日光さんが女審神者に「はしたない女は嫌いですか?」って迫られたけど健全添い寝した話。
この本丸のおんなあるじたる審神者が日光一文字と婚約してから、一か月ほどが経っただろうか。
審神者という特殊な職についている身の上で現世との縁もほぼ途切れてしまっているから誰に伝えるという必要もなく、彼らとしては婚約期間をわざわざ設けるつもりもなかった。しかし、人と刀という区分の差を超えて結びつくため、お上への届け出や手続きが煩瑣で、実際に祝言を挙げられるまで半年ほどの期間が必要だった。
とはいえ、審神者はじれもあせりもしなかった。彼女の夫になるのは、あの日光一文字である。彼は胸のうちをおいそれとは顔にだしてくれぬうえ、多弁ということもなかったから、情が行き通うまでだってずいぶんと長くかかった。
主従から恋仲、恋仲から婚約に至るまでも山あり谷あり。
互いの歩く速さをすり合わせながらゆるゆると進めてきたのだから、今更急ぎはしないと思う女審神者だったが、婚約後からやけに、日光の男としての面が気にかかる。
日光の精悍な体など出陣とそれに伴う手入れ――日光はいつも、己に惜しむべき生命が備わっていることを知らないみたいな戦い方をする――で散々見ていように、また、静かながらも雄々しさのある横顔だっていくらでも見てきただろうに、ああ、このひとが私の夫になるのか、と思うと、どうにも胸騒ぎを覚えてしまうようになった。
加えて、婚約後、ときおり日光が審神者にだけ、眦をゆるめてほどくようにして、うんと優しく微笑むようになったのがいけない。あの表情を見ただけで、審神者の胸は変な跳ね方をする。
いつもは、とくに任務中とその前後は、冴え冴えと冷たくなりがちな表情を、難しく固くなりがちな眉根を、審神者のためだけにゆるめて、かすかに笑う。
たったそれだけの、非常に重大な変化に、審神者はまだ慣れることができずにいた。そんなふうに笑いかけられてしまった夜には熱くなってしまった心臓を大人しくさせるために、ぬいぐるみのコレクションの棚から目についたのを持ち出して、布団の上で抱きしめてもだもだしてしまう。そんな子供っぽい仕草をしてしまう自分に溜め息をつきながら、無意識に選んだぬいぐるみが、どうにも日光を連想させるような色合いやモチーフのものだったりすると、悲鳴を上げそうになって棚に向かい、そのぬいぐるみと、一番古いピンクのうさぎさんのぬいぐるみを取り換えて、やはり布団でもだもだとしてしまうのだった。
どうにもいけない、と、審神者は思う。
彼女だって子供ではないから、己が日光の男としての面、男らしい肢体を見て、何を期待してしまっているのかは気づいている。己の血潮の熱が何によるものなのかは理解している。あの、太刀を取るための、日光の大きく固い手で、彼女の肩から首を通って頬を撫でられたとき、女とは違う男の手と、熱く審神者を見つめる紫の眼を意識しただけで、頭だけでなく、どこに血が集まってしまったのか、気づいてしまっている。
(はしたない……はずかしい……)
日光からは、婚前にはそういうことは、と前々から言い含められていた。
婚儀までは手を出さぬ、初夜までは必ず清い身のままに彼女を留め置かせてほしい、と懇願された。もしその純潔を貰い受けて、責任を取るに取れぬ事態になっては一文字の名折れと。
それを初めて聞いた時、彼女はうかつにも、心変わりするつもりかと傷ついた声を出してしまった。それを聞いた日光は表情をほとんど動かしはしなかったが、どうにも切ない眼の色をして彼女に説いた。曰く、俺は刀だ、いつ戦場で折れても構わぬ身の上だ、戦局如何によっては折れなければならないのだから、婚儀の前に折れる可能性とて無ではない、そうなっては、お前に申し訳が立たない、と。
口調は淡々としていたが、彼女はそこに日光の、刀剣としての一線を見た。
そして、それが日光にとって大切なことならばと、日光の言い分を認めながら、彼の誠意を疑ったこと、前線基地のひとつである本丸を率いる身でありながら戦ではなく私事を見ていた己を深く恥じた。
