女審神者が山鳥毛に生殺与奪を握られる話2
「 」
審神者の息が詰まった。
音はなかった。山鳥毛の唇だけが名に形を与えた。広間に居合わせた刀剣たちは出陣準備に遠征の支度にと忙しく、だれも、最上座に坐す審神者に向けて、離れた席から投げかけられた山鳥毛の声なきさえずりをとらえられなかっただろう。だが審神者にだけはわかる、今、山鳥毛がなんと言ったのか。――――間違いなく、「xxxxxx」と、あの唇は動いたのだと。
(よりにもよって、その名前を。)
歯噛みする。昨夜、山鳥毛に暴かれて晒した醜態が脳に襲い掛かり、ひどい羞恥に審神者は俯いて我が身を掻き抱いた。身も顔も火を噴くようだった。昨夜の山鳥毛の嗤うまなざしが、審神者を膝のうえに抱え上げて拘束した逞しい腕が、背に密着した体温が、耳を嬲る声が、生々しく思い出されてつらかった。
『――xxxxxx。』
『や゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!も゛う゛や゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!』
『こら。目をそらしてはいけない。見なさい、小鳥』
『や゛め゛て゛、や゛め゛て゛え゛え゛え゛え゛!!見゛だぐな゛い゛い゛い゛!!ゆ゛る゛じで、や゛だっ、や゛な゛の゛お゛お゛お゛!!』
『嫌ならば、いいかげんに私の願いを聞き入れてくれてもいいだろう。……あまり大声を出すと、他の鳥たちが起きてしまうぞ。それともそれが望みかな?』
『っ、う、うう……あ゛、あ゛……いや……どちらも、嫌……ッ!』
『――では、続けるよりあるまい』
『い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!』
結局、あの声でどれほど辱められたのか。逃げ場もなく弄ばれ続け、解放されたのは夜半を遠く過ぎたころだった。羞恥と苦痛にすすり泣き、もうあらがう気力さえ失った彼女を舌先ばかりの言葉で慰めた――私の小鳥は、地鳴きが汚くて困ったものだな? あれはあれで可愛いが、次からはもう少しおとなしく鳴いてくれ――山鳥毛は、彼女の薄っぺらい尊厳のうちのいくばくかを奪い、言質をとり、誓約まで立てさせて、そうしてやっと去っていった。
怖くて、苦しくて、はずかしくて、我が身にどんな不幸が起きたのか理解することができなくて、それから夜明けまで審神者は寝所で茫然と横たわったまま動けなかった。もう涙も出なかった。
(奸物め! ああすれば……私が言うことを聞くと思って……)
ひどい屈辱だった。そして恐ろしかった。
一週間前の夜。尊厳と引き換えに、山鳥毛は秘密を守ると誓ってくれた、だから秘した名前が山鳥毛以外によって音を伴うことはもう二度とない、彼女はそう自分に言い聞かせてみる。しかし、こんな、多くの刀剣たちがいる前で、無音とはいえその名前を突き付けられるとどうしようもなく心細くて、山鳥毛は審神者など気分次第でどうとでもできるのだと思い知らされて、たまらなかった。
「むり。しんどい」
蚊の鳴くような審神者のうめきは、山鳥毛には届かなかったろう。代わりに、傍に控えていた前田藤四郎が彼女の顔を見上げて、朱を刷いたような顔色を見とがめた。前田藤四郎はこの本丸ができたその日から彼女に仕えている。誰よりも近く彼女に仕え、誰よりも彼女の心身の安寧を願っている短刀であった。
「主君、いかがなさいましたか? お加減がお悪いのですか?」
「いいえ、大丈夫。……だいじょうぶだからね」
「そうは見えません。お熱だけでも測らせていただけませんか? 薬研を呼びましょう」
「私は大丈夫です。本当に平気だから気にしないで」
前田の心配はうれしいが、それよりも詮索されたくない気持ちが勝った。なんでもないことにしてしまいたくて、笑顔で応対する。うまく笑えている自信はなかった。
前田は一瞬眉根を寄せて、それからぐっと唇を噛んだ。言いたいことをこらえている顔だった。
