文司書
声を探す。
晩秋、十一月。日没前。あたりはすでに薄暗く、あらゆるものがコントラストを失いつつある。この時間帯は“逢魔が時”なんて言うけれど。なるほど、これは確かに何か魔物にでも鉢合わせてしまいそうな雰囲気だ。人通りも少なく、どこか物寂しさを感じる。紺碧色の自転車は主人の帰りを待つように、静かにそこに居る。
***
今日は政府本社から研修に呼ばれていて、半日ほど図書館を離れていた。朝、みんなと食事をとったあと支度をして図書館を出た。そして研修が終わって本社を出たのは十五時半頃。帰り、わたしの図書館への最寄り駅へ着いたときは十六時をまわっていた。
駅の改札を抜けて外へ出ると、冷えた透明な風が髪と頬をするりと撫でた。寒さから逃れるようにマフラーに顔を埋めてこれから訪れる本格的な冬の前触れを感じる。
ふと、視線を前に返すと駅前はすでに淡い橙色に染まっていた。店も、家も、木も。いつもと変わらない駅前なのに、まるで違う場所のような。自分だけが別の世界へ行ってしまって、二度と戻って来られない。そんな錯覚に襲われた。どこか懐かしさを思わせる。だけど怖い。ぞわりと鳥肌が立った。
--早く帰ろう。わたしは帰路を急いだ。
***
駅から図書館まではそう遠くない。十五分ほど歩くと図書館が見える橋に着く。
橋のちょうど真ん中あたりに差し掛かったとき、ざあっと強い風が吹いた。風が吹いてきた方向を見ると、熟した柿に似た夕日が琥珀色の光を放っていた。
そのときわたしは過去に一度だけ不思議な店に入ったことを思い出していた。それはカクテルの中に夕日を入れてくれる店だった。今になって考えてみれば有り得ない出来事だ。きっと夢か幻を見ていたのだろう。
しかし、赤錆色の少し重たい扉を開けたこと、スプーンでひと掬いして食べた夕日は檬果に林檎を混ぜたような味がしたことは、よく覚えているのだ。
もしかしたら、万にひとつの可能性だけど、あの出来事は現実だったのかもしれない。今わたしが見ている夕日は、自分がかつて体内に取り込んだものなのではないか。だとしたら、わたしの中にある自分の一部を取り戻しに来たのだろうか。そんな思考がぐるぐるとわたしの中をめぐる。
そういえば今日の夕日はやけに大きく明るく見える。わたしの瞳がじわりじわりと橙色に染まる。心がさらわれていく。
「--い…、おい」
目の前がくらりとしたとき、声が聞こえてきた。遠くからか近くからなのか、どこから聞こえてくるのかわからない。けれど、よく聞こえる。頭の中に反響して木霊する。この声で、わたしは何度でも戻って来られる。そんな気がした。
「司書!」
呼ばれたほうへ目をやると、そこへ居たのは志賀先生だ。焦っているような、不安そうな顔をしている。
先生は反応しを見せたわたしを見て、一瞬ほっとした表情を見せたが、すぐにまた先ほどと同じ不安げな面持ちに変わって聞いた。
「随分ぼーっとしてたけど平気か?」
「え、あ、はい、平気ですよ!」
「ああ良かった。心ここに在らずって感じで突っ立ってるから心配したんだ」
「す、すみません…。なんて言うんでしょうか…空想癖があると言うか…その、よくトリップしちゃう…みたいで」
それを聞いて志賀先生は、ははっと笑う。そして「それなら心配ないな。くちも半分開いてて、普段のあんたからじゃ想像もつかない顔してたぜ!」なんて言った。わたしは一気に恥ずかしくなった。顔が赤いのは夕日のせいじゃない。うわあ、まさかそんな顔をしてたとは!コホン、と小さく咳払いをして言った。
「ん…ま、まあそれは置いといて…と、言うか…忘れてください。…そんなことより、どうしてここに?」
「ああ、図書館の二階の窓からあんたが橋の上にいるのが見えたんでな。迎えに来た」
「二階から…?よく見えましたね…」
「俺は視力がいいって言っただろ?」
志賀先生はニカッと笑う。釣られてわたしもそういえばそんなこと仰ってましたねと笑った。
突如、ひゅう、と、風がわたしたちの体を通り抜けて行く。足元に居る落ち葉たちが踊った。
「う、寒いな」
「そうですね、そろそろ冬です」
「ああ、もう日も暮れる。早いとこ図書館に戻るか。冷えたし食堂でココアでも飲もうぜ」
「いいですね!…あ、ココアにマシュマロ浮かべましょう」
「それいいな!」
話しながら、志賀先生とわたしは橋を渡って暖かい明かりの灯る図書館へ戻って行った。緩やかな風に乗って、図書館からいい匂いが漂ってくる。わたしが「今日の夜ごはんはカレーですか」と聞くと、志賀先生が「当たり」と答えた。
【了】