恥じるとともに、人と刀の在りよう、主と従との区分、そういったものが意識されて、たまらなくさびしくなった。
日光は刀であるから、その本分は肉を斬り骨を断つことにある。刀剣男士として顕現され、肉の器を得て、斬ること以外を広く表現できるようになり、審神者と恋仲になったとて、その本分を枉げることは誰にもできないし、誰にも許されない。
かたや、審神者は人間である。好ましいと思えば恋うて乞い、疎ましいと思えば口を曲げて遠ざけ、欲しいと思えば手を伸べて、理性と感情とで揺れながら、情を共有できる相手と結びつき、肉を交えて、産み増えていく、けものの系譜に連なるものである。
器物と人間の壁は超えられない。超えてはならない。
そんなことは彼女とて知っている、審神者なるものであるからこそよく知っている。日光は器物、己は人間、根底からして別種の存在なのだから、重んじるところ、欲するところは同じにはならない。審神者が日光に純潔を与えその直後に日光が折れたとして、悲しむのは日光の死であって己の純潔ではない。
けれど日光には違うのだ、己は刀で器物であるから、いつかは審神者に使い潰されて折れるなりすり減るなりしていくのは当然のことで、そんな当然よりも、恋しい女の身をこそ案じるのが、彼にとっての大事だった。
それが、彼女には、たまらなくさびしかった。婚姻の約まで交わした男が、刀が、たまらなく遠く感じた。そして、遠く感じれば感じるほど、彼女のなかの、いきものとしての根源の部分、種の存続と継続をつかさどる部分は、どうにかして彼を留め置こう、彼の痕跡を、あわよくば彼の生きた証を我が身に残したいと、きゅう、と泣くのだった。
審神者と日光はこのような理由で清い仲であったから、日光は夜に審神者を私室の前まで送り届けても、決して私室の中までは足を踏み入れなかった。当然の礼儀を守って私室の中を窺う様子も見せなかったのだが、それもまた審神者のなかの「さびしい」を加速させる。
日光の情を疑ったことはない。彼を、主命であったとしても己の情まで差し出すほどの薄っぺらい男だとは思ったこともない。けれど、礼節を守られれば守られるほど、婚儀までは、という約を守って節度正しくされればされるほど、大切に扱われているのはわかるのに、審神者はどうしても寂しくてならなくなるのだ。
だからあの夜、いつものように義理堅く私室の前まで送り届けて去っていこうとした日光の袖を、彼女が掴んでしまったのは積もり積もった寂しさのなせる業だった。
日光も別段の用在っての送り届けではなく、風呂上がりに彼女と行き会ったから送る、という選択をしただけだったのに、寝衣の袖を彼女がつまむんだか掴むんだかわからないような頼りない手付きで握って離さないので、冷静そうな表情のその実、大いに驚いていた。
「主……」
と、部下として諫めるような声が出たが、審神者はぎゅうと口を引き結んで、俯いてしまう。
嗚呼、適切なのは部下としてではなく、恋仲としての振る舞いであったか、と敏く察して、日光がやわやわと審神者の頬を撫でようとした――彼女が優しく愛撫するような皮膚接触を好むことは日光も気づいていた――のだが、彼女がほろりと声をこぼしたものだから、その手は宙を彷徨うことになった。
「あの、今夜は、今夜は帰したくない、です」
音量はさほどないのに、夜の静寂の故かはっきりと日光の耳に刺さる声だった。想定外の内容、まるで男が女を留めるような物言いに日光の手が固まる。軽く目を見開いたままま動けなくなった日光に対し、彼女は覚悟を決めてきっと顔を上げた。
「帰しません」
その愚直な眼に、ほむらよりも明らかな欲望と人間らしい不安を見て、知らず日光の喉は音を立てて鳴った。
「主、」
呼びかける声も、従から主へというよりも、男から女へ、という色を濃くしていたが彼は自覚しない。固まって動けぬ日光の胸に彼女は飛び込んだ。
「はしたない女は嫌いですか?」