「……ご気分がすぐれないようでしたら、すぐお申し付けください。床を整えますから」
心配そうな声色では彼女の心労を増やすと考えたのだろう、平淡を装った小さな声だった。罪悪感で審神者の胸が詰まる。せめて安心させたくて、頼れる主君でいたくて、背を伸ばして彼女はもう一度笑った。――もし秘密が漏れたならば、きっと前田は、前田だけでなくすべての刀剣は、己を主君とは仰がなくなるだろうという恐れを押し殺しながら。
「ありがとう。さあ、前田は遠征でしょう。支度をしていらっしゃい」
何度も振り向き、審神者を気にしながら去っていく前田を見送る。視線を戻せば、まだ山鳥毛はさきの場に留まっていた。
表情は誰に対するのとも同じ、穏やかで泰然としたものだが、眼だけは違っていた。妙な熱と期待の籠った、炎の緋色。
(そんな目で……)
見ないでほしい、誰かが、その目の意味に、「私は君を知っている」と雄弁に語る目に、気づきでもしたら。
背筋が凍えそうになりながらも、審神者はかろうじて冷静だった。己が不自然な態度をとれば、そのほうが刀剣たちの興味をひいてしまうと理解していたからだ。どうにかこうにか取り澄ました表情を作った審神者を見て、山鳥毛はにこりと笑って去っていった。彼はこのあと第一部隊の隊長として出陣しなければならない。
山鳥毛に近寄られも話しかけられもしなかったことに安堵しつつ、審神者は、自身の限界を感じていた。このままでは、長くはもたない。
小鳥。小鳥。私の小鳥。
先週の夜からほぼ毎夜、耳に注がれ続けた甘ったるい声がよみがえる。
このままでは、山鳥毛に秘密と名前を握られたこのままでは、彼女が審神者でいられなくなる日が来てしまうであろうことは確実であるかのように思われた。
――そうは、ならない。なって、たまるものですか。
彼女は奥歯を食いしばる。目には、山鳥毛に生殺与奪を握られて以来消えていた闘志の火が、久方ぶりに燃えていた。今朝がた政府から告知された、新刀剣男士の期間限定鍛刀のことを強く強く思い描く。
その刀剣男士の名は、日光一文字といった。
――しがらみを増やして、こちらに興味を向ける余力を殺いでいこう。
彼女は決意する。
山鳥毛は一家の長というだけあって情の深い刀だ。今は南泉ひとりを随分と気にかけているが、一文字の刀が増えれば増えるほど目を配るべき対象が増えて忙しくなろう。あの気質だ、彼はきっと熱心に一家の刀すべてを慈しんで面倒を見ようとするだろうから、一文字の刀が増えれば増えるほど審神者を気にかける余力はなくなっていくだろう。
それがいい、そうしよう。
以前、用もないのに審神者にまとわりついてきた燭台切も、大般若が来てからはまとわりつく頻度が激減し、小竜、小豆、謙信が来てからは審神者に一切そういうことをしなくなった。
一時期は妙に審神者の手指に触れようとしてきた鶯丸も、大包平が来てからは審神者に手を伸べなくなった。
この本丸の備前の刀たちはみんな、情が濃やかで慈愛に満ち同族思いなのだ。山鳥毛も同様に、きっと審神者よりも同族に興味を向け、審神者よりも同族を慈しむだろう。己が身を抱いたまま、彼女は一縷の望みに賭けて、小さくひとりごちた。
「まずは日光一文字を鍛刀しよう。ほかの一文字の刀も、長尾上杉家所縁の刀剣も、実装され次第できるだけ早く入手しよう。そうすれば、」
そうすれば、山鳥毛はもう、審神者にあんな辱めは――――ネットに上げた創作物を削除しないと誓約するまで、審神者自作の痛々しい薄い本を耳元で朗読し続けるような辱めはしなくなるはずなのだ。 ……たぶん。
【幕間】
この本丸は、刀剣男士が増えるたびに改築と増築を重ね、ずいぶんと入り組んだ造りをしていた。
昨年の大晦日に顕現した山鳥毛に与えられた部屋は、本丸の中でも特に入り組んだ位置にある。審神者の執務室と私室へは短い廊下を歩くだけで誰の部屋の前も通らずに辿り着ける一方、玄関や広間へは長い長い廊下を歩くか、審神者に無礼の許しを願って執務室と私室を突破させてもらわねばならない。
