文司書
春告げる唇
「司書さん」
「ん?」
「これ、よかったら」
二月の終わり頃。仕事がひと段落した十五時過ぎ。助手の小林先生が差し出したのは、白い包装紙で綺麗にラッピングされた手のひらサイズの小箱だった。右端に結ばれたピンクのリボンが可愛らしい。
「これは…?」
「その…俺の感謝の気持ち。いつもお世話になってるから」
「え、えっ」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。今日はわたしの誕生日でもなければ、バレンタインデーでもホワイトデーでもない。特別なイベントなんてない、至って普通の日だ。そんな日に贈り物を…それも感謝の品を渡されるなんて、まったく思ってもいなかった。驚いた顔のまま贈り物を受け取らずにいるわたしが気になったのか、小林先生は少し困ったかのうに眉を下げて、迷惑だったかな、と聞いてきた。いけない、誤解されてしまう。わたしは焦って、間髪入れずに答えた。
「め、迷惑だなんてとんでもない!その…何でもない日に贈り物もらうことって、今までなかったので…びっくりしちゃって」
「なら良かった。司書さんのために選んだものだから」
受け取ってくれると嬉しいんだけどな…と、小林先生は少しはにかみながら微笑んで付け加えた。
ああ、そんな。先生がわたしのために選んでくれた、なんて。どうしよう、それだけですごく嬉しい。わたしはどきどきする胸を必死に抑えて、確認するように聞いた。
「ほ、本当にいいんですか?」
「遠慮する必要なんてないさ」
「それじゃあ…お言葉に甘えて…。えへへ、ありがとうございます」
「ふふ、どういたしまして」
二人で笑い合う。そしてわたしは小林先生の手から小箱を受け取った。箱は軽く、中身はお菓子などの食べ物系ではなさそうだ。いったい何だろう?
「…開けてもいいですか?」
「もちろん、いいよ」
包装紙とリボンを解いて小箱を開けると、そこには、銀色のリップスティックケースが入っていた。キャップを開けてくるくると底の部分をまわすと、金粉が舞う中で撫子色の一輪の花が咲いている薄桜色の紅が顔を出した。
「リップ…いえ、口紅ですね…!わあ…すごく綺麗…!」
「その色…司書さんに似合うと思って」
そう言うと小林先生はフードでサッと顔を隠した。照れているのかな、頬が少し赤く見える。ああ、本当にわたしのことを思って選んで、贈ってくれたんだ。この贈り物に小林先生の気持ちが込められているのだと思うと、心がじわりと暖かくなる。大切にしよう。使い切ったあとのリップケースも、口紅が入っていた小箱も、リボンも、ずっと大切にしよう。そう思いながら、わたしは先生を見つめた。
「本当に嬉しいです…!」
「喜んでもらえて、俺も嬉しい。ありがとう」
そうだ、せっかくだしそれ塗ってほしいな、と小林先生は言った。はい、それじゃあ早速…と、わたしは頷いた。そして手鏡を出して、すっと口紅を引いた。
唇に桜色が広がって、同時にふわっと桜の香りが舞う。まるでわたしの唇にだけ春が訪れたかのよう。
「どうですか?」
「うん、よく似合ってるよ」
「えへへ、ありがとうございます」
口紅と小林先生を交互に見つめて、ふと思った。そう言えば、小林先生は普段からわたしにお世話になっていると言っていたけど、お世話になっているのは、むしろわたしだ。もらってばかりでは、やはり気が引けてしまう。わたしも何か、形に残るものでお礼をしたい。だけど先生のことだから、遠慮して受け取ってくれなさそうな気もする。どうしようか…。
あ。そうだ。この口紅のお返しということにしたらいい。それなら渡しやすいし、受け取ってくれるのではないか。そうしよう。
あとは、肝心の贈り物だ。何がいいかな…いや、悩むよりも直接聞いたほうがいい。渡す相手は目の前にいるのだから。
「小林先生、わたしお返しがしたいです」
「え?」
「それで、小林先生は何が」
「…じゃあ、今もらおうかな」
「今、って……!?」
言うやいなや、小林先生はわたしの腰をぐいっと抱き寄せた。そして大きな手のひらをわたしの頬に添えると、自身の唇をわたしのそれに重ねた。唇が重なる一瞬前に制止しようとした言葉は出口を失って、そのまま喉の奥へと流れて行った。
重ねた唇からは小林先生の熱が、寄せた体からは鼓動が伝わってくる。今、聞こえている鼓動が自分のものなのか、小林先生のものなのかわからない。頭がくらくらして、何も考えられない。息も上手くできなくて苦しい。苦しいのに、どこか心地いい。こんな感覚は、知らない。形容しがたい感覚に襲われて、少し怖い気もする。どうにかなってしまいそう。縋るように小林先生の腕にしがみつく。すると、ふっと唇が離された。塞いでいたものが無くなって、喉から肺へひゅうと流れ込んできた酸素と入れ違いになるように、吐息がわたしの口から押し出された。
「…っは」
ぼうっとした頭ととろんとした目で小林先生を見つめると、彼は満足したような微笑みをひとつこぼした。流れるように両腕をするりとわたしの腰にまわし、優しく抱きしめる。そしてそのまま聞いた。
「司書さんは、男性から女性へ口紅を送る意味は知ってる?」
「っ、し、しらない…です」
耳に吐息がかかるほどの距離。囁くような声に背筋がぞくりとして、耳が熱い。耳元に与えられた熱がどんどん広がって頬まで伝わり、顔全体が熱くなっていくのがわかる。わたしは今、きっと真っ赤な顔をしている。恥ずかしくて、逃げてしまいたい。小林先生の腕の中で身じろぎすると、彼は逃がさないというように腕に力を込めた。そして耳元でさらに続ける。
「あのね、キスで少しずつ返してって意味だよ」
「は、…え?な、なん、何て?」
わたしは驚いて思わず目を白黒させて、変に聞き返してしまった。そんな意味だったなんて、全然知らなかった。お返ししたいだなんて、まるでキスしたがりのようじゃないか。そう思うと顔がますます赤くなる。
「お返ししたいって言ったから、知ってるものと思ったんだけど」
「た、確かに、言いましたけど…あの、こういうことではなくて、ですね…」
「ふうん…じゃあ、こういうことにしない?」
「ひぁっ」
また耳元で囁かれる。それだけで頭がぼうっとして、何も考えられなくなる。頭の中が、何かに優しく満たされていく。身をゆだねていると、そういうことにしても良いと思えてしまうのだ。
ぼんやりとする思考のなか、わたしは小林先生の背中に腕をまわして緩く抱きしめ返した。そして先ほどの提案を受け入れるように、小さく頷いた。
庭の桜は、まだ咲く気配はないけれど。
これは二人だけ、一足早い桜のおはなし。
【了】