そのほか
夜に染み入る。
「あ…しまったな」
私はやりかけの書類を資料室に忘れてきてしまったことに気が付いた。
障子を開けて外を見ると、空は墨で塗りつぶしたかのようだった。その中に金色に輝く丸い月がひとつ、高く浮かんでいる。
普段なら朝起きてから取りに行こうと思う時間だ。しかしその書類は、明朝に殿…--つまり、大友宗麟様--へ、お渡しするものだった。
そう言えばここ最近は何かと慌ただしかった。その中で時間を作り、書類自体は何とか終わりかけてはいる。が、結局のところ完成させられずにいた。今夜、寝る前に片付けてしまうつもりだったのだ。
「…仕方ない…取りに行くか」
私は上着を羽織り、蝋燭に火をともして部屋を出た。
部屋の外の世界は、澄んだ空気がピンと張り詰めていた。冷えた廊下を足袋で踏み締めるとぎしりと鳴いた。廊下の軋む音も、私の吐く息も、冬の寒さの中へ薄く溶けていく。
冬の空気はきっと音を吸い込むのだ。冬の静けさとは、たぶんそういうことだ。このまま私自身も吸い込まれてしまいそうで、なんだか怖い。私は資料室への足取りを早めた。
***
資料室に着いて障子を開ける。中に入ってあたりを見回すと、机の上に書類がポツンと置いてあった。まさかこんなところに忘れていくとは。我ながらうっかりしていたな。だけどすぐに見つかって良かった。さて、これであとは部屋に戻って終わらせてしまうだけ。
書類を持って資料室を出ようとしたとき、何かが私の肩にのしかかった。
「ひい!!」
私は反射的に肩を振り上げた。その拍子に書類をバサリと落としてしまったが、蝋燭は落とさずに済んだ。
思い切って振り向くと、そこには田原紹忍様がたいそう驚いた顔をしていらした。私の肩に置いたであろう彼の右手が、急に振り払われて行き場をなくしていた。
「…あ…た…田原様…ですか…」
私はホッとしたのか、その場にへなへなとへたり込んでしまった。
「こ、これは申し訳ない…驚かすつもりは……立てますか?」
田原様はすっと手を差し伸べてくださった。私は、はいと言って、その手を取って立ち上がる。
私が立ち上がると、田原様の心配そうな瞳は、少し険しい瞳に変わった。
「…こんな夜分にお一人で出歩くのは感心できませんね…いくら城内とは言え、あなたは女性なのですよ」
「あ…も、申し訳ありません…実は終わってない書類をここに忘れてしまって…」
ああ、怒らせてしまった。思わずうつむく。ぎゅうと胸が詰まって苦しい。しかし、自分を女性として見てくれていることが嬉しかった。
すると、うつむいている私の頭に田原様の手が優しくふわりと触れて、
「今後こういったことがあれば、まず私の部屋に寄りなさい。一緒に行きますよ」
と、言ってくださった。
大きな手のひらから、頭の中を伝って、この人の優しさが私に染み込んでいく。冬の寒さを忘れるかのように、私の心は彼の暖かな優しさで満ちていった。
すると不意に、すっと手が離れた。私はパッと顔をあげる。
「さ、もう冷えますから、そろそろ戻りましょう。お部屋まで送っても?」
私と目が合うと、田原様は微笑んでそう言った。そんなことを言われたら、甘えてしまう。胸がきゅうと音を立てる。この人の持つ優しさや暖かさは、琥珀糖のように甘くてきらきらしているのだ。
私は、お願いしていいですか、と声を絞り出した。
***
私の部屋へ向かう途中、私は田原様がどうして資料室に来たのかを尋ねた。すると田原様は厠に寄った帰り道、私が資料室に入って行くのを見てわざわざこちらまで来てくれたらしい。それを聞いて、また心がきゅうと鳴いた。
そして部屋まで送り届けてもらって、ありがとうございますと頭を下げたあと、私は早速書類の仕上げに取り掛かった。だが心がすっかり田原様捕らわれてしまっていて、なかなか集中出来なかった。終わらせるには終わらせたが、予想していたよりも随分と時間がかかってしまった。その後も布団に入らず、机に頬杖をついてぼんやりと田原様のことを考えていた。次第に私の意識はじわじわと眠りの世界へと落ちていった。
***
次に、私の意識が戻ったのは朝だった。
「…朝…!!」
私は肩にかかっていた毛布を取り払い、焦って書類を確認する。よかった、出来ている。終わらせたのは夢ではなかった。
どうやらぼーっとしているうちに、机に突っ伏すようにして寝てしまったようだ。
私は大急ぎで身支度を終え、殿の元へ書類をお渡しに行った。
***
殿の部屋からの帰り道。
私はようやく今朝の違和感に気がつく。
「…そういえば起きたとき、毛布掛かってたな…明かりの蝋燭も消えてて…」
そう、焦りが大きくで気が回らなかった。
だけど、毛布も蝋燭も、やってくれた人が誰だか私にわからないはずがない。
私はその人の部屋へと向かった。
【了】
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