幻想水滸伝
僕の願いは、ただひとつ。
遺書。
「……うっ」
意識が浮上すると共に、異常なほどの不快感に襲われた。瞼を閉じているというのに、真っ正面から照り付けてくる太陽の光が瞳にまで届いてきたからだ。
光を避けるために体をよじろうとしたが、まるで体が鉛のように重くて、指先一つ動かすことすら苦労する。
「あ、気が付きましたか?」
耳元に降って来た柔らかい声に、さっきまでのイラついていた気持ちが不思議と急に消し飛んだ。そして瞼をも透かして、瞳に入り込んでくる強烈な光が少しだけ和らぐ。
声だけ聞くと、まだ声変わり前の少年のようだ。聞いた覚えのない男の声だというのに、妙に心地が良い。
まだ頭がはっきりしないし、ひどく眠いが、私は声の主を知りたくて重たい瞼を持ち上げた。
ぼんやりと霞んだ視界の中に、黒い人影が写る。どうやらこの人物が覗き込んでくれているお陰で、太陽の陽射しが遮断されているようだ。
「大丈夫ですか?」
顔の見えない少年は、私の顔に腕を伸ばしてくると甲斐甲斐しく目にかかった黒髪を避け、額に手の平を当てる。熱を計っているのだろう。
そのままボーッと人影を眺めていると、ようやく少年の顔がハッキリ見えてきた。
亜麻色の髪と、どこか憂いを帯びた青い瞳。声を聞かなければ女性と間違えてしまいそうなほど、中性的な顔立ちの美少年だ。
十五そこいらかと思っていたが、体つきや顔立ちを見ると、十七か十八ぐらいだろうか。
「どこか痛いところ、ありませんか?」
眉間にシワを寄せながら、心配そうに顔や体を見渡しながら少年は言葉を紡ぐ。
「……ない」
体は重いが、痛む場所は特にない。
短く答えると、少年は相好を崩し、胸に手を当てほっと息を吐いた。
「良かった……でも、こんな所であなたと会うことになるなんて、思ってもみませんでした」
少年はその美しい顔に穏やかな笑顔を乗せると、どこか嬉しそうな声を出す。
その言葉が、その声が私の頭に引っ掛かる。それが何なのか考えようとすると、瞳の奥がズキンッと痛んだ。
考えようとすればするほど痛みは増して行く。
何も、思い出せない。
何も、考えられない。
しかし不思議と不安はない。私は眉間にシワを寄せながらも、目の前でにこりと穏やかな笑みを浮かべる少年の顔を眺めた。
ああ、この笑顔だ。この笑顔を視界に捕らえるだけで、頭痛も不安も掻き消えていくのだ。
「……私は……なぜこんな所にいるのだ?」
何気なく口走ると、途端に少年の顔が不安げに歪む。
「……海で漂っていた所を、僕がお助けしたんです……ここは無人島なんですけど……」
海? 無人島? そんなもの記憶にないぞ。
いや、そもそも私は――
「――私は……誰だ?」
記憶が……ない。自分の名前も、何も思い出せない。
ただ記憶にあるのは、暗く静まり返った海の底と、淋しくて泣き出してしまいそうなほど孤独感。
思い出してしまうと、体が震えた。
思わず私は重い体をなんとか持ち上げると、捨てられた子供のように膝を抱えた。
記憶がないことより、名前がないことより、あの孤独感が恐ろしくて堪らないのだ。
「あの……」
砂浜にぺたんと座り込んだ姿勢のまま、少年が心配そうに眉間にシワを寄せながら、私の顔を覗き込んで来る。
その顔を見るだけで、体を震わせていた恐怖がどこかへ消えてしまう。
なんなんだろう、この少年は。なぜ顔を見るだけで、こんなにも私から不安を取り去ってくれるのだろう。なぜ顔を見るだけで、こんなにも私に勇気を与えてくれるのだろう。
海を背後に逆光を浴びるその姿は、まるでヴィーナスのようだ。男だとわかっているのに、なぜか女神のように思えてしまう。
ふと、私は少年に顔を上げた。私からこんなにも不安を忘れさせてくれるということは、もしかして私を知っているからなのではないかと思い至ったのだ。
「お前は……私を知っているのか?」
「記憶が……ない……?」
正直、愕然とした。
まさかという思いはあったが、この人が記憶をなくしてしまうなんて、どうしても信じられなかったのだ。
何度か甲板で目にしたその姿は自信に満ち溢れていて。とても自分には届かない場所にいる人なのだと、現実を叩きつけられもした。
しかし、この人の存在があったから僕はここまで辿り着くことが出来たのに。
顔を向かい合わせ、言葉を交わした数なんて片手で足りる程度だけれど、忘れられてしまったショックは大きくて。
「あなたは――」
叫びそうになる衝動を押さえ付けたのは、耳に残る声。
『私を憐れんでいるのか?
