文司書
夢と現実のあいだ。
一月。新年の宴会が終わった夜のこと。
ちらと見た腕時計の文字盤は、深夜の零時過ぎを示していた。普段なら自室で明日の準備をしている時間だが、今日は違う。
わたしは今、酔っ払ってフラフラになった独歩さんに肩を貸しながら廊下を歩いている。
まさかこんなに酔うなんてと思ったが、宴会ではたくさんの名酒が振る舞わていた。それはどれもたいへん美味いもので、みんな好きなように飲んでたっけな。
わたしはどちらかと言えば美味しいお酒より美味しいご飯派なので、あまり飲まなかったけれど。それにお酒に強くなく、飲みすぎると横になってすぐ寝てしまうことも自覚していた。でも今思うとそれで良かったかもしれない。
宴もたけなわ、夜も深まり始めた頃。
床で寝てしまったり、机に伏せたまま寝てしまったりする人が続出したのだ。夏ならまだしも、今は一月。冬の食堂で寝入られたら風邪をひいてしまう。なんとかして揺さぶり起こして、歩けそうな人には自力で部屋まで戻ってもらった。危なさそうな人は、そこまで酔いがまわってない人が部屋まで送り届けることになった…というわけだ。
***
「さすがに飲み過ぎでは…」
「ん~なことねぇってぇ」
「あと少しでお部屋ですから。しっかり歩いてください」
「んん~もぉここで寝る~」
「だめです!寝るなら部屋で!って、ああ危なっ…」
細身とはいえ独歩さんは男性だ。女のわたしとは体格差が結構ある。こちらとしては支えているつもりだが、独歩さんがよろよろふらふらする方向へ足がつられてしまって、その度に転びそうになる。はたからすれば、二人して酔っているように見えるかもしれない。
そんな千鳥足のような足取りでなんとか歩いているうちに独歩さんの部屋の前に着いた。
わたしは部屋のドアを開けて、パチリと電気と暖房をつける。そして独歩さんをベッドまで連れて行き仰向けに寝かせた。わたしは「はぁ」と一息ついて、ベッドの上…独歩さんの隣に腰を落とした。彼のほうへちらりと目をやるといつの間にか横向きになって、潤んだ瞳でわたしを見ている。目が合うと、手を伸ばして、指先でわたしの服の袖口をゆるく掴んだ。
「もう…大丈夫ですか?お水要ります?」
「ん~ん…要らなぁい…」
つーかそれよりさー…と小さく聞こえたと思うと、袖口を掴む指先に力が加わって後ろへグイッと引っ張られた。えっ、と一瞬戸惑ったが、次の瞬間ドサッという音が耳元で聞こえた。反射的に目をぎゅうと瞑る。
「うあっ…なに…」
ふっと目を開けると、わたしの体はベッドに倒れていた。今の一瞬で一体何が起こったんだ。わかるのは、独歩さんの向こう側に天井が見えることだけ。混乱してしまって、理解と処理が追いつかない。出てくる言葉もたどたどしくなってしまった。
「あの、ど、どっ、どうし…まし、た?」
「……司書さんさあ…」
「なっ、なんでしょお」
「…俺の気持ちに気付いてるよねぇ」
「…はい?」
「知ってて、みんなに笑顔振りまいたり、優しくするんだから…タチ悪いよなあ」
「えっ…っと…な、何の話?」
「…また知らないフリかあ…」
「だ…だから…何の」
「…俺さ、結構嫉妬深いんだよ…」
「…っ」
淡紅色の髪から覗く、熱を帯びたエメラルドの瞳が真っ直ぐにわたしを見つめる。押し倒されている状態ではあるが、手首を拘束されているわけでもない。ただ見つめられているだけ。それだけなのに、動けなくなってしまうのはどうしてかな。
いつも優しくて人当たりが良い独歩さん。だけど今は無表情で、わたしを追い詰めるような口調。なんだろう…少し、こわい。
「あ…そっか…印つけておけば…あんたも素直になってくれるよな」
「? し、しるし?」
「このあたり…いいんじゃないか」
「ひ…」
独歩さんの細い指がわたしの首元を撫でる。誰にも触れられたことのない箇所を撫でられて、背中と腰あたりがぞくりとした。
待ってください…なんて言う間もなく独歩さんはわたしの肩に顔を埋めると、ちゅうっと音を立てて、わたしの首筋に唇を強く押し付ける。
「あっ…っ?!」
わたしの体がビクリと跳ねた。
首元でちゅ、ちゅっ、と何度も繰り返されるリップ音が鼓膜を通り越して脳にまで響いてくる。触れる唇と髪がもどかしい。唇から首へと与えられた熱が頭の中を支配し始めて、思考に靄がかかったような感覚に襲われた。逃れようと彼の胸元に手を押し当てて抵抗するも腕に思うように力が入らず、重なっている体を退けることが出来ない。独歩さんの重さをじわりと感じる。すると心臓だけまるで別の生き物かと疑うくらいに早く打ち始めて、体の中に爆弾を抱えているような心地がした。彼の体温と、お酒と煙草の香りが、わたしの中に染み込んでいく。
「…司書さん…」
耳のすぐ近くで吐息混じりの低い声がして、わたしはビクッと体を揺らす。するとそれに反応したかのように今度は柔らかい舌がぬるりと耳に触れる。
「やぁあっ」
今まで出したことのない声が出て、甘い刺激が全身に走る。恥ずかしくて顔がカッと熱くなって、瞳に涙が滲むのがわかった。
「ど…どっ、ぽ、さ…」
バクバクと今にも破裂しそうな心音が聞こえてきて、呼吸が荒くなり言葉がうまく出てこない。
「あんたは俺だけ…俺だけの…」
そう囁かれて、いっきにどさっとのしかかられた。わたしは思わず体を強張らせた。……けど、それきり何の反応もない。…あれ…?
「…? ど、独歩さん…?」
耳を澄ますと、横で小さな寝息が聞こえる。
…
……
………寝ちゃった、のか…。
わたしはホッと胸をなでおろした。
よかった…続けられていたら、頭が真っ白になってしまっていたかもしれなかった。
だけど、同時に少し残念な気持ちになっている自分がいることにも気が付く。
胸に残るこのモヤモヤはいったい何だろう?
それにしてもこの状況は、朝になったらどう言ったらいいのかな。
とりあえず部屋に連れてきたとこから順を追って説明を…それと、そうだなあ…さっき言ってた、わたしへの気持ちというやつを教えてください、なんて聞いてみるのもいいかもしれない。ここまで情熱的に迫られてわからないほど鈍いわけではなく。ただ、直接聞きたくて。
わたしは独歩さんの背中に腕をまわして、目を閉じる。
そしてぬくもりを感じながらゆっくり、心地よい夢の世界へと意識を傾けた。
【了】