はしたない、そんなことは彼女が一番知っている。けれど中断するつもりはなかった。彼女は、日光が刀として、いつか命捨てるつもりであるのがたまらなく寂しく恐ろしかったのだ。日光が女の肉で篭絡できるような男だとは露思わなかったが、彼女にある武器といえばその身と、日光が彼女に向ける情のみ。
誘惑の仕方なんか知らない、けれど乞わずにはいられない。意図して彼女はその身のやわらかさを日光の固い肢体に擦り付けながら、再度、問う。
「こんなふうに、はしたなく誘う女は、日光さんにはふさわしくないですか……?」
乳房の先の尖りを、欲に煮えた血潮の熱さを、寝衣越しに日光の肌が感じ取れたかどうかは定かでない。
男らしい喉仏が、ごくり、と動くのを、喜悦を以て彼女は眺めたが日光はたまったものではなかった。恋しい女が、身を差し出している。彼女の気質は日光もよく知っている、腹芸のできぬ、嘘の付けぬ、とにかく正面突破しかできぬ女だ。それが危なっかしくて日光もほだされたのだから間違いない。その彼女が約を違えて迫ってきたのだから、彼女の女としての情がひたすらに日光を求めてやまぬことは彼にも痛いほどにわかった。
しかし日光は彼女の身を婚儀までは清いままにすると一文字の誇りにかけて誓った身である。主に恥をかかせると、わかっていても諫めずにはいられなかった――――彼は、己の肉欲よりもはるか上位に、彼女の身を、彼女が傷つかぬことを置いていたのである。男としての見栄であり、意地であった。
「自分を大切にしてくれ。俺は、」
「刀だ、いつか散る身だとおっしゃるんですよね?」
ぎゅうと彼女は口を一の字にした。まるで恋仲になる前の日光のように。
「散る身というからこそ、私に日光さんを刻んで、残してほしいです。……もう一度、聞きますよ」
ひし、と日光の背に腕を回し、衣越しに爪を立てて問う。
「はしたない女は、お嫌いですか?」
内容は挑発だ、しかし、声は不安にゆれて、すがるような声だった。事実、彼女の心臓は、日光に性的な乞いをすることで嫌われやしないかと、平素とは違う震え方をしていることを余さず彼女に伝えたし、身を擦り寄せられている日光も、彼女の心臓から伝え聞くさびしさを悟っていた。
――――抱くべきか。
そんな念が日光の内を駆け巡る。
純潔のまま初夜まで留め置きたいというのは日光の希望に過ぎない。ほかならぬ主が恋うた女が、身を暴いて物にせよと言うならば、背く理も利もどこにもない。奪い、暴き、胤を植えつければよい、それだけの話。それだけの話としても、審神者の不安と乞いとで揺れる眼を見ると、いま暴いてしまうのはあまりに惜しいように思われた。審神者は意図していないだろうが、その表情も声も、ただ日光だけを乞うていた。
「はしたないのは知っています。でも私は……日光さんが……」
ほしいです、と、消え入るような声で告げられて、日光に何ができただろう。彼はもう少しで、己の胴から審神者を引きはがして唇と舌を奪うところだった。俺がどれほど我慢していると思っているんだ! そんなことを叫びながら、身にすり寄せられている柔らかく、甘く、欲を誘うことだけに特化した匂いを堪能して、その首筋に求愛の痕を残すところだった。
けれど、けれどやはり、彼にとっては、彼女のことが何よりも大切で損なえないものだったのである。
「はしたない女が嫌いか、か」
出た声は、日光が意図したよりも、いや、意図したからか、ずいぶんと感情を押さえて平淡に出た。本当は恥ずかしくて照れくさくてならなかったのに、はしゃぎがちで恥ずかしがりやのお頭を長く支えてきたせいか、日光はこういうときこそ、表層から情をぬぐいがちであった。
行き先をなくしていた手で審神者の首を撫でる。細い首、女の首、少し力の加減を間違えただけで、ぽきり、と折ってしまえる首。その撫で心地は格別だった。急所に触れられても無防備なまま、日光を信じてしまっている審神者の情を受ける心地もまた、格別に思われた。
……日光としても、欲がないわけがない。恋しい女に身を差し出されては木石ではいられない。しかしそうであったとしてももし己が折れた後、彼女を傷つけなどしたら、と、そう想像するだけで喉が張り裂けそうだった。
