってくる。審神者は書類を書く手を止めて、彼に向き合う。
「……ありがとう、いただきます」
団子を受け取って、ひとつを食べるとみたらしの濃厚な甘さが舌の上で踊った。
「おいしい」
「よかったあ!」
「いやあ、主はおいしそうに食べるもんだね」
隣で書類作成の様子を眺めていた次郎太刀が嬉しそうに笑う。
「最近は何でもよく食べるじゃないか。いいことだよ。アタシはもうずーっと心配だったんだから」
「うん! 食べ物食べてる主、かわいいよね」
可愛い、と言われて顔が火照る。後家は何かにつけて審神者を可愛いと言うのだ。
「可愛いし、栄養しっかり取ってるからか、肌も髪も艶が増したような気がするよ。女の子ってのはどんどん綺麗になるね」
「……あり、がと」
「主の髪は真っ黒で綺麗だよね。つやつやで、お姫様みたい」
「姫っ……!?」
そんなこと、言われたことがない。後家に褒められると、胸がぎゅうっと苦しくなるのに、嬉しくて宙にふわふわと浮いたような心地になる。
「あはは! 確かに主の髪は綺麗だ。アンタ姫鶴の髪を梳いてやってんだから、主のもしてあげたらどうだい?」
「ちょ、ちょっと次郎太刀」
「そうだね! じゃあ主、櫛持ってくるから待ってて!」
後家はばたばたと走っていってしまう。断る前に行ってしまった。
「……惚れてんだ?」
次郎太刀に核心を突かれて、びくりと身体が跳ねる。
「な、なんのこと?」
「端から見てりゃわかるさ。惚れた奴に可愛いって言われてるアンタ、どこからどう見ても可愛らしい乙女だったよ」
「……っ」
「向こうだって悪くは思ってないと見えるけどね。伝える気はないのかい?」
「……後家は、優しいから。私に自信がつくように言ってくれるだけで、そういう目で見られてないし……」
「好いてもいない女を、姫なんて呼ぶかね?」
「長船だし、言いそうかなって」
「偏見がすごいねえ……アンタ長船をなんだと思ってるんだい」
「流れるように褒め言葉言ってくる刀たち……?」
「うん、まあ……間違っちゃいないけどさ」
審神者はふたつ目のみたらし団子に手を伸ばす。
「あのアンタに飯を食うように説得するくらい、あっちは主を想ってくれてると思うけどね」
「……ただの審神者と、刀の関係だから」
後家のような誰にでも優しくて強い刀が、仕事だけが取り柄の自分を恋愛感情で好きになってくれるとは思えない。この恋は、密かに抱えていたかった。
「男の心女知らずかあ。大変そうだね」
昨日の宴会で飲み過ぎたと言っていたはずの次郎太刀は、くっと杯を煽った。
前髪が伸びてきたな、と思って、審神者は加州の部屋をおとずれた。美容院が苦手だと言ってから、審神者の髪を整える役は彼が買ってくれている。
「加州、ごめんいいかな?」
「んー? なにー?」
「前髪、また切ってほしくて」
「はいはい、どーぞー」
部屋に入ると、足を投げ出してリラックスしている加州がいた。
「いつもお願いしちゃって、ごめんね」
「別にいいって。とびきり可愛くしてあげる」
加州は化粧棚からはさみを取り出す。もう彼に何度髪を切ってもらったか分からない。
「……うん、お願い」
可愛く、なれたら。後家は可愛いと言ってくれるだろうか。
「……主、なんかヘン」
「え、え?」
「いつもなら『可愛くなくていいから普通のにして』って言うのに」
「あ、えっと、その……」
もごもごと言い淀んていると、加州はふっと笑みを零した。
「可愛くなりたいんだ?」
「……」
「別に恥ずかしがる必要ないって。主もおしゃれに目覚めたんだね」
「う……その、いい年した大人が、今更なんだけど……」
「年なんて気にしない! でもそういうことなら、今日は俺のヘアカットはおやすみね」
「へ?」
「美容院、行こ!」
加州は満面の笑みで、恐ろしいことを言った。
「こちらでいかがでしょう?」
加州に連れてこられたおしゃれな美容院で、一時間ほど施術を受けた。髪を洗ってもらうのも、こんな綺麗な場所で切ってもらうのも初めてだ。
