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そのほか


本の向こうの白昼夢。


過去と現在、現実と非現実、あらゆる時間と空間が本となって共存している場所――図書館。
本はもとより、私は図書館が好きだ。
遠い歴史、深海、宇宙、ファンタジー、今は亡き著名な文豪や学者、テレビでしか見たことの無い作家…様々な出来事や人物と私を繋いでくれている。そんな空間がとても好きだ。
図書館の魅力に取りつかれ、気が付けば足しげく通うようになっていた。特にこの帝國図書館には昔からよくお世話になっている。なかには私の顔を覚えてくれている職員さんもいて、言うならば常連さんと言うやつだ。
それも閉館十五分前から流れ始める『別れの曲』のピアノソロも密かに気に入っている。だんだん人影が消えていく館内を妖しげに揺蕩うような響きが好きだ。

幼い頃、母親と一緒に初めて帝國図書館に足を踏み入れたときの気持ちを鮮明に覚えている。
入ってすぐ目の前に広がったのは自分の背丈よりもうんと高いたくさんの本棚。綺麗に整頓されて並ぶ本。二階の窓から書架へと降り注ぐ太陽の光。何もかもが幻想的で、まるで異世界へ来たかのようだった。
一番下の棚にあった古めの本を手に取って開いてみたけれど、まだ幼かった私には何が書いてあるのか全くわからなかった。あの本は魔術書だったのではないかと、大人になった今でも思っている。
…なんて、遠い昔に思いを馳せながら今日も今日とて図書館に来た。今日は短編小説と長編小説を一冊ずつ借りる予定だ。わたしは貸出カウンターにいる職員さんに軽く会釈をして、奥にある小説の書架へと向かった。

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帝國図書館はとても広い。貸出カウンターから小説の棚までは結構な距離がある。
哲学や天文学の本の棚を過ぎ、旅行の本の棚を過ぎ、映画や落語など娯楽の棚を過ぎ、料理本の棚を過ぎ…たどり着くまでに、様々な分野の本棚を過ぎて行く。目的の棚までは少し遠いけれど、移動中の棚の中に気になる本があれば借りて行こうと思える。普段手に取らないであろうジャンルの本との出会い。この移動距離もまた楽しいのだ。

そうしているうちに小説の書架に着いた。私より少し背の高い棚を、何を借りようかとぼんやり考えながら見つめる。
…と、一番下の棚…その一番端の、目立たない場所にいやに目立つ赤い本が排架されているのに気が付いた。
おや、何かな、あの本。気になるな。借りてみようかな。
そう思って、本を取ろうと屈んで見て驚いた。背表紙にタイトルが書かれていない…、いや、これは背表紙が墨で塗り潰されていると言ったほうが正しい。
子どもの悪戯かな。それにしたって悪質だ。早く職員さんに伝えなければ。
わたしは赤い本をサッと抜き出す。手に取って見たら、なんと表紙タイトル部分と著者名までもが塗りつぶされていた。
何てことを…これだとたぶん中も…そう思いぱらりと開くと、やはり頁全体を覆うようにして墨がぶちまけられていた。
酷くて目も当てられず…と、言うより、それを見た瞬間に、墨の奥底に潜む暗闇から言い知れぬ恐ろしさを感じ、反射的に本を閉じようとした。
しかしそれよりも早く頁がぱらぱらと自らめくれ出し、目を射るような光を一瞬放つと同時に、私の体は本に引き寄せられた。

「…!」

声を上げる間もなく、私は目の前が真っ暗になった。

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「ん…」

目が覚めたとき、私は石畳の道の上に倒れていた。
そんな馬鹿な。どうして。おかしい。だってさっきまで図書館にいたはずなのに。
自分の身に何が起きたのかわからないままあたりを見渡すと、そこには異様な風景が広がっていた。
店と思われるたくさんの古びた建物。埃がたまって曇った窓硝子。電気が消えているのだろう、建物の中は外からでは暗くて見えない。扉は開け放されてるが、中に入ってた確認しに行くだけの勇気がない。人の気配は感じられず、あたりは静けさが満ちている。まるで世間から忘れられて寂れてしまったような、何年間も時間が止まってしまったかのような場所。空気も甘ったるくて、暖かすぎる。
何より異様さを感じさせたのは文字だった。店の看板や壁に貼られているポスターが全て中国ような…いや、中国語とも違う。文字が反転されていたり、逆さになっていたり、漢字同士、平仮名同士が無理やり組み合わされたような…読めそうで読めないものになっていた。そして目の前に広がる灰色の空は、雲の代わりに不気味な文字列を這わせている。