全て自らが望んだこと。何の後悔があろうか。
この身に流れるは、母なる海の潮。私にも還る時が訪れたに過ぎぬ』
瞳に焼き付いたあの日の光景が、頭の中でフラッシュバックする。
泣き出しそうな顔で、憐れむような瞳を僕に向け、船と共に沈んで行く姿。
『ありがとう』
渦に飲まれるその最期の瞬間、言葉にならない声を発して優しく微笑んだ笑顔。
それを裏切るなんて、出来なくて。
僕は、無理矢理口の端を持ち上げる。長い沈黙に戸惑っているようだから、笑顔を浮かべなくちゃ。
嘘がばれないように。
「いいえ、初めてお会いしました」
僕の答えに、あからさまに落胆する気配がした。
「……そうか。私は、誰なのだろうな。全く何も思い出せん」
「無理に思い出すことはないですよ」
だって、あなたは望んでいないから。
「そうだ、名前を付けましょう」
「名前か……良かったら、お前がつけてくれ。お前が私を救ってくれたのだから」
「……じゃあ、トロイはどうですか?」
これくらいの遊び心なら許されるかも知れない。記憶を呼び戻してしまうのは本望ではないけれど、もし万が一の時に名前を出せば生きて行けるように。
僕にはもう、こんなことぐらいしかして上げられないから。
「トロイ……か。何故だか懐かしい響きだな。
お前は何と言うんだ?」
その問い掛けに、何故だか口元が緩んでしまう。嬉しくて。
「僕はカイリです」
「カイリか、良い名だな」
僕の名を何度か繰り返しながら、トロイさんは僕に向けて微笑んだ。
あの日と、同じ笑顔で。
「そうだ、トロイさんお腹空いてませんか? 向こうに野営した後があるんです」
「そうだな、考えるのは後でも出来る」
フラフラしながら立ち上がろうとするトロイさんに腕を差し出すと、トロイさんは「すまない」と一言詫びて僕の腕を掴んだ。
立ち上がってしまうと、トロイさんは僕に頼ることなく、一人でザッカザッカと砂浜を進んで行く。
僕はその場に立ち止まったまま、トロイさんの後ろ姿を見つめて、目を細めた。
――ただ一つ望んだことは、あなたの隣に立つことだった。
最後に手を伸ばしたのも、あなたの隣に居たかっただけだと言ったら、きっとあなたは怒るでしょう。
でも最期に会えたことも、名前を呼んでくれたことも、対等の場所に立てたことも。
僕にとって、最初で最期の望みだったんです――
「最期に、あなたに会えて……本当に良かった」
ふと、カイリが微笑んだ気配がして、トロイは背後を振り返った。
付いて来ている、そう思い込んでいたのに、後ろにカイリの姿がない。見晴らしの良い砂浜だ、こんな短時間で姿を隠すなんて出来るはずがないのに。
落ち着いていた心が、急に騒ぎ出す。
「カイリッ! カイリッ!! どこに行ったんだ、カイリッ!?」
不安で不安で堪らなくて、慌てて来た道を戻るが、どこにも姿がない。
何度も何度もカイリの名前を叫びながら、海の向こう、草むらの隙間にまで目を凝らす。しかし、あの細い身体はどこにも見当たらない。
あのヴィーナスのような美しい微笑みが見たいのに。カイリの存在がないと、怖くて仕方がないのに。カイリがいないと、私は私を形成出来ないのに。
カイリが欲しい。
情愛や肉欲、飢餓感にすら似た、独占欲のようなどす黒い感情が身体を駆け巡る。不安や恐怖感が膨れ上がり、頭がおかしくなりそうだ。
あの笑顔がないと、私が私でなくなってしまう。
サクリと、足元に妙な感覚がした。思わず視線を落とすと、足の下に黒い砂が詰まれている。先程はこんなものなかったはずなのに。
一歩後ろへ下がり、屈んで掴み上げて見ると、それは砂ではなく灰だった。
「……なんだ、これは」
掴んだ灰を眼前まで持ち上げて見たが、手の内の灰はそよ吹く風に吹かれて、海の彼方へと飛ばされてしまう。
まるで、海へと還るように。
風に飛ばされ、海へと還るその姿はまるで――
「カイリ……なのか?」
――神様、僕は幸せでした――
・END・
☆お粗末さまでした☆
暗ッ! Badエンディング後の話でした。
後味悪くて、すみません……BGMはもちろん、Coccoの「遺書。」ですよ☆
あ、補足させて頂くと、罰の紋章はとっくにカイリから外れてます。