そして目の前の自分は、それまでの厚くて野暮な前髪が嘘のように可愛らしく仕上がっていた。腰まであった髪の毛も肩につくくらいに短くなっているし、梳いてもらったお陰で頭が軽い。
「すごい……」
「主めっちゃ可愛い! いいじゃんいいじゃん」
「か、加州、これ私? 本当に?」
「本当だよ。あー原石ようやく磨けて大満足。早くみんなに自慢しよ?」
席を立って会計を済ませようとすると、今日は俺のおごりと加州が俺が出すと財布を取り出す。申し訳ないと断ったのに、彼は断固として譲らない。
「主が可愛くなりたいって思った記念なの! ここは俺に払わせる!」
そう言って、加州は現金で支払いを済ませてしまった。
本丸に帰ると、みんながとても可愛いと褒めてくれた。見違えた、と言った刀もいた。
「やーやっぱ可愛いんじゃん。主自信持ちなよ」
「でも、やっぱり落ち着かないっていうか……」
「どうせなら髪色も変えたりすればよかったのに」
「それはその……黒い髪が綺麗って言われたから、変えたくなくて」
前に後家につやつやしていて綺麗と言われたから、色を抜きたくなかった。
「ふうん? 誰に?」
「っ……言わない!」
「あれ? 加州?」
後家の声がして、審神者はびくっと身体を震わせた。廊下の向かいから歩いてきた彼に見られたくなくて、思わず加州の背に隠れる。
「……主、なして隠れるの?」
「いや、その……」
「主今日イメチェンしたんだ。ほら主、後家にも見せてやんなよ」
「イメチェン? 見せて見せて?」
後家がこちら側に回り込んできて、ばっさりと切った髪を見られてしまう。
「わ、すごく切ったんだね。さっぱりしてる。かわいいよ」
可愛い。そう言ってくれた。審神者はおずおずと後家を見る。
「……本当に?」
「うん、前髪も短くなって、主のかわいい顔がよく見えるよ」
「っ……!」
嬉しいやら恥ずかしいやらで感情が追い付かない。加州の背中に顔を埋めると、加州がははーんと呟いた。
「じゃあボク、畑仕事行ってくるね」
「はいはーい、いってらっしゃい」
後家が去ってから、ようやく加州から離れる。
「黒髪が綺麗って言ったの、後家でしょ」
「…………う、ん」
「可愛いってさ。よかったじゃん」
「……うん…………」
「主さ、スキンケアちゃんとしてる?」
「して、ない」
「したらもっと可愛くなるよ。教えてあげよっか」
「……お願いします…………」
どうやら加州には全てお見通しらしい。じゃあ俺の部屋にれっつごー、と号令がかかり、審神者は加州と廊下を歩き始めた。
「変、じゃ……ないかな」
審神者は改めて自分の格好を見る。出先で見つけた、白くてレースのついたワンピース。いわゆる一目惚れ、だった。
可愛いと思ってしまって、値段を見たら自分の手持ちで買えるもので。じっと見つめていたら店員に勧められて試着をしてしまい、気がつけば買っていた。
こんな可愛らしい洋服、着たことがない。正直似合っているのかわからないし、自信もない。けれど。
「かわいく、なれたら……」
後家に、可愛いと言ってもらえたら、嬉しい。
加州に習ったばかりのメイクはまだ慣れないけれど、一生懸命頑張った。自分が出来る最大限のおしゃれをしたつもりだ。
姫鶴に後家がどこにいるか聞いたら、万屋に買い物に行ったと教えてくれた。帰りを待つ手もあったが、気持ちがはやって外に出てしまう。
万屋までは歩いて十分もかからないし、一本道だ。きっとすぐ会えるだろう。
「……でも、会って何話せばいいの? 新しい服買ったとか言っても、困らせるだろうし……」
こちらから強要するのではなく、彼の本心で可愛いと言ってもらいたかった。こんなことを考えるなんて、自分は相当面倒な性格をしている。
「ええと、そう、私も万屋に買い物があったってことにしよう。確かキッチンペーパーが切れそうって歌仙が言ってたし……」
ぶつぶつと言い訳を考えながら歩いていると、後家の背中が見えた。
「後家!」
可愛いと言ってくれるだろうか。おしゃれをした自分を褒めてくれるだろうか。審神者は胸を弾ませて────。
「ね、ちょっと遊ぶだけだって」
────女性の声が聞こえた瞬間、ぴたりと足が止まった。