この長い廊下も増築と改築の産物で、経路の半分以上は日の光が入りづらく、とくに朝から昼過ぎまでは薄暗い。夕方の西日を過ぎれば、すぐに真っ暗になる。山鳥毛はあの部屋を、日当たりがよく庭の景色もよく見え、野鳥の声もよく聞こえるからとすぐに気に入り、望んで私室として賜った。しかし、それ以前にあの部屋を私室の候補として示された刀剣、特に短刀は、部屋の良し悪しよりもこの廊下の長さと暗さを嫌ってあの部屋を選ばなかったのだと、彼は審神者から聞き及んでいた。
この日、山鳥毛は第一部隊を率いての出陣の命を受けていた。広間での朝礼の後、彼は一度自室へ下がって念入りに装備を点検し終えて、玄関へ向かうべく廊下の暗がりを粛々と歩んでいた。普段ならば、対向から来た誰かと行き会うことはほとんどない。しかし今朝に限っては暗い廊下の、さらに陰になったところに誰ぞ立っているのが見えた。
大典太光世であった。
審神者の初短刀・前田藤四郎と親しいこの太刀は、山鳥毛とは反りがあわなかった。というのも、顕現したばかりのころの山鳥毛――鳥の性を誰よりも色濃く受けた太刀――に大典太がうっかり出力を間違えた霊力を浴びせてしまい、数日間高熱を出させ、寝込ませたことがあった。大典太自身がこのことを非常に悔いていて、(大典太と比べれば)まだ(比較的)年若い刀である山鳥毛を傷つけやしないか、苦しめやしないかと、この八か月の間ずっとはらはらどきどきと遠巻きにしていたので、親しくなる機会を逃し続けていたのである。
大典太はじっとりとした暗い目で山鳥毛を見ていた。大典太を知らぬ物であれば怯んだかもしれない眼付だったが、山鳥毛はすでにこの古い太刀が、少し泣き虫で、心根がとても優しく純真な、善良な神であると知っていたので、とくに何も思わず会釈して通り過ぎようとした。
ただ――。
くくっ。すれ違いざま、我知らずして、山鳥毛の喉が可笑しみで鳴ってしまった。
「おい」
殺気を感じる声だった。大典太が悲しみではなく怒りを示すとは珍しい。
慌てずに山鳥毛は弁明する。
「不快に思わせたならすまない。他意はないのだ。少し、思い出してしまっただけだから」
「思い出した……?」
「何、昨夜のことをね。君はずいぶんと……ふふ、小鳥に愛されているようだから……くくくく……」
昨夜のできごと。山鳥毛の、「ずっと旧作を消さないでいてほしい」という嘆願に対し、審神者は「旧作を削除したり、書き直したりするのは創作者の大切な権利のひとつ」と言って聞かず、彼の願いをにべもなく袖にしようとした。
そう無碍にされてはたまらないと、山鳥毛は「交渉」を試みた。
審神者が******名義で発行した薄い本。xxxxxxと名乗っていた中学生時代の黒歴史(個人サイト)をサルベージして得た、いかにも子供が書いたとわかる絵空事。山鳥毛は彼女を膝の上に幼女のように抱えて、それらを絵本のように朗読した。彼女は顔色を赤くしたり青くしたり泣きわめいたりして、どんどん消耗していった。しかしそれでもなかなか折れない審神者をへし折るために山鳥毛が持ち出した戦略兵器――四年前の夏に書かれた、「書けば来る! お願い来て! 大典太光世鍛刀キャンペーン成功祈念SS」。
それは来てすぐ消したはず、どこでそれを、と審神者がどんなに暴れても、山鳥毛の腕にしっかりと包まれてしまえば身動きが取れない。審神者の正気と尊厳を容赦なく削っていくその読み物を、繰り返し繰り返し読み聞かせられ、誤字や言葉の誤用まで紙面を指で示して指摘され、発狂寸前になった審神者の「も゛う゛や゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」という悲鳴を思い出す。そうしてやっと、「一度でもネットに上げた作品は、非公開にはしても削除はしない」という誓約をもぎ取ったのだ。本当に私の小鳥は可愛らしいと、山鳥毛は笑みを深くした。
