著作の一部を詠唱して文豪を召喚する司書
本の中を生きるあなたに会うための言霊
--国木田独歩
はぁはぁと上がった息で、床にガクリと膝をつき、その場でへたり込む。
彼女のふくらはぎには銃弾がかすった痕がひとつ。
傷自体は深くないにしても、怪我を負った箇所はドクンドクンと脈をうちながら痛みを増していく。とどまることを知らない血がそこからあふれている。
撃たれたときに床に飛び散った彼女の血は、紅椿の花弁を思わせるほどに鮮やかな赤だった。
「随分と手間かけさせてくれたじゃないか」
「だがその足じゃあもう逃げられねえな」
反政府を掲げた男どもがじりじりと追い詰める。男どもに囲まれ、逃げ場は全て塞がれていた。
男の中の一人が司書に近付く。我らが消すべき特務司書とはいえ、あんたはそれなりに器量良しだからなぁ、変な抵抗さえしなければ可愛がってやるよと、下卑た笑いをうかべ司書の腕に指を食い込ませた。彼女は表情ひとつ変えず、無言でその指を振りほどく。
チッ、ふざけた真似を。悲鳴のひとつもあげないとは、見目は良くとも可愛げのない。我らの慰み者として生かしてやろうと思ったが、それも止めだ。
余程この世とお別れがしたいと見える。
男は懐から銃を出し、銃口を司書の眉間に突き付ける。すると、今まで黙りを決めていた司書が口を開いた。
「…ねえ、この帝國図書館、素敵でしょう。この煉瓦造りの佇まい…レトロで落ち着きがあって、非常に良いものです」
出てきたのは、命ごいでもなければ助けを求めるものでもなかった。寧ろ、それらとは程遠い言葉であった。
それを聞いた男たちは、思わず鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。しかし、すぐに司書を小馬鹿にするような表情へ戻った。
いったい何を言ってやがる。もしや情を誘い、我々の心変わりを期待しているのではあるまいか。そんなことをしたところで、我ら反政府の意思が変わるわけがない。
そうさ、我々はこの図書館を潰しに来た。素敵も何もあるものか。それどころかこんな場所、居るだけで反吐が出る。
ああなるほどこの女、極限の状況に追い詰められて気が狂っちまったらしい。でなきゃ、こんなにへらへらできるはずがねえ。
ああ、その張り付いたような笑顔がなんとも気味悪い。早いところ片付けちまおう。
男はトリガーに指をかける。あとは手前に引くだけ。これであんたも終いだ、と低い声で呟いた。
しかし司書の瞳には、恐怖の色が微塵も見えなかった。それどころか瞳の奥には獲物を射殺すような光を灯しており、薄らと笑みを浮かべている。
男はそれに狂気を感じた。鳥肌と寒気が全身を駆け抜ける。「撃て!」と急かされたが、その身が凍ったかのように、指一本すら動かすことができなかった。
銃口を押し付けられたまま、彼女は発言を続ける。
「何より中庭が素晴らしいのです。四季折々の花々を咲かせて、大変に美しいのです。その美しさ…教えて差し上げましょうか」
司書は大きく空気を吸い込み…そして一拍置いて、言霊を生み出した。
「木々は野生えのままに育ち、春は梅桜乱れ咲き、夏は緑陰深く繁りて小川の水も暗く」
司書が四季の情景を詠う言葉を紡ぐと、彼女の足元に緑色の魔法陣がぶわっと浮かび上がった。そして手の中には、いつの間にか一冊の本が姿を現していた。彼女の手は表紙に触れているだけなのに、本は意思があるかのように自らページをめくってゆく。
男どもは衝撃で魔法陣の外へ勢いよく弾き出され、壁に背中を打ち付けた。
次の瞬間、この場で初めて聞く男の声があたりに響いた。
「秋は紅葉もみじの錦みごとなり」
若い男の声だ。声の発生源は…ああ、あの魔方陣。
何が起こったのか全くわからない…わからないが…とにかくまずい!あの女はやばい!女を止めろ!早く!早く!
反政府を掲げる男たちは、一斉に魔方陣へ走りかかった。
すると先程まで司書一人しか居なかった魔方陣の中に、もう一人、誰かがいることに気が付いた。姿見からして青年の歳ほどの男だ。
その青年は、紅梅色の髪をなびかせながら青緑がかった宝石のような瞳で、こちらを睨んでいる。
「誰だ貴様は」と発する暇さえ与えずに、青年は金色の弓を引き、放つ。彼の手から離れた弓は、男たちの喉元と心の臓を迷うことなく貫いた。
「先生…応じてくれて、ありがとうございます」
「当たり前だろ?…と、言うか…あんたは!呼ぶのが遅い!」
「ひゃあ、ごめんなさい!」
「足…怪我してんじゃねえかっ…!」
青年は司書の目の前に膝立ちで座り、彼女と目線を合わせた。そして黒いネクタイをしゅるりと解き、司書のふくらはぎに巻いた。その際に「清潔とは言えないが…ま、無いよりかマシだよな」といささか不服そうに呟いていたが、彼女はその優しさと気遣いが嬉しかった。
「さて、そろそろ安全な場所に移動…って、その足じゃひとりで立つのはしんどいか」
そう言うと、青年は司書の腕を自分の肩にまわす。そしてともに立ち上がると、館内の奥へと歩いて行った。
***
青年は司書と館内を移動しているとき、ふと思ったことを聞いた。
「そういやさっきのさ、冬のが残ってるが、それも詠唱できたりすんのか」
「え?あ、はい。できますよ」
司書はあっさりと答える。そして歌うように諳んじた。
秋やや老いて凩こがらし鳴りそむれば 物さびしさ限りなく
冬に入りては木の葉落ち尽くして 庭の面おものみ見すかさるる
中にも松杉の類のみは 緑に誇る
「おおっ…完璧だな」
「ふふーん、当然です。だって大好きな独歩さんの、大好きな小説ですから。何度も読みましたもの」
司書は青年の隣で、いたずらっ子のように笑い、得意げな表情を見せながら言う。
青年は彼女の肩を抱く手に、ぎゅっと力を込めた。
(引用元:『星』/国木田独歩 作品集『武蔵野』に収録の短編小説)
【了】