折れた己が刀としての用もなさぬ奴と侮辱されるのは甘んじて受ける。しかしもし主が、折れなどする刀に身を許したと誹りを受けるようなことになっては折れても折れきれぬ。主だけは、この女だけは何をおいても幸福でなければならないのに、誹りを受けるなどと耐えられない。
はしたない女は嫌いだ、というよりは、お前にそんな振る舞いは似合わない。そういって跳ね除けて一文字に与えらた室へ戻るのが最善手であり、そうすべきなのは日光にも判っていたのに、いざ言おうと審神者の眼を見たとたんに日光は動けなくなる。審神者の眼は、欲よりも懇願と寂しさでゆれていた。
情と不安に揺れる眼、日光のことが好きで好きでならない、身をひとつにしても決して悔いないと、言葉などよりもはるかに雄弁に訴えかけるその目を、うかつにも日光は見てしまった――――うまそうだ、この女が欲しい、と思ってしまった。
そんな己にうろたえて、口元に片手を押し付けた。
日光の狼狽に気づいているのか、日光の腕の中におさまったままでいる審神者は、目線だけで日光に答案を求めた。はしたない女は嫌い? その『女』が目の前の女を指す以上は、日光の答えはどうあがこうが同じものになっていた。
「……お前が、俺を、その……そういう目でみるのは、嫌ではない……」
惚れて求めた女に、乞い、恋い、求める眼で見られて嫌であるはずがない。事実日光の心臓は、戦場でもどんなに不利な戦局でも跳ねやしないのに、審神者の視線だけで千に乱れ、高鳴っていた。日光の返答をうけて、審神者の眼がきらと輝いたのもまた、好ましく、可愛くてならない。
「お前が俺を求めてくれるのが、嫌であるはずがない」
「なら、」
「それでも」
「……それでも?」
「俺は、お前の身だけは損なえない」
日光の言葉をうけて、寂しさと悲しみと、恋しい男に身を許すことのどこが損なうにあたるのかという怒りに、はくはく、と物言いを求めて開閉された審神者のくちびるであったが、そのすぐ隣の、頬ともいえぬ部位へくちづけられて震えさえ忘れてしまった。
――――唇を奪えば、その先を望まずにはいられないと日光自身わかっていたがゆえの、曖昧な接吻だった。
「俺もお前が欲しい、咬み砕いて飲み下して、俺のものにしたい。だが、お前がもし、後ろ指を指されるような……折れた刀に身を許したと、他の審神者どもから嗤われるようなことになっては……」
包み込まれるように、抱きしめられる。日光と審神者は背丈の差があるから、いつも抱擁は、日光が審神者を包みこむように、外界から隠して仕舞いこむような形になる。
とくん、と彼女の心臓が日光への好意で跳ねたのと、日光が欲まみれの息を咬み殺すのは同時であった。
喰らいたい、が、許されぬ。
「俺は俺を千度折っても、許せなくなる」
溜め息のように吐き出された言葉が重かった。恋着と未練の重さだった。あの、男らしい、潔い、日光が。己に対して未練を持っている。それだけで審神者の血は卑しく熱を帯びてしまう。もっと未練を残して、もっと浮世に執着して、命捨てるなどと寝言でも言えなくしてやりたい、
そんな、主として、審神者なるものとして、抱いてはならぬ念をもってしまうほど、彼女のほうが日光を欲していて、欲しくて欲しくて、我がものとしたくて、遠くへ逝かないでほしくて、参っているのだ。……日光の声を聴きながら、彼女はしずかに、その事実を自覚した。
日光を困らせた。
(どうしよう)
悪意あって困らせたかったわけではない。
(さびしかっただけで、私、)
けれど、困らせた。日光は心情をやたらと明らかにする男ではない。疎まれたかもしれない。しつこく面倒だと思われたかもしれない。
(嫌われたかもしれない……)
そう思うと、謝罪はするりと喉から出た。
「ごめんなさい、へんなことを言いました」
一度は約を受け容れて、言質まで与えたことを、反故にしようとした。審神者なるものと刀剣とのかかわりとして、褒められたことではない。それだけ彼女は日光がいなくなることを怖れて日光の痕跡をほしがっていたのだと、そんなことは勘案にも入らない。