(もうじき我が翼も期間を限って鍛刀可能になるという。日光も、大典太のあの読み物のように、切実に願われ、請われ、書かれて、やってくるのだろうか)
書いたならぜひ読ませてほしいものだと山鳥毛は思い、その楽しい思いがこぼれるように、再度、彼の喉が鳴った。
「思い出した」「昨夜」「小鳥」という言葉と、そのいかにも楽しそうに鳴る喉とを、目の前の古刀がどう結びつけるか。不用心かつ無自覚にも、山鳥毛はこのとき思い当たらなかった。
「山鳥毛」
大典太の声がますます低くなる。
「あんた、昨夜、どこにいた」
答えを知っているような問いだった。
「……、小鳥の執務室だ。相談することがあってね」
「相談? 一文字の連中は、女が嫌がって泣き叫ぶようなのを『相談』というのか?」
「おやおや。天下五剣の大典太光世ともあろう名刀が女性(にょしょう)の夜鳴きを盗み聞きとは、感心しないな」
底の知れぬ深紅の眼が、殺気立って山鳥毛の炎色の眼を睨んだ。
大典太光世の赤は――――破魔の色だ。
何事の偽りも見逃すまいという苛烈な眼差しで射られても、しかし山鳥毛の涼しげな目元にも、余裕たっぷりに笑みを作った口元にも、何の変化も現れなかった。視線を隔てる色硝子が、いっそう山鳥毛の真意の在処をわからなくさせていた。
長い長い空白の攻防があり、先に目をそらしたのは大典太だった。
「だから、あんたは近侍になって、あの部屋を与えられたんだな。……主の、男の趣味が悪いなどと、知りたくなかった。……前田が悲しむ……」
のそり、と大典太が廊下の向こうに消えるのを無表情に見つめていた山鳥毛だが、周囲に完全に刀剣の気配がないことを確認するとすぐさま個人用情報端末を取り出し、審神者との緊急連絡用にインストールしていたメッセージアプリを起動した。
●ちょも 既読 9:34
小鳥すまない、大典太光世に何か勘づかれた(^^;;
さんぐらすがなければ危なかった……こわかった……だが巧くごまかしておいたぞ。安心してくれ(^_^)
●さにわ 9:34
ファッ!!!!!?? ちょっ、貴様、何しやがった!?
審神者の息が詰まった。
音はなかった。山鳥毛の唇だけが名に形を与えた。広間に居合わせた刀剣たちは出陣準備に遠征の支度にと忙しく、だれも、最上座に坐す審神者に向けて、離れた席から投げかけられた山鳥毛の声なきさえずりをとらえられなかっただろう。だが審神者にだけはわかる、今、山鳥毛がなんと言ったのか。――――間違いなく、「xxxxxx」と、あの唇は動いたのだと。
(よりにもよって、その名前を。)
歯噛みする。昨夜、山鳥毛に暴かれて晒した醜態が脳に襲い掛かり、ひどい羞恥に審神者は俯いて我が身を掻き抱いた。身も顔も火を噴くようだった。昨夜の山鳥毛の嗤うまなざしが、審神者を膝のうえに抱え上げて拘束した逞しい腕が、背に密着した体温が、耳を嬲る声が、生々しく思い出されてつらかった。
『――xxxxxx。』
『や゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!も゛う゛や゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!』
『こら。目をそらしてはいけない。見なさい、小鳥』
『や゛め゛て゛、や゛め゛て゛え゛え゛え゛え゛!!見゛だぐな゛い゛い゛い゛!!ゆ゛る゛じで、や゛だっ、や゛な゛の゛お゛お゛お゛!!』
『嫌ならば、いいかげんに私の願いを聞き入れてくれてもいいだろう。……あまり大声を出すと、他の鳥たちが起きてしまうぞ。それともそれが望みかな?』
『っ、う、うう……あ゛、あ゛……いや……どちらも、嫌……ッ!』
『――では、続けるよりあるまい』
『い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!』
