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女審神者が山鳥毛に生殺与奪を握られる話1

「******」

 その音を、名前を、目の前の刀が口にしたと認識した瞬間、審神者の血は凍りついた。
 常ならば耳に心地よく響き、審神者の心臓をはねさせるはずの美声が、誰にも明かさず秘してきた名前を暴き立てたのだ。
 そんな、まさか、どうして、どこで、なぜ、どうやって、どうして、どうして。
 疑問詞ばかりが彼女を塗り潰す。それでも、呼び間違いや、何か別のものの名前と認識している可能性にすがりついて、審神者は己の持ち刀を見上げ、その顔を窺い見た。
 山鳥毛は、それはそれは晴れやかに笑っていた。

「******。……どうやら間違いなく、この名は君のものだったようだな」

 途端、縊られた鳥よりも無様な、声にも悲鳴にもなれぬ乱れた呼吸が審神者の喉からひり出された。奥歯が震える。
 山鳥毛がその名前を知っている。
 その事実が何をあらわすのか。言われずとも彼女は悟っていた。――――誰にも知られてはならぬものを知られてしまった。生殺与奪を、握られてしまった。

「なんで……どうして……」

 やっとの思いで彼女が絞り出した声はやはり無様にかすれ、震えていて、九十近い刀剣を従えるおんなあるじとは思えぬほどの情けなさだった。平素の、背筋を凛と伸ばした粛々たる君主の姿はどこにもない。あるのは、無力で、惨めな、誰も守ってくれない、独りぼっちの、女だった。
 己が主の斯くの如きありさまに、山鳥毛は、おやおや可哀相にとかたちのよい片眉を顰め、甘い声音で口先ばかりの慰めを口にした。

「小鳥。私の小鳥。怯えさせてしまったなら詫びよう。だが、悪意あってのことではないのだ。それだけは分かってくれるな?……嗚呼、そんな顔をさせたかったのではないのだよ。」

 ばけものを見るような顔をしないでおくれ。怖がらせてしまったね。可哀相に。******。いや、それともきちんと昔の名前で、xxxxxxと呼ぶべきかな?
 山鳥毛はそんなことをすらすらと、いっそ無情とも思えるほど慈愛の籠った声色で舌で転がし述べてゆく。しかし声はどれほど甘くとも、まなざしは、眼から垣間見える神炎だけは雄弁に彼の心中を語っていた。これで王手だと。その緋色の眼は色硝子でも隠し切れないほど獲物を追い詰めた興奮と喜びに滾っていた。

 心から信頼していた近侍が、まったく知らないひとに見えた。

 山鳥毛はこんな眼をした刀だったろうか。
 審神者が知っていた山鳥毛ははにかみ屋の紳士だった。甘いものが好きで、行事ごとではしゃいで、けれどそれを審神者に見られると恥ずかしそうに照れ笑いして白金の髪をかき上げる。そのしぐさが審神者は好きだった。
 その一方で、彼は審神者の強力な庇護者でもあった。審神者の努力や研鑽を心からほめてくれた。審神者の迷いにそっと背を押してくれた。審神者の過ちを諭し諫めてくれた。審神者を慈しんでくれた。常に審神者に寄り添い、教え導きながらも、己が主人が未だ殻を破らぬうちはと審神者をその羽根の下に庇って彼女に仇なす誰何者からも守ろうとしてくれた。
 審神者にとって山鳥毛は、まるで親鳥のような刀だった。山鳥毛の翼の下ほど、安全なところなどありえないのだと、雛鳥よりも物を知らぬ彼女は無邪気にも信じていた。山鳥毛は審神者の味方だと信じていた。
 それが。
 もう、優しくあたたかな緋色を、思い出せない。

「……どうして……どうしてその名前を……いったいどうやって……」

 もう審神者は恐怖と羞恥と混乱で涙目だった。******と呼ばれただけでなく、xxxxxxとまで呼ばれた。つまり山鳥毛は、審神者が秘してきたことのうち、かなりの部分をすでに掌握している。怖かった。声も足も震えて覚束ない。対する山鳥毛は出来の悪い教え子に接する教師のように微苦笑してみせた。その微苦笑のつくりかたが、部下として審神者を諭すときと寸分違わず同じで、審神者の背がさらに冷える。

「少し調べればすぐわかることだよ。私の小鳥は不用心でいけない」
「嘘! だって、だって漏れるわけがない! よりにもよってあなたがその名前を知っているわけがない!」
「やれやれ。不用心のうえに自覚もないとは」
「だって、だって!」

 凛々しい君主の仮面はどこへやったのか、山鳥毛の言葉にはじかれたように悲鳴に近い否定を叫び、どうにか現実から逃れようとする審神者は年齢相応の小娘らしさで、愚かで、哀れで、可愛くて、山鳥毛は我知らず微笑んだ。決死の覚悟で叫ぶことがそれか、なんとまあ愛らしい。そしてその笑みのまま、急所に留めを刺してやる。