後家の背中で見えなかったが、彼はふたりの女性に囲まれている。
「ボクお使いの途中なんだ、ごめんね」
「お使い? カワイイなぁ」
「じゃあせめて連絡先だけでも──」
女性たちはとても背が高かった。足はすらりと伸びていて、ミニスカートから綺麗な肌が出ている。髪も艶やかで、メイクが洗練されている。目は審神者の二倍はあるのではないかというくらい大きくて可愛らしかった。
比べて、自分は。
己の容姿を見て、静かな絶望が心を侵していった。本当の『可愛い』は、きっと彼女たちのためにある言葉だ。
どんなに頑張っても、どんなに可愛い服を着ても、審神者はあんな風にはなれない。
「っ……」
来た道を全速力で戻る。審神者は目に涙を浮かべて、息が切れるほど走った。ただひたすら、コールタールのような心を抱えて。
「はあ、はあっ……!」
自分の部屋の障子を勢いよく開ける。もう何もかもがどうでもいい。白いワンピースを脱ぎ捨てて、布団に飛び込む。きっとメイクは涙でぐちゃぐちゃだ。
井の中の蛙大海を知らずとはまさにこのことだ。自分程度の人間が努力したところで、本当に魅力的な人間に敵うはずもないのに。
「っ、ぐずっ……っ、うっ……!」
今すぐ消えてしまいたい。ほんの少しでも可愛くなろうとした事実を消してしまいたい。審神者はいつまでも自分を呪いながら、布団の中で泣き続けた。
「主? そろそろごはんだよ」
声がかかったのはどれくらい経ってからだっただろうか。よりにもよって一番会いたくない、彼の声だった。
「……いらない」
「……なして?」
「いらないったらいらないの! 放っておいて!」
どうして後家の前では子どものようになってしまうのだろう。感情のままに叫んで、彼を遠ざけようとする。
「入るよ」
「嫌! 入らないで!」
けれど障子が開いてしまう。審神者は絶対に顔を見られないように、布団を深く被った。
「……主?」
整理整頓された部屋に放り捨てられた洋服に、彼も気づいたのだろう。
「主、どうしたの」
「後家には関係ない! どっか行ってよ!」
ぐず、と鼻をすすると、後家が布団の傍にやってきた気配がした。
「泣いてるの? 悲しいことでもあったの?」
「構わないで!」
「主が悲しいと、ボクも悲しいよ。ねえ、どーしてそんなに泣いてるの?」
「っ……うる、さいっ!」
どうしてそんなに優しくするのだろう。後家が優しいから、自分はつけあがったのだ。自分も可愛くなれるのではないかと、ありもしない夢を見た。
審神者は枕を後家に投げつけた。
「わっ、ほんとにどうしたの」
「私がっ……私が頑張っても無駄じゃない! どんなに努力したって、本当の美人には敵わないんだから!」
すらりとした長い手足も、整った顔もない。可愛い要素なんてどこにもない、平均以下の人間。それが自分だ。
「馬鹿みたい……! こんな可愛いワンピースなんか買って、どうしようもない馬鹿よ!」
隣に並びたかった。けれど、それはしょせん夢だった。
「私みたいな可愛くない人間、後家の隣に立てるわけないじゃんか……!」
感情がぐちゃぐちゃになって、どうしていいのかわからない。
「かわいく、なりたかった……後家が一緒にいた綺麗なお姉さんたちみたいに、なりたかった……」
ぎゅう、と強く布団を握り締める。馬鹿馬鹿しくて仕方がない。こんなに惨めな思いをするなら、おしゃれなんてするんじゃなかった。
「主」
視界に光が入ってきて、身体を覆っていた重さがなくなる。顔を上げると、そこには真剣な表情の後家がいた。
「主はかわいいよ」
「っ……嘘つかないで!」
「嘘なんかつかないよ」
後家は審神者を腕の中に閉じ込めた。あたたかな体温が身体を包む。
「主は素敵でかわいいって、ボクはいつも言ってるよ?」
「っ……そうじゃない! 後家と釣り合うくらい可愛い女の子に生まれたかった!」
「……すごい、熱烈な告白だなあ」
彼は穏やかに微笑む。そして、あやすように審神者の頭を撫でた。
「主もボクのこと、大好きでいてくれるんだね」
「っ……!」