結局、あの声でどれほど辱められたのか。逃げ場もなく弄ばれ続け、解放されたのは夜半を遠く過ぎたころだった。羞恥と苦痛にすすり泣き、もうあらがう気力さえ失った彼女を舌先ばかりの言葉で慰めた――私の小鳥は、地鳴きが汚くて困ったものだな? あれはあれで可愛いが、次からはもう少しおとなしく鳴いてくれ――山鳥毛は、彼女の薄っぺらい尊厳のうちのいくばくかを奪い、言質をとり、誓約まで立てさせて、そうしてやっと去っていった。
怖くて、苦しくて、はずかしくて、我が身にどんな不幸が起きたのか理解することができなくて、それから夜明けまで審神者は寝所で茫然と横たわったまま動けなかった。もう涙も出なかった。
(奸物め! ああすれば……私が言うことを聞くと思って……)
ひどい屈辱だった。そして恐ろしかった。
一週間前の夜。尊厳と引き換えに、山鳥毛は秘密を守ると誓ってくれた、だから秘した名前が山鳥毛以外によって音を伴うことはもう二度とない、彼女はそう自分に言い聞かせてみる。しかし、こんな、多くの刀剣たちがいる前で、無音とはいえその名前を突き付けられるとどうしようもなく心細くて、山鳥毛は審神者など気分次第でどうとでもできるのだと思い知らされて、たまらなかった。
「むり。しんどい」
蚊の鳴くような審神者のうめきは、山鳥毛には届かなかったろう。代わりに、傍に控えていた前田藤四郎が彼女の顔を見上げて、朱を刷いたような顔色を見とがめた。前田藤四郎はこの本丸ができたその日から彼女に仕えている。誰よりも近く彼女に仕え、誰よりも彼女の心身の安寧を願っている短刀であった。
「主君、いかがなさいましたか? お加減がお悪いのですか?」
「いいえ、大丈夫。……だいじょうぶだからね」
「そうは見えません。お熱だけでも測らせていただけませんか? 薬研を呼びましょう」
「私は大丈夫です。本当に平気だから気にしないで」
前田の心配はうれしいが、それよりも詮索されたくない気持ちが勝った。なんでもないことにしてしまいたくて、笑顔で応対する。うまく笑えている自信はなかった。
前田は一瞬眉根を寄せて、それからぐっと唇を噛んだ。言いたいことをこらえている顔だった。
「……ご気分がすぐれないようでしたら、すぐお申し付けください。床を整えますから」
心配そうな声色では彼女の心労を増やすと考えたのだろう、平淡を装った小さな声だった。罪悪感で審神者の胸が詰まる。せめて安心させたくて、頼れる主君でいたくて、背を伸ばして彼女はもう一度笑った。――もし秘密が漏れたならば、きっと前田は、前田だけでなくすべての刀剣は、己を主君とは仰がなくなるだろうという恐れを押し殺しながら。
「ありがとう。さあ、前田は遠征でしょう。支度をしていらっしゃい」
何度も振り向き、審神者を気にしながら去っていく前田を見送る。視線を戻せば、まだ山鳥毛はさきの場に留まっていた。
表情は誰に対するのとも同じ、穏やかで泰然としたものだが、眼だけは違っていた。妙な熱と期待の籠った、炎の緋色。
(そんな目で……)
見ないでほしい、誰かが、その目の意味に、「私は君を知っている」と雄弁に語る目に、気づきでもしたら。
背筋が凍えそうになりながらも、審神者はかろうじて冷静だった。己が不自然な態度をとれば、そのほうが刀剣たちの興味をひいてしまうと理解していたからだ。どうにかこうにか取り澄ました表情を作った審神者を見て、山鳥毛はにこりと笑って去っていった。彼はこのあと第一部隊の隊長として出陣しなければならない。
山鳥毛に近寄られも話しかけられもしなかったことに安堵しつつ、審神者は、自身の限界を感じていた。このままでは、長くはもたない。
小鳥。小鳥。私の小鳥。
先週の夜からほぼ毎夜、耳に注がれ続けた甘ったるい声がよみがえる。
このままでは、山鳥毛に秘密と名前を握られたこのままでは、彼女が審神者でいられなくなる日が来てしまうであろうことは確実であるかのように思われた。
――そうは、ならない。なって、たまるものですか。
彼女は奥歯を食いしばる。目には、山鳥毛に生殺与奪を握られて以来消えていた闘志の火が、久方ぶりに燃えていた。今朝がた政府から告知された、新刀剣男士の期間限定鍛刀のことを強く強く思い描く。