「こ、ここ…は、どこ…?誰か、いませんか…?」

震える声で問うたが、答えてくれる人などもちろんいない。静けさが私の声を吸い込むだけだった。
静寂と、空気の違い、空をゆらゆら泳ぐ文字。この奇怪な空間に当てられて、本格的に頭が混乱してきたのだろうか、ある建物の中には「人」に似た大きな字、ある建物の入り口に「薬」を歪にしたような字が薄っすらと見えるようになってきた。
そして、もしかしたら異世界に来てしまったのかもしれないという、あまりにも非現実的な考えが一瞬頭をよぎった。

「そんなはずは…」

そのありえない考えを取り払うように頭をブンブンと横に振る。確かに文字の形や空気の違いからして現実世界だなんてとても思えないけれど、そんな、異世界なんてあるはずない…。今でこそ、そう思っている。
だけど幼い頃は空想科学的な世界観が好きで、自分がいる世界とは別の世界を想像をして楽しんでいたことを思い出した。
かつて憧れていた異世界。ここがいつか来られたらと、あの頃の私が望んだ異世界だとしても、今はただ怖い。どうか夢であってほしいと願いながら頬を両手でバチンと叩いてみたけれど、無常にも手のひらと頬はじんじんと痛んだ。そうか、夢じゃないんだ。
夢では無いと自覚した瞬間から、きっとこの異世界から出れる方法は無いのだと、私の心は絶望の気持ちに駆られるばかりだった。気が付けば目からは大粒の涙がボロボロと溢れ落ちていた。出口らしいものも見当たらないし、もうどうしたら良いのか、わからない。
立ち上がる気力も無いままへたり込んでいると、突如として大きな影が私に重なった。

「…!」

何かが居る。後ろに何かが来た。影の大きさからして人間では無いことは明らかだった。
いけない、早く逃げないと。頭ではそう思っていても、立つことができない。怖い。こわい。バクバクと心臓が脈打つ。瞬きすらできない。目に映る景色から、コントラストが失われていくのを感じた。
動けずに固まっていると、その何かが私に近寄って来たのか、耳元に息がかかる。そのとき、ふっと墨と獣の匂いがした。

「ひ……っ」

反射的にビクリと体をこわばらせた。恐怖で体がガタガタと震え出したが、その獣と思われる何かは御構い無しと言うとように、しきりに私の髪や首あたりの匂いをすんすんと嗅いでいる。このまま食べられてしまうのだろうか。

「あ……た…食べ、な…で…」

喉の奥から掠れた声を出すと、獣らしき何かは私からスッと離れて行った。
良かった、助かったのだとホッとした。しかし、ホッとしたのも束の間で、今度はコツコツという足音が背後からこちらへだんだん近寄ってくることに気が付いた。
また、心臓がドキンと大きく跳ねた。
ど、どうしよう。やっぱり怖い…。だけど、近寄ってきてるのは…もしかして、人間…?
もしそうなら…話ができるかも。
私は勇気を振り絞って、座り込んだまま上半身だけ後ろへ振り向いた。
振り向いた先に居たのは、帽子を目深に被り、幅広のストールのようなものを口元まで覆い、外套を羽織った背の高い男性だった。後ろに大きな羊のような獣を連れていてる。先ほどまで私の匂いを嗅いでいたのは、その獣だったのだと理解した。それと同時に、男性からは人間のようで人間ではない雰囲気が伝わってきた。

「……っ」

それを見て私はまた固まってしまった。もう駄目だと思った。目の前にいるのは、意思疎通が出来そうにない異世界の住人だ。
住人は、呆然とした顔で座り込む私の目の前に来るとしゃがみ込んだ。そして私の顔へゆっくり手を伸ばす。
私にはもはや身構える余裕すらなく、その青く光る瞳を見つめることしかできなかった。
そう、私の人生はここでお終い。わけがわからぬまま来てしまった異世界で、その住人に殺されて、友人にも家族にも知られずに幕を閉じるのだ…と、静かに目を閉じた。