非は彼女に在った。謝罪し、身を離し、日光の寝衣を掴んだままでいる手を離す。それだけのこと、それだけをすべきなのに、身を離すまでは出来ても、手に握った日光の衣を離すのがどうしてもできなかった。別れがたいという情を殺しきれなかった。審神者としては恥ずべきことと知りながら、やはり彼女は、どうしても日光を留め置きたくて手放したくなくてならなかったのである。審神者が手を離せば、いつだって日光は、戦場の奥深く、審神者の手の届かぬ所で吶喊して、貫き通して、二度と帰らぬ、そんな不吉な予感が日光からは常にした。命は捨ててこそ、そう思っているという確信があった。
この男は、命を惜しまぬ。ゆえに、いつであっても、己の手の届かぬところへ逝きうる。そう思うと、血も胎もざわめいてならなかった。己のうちに、たしかにこの刀が、男がいたと刻み付けてほしいのに、肝心の日光がそれだけはならぬという。いつだって、己は斃れうるという。手を離せるわけがなかった。
そんな、寝衣を摘まむんだか掴むんだかわからない中途半端な手つきで、あなたを手放したくない、そばにいて、と乞われて、名残惜しい離れがたいと目に見える形で執着されて、はいそうですかと頷けるほど、日光は木石ではなかった。己の衣を握った審神者の手を、己の手で包んでしまう。
「今夜は」
日光は、己は何を言おうとしているのだろう、と、意識の遠いところでぽつんと言う別の己の存在を感じた。感じると同時に殺した。そんなのは要らない。この女が己を求めたこと、己もこの女から離れがたいこと、けれど、この女だけは傷つけたくないこと、その三点のみが重要事であった。
「……今夜は、帰らなくていいのだろう?」
片手は審神者の手をくるみ、片手は照れと恥じらいに口元を隠し、両の眼を少しだけ泳がせながらも彼は問うた。
「お前の室にいてもいいのだろう?」
ぎゅうと手に力を入れて離すまじとしながら言われたものだから、たまらず審神者は日光の顔を見てしまった。
その愚直と至誠の、ふたつの紫が、女恋しとありえぬ色で煮えているのを、そして、その熱を抑えて彼女を傷つけまいとしているのを、ひた、と、見てしまった。
ひゅ、と、息を呑んでしまった彼女の頬にくちづける。唇にはしない。そんなことをすれば何をどうしてしまいたくなるのかは、日光が一番わかっていた。
「室に入れてくれ。同じ寝床で眠りたい。……一文字の名誉にかけて、何もしないと誓う」
頬に口寄せたまま言うので、彼女は気が遠くなりそうだった。
こくん、と、頷いて日光を受け容れてしまってからのちのことは、実は彼女にとっても夢見心地のうちに起こったことで、こまやかな認知はできていない。彼女の頷きに日光は瞼へのくちづけで応えて、彼女を抱えるようにして室へ入った。彼女の布団は日光には小さいのに、いや、小さいからこそ、日光は身を曲げ、足を曲げ、彼女と隙間なく寄り添い寝床を共にしなければなからなかった。己から誘ったことであるのにやはり心臓がありえない跳ね方をした審神者に、日光は蟀谷へくちづけて宥める。
「誓って、婚儀までは何もしない」
婚儀の後は覚悟しろ、とは言わずに置いた。
声だけは努めて静かに保ったがやはり底に熱がうかがえる声に、審神者の胎がさざめきそうになる。
(この、私を傷つけまいとするひとが、私の夫になる刀。いつだって私を置いて逝く覚悟のまま、翻意してくれないこのひとが、私の夫になる刀。)
たまらなくなって日光の眼を見ると、その紫は審神者が予想したよりもずっと穏やかで優しい色をしていた。
「何もしない。安心して眠ってくれ」
いつだって彼女は、日光の眼が、冷たいとさえ言われることもある日光のあの眼が、まるで人間みたいに眦を下げて優しく甘く笑みをかたちどると、心臓が震えてしまってならなくなる。それと同時に、こころのうちをいつだって丸裸にされてしまうのだ。
「……日光さん、さっきはごめんなさい」