「大好きだよ、主。ボクのために頑張ってくれる子が、かわいくないわけないよ」
「違う、の……後家の好きと、私の好きは違うの……私はもっと卑怯なの……」
後家の純粋な好意とは違う。卑しくて、ずるくて、もっとわがままな感情だ。どろどろのぐちゃぐちゃの、汚い恋心だ。
「違くないよ? ボクはずっと、主のこと女の子として見てたよ」
「……え?」
顔を上げると、後家はやっとこっち見てくれたと笑った。
「何回も告白してたつもりだったんだけど……気づいてなかったのかあ。主って結構鈍感だね」
「な、んで?」
こんな自分に、好いてもらえる要素があるなんて思えない。
「ずっと言ってるよ? キミが魅力的で、かわいい女の子だから」
後家がそっと涙を拭う。顎を掬われたと思ったら、唇が重なっていた。
「ご、け」
「かわいい主。やっと両想いだね」
「両、想い……?」
強く身体を抱き寄せられる。審神者はふわふわとした感覚に、これが都合の夢ではないかと思ってしまった。ああ、けれど夢ならどうか、今はまだ覚めないでほしい。
「後家、ごけ……」
「うん」
「後家のこと、好きでいて、いいの……?」
「いーんだよ、ボクのこと、大好きでいて?」
審神者はおずおずと、後家の背中に腕を回した。
どれくらい後家の腕の中で泣いていただろうか。ようやく涙がおさまると、後家が申し訳なさそうに言葉を口にした。
「あのさ、主……」
「……なに?」
「そろそろ、何か着てくれると助かるなあって……」
照れている彼を見て、はっと気づく。ワンピースを脱ぎ捨てたまま布団に入ったから、今の自分は下着だけだ。
「うわあっ!?」
キャミソールを両腕で隠して、あわあわと震える。後家は脱ぎ捨てられたワンピースを手渡してくれた。
「はい、これ」
「ご、ごめん……! 変なもの、見せて……」
「好きな子の肌とか見てると、ね? ボクもちょっとドキドキしちゃうから」
急いでワンピースを頭から被る。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。
「うう……本当に、ごめんなさい……」
「主、そんなに謝らないで。そのワンピース、新しいの?」
「う、ん。一目惚れして、買ったの」
話題を切り替えてくれたことに感謝して、素直にワンピースを買った経緯を口にする。
「すーっごく似合ってるよ、かわいい」
後家は背中をさらりと撫でて、満面の笑みで褒めてくれた。
「ワンピース、ほとんど着たことないから、緊張した……」
「びっくりするくらいかわいいよ? ねえ、他の刀に見せたりした?」
「あ、えっと、姫鶴に……」
「うーん、おつうに先越されたかあ、残念。ボクが一番最初に見たかったな」
後家の嫉妬が、どうしようもなく嬉しい。顔を赤らめていると、後家がそっと手を繋いできた。
「今度デートしよっか。その服着た主の時間、ボクにちょーだい?」
「……うん」
こくりと頷くと、後家はほんとうにかわいいなあ、と呟いた。
「ね、主」
ゆっくりと頬を撫でられる。そして、彼の顔が近づいて。
「いい?」
口づけを求められているのだとわかった。審神者はぎゅっと目をつむって、彼を待つ。
唇に生あたたかいものが触れて、そっと抱き締められる。どうして、皮膚が触れ合っているだけなのにこんなにも満たされるのだろう。
「ん、んっ……」
どうやって呼吸をしたらいいのかわからない。苦しくて後家の胸を叩こうとした瞬間、部屋の障子が開いた。
「ねー、ごっちんもう帰って……あ」
そこにいたのは、姫鶴だった。
「……うわ、そーゆーこと?」
姫鶴はうげえ、と顔をしかめた。ばっと後家から離れて、言い訳をどうにかしようと考える。けれど、口づけ合っているところをしっかりと見られてしまった。どう言えばいいのだろう。
「ごっちんのちゅーとか、見たくなかったんだけど」
「ひ、姫鶴、その、これにはわけがあって! ええと、そのっ……!」
必死に取り繕おうとするがうまく言葉が出てこない。慌てていると、後家が審神者を腕の中に閉じ込めた。
「へへ、かわいいでしょ」
「はいはい惚気惚気。いつか刺されっからね」