しかし、住人の手は私を殺めるどころか、ふわりと髪を優しく撫でた。
びっくりしてばちっと目を開けると、今度は指で何か物を摘むように動かし、首を横に振っている。

「え…な、何…?…食べない…ってこと…?」

首を縦に振ると、今度は懐から「危険」「帰」の文字を出して見せた。私はそれをじっと見つめて、伝えたいことを理解しようと思考を巡らせた。

「…危険…帰……危険…帰れ…?…危険だから、帰れ…?」

それを聞いた住人は頷くと、鋭い目でこちらを見つめた。私は思わずビクリと身を強張らせると、俯いて震える声で答えた。

「で、でも、帰り方…わからない…」

いま、自分が置かれている状況を言葉にすると、瞳に自然と涙がじわりと浮かんできた。自分の服を掴む手にぎゅうと力が入る。
すると、俯いている私の顔に何かが触れた。ふっと顔を上げると、住人が心配そうな面持ちで私を見つめ、その大きな手で涙を拭ってくれていた。後ろにいる羊のような獣も、どこか心配そうな目をしている気がした。
どうしてだろう、先ほどまで彼らに抱いていた恐怖心はいつの間にか無くなっていた。
少しして落ち着いたあと、住人はすっと手を差し伸べて私を立たせると、大きな獣の背中に乗せてくれた。そしてそのまま私を乗せた獣をゆっくりと歩かせ始めたので、私が今「そうであったらいい」と考えていることをおそるおそる聞いた。

「あ…あの…もしかして…出口まで、連れてってくれる…の、ですか…?」

少し間を置いて、住人はこちらを見ずに頷いた。私はそれを聞いてびっくりしたと同時に、帰れるのだと思うと胸がいっぱいで、涙がまた溢れてきて仕方がなかった。涙声で途切れ途切れに呟いたお礼の言葉は、きっと聞こえていなかっただろう。



田舎道をしばらく歩いていると、青く光る森が見えてきた。住人はその森に入る手前で私を獣から降ろすと、森の奥へと続く一本道を指差してここを真っ直ぐ進むようにと、身振り手振りで教えてくれた。
私は何度も頭を下げてお礼を言って彼らと別れた。そして教えてもらった通りに真っ直ぐ歩いて行くと、大きな白い光が見えてきた。
その光の向こうに足を踏み入れる直前に、ちらりと後ろを振り向くと、彼らはもう小さくなっていた。
まるで、もう二度と迷い込んでは駄目だ、と言っているような、遠くからでもはっきりわかる青く輝く瞳に見送られながら、私の意識は光の中へ溶けていった。

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「……あ」

次に気が付いたとき、私はベッドの上に寝かされていた。枕元にある机の上に荷物もまとめられていた。
戻って来られたのかな…それとも…今迄の出来事は夢…?…夢にしてはやけにリアルだったな…ううん、夢なわけ…だけど、いったい何だったんだろう…。
ふわふわする頭のままベッドから起き上がり、仕切られていたカーテンを開けると、医師と思われる人がこちらに背を向けて椅子に座っていた。どうやらここは、帝國図書館の中にある医務室らしい。

「…あの…」
「ん、気が付いたか。良かった」
「私は…今までどうしてたんでしょう…何時間くらい居ましたか…?」
「小説の書架の所で倒れているのをスタッフが見つけてな。おそらく熱中症だろう、二時間半くらい眠っていたぞ」
「…熱中症、ですか…」

空調管理はしているが、この時期の館内は暑いから水分補給も必要だとスポーツドリンクを出してくれた。
私はそれを飲むと、お礼を言って医務室をあとにした。
携帯を開いて時計を見ると、十五時半を過ぎていた。



そのあとすぐに書架の同じ場所へ行ってみたが、手にしたはずの赤い本はどこにも見当たらなかった。
職員さんに聞いても、そんな本はないし、もしあれば蔵書点検のときにでも確認しているはずですよ、と言われてしまった。
それもそうかな…と一瞬納得したが、私は心のどこかで単なる夢だったと考えられずにいた。
だけど、話したところで誰にも信じてもらえるとは思えない。それなら話さないほうがいい。
この出来事はずっと自分の心にだけ大切に仕舞って置くことにした。
怖かったけど私を無事に帰してくれたあの住人と獣のことを、帝國図書館に来るたびにきっと思い出すだろう。


【了】
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