「気にしない」
「一緒に寝てくれて、ありがとう」
「俺がしたかっただけのこと」
「婚儀までですよね? 婚儀のあとは日光さんに好きなだけ甘えていいんですよね?」
「……うむ」
「楽しみです。そしたら日光さんは、私の旦那さんなんですもん」
「今でもお前の刀だ」
「旦那さんになった日光さんも欲しいんです」
わたし、あなたがほしいの、死地(よそ)へなんて逝かないように。
言葉にはしなかった本音がどこまで日光に届いたかは知れぬ。ただ彼女は、届いていなければよい、と思った。届けば、刀である日光にはただの負荷であろうと思ったのである。
「婚儀が楽しみですね」
「そうだな」
そこから、婚儀用にと日光が彼女に選び与えた色打掛の話になり、衣といえばと日光の内番着を先日彼女が繕った話になり、修繕といえばとそろそろ本丸内の道場の傷みをどうにかせねばという話になり……日光の相槌が穏やかで、染み入るので、よもやま話は随分長く続いた。
日光の声を聴きながら、とろ、とろ、と安心しきって眠りまなこになった審神者が、どこまで起きていての言葉であるのか、はやく日光さんのものになりたい、と言ったのは、夜も更けてのことだった。彼女も半分眠っていただろう、日光の身体に己の身を預けきって夢と現の境目を行き来していた。
もはや聞いてはいまい、そう思いながらも、日光は口をひらいた。
「先ほどの、『はしたない女は嫌いか』だが」
彼女はほとんど寝入りかけながら、かろうじてまぶたをあけた。ただ目を開けてぼんやりとしていただけだったから、日光の紫の眼がどんな色をしていたかを視認できていたかどうかは知らぬ。
日光の声を聴きながら夢へ夢へと落ちていこうとする彼女を、日光も引き留めはしなかった。とん、とん、と、背をやわらかに叩いて見送る。それに彼女は必死で抗うのだが瞼はとても正直だった。
「にっこうさん……?」
「俺は、お前が俺を求めてくれるのを、はしたないとは思わない」
日光だって、いつもならこんなこと素面では言えない。けれど彼女がもう眠る間際と思ったから、彼女が相手であったから、油断するように白状してしまった。
「……嫌どころか、うれしいと思う」
どこまで理解しているのか、日光の、うれしい、に反応してへにゃりと笑った彼女に、日光は耳を少し赤くした。……この審神者は、腹芸ができない。将としてどうかと思うときもあるが、特に日光に対して嘘をつくのが苦手だ。うれしいときはうれしいといい、楽しいときは楽しいという。その審神者が、日光がうれしいというのを素直に喜ぶのである。さすがに気恥ずかしい。
しかしこれだけはと日光は釘を刺そうとした。彼女は眠りかけているから覚えてはいないかもしれない。覚えておらぬほうがいい、覚えていては怯えさせてしまうかもしれない。刀の情が、人と違う深さ濃さであることに。
「お前が欲するのが俺であるならば、うれしい。……俺でないならば、俺は許せない」
審神者は主であり日光は従である。万一にも日光の他に好む相手ができたとなれば、日光は審神者に対して何も口出しできない。しかし、それを認めることはできない。おそらく、呪う。慍むでは済まさぬ。相手となった男を許さないし、審神者のことも許せない。きっと苛烈な情のままになるだろう。
「他の男などにその身をくれてやるなよ」
怯えさせぬように、夢のうちに刷り込むように、やわやわと、しかし断固として、己であればいい、他の男になど見向きもするなと願われて、審神者の眠りかけの脳は意味が取れずにぽやぽやと停止して眠りに落ちかける。
「どうして?」
なんでそんなことをいうの、とでも言いたげな、無邪気な寝ぼけ声だった。
「なんだと……?」
「私、日光さんしか欲しくないのに、どうして」
こんなにあたたかく包んで、よく眠れるようにしてくれるの、日光さんだけなのに。そんな寝言を言いながら、彼女は日光に身をすりよせて、そして眠りへと旅立った。
日光は暫し、何も言えぬまま、腕の内に眠る彼女をまじまじと見たままでいた。