その刀剣男士の名は、日光一文字といった。
――しがらみを増やして、こちらに興味を向ける余力を殺いでいこう。
彼女は決意する。
山鳥毛は一家の長というだけあって情の深い刀だ。今は南泉ひとりを随分と気にかけているが、一文字の刀が増えれば増えるほど目を配るべき対象が増えて忙しくなろう。あの気質だ、彼はきっと熱心に一家の刀すべてを慈しんで面倒を見ようとするだろうから、一文字の刀が増えれば増えるほど審神者を気にかける余力はなくなっていくだろう。
それがいい、そうしよう。
以前、用もないのに審神者にまとわりついてきた燭台切も、大般若が来てからはまとわりつく頻度が激減し、小竜、小豆、謙信が来てからは審神者に一切そういうことをしなくなった。
一時期は妙に審神者の手指に触れようとしてきた鶯丸も、大包平が来てからは審神者に手を伸べなくなった。
この本丸の備前の刀たちはみんな、情が濃やかで慈愛に満ち同族思いなのだ。山鳥毛も同様に、きっと審神者よりも同族に興味を向け、審神者よりも同族を慈しむだろう。己が身を抱いたまま、彼女は一縷の望みに賭けて、小さくひとりごちた。
「まずは日光一文字を鍛刀しよう。ほかの一文字の刀も、長尾上杉家所縁の刀剣も、実装され次第できるだけ早く入手しよう。そうすれば、」
そうすれば、山鳥毛はもう、審神者にあんな辱めは――――ネットに上げた創作物を削除しないと誓約するまで、審神者自作の痛々しい薄い本を耳元で朗読し続けるような辱めはしなくなるはずなのだ。 ……たぶん。
【幕間】
この本丸は、刀剣男士が増えるたびに改築と増築を重ね、ずいぶんと入り組んだ造りをしていた。
昨年の大晦日に顕現した山鳥毛に与えられた部屋は、本丸の中でも特に入り組んだ位置にある。審神者の執務室と私室へは短い廊下を歩くだけで誰の部屋の前も通らずに辿り着ける一方、玄関や広間へは長い長い廊下を歩くか、審神者に無礼の許しを願って執務室と私室を突破させてもらわねばならない。
この長い廊下も増築と改築の産物で、経路の半分以上は日の光が入りづらく、とくに朝から昼過ぎまでは薄暗い。夕方の西日を過ぎれば、すぐに真っ暗になる。山鳥毛はあの部屋を、日当たりがよく庭の景色もよく見え、野鳥の声もよく聞こえるからとすぐに気に入り、望んで私室として賜った。しかし、それ以前にあの部屋を私室の候補として示された刀剣、特に短刀は、部屋の良し悪しよりもこの廊下の長さと暗さを嫌ってあの部屋を選ばなかったのだと、彼は審神者から聞き及んでいた。
この日、山鳥毛は第一部隊を率いての出陣の命を受けていた。広間での朝礼の後、彼は一度自室へ下がって念入りに装備を点検し終えて、玄関へ向かうべく廊下の暗がりを粛々と歩んでいた。普段ならば、対向から来た誰かと行き会うことはほとんどない。しかし今朝に限っては暗い廊下の、さらに陰になったところに誰ぞ立っているのが見えた。
大典太光世であった。
審神者の初短刀・前田藤四郎と親しいこの太刀は、山鳥毛とは反りがあわなかった。というのも、顕現したばかりのころの山鳥毛――鳥の性を誰よりも色濃く受けた太刀――に大典太がうっかり出力を間違えた霊力を浴びせてしまい、数日間高熱を出させ、寝込ませたことがあった。大典太自身がこのことを非常に悔いていて、(大典太と比べれば)まだ(比較的)年若い刀である山鳥毛を傷つけやしないか、苦しめやしないかと、この八か月の間ずっとはらはらどきどきと遠巻きにしていたので、親しくなる機会を逃し続けていたのである。
大典太はじっとりとした暗い目で山鳥毛を見ていた。大典太を知らぬ物であれば怯んだかもしれない眼付だったが、山鳥毛はすでにこの古い太刀が、少し泣き虫で、心根がとても優しく純真な、善良な神であると知っていたので、とくに何も思わず会釈して通り過ぎようとした。
ただ――。
くくっ。すれ違いざま、我知らずして、山鳥毛の喉が可笑しみで鳴ってしまった。
「おい」
殺気を感じる声だった。大典太が悲しみではなく怒りを示すとは珍しい。
