いちゃいちゃするおはなし
偶然なの、ワザとなの。
季節は初秋。九月頭。俺と司書さんは、書架に入らなくなった本を片付けるため書庫にいた。
この図書館の書庫は書架フロアの奥にある。鍵は基本かけていないが、職員以外立ち入り禁止の場所。
窓からは穏やかな日の光が差し込む。晴れてる日は明かりを付けなくとも明るく、書架の声も届かず静かで、とても居心地がいい。ソファーもあって、大きめな閲覧席もある。それでいて人目に付かない絶好の場所なので、サボって昼寝をしにきてる奴がたまにいることもあるけど、今日は誰もいなかった。
「司書さん、これはどこにしまおうか?」
「あー、それは別置してある緑のコーナーにお願いします」
「了解~……ん?」
俺と会話をしながら唇をしきりにいじっている。彼女の指先が触れている唇をじっと見ると、結構荒れているのがわかった。どうやらそれが気になって、皮をむしろうとしているようだった。俺は咄嗟に手を伸ばして、司書さんの手を掴んで止める。そしてそのまま唇に触れた。
「司書さん、唇カッサカサじゃん!」
「えっ…そ、そうですか…?」
「そうだよ。それにむしっちゃ駄目だろ」
「ああー、なんか癖で…」
「やめなよ…血が出るだろ…リップ塗れよ…」
「なるほど、それもそうですね」
司書さんは持っていたポーチの中をごそごそと探る。だけどすぐにがっくりした顔をした。
「ああ…自分の部屋に忘れてきちゃいました…」
「まじか」
すみませんちょっと取ってきますね、と部屋へ戻ろうと背を向けた。その背中を見て俺は引き止める。
「あー待って待って、戻んの面倒でしょ。俺の貸してやるよ!蜂蜜入りのかなり良いやつだぜ」
そう言って俺が取り出したのは黄色い本体に茶色い蓋のチューブリップ。スティック型のリップとは違う。蓋を開けるとリップスティックの代わりに、小さな穴がある。本体を軽く押してそこから少しずつジェルを出し、唇に塗るタイプのもの。まあリップと言うよりかは、リップエッセンスだ。
「おお…こんなに女子力高いもの持ち歩いてるんですね…」
「俺くらいになると、唇にも手を抜けないからな」
「さすがですね…」
しげしげとチューブリップを見つめたあと、じゃあ遠慮なく借りします、と手を伸ばしたが、俺はそれをひょいと空へ逸らす。
「俺が塗ってあげる」
「…自分で塗れますって」
「やだ、塗りたい。だって、司書さん雑にガーッてやりそうだし」
「し、失礼な…そんなこと無…いや……」
「そこはしっかり否定しろよお」
司書さんは少し険しい顔をしたが、小さなため息をついて、綺麗に塗ってくださいねと言うと、目をつむって控え目に唇を突き出して俺に顔を向けた。
その光景に、思わずごくりとのどが鳴る。「…ん?いやいや、何でだよ?」と何かを振り払うかのように頭をぶんぶんと振る。
気を取り直して、左手をそっと彼女の顎に添える。司書さんがびくりと少し肩を震わすのを感じた。
途端に心臓がひとつ高鳴り、それが引き金になったかのように鼓動が早く打ち始めた。どうしてだ、やばい、落ち着けと必死に言い聞かせるも一向におさまる気配はなく、ドキドキ言ってうるさくてたまらない。
耳の奥で響いているその音に手元が狂わされ、チューブからジェルを出しすぎてしまった。
「っあ…ご、ごめん…塗りすぎた」
「ええー…じゃあ今テカテカなんじゃないですか?勿体無いなぁ」
瞳をうっすらと開ける司書さんを見て、心臓がまたドクンと大きく鳴る。そして、ある考えが頭の中をよぎった。
そう、魔が差した。ここには俺と司書さん二人きりだということもあって、状況が良すぎたんだ。そう、これはただ魔が差した、それだけのこと。
「…大丈夫、出しすぎたぶんは俺が貰うから」
そう言って身をかがめ、ちゅ、と触れるだけの口付けを、司書さんの唇へ落とした。
彼女の唇に触れたとき出てきたのは「あ、柔らかい」と言うシンプルな感想だった。この身になってから初めて味わう気持ち良さで、蜂蜜の味に混ざって司書さんの味がした。
名残惜しさを感じつつ唇を離す瞬間に、甘い香りがふわりと舞った。
口付けていた時間は数秒ほどだったけれど、頭がとろけるような心地だった。
んーやっぱりこのリップ甘いなあ、司書さんもそう思わない?と聞くと、彼女が顔を真っ赤にして俺の胸をバシバシ叩いてきた。
「ばっ…か、じゃ、ないんですか!?」
「ちょ、痛い痛い!待って待って!」
俺は制止の言葉を出しながら、彼女の肩を掴んで引き離す。いたずらっぽく、照れてるの?顔が赤いよー?とそそのかしたら、脛にガツンと蹴りを食らった。
あまりの痛さにギャッと小さく悲鳴をあげてしゃがみ込む。
屈んで脛をさすっていると、頭の上から照れてないし顔が赤いのは夕日のせいだと言う、彼女の声が降ってきた。
【了】