やがて、恋しい女が欲しがっているのが己だけという事実に胸の内を熱くしながらも、彼女の安心しきった寝顔が愛しくてかわいくて、日光もまた眠りにつくことにした。
――――婚儀が済んだなら、容赦はしない。
喉の奥から湧く熱を奥歯で噛み殺しながら、日光はゆっくり、ゆっくりと寝入った。深夜だった。
翌朝、日の出の気配に日光が目を覚まして身じろいだので、それにつられて彼女も目を覚ました。やはり狭い布団で身を寄せ合い動きが制限されたこともあってか、日光の美しくしなやかな長髪にはしっかり癖がついていて、彼女はそれを見て笑った……笑う彼女にもしっかり寝癖がついていたので、たまらず日光も笑った。
審神者は日光の髪を丹念にくしけずり、鼻歌まで歌いだしそうに上機嫌であった。身を重ねなかったとはいえ、男と枕を並べて共寝したのちとは思えぬすこやかさに、なぜだか日光の喉は鳴る。
(初夜の床では、)
彼はもう、腹いっぱいに貪ってよいのだ。
追伸:
なんの前置きもなく左腕が主のところへいったきり夜中になっても戻らなかったので、実は山鳥毛と南泉は祝杯をあげていた。日光の一度決めたら貫徹する質は彼らこそ知っていたが、日光と審神者がどうにかなる前からずっとはらはらどきどきしながら見守ってきたので彼らが結びついたなら重畳と思っていた。
それを早朝に、審神者の気配をほとんどつけぬ――しいて言うならば髪紐にだけ、審神者が日光の守護を願っての霊力が結びついていた――ままで一文字の部屋へ戻ってきたので、彼らはさすが日光と思いながらも、やっぱり落胆して日光を迎え入れたとかなんだとか。
(おしまい)
審神者という特殊な職についている身の上で現世との縁もほぼ途切れてしまっているから誰に伝えるという必要もなく、彼らとしては婚約期間をわざわざ設けるつもりもなかった。しかし、人と刀という区分の差を超えて結びつくため、お上への届け出や手続きが煩瑣で、実際に祝言を挙げられるまで半年ほどの期間が必要だった。
とはいえ、審神者はじれもあせりもしなかった。彼女の夫になるのは、あの日光一文字である。彼は胸のうちをおいそれとは顔にだしてくれぬうえ、多弁ということもなかったから、情が行き通うまでだってずいぶんと長くかかった。
主従から恋仲、恋仲から婚約に至るまでも山あり谷あり。
互いの歩く速さをすり合わせながらゆるゆると進めてきたのだから、今更急ぎはしないと思う女審神者だったが、婚約後からやけに、日光の男としての面が気にかかる。
日光の精悍な体など出陣とそれに伴う手入れ――日光はいつも、己に惜しむべき生命が備わっていることを知らないみたいな戦い方をする――で散々見ていように、また、静かながらも雄々しさのある横顔だっていくらでも見てきただろうに、ああ、このひとが私の夫になるのか、と思うと、どうにも胸騒ぎを覚えてしまうようになった。
加えて、婚約後、ときおり日光が審神者にだけ、眦をゆるめてほどくようにして、うんと優しく微笑むようになったのがいけない。あの表情を見ただけで、審神者の胸は変な跳ね方をする。
いつもは、とくに任務中とその前後は、冴え冴えと冷たくなりがちな表情を、難しく固くなりがちな眉根を、審神者のためだけにゆるめて、かすかに笑う。
たったそれだけの、非常に重大な変化に、審神者はまだ慣れることができずにいた。そんなふうに笑いかけられてしまった夜には熱くなってしまった心臓を大人しくさせるために、ぬいぐるみのコレクションの棚から目についたのを持ち出して、布団の上で抱きしめてもだもだしてしまう。そんな子供っぽい仕草をしてしまう自分に溜め息をつきながら、無意識に選んだぬいぐるみが、どうにも日光を連想させるような色合いやモチーフのものだったりすると、悲鳴を上げそうになって棚に向かい、そのぬいぐるみと、一番古いピンクのうさぎさんのぬいぐるみを取り換えて、やはり布団でもだもだとしてしまうのだった。
どうにもいけない、と、審神者は思う。