「だって主、ほんとうにかわいいんだよ」
「知らんて。あーあー、これからずっとこの調子なのかと思うとうざ」
「おつう、主のこと口説かないでね? 誰にもあげないから」
「するわけないじゃん」
「ひ、姫鶴、あの……」
「ん? なーに」
「今のことは、その……内緒にしておいてもらえると、嬉しいんだけど……」
審神者である以上、ひと振りだけを特別扱いするのはあまり外聞がよくないだろう。後家との関係は秘密にしておきたかった。
「言いふらしたりすると思ってる?」
「ないけど、一応……」
「別におれから誰かに言ったりしないよ。ま、すぐにばれると思うけど。わかりやすいし」
姫鶴はもうおれ帰るね、とすたすた歩いて行ってしまった。
「いやあおつうでよかったね。他の刀だったらもっと騒ぎになってたかも」
「……私が後家のこと好きなのは、内緒にさせて欲しい……」
「うん、秘密の関係ってやつ? それも燃えるね」
後家は慈しむように髪を撫でてくる。これからもこんな調子で愛でられるのかと思うと、心臓が持ちそうにないと心配になってしまった。
「やっぱし人多いね」
地下鉄から出た瞬間、人の波が目の前に現れる。今日は後家とふたりきりで、現世に来ていた。
約束通り、ワンピースを来てデートをすることになったのだ。
「そうだね、そういえば後家は人混みって大丈夫なの?」
「うん、だいじょーぶ」
後家はすっと手を差し伸べてきた。
「はぐれないように、手繋ご?」
「……うん。」
大きい手を、そっと握る。後家は幸せそうに微笑んで、手を握り返してくれた。
「なんて、ボクが主と手繋ぎたかっただけなんだけど」
「……っ」
どうしてそんな言葉をあっさりと言ってしまえるのだろうか。審神者は絶対に言えない。
「主、どこか行きたいところある?」
「えっとね、近くに美術館があるんだ。いろんな美術品が展示されてるらしくて……いいかな」
「もっちろん、行こ?」
「……あと、ね」
「ん? どしたの? 他にも行きたいところある?」
「ハワイアンパンケーキっていうのが食べてみたくて……それと、タピオカミルクティーも飲んだことがないから、行きたい……」
ずっと我慢していた、おしゃれでおいしいもの。願いを告げると、後家は驚いていた。
「ご、ごめん! 食い意地張りすぎだよね。忘れて」
「ううん、どっちも行こうよ。主が自分から食べたいなんて言ったことなかったから、嬉しくて」
「カロリーオーバーになっちゃわない……?」
「食べ過ぎたって思ったら、一緒に運動すればいいよ」
「ご、後家についていけるかな……」
「へーきへーき。なんとかなるよ。主は今までの分、食べたいもの好きなだけ食べるの」
まるでそれが決定事項であるかのような物言いだ。
「じゃあ、夕飯を少なめにしようかな、おにぎりだけとかにして」
「うん! じゃあおにぎりはボクが作るね。何味がいい?」
「山姥切国広が後家のおにぎりはツナマヨがおいしいって言ってたから、食べてみたいな」
「へへ、任せて! おいしーの作ります!」
後家はふふんと自慢気だ。そんなころころと変わる彼の表情は見ていて飽きないし、可愛らしいと思う。
「ねえ、後家」
「なーに?」
「私、後家のこと好きだよ」
彼のように砂糖みたいな甘い言葉は言えないけれど、自分の気持ちくらいは伝えたかった。
瞬間、後家がぴたりと止まってその場にしゃがみこんでしまう。
「はあああ……」
「ご、後家?」
「やっと聞けた……」
後家の頬は赤く染まっていた。照れている彼なんて、初めてかもしれない。
「言ってなかった、よね。ごめん」
「……なんか、すごいほっとしてる。あーよかったぁ……」
一生聞けないかと思った、なんて呟いて、後家は立ち上がる。
「じゃあ、正真正銘のデートしよう?」
「……うん、したい。しよう」
ひとりとひと振りは、喧騒に紛れていく。
これは、自分を呪っていた女の子と、愛の戦士の小さな恋の物語。
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