「『よりにもよってあなたが』と君は言うが、では、こうは思わないのかな? 私ですら知り得たのだ、他の鳥たちが知っていてもおかしくはない、と」
「嘘……うそ……」

 今度こそ審神者は恐怖で息もできなかった。
 嘘であればいい、嘘になればいい、いま現在がすべて消し飛べばいい。そんな祈りさえこめて縋るように、うそ、うそと繰り返し、眼を見開いて山鳥毛を見つめるが、山鳥毛の秀麗な白皙に浮かぶ表情はさきほどから何も変わらない。嘘ではない、現実だ。
 審神者は立っていられなかった。足の感覚がない、今までどうやって立っていられたのかもわからない。力の入らない足がぐにゃりと歪み、崩れ落ちるようにその場にへたりこんだ。逃げ場もないのに震え続ける足が滑稽だった。山鳥毛は、今度は声をあげて笑った。鏘鏘たる声は朗々と、堂々と、よく響いた。

「嗚呼、すまない。小鳥。脅しが過ぎたようだ。案じなくていい。まだ私のほかは誰も知らぬとも。ただ他の鳥たちが、君が******だと知ってしまうのは……ふふ、」

 再度、鏘然として鳴る美玉のごとき笑い声がこぼれる。彼はゆっくりと身をかがめ、審神者の上に影を落とした。逆光のはずなのに、にんまりと歪められた彼の緋い眼も、唇も、なぜか審神者からはいやにはっきりと見えた。へたり込んで動けない審神者の顔の、ほんの数寸先へ、山鳥毛は音もなく顔をよせ、不安で揺れる女の目をまっすぐにのぞき込む。

「……もしかしたら、時間の問題かもしれないなあ」

 炎の眼に映る女の顔が、いっそう惨めにくしゃりと歪んで、両の眼から一筋ずつ、敗北を溢れさせた。
 これは現実だ。これは逃げられない現実だ。山鳥毛に知られてしまった。山鳥毛は己が知りえたものがどのような性質のものか知ったうえで、審神者に屈服を求めている。別に他の鳥たちと共用してもいいのだと。山鳥毛一羽か、本丸の鳥すべてか、被害の範囲だけは審神者に選ばせてやると。そう言外に脅迫している。
 屈服する以外の道が、どこにあったろう。
 審神者は山鳥毛に手を伸べて縋りつき、命乞いをするよりほかになかった。

「……お願いです、誰にも言わないで、お願い、誰にも教えないでください、そんなことになったら私、わたし、あなた方の審神者でいられなくなる、やめて、言わないで、お願いですから」

 無様に縋り泣く審神者の手を、山鳥毛は拒まなかった。縋られるまま、いつだったか戦術の未熟を悔しがって声無く泣いた審神者にしてやったのと同じように、親鳥のように、胸に受け止めて背をさすってやった。

(泣かないでほしい、とでも言うべきなのだろうな)

と、山鳥毛は思った。常ならば必ずそう言っただろう。けれど、お願い、お願いと、泣いて請う小鳥がどうにも可愛らしくてたまらなくて、そしていよいよ望みが叶うという見通しに年甲斐もなく心を沸き立たせた古鳥の舌は、ついぞ慰めの言葉をさえずらなかった。

「知られたくないのならば、次からはもっと気をつけて管理することだ。よければ私も対策を一緒に考えよう。そうすれば、『次』など起こりえないからな」

 いかがかな、******。

 いっそ慈悲さえ感じるほどに無情な声で、最後通牒を言い渡した。
 彼は勝つための戦しかしない。それは、勝てる相手しか攻めないというのではなく――――勝ち戦に運ぶためなら、どのような労も厭わず、万全の陣を敷いて、戦局を終始有利に進めていくということだ。彼が仕掛けてきた時点で己には打てる手などなかったのだということを、いまさらにして審神者はまざまざと思い知った。

「……いったい、何が目的ですか。…………私にいったい、何を求めているんですか」

 勝てない。すでに己は屈服した。それでも最後の意地を振り絞り、震え鳴る歯を抑えて問いただす。涙は引かないが、どうにか山鳥毛の眼をねめつけた。
 山鳥毛は、やはり、悠然と笑んでいた。

「そんなに警戒しないでくれ。私と取引をしてほしい。それだけだ。小鳥は私の、ささやかな望みを聞き入れてくれるだけでいい。そうすれば、私が知り得たことを他の鳥たちが知る可能性を完全に抹消してみせよう。安心していい」

 忠臣ぶった奸物の甘言!
 直感的に審神者は山鳥毛の言をそのように断じた。どんなに甘やかに響こうとも、その言に乗ってはならぬ、その手だけは取ってはならぬ、この刀こそ何にも増して信用ならぬ第一の物であるのに。
 もう審神者は、山鳥毛の眼を睨む気力もなくて、目を閉じ、うなだれて、一度だけ小さく頷いた。山鳥毛は彼女の耳元に唇を寄せ、吐息だけで笑うと、己が望みを言い渡した。彼女の閉じた瞼からまた涙があふれる。どうして、どうして。
 そして彼女は、最後の秘密の在処を山鳥毛に明け渡してしまった。
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