慌てずに山鳥毛は弁明する。
「不快に思わせたならすまない。他意はないのだ。少し、思い出してしまっただけだから」
「思い出した……?」
「何、昨夜のことをね。君はずいぶんと……ふふ、小鳥に愛されているようだから……くくくく……」
昨夜のできごと。山鳥毛の、「ずっと旧作を消さないでいてほしい」という嘆願に対し、審神者は「旧作を削除したり、書き直したりするのは創作者の大切な権利のひとつ」と言って聞かず、彼の願いをにべもなく袖にしようとした。
そう無碍にされてはたまらないと、山鳥毛は「交渉」を試みた。
審神者が******名義で発行した薄い本。xxxxxxと名乗っていた中学生時代の黒歴史(個人サイト)をサルベージして得た、いかにも子供が書いたとわかる絵空事。山鳥毛は彼女を膝の上に幼女のように抱えて、それらを絵本のように朗読した。彼女は顔色を赤くしたり青くしたり泣きわめいたりして、どんどん消耗していった。しかしそれでもなかなか折れない審神者をへし折るために山鳥毛が持ち出した戦略兵器――四年前の夏に書かれた、「書けば来る! お願い来て! 大典太光世鍛刀キャンペーン成功祈念SS」。
それは来てすぐ消したはず、どこでそれを、と審神者がどんなに暴れても、山鳥毛の腕にしっかりと包まれてしまえば身動きが取れない。審神者の正気と尊厳を容赦なく削っていくその読み物を、繰り返し繰り返し読み聞かせられ、誤字や言葉の誤用まで紙面を指で示して指摘され、発狂寸前になった審神者の「も゛う゛や゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」という悲鳴を思い出す。そうしてやっと、「一度でもネットに上げた作品は、非公開にはしても削除はしない」という誓約をもぎ取ったのだ。本当に私の小鳥は可愛らしいと、山鳥毛は笑みを深くした。
(もうじき我が翼も期間を限って鍛刀可能になるという。日光も、大典太のあの読み物のように、切実に願われ、請われ、書かれて、やってくるのだろうか)
書いたならぜひ読ませてほしいものだと山鳥毛は思い、その楽しい思いがこぼれるように、再度、彼の喉が鳴った。
「思い出した」「昨夜」「小鳥」という言葉と、そのいかにも楽しそうに鳴る喉とを、目の前の古刀がどう結びつけるか。不用心かつ無自覚にも、山鳥毛はこのとき思い当たらなかった。
「山鳥毛」
大典太の声がますます低くなる。
「あんた、昨夜、どこにいた」
答えを知っているような問いだった。
「……、小鳥の執務室だ。相談することがあってね」
「相談? 一文字の連中は、女が嫌がって泣き叫ぶようなのを『相談』というのか?」
「おやおや。天下五剣の大典太光世ともあろう名刀が女性(にょしょう)の夜鳴きを盗み聞きとは、感心しないな」
底の知れぬ深紅の眼が、殺気立って山鳥毛の炎色の眼を睨んだ。
大典太光世の赤は――――破魔の色だ。
何事の偽りも見逃すまいという苛烈な眼差しで射られても、しかし山鳥毛の涼しげな目元にも、余裕たっぷりに笑みを作った口元にも、何の変化も現れなかった。視線を隔てる色硝子が、いっそう山鳥毛の真意の在処をわからなくさせていた。
長い長い空白の攻防があり、先に目をそらしたのは大典太だった。
「だから、あんたは近侍になって、あの部屋を与えられたんだな。……主の、男の趣味が悪いなどと、知りたくなかった。……前田が悲しむ……」
のそり、と大典太が廊下の向こうに消えるのを無表情に見つめていた山鳥毛だが、周囲に完全に刀剣の気配がないことを確認するとすぐさま個人用情報端末を取り出し、審神者との緊急連絡用にインストールしていたメッセージアプリを起動した。
●ちょも 既読 9:34
小鳥すまない、大典太光世に何か勘づかれた(^^;;
さんぐらすがなければ危なかった……こわかった……だが巧くごまかしておいたぞ。安心してくれ(^_^)
●さにわ 9:34
ファッ!!!!!?? ちょっ、貴様、何しやがった!?
