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著作の一部を詠唱して文豪を召喚する司書


本の中を生きるあなたに会うための言霊
--太宰治



おい、起きろ。
ばしゃり。
顔に乱暴に掛けられた水の冷たさで、司書は目を覚ます。

「う…っ」

薄らと瞳を開けると、見知らぬ男が視界に飛び込んできた。
目だけを動かして周りを見渡す。そこは寒くて、薄暗くて見慣れない場所。たいして広くない、倉庫のような場所だった。
柱に縛りつけられて、座ることすらできない。
なぜ…?いつこんな所に…。司書は必死に考えた。
後頭部がずきずきと痛む。…ああ、そうか、殴られたのか。それでどこかに連れてこられたのだ。…目の前にいる、この男に。

「あなたは誰…?私をここに連れて来た目的は何?」
「おっと、お前に質問する権利はないぜ。今から俺が聞くことに、ただ答えていろ」
「…名乗りもしない無礼な方からの質問に、私が答えるとお思いですか?」

司書はこんなことしたって無駄ですよと、そっぽを向く。すると、男の拳が腹へめり込んだ。その衝撃に彼女は思わず「がはっ」と声を上げ、ゲホゲホと咳き込む。座り込んで痛む腹を抑えたいが、拘束されているためにそれは叶わなかった。
司書が苦しむ様子を見ながら、男は含みのある優しげな声で司書に問いかける。

「俺だってお前みたいな若くて可愛い子に暴力はしたくねえんだ。お前も痛い思いしたくないだろ?」
「っう……」
「政府から極秘で与えられた役職…特務司書であるお前の目的…政府の秘密…言えるかな?」

言うと、男は左手で司書の顎を掴み、自分の顔のほうへ向ける。そして、ふにふにとした彼女の唇を、右手の指の腹でなぞるように撫でた。
司書の髪からは水滴がポタポタと音を立てて地面へ落ちた。彼女は潤んだ瞳を男へ向けている。そして小刻みに震える唇を開き、掠れた声を発した。

「……はい、はい。…落ちついて申し上げます」

ははは!なかなか話がわかるじゃないか!
どこか遠くを見るような虚ろな目で話す彼女に、男は勝ち誇ったかのように笑った。

情報を聞き出すだけ聞き出して、身体を楽しんだらあとは始末されるだけとも知らずに。まったく愚かで、聞き分けの良い子だ。
そんな下衆な考えを巡らせている男の前で、司書は続ける。

「…あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇です」

んん?何を言っているんだ?
男は、司書が様子がおかしなことを口にしたと思った。しかし、身にあまる恐怖で妙なことを口走っただけだと特に気にもせず、都合の良い方向へ考える。

ああ、「あの人」とは政府のことか。そうかそうか、奴らが憎いか。それにしたって「世の中の仇」とはこいつも言ってくれる。そりゃそうだよな、お前をこんなことに巻き込んだ張本人だ。特務司書なんかにならなきゃこんな目に遭わずに済んだのに。

男がニヤニヤと下卑た笑いを浮かべていると、爪先の上に何かがバサッと音を立て落ちてきた。何だと思い目線を下へやると、そこには一冊の本。そして司書の足元にはいつの間にか赤い魔法陣が描かれていた。
男は驚いて、ビクッと肩を跳ねさせる。
な、なんだこれは!気味が悪い!
叫びながら足を上げ、本と魔方陣を思いきり踏みつけようとした。

--その瞬間、本が勢いよく開きバラバラと音を立ててページがめくれ、真っ赤な光を放った。

男はあまりの眩さに視界を奪われた。咄嗟に腕で目を覆い、太い声で悲鳴を上げて後ろへのけぞる。
そして瞳をつむること数秒。光が消えたのを目蓋越しに認識すると、男は慌てたようにバッと顔を上げて司書へ再び視線を送る。すると自身の心臓がドクンと強く鳴り、目は信じられないものを見たと言わんばかりに見開いた。

なぜか。
桜模様の赤い着物を羽織った赤髪の青年が突如として現れ、司書を守るように隣に立っていたからだ。その手に持っているのは、青年の細めの身体には不釣り合いなほど大きな、死神の大鎌にも似た刃。
シトリンを思わせる金色の丸い瞳には、男へ対する明確な殺意が見えた。その瞳をぎらぎらと輝かせ、こちらを鋭く睨み付けている。

今までどこに隠れていた。いや、こんな狭い場所だ。隠れられる場所なんか、ありゃしない。
ましてや青年は目立つ格好をしている。余程気を抜いていても気が付くに違いない。
それどころか、嫌でも目に付くだろう。なのに、どうして。
男がどんなに思考を巡らせようと、〝青年はあの光とともに、この場にいきなり現れた″という解答以外に行き着くことが出来なかった。

男は今の今まで、誘拐した女が〝特務司書″であり、〝アルケミスト″であることを忘れていた。彼女が心を込めて言霊を発すれば〝彼ら″を呼べるのだ。彼女には、それだけのことができる力がある。だが理解したときにはもう遅く、男にはこの青年と司書がたいへん恐ろしいものに見えていた。
男の背中を、冷たい汗が伝っていく。何でもいい…こいつらから離れたいと、じりじりと後ずさる。

男が距離を取り、この場から逃げようとしていることに、赤髪の青年は気が付いた。
そしていやに落ち着いた--しかし怒りが込められた、静かな声でこう言った。

「おいお前。司書さんにこんな酷いことして、今さら逃げる気か。許せねえ。厭な奴だ。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ」

命を奪い去る瞬間の、死神の笑顔の如く口角を上げ、ゆっくりと大鎌を振りかぶる。

青年の刃に映るのは、恐怖に満ちて引きつる男の顔。
それが、司書を誘拐した哀れな男が最期に見た光景だった。


(引用元:『駆込み訴え』/太宰治 『女の決闘』に収録の短編小説)

【了】
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