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文司書


夜に溶ける。


冬。夜中。時刻は一時を指す少し前。

「ん…」
わたしは起きていた。いや、起きていたと言うより、眠れないでいた。目覚まし時計代わりにしている携帯を見ると、布団に入ってからとうに一時間は経っている。
今日は忙しかった。自分で言うのも何だが、ことさらよく働いた。体も疲れている。そう、疲れているのだ。なのに羊を数えても、何度寝返りをうっても一向に寝付けなかった。
このまま一晩眠れずにいてはたまらない。眠気を迎えるまで何か読もうと思い、書架に取りに行くことにした。

枕元の電気を付けて布団を出る。半纏を羽織って、部屋のドアをカチャリと開けた。廊下は当然のことながら真っ暗だ。わたしは廊下の明かりを点ける。文豪たちの部屋の前を通り、一階へと繋がる階段へと向かった。
この図書館は二階建てで、二階が司書の個人部屋と文豪たちの部屋、一階に食堂や喫煙所など。さらに司書室や書架、補修室、有碍書を別置している部屋があるといった造りになっている。
書架に行くには、文豪たちの部屋の前を通る必要があった。時間が時間だ、みんな寝ているだろう。起こさないように静かに歩いた。

階段を降りて一階に着くと、わたしは早足で書架フロアへ歩を進めた。
フロアのカウンターに来ると電気を点けて考える。さて…何の本にしようかな。…そうだな、一話完結の短編小説集にしよう。短編集の棚にだけ明かりが点くようパチリとスイッチを弾いて電源を入れた。ブゥン…と小さな音を立てて電気に光が灯る。わたしはその光の下にある書架と書架の間に入った。やはり綺麗に排架された本たちは見ていて気持ちいい。軽く物色しながら思った。

「うーん…あっ」
あれにしよう。一番下の棚にある本を取ろうとしゃがんだ。本を手に取り、立ち上がろうと上を見た。書架がとても高い。単にしゃがんでいるからだけではなく、夜に見る書架の棚は昼よりもずっと高く見えた。明かりが点いているとは言え、見知った昼間の図書館とは違う雰囲気である。忘れていた感覚、夜を恐れていた子どもの頃を思い出した。
空気もひんやりして乾いている。このままずっとここにいたら身体中の水分が全部抜けてしまいそうだ。わたしがカラカラに乾いたら紙になって、自分の今までが全て書いてある一冊の本になるのかな。わたしがこの中の一冊になったところで、気がつく人がいるはずもないだろう。夜の図書館が、本が、わたしを一人から一冊にしようとしている…。

--そんな怖いことを考えるのはやめよう。早く部屋に戻って、布団に残してきた体温の中でこの本を読もう。そして眠くなれば、寝てしまえばいい。朝がきて、目が覚めればいつも通りだ。

立とうとした瞬間、わたしの影に、ふっとひとつの影が重なった。

……
………何かが後ろにいる。何かがきた。
そういえば、寝る前に図書館の鍵…有碍書部屋の鍵…ちゃんと閉めたっけ?…不審者ならまだしも…侵蝕者だったら…。こわい。立ち上がれない。振り向けない。どうしよう。冷たい汗が背中を流れる。
動けずにいたら、耳元で声がいきなり聞こえてきた。

「司書さん」

「ひぁぁっ」
わたしは情けない声をあげて前に倒れこんでしまった。ばっと振り返ってみたら中野先生が驚いた顔をして屈んでいた。

「あ、な、中野先生…」
「ご、ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど…大丈夫?」
中野先生はそう言って、申し訳なさ気に手を差し伸べてくれた。わたしはその手を取り、立ち上がる。

「い、いえ、わたしもビックリさせてしまったみたいで…すみません…」
「ううん、僕なら平気だよ。ところで、こんな時間にどうして書架に?」
「なかなか寝付けなくて、それで本を読もうと…中野先生こそ、こんな時間にどうして」
「ん…ふと目が覚めちゃってさ。ちょっと食堂で夜食をね…今日は余った油揚げで稲荷寿司をたくさん作ってたでしょ?それ思い出したら食べたくなって…」
美味しかったよと、中野先生は頬をかきながら恥ずかしそうな笑顔を作って言った。わたしはその笑顔に、胸のあたりがきゅうと締め付けられた気がした。

「それで部屋に戻ろうとしたら書架に電気が点いていたから、誰かいるのかなって来てみたんだよ」
「そうだったんですね…一瞬不審者や侵蝕者かもと思ってすみませんでした…」
「ああ…だからあんなに驚いたんだね」
「それとちょっと怖いことも考えてて…」
「そうなのかい?でも怖いことはあまり考えないほうが良いよ。考えすぎると夢に見ちゃうかもしれないし」
中野先生はにこりと笑って冗談めかすように言った。わたしは、もぉそんなこと言わないでくださいよーと、本を抱きしめる。体が急にぶるっと震えて鳥肌がたった。部屋の冷えのせいかそれとも。

わたしが身震いしたのを見て、そろそろ戻ろうかと言った。わたしはそうしましょうかと答え、中野先生とわたしは電気を消して書架をあとにした。明かりが消えた書架をちらりと見ると、何もかもが黒くて、まるで全てが墨に染まっているようだった。

***

階段を上がって、中野先生はわたしを部屋の前まで送ってくれた。

「わざわざ部屋まで…ありがとうございます」
「いえいえ、これくらい」
ふわりと微笑む。この人が微笑むのを見ると、なんだか心がぽかぽかする。無意識にじっと見ていた。するとわたしの視線が物欲しそうに見えたのか、中野先生はこう言葉をかけてきた。

「きみが眠れるまで添い寝でもしようか?」

「はっ、い?」
突然の発言に、思わず上ずった声を出してしまった。ぽかんとして返事に困っていると、中野先生はふふっと笑って

「なんてね、冗談。暖かくするんだよ」
それじゃあおやすみ、と、わたしの頭をふわりと撫でると自分の部屋へと戻って行った。

わたしは部屋へ向かう中野先生の背中をぼんやりと見つめていた。触れられた手の暖かさが髪に残っている。手のひらも思っていたよりも大きかった。撫でられた感触、優しい声。若草色の瞳も忘れられない。
しばらくしてわたしは部屋に入り、のろのろと布団に潜った。その後かえって眠れなくなったのは言うまでもなく、部屋に連れてこられたある短編小説集は、枕元に置かれたままその存在を忘れられていた。


【了】
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