彼女だって子供ではないから、己が日光の男としての面、男らしい肢体を見て、何を期待してしまっているのかは気づいている。己の血潮の熱が何によるものなのかは理解している。あの、太刀を取るための、日光の大きく固い手で、彼女の肩から首を通って頬を撫でられたとき、女とは違う男の手と、熱く審神者を見つめる紫の眼を意識しただけで、頭だけでなく、どこに血が集まってしまったのか、気づいてしまっている。
(はしたない……はずかしい……)
日光からは、婚前にはそういうことは、と前々から言い含められていた。
婚儀までは手を出さぬ、初夜までは必ず清い身のままに彼女を留め置かせてほしい、と懇願された。もしその純潔を貰い受けて、責任を取るに取れぬ事態になっては一文字の名折れと。
それを初めて聞いた時、彼女はうかつにも、心変わりするつもりかと傷ついた声を出してしまった。それを聞いた日光は表情をほとんど動かしはしなかったが、どうにも切ない眼の色をして彼女に説いた。曰く、俺は刀だ、いつ戦場で折れても構わぬ身の上だ、戦局如何によっては折れなければならないのだから、婚儀の前に折れる可能性とて無ではない、そうなっては、お前に申し訳が立たない、と。
口調は淡々としていたが、彼女はそこに日光の、刀剣としての一線を見た。
そして、それが日光にとって大切なことならばと、日光の言い分を認めながら、彼の誠意を疑ったこと、前線基地のひとつである本丸を率いる身でありながら戦ではなく私事を見ていた己を深く恥じた。
恥じるとともに、人と刀の在りよう、主と従との区分、そういったものが意識されて、たまらなくさびしくなった。
日光は刀であるから、その本分は肉を斬り骨を断つことにある。刀剣男士として顕現され、肉の器を得て、斬ること以外を広く表現できるようになり、審神者と恋仲になったとて、その本分を枉げることは誰にもできないし、誰にも許されない。
かたや、審神者は人間である。好ましいと思えば恋うて乞い、疎ましいと思えば口を曲げて遠ざけ、欲しいと思えば手を伸べて、理性と感情とで揺れながら、情を共有できる相手と結びつき、肉を交えて、産み増えていく、けものの系譜に連なるものである。
器物と人間の壁は超えられない。超えてはならない。
そんなことは彼女とて知っている、審神者なるものであるからこそよく知っている。日光は器物、己は人間、根底からして別種の存在なのだから、重んじるところ、欲するところは同じにはならない。審神者が日光に純潔を与えその直後に日光が折れたとして、悲しむのは日光の死であって己の純潔ではない。
けれど日光には違うのだ、己は刀で器物であるから、いつかは審神者に使い潰されて折れるなりすり減るなりしていくのは当然のことで、そんな当然よりも、恋しい女の身をこそ案じるのが、彼にとっての大事だった。
それが、彼女には、たまらなくさびしかった。婚姻の約まで交わした男が、刀が、たまらなく遠く感じた。そして、遠く感じれば感じるほど、彼女のなかの、いきものとしての根源の部分、種の存続と継続をつかさどる部分は、どうにかして彼を留め置こう、彼の痕跡を、あわよくば彼の生きた証を我が身に残したいと、きゅう、と泣くのだった。
審神者と日光はこのような理由で清い仲であったから、日光は夜に審神者を私室の前まで送り届けても、決して私室の中までは足を踏み入れなかった。当然の礼儀を守って私室の中を窺う様子も見せなかったのだが、それもまた審神者のなかの「さびしい」を加速させる。
日光の情を疑ったことはない。彼を、主命であったとしても己の情まで差し出すほどの薄っぺらい男だとは思ったこともない。けれど、礼節を守られれば守られるほど、婚儀までは、という約を守って節度正しくされればされるほど、大切に扱われているのはわかるのに、審神者はどうしても寂しくてならなくなるのだ。
だからあの夜、いつものように義理堅く私室の前まで送り届けて去っていこうとした日光の袖を、彼女が掴んでしまったのは積もり積もった寂しさのなせる業だった。
日光も別段の用在っての送り届けではなく、風呂上がりに彼女と行き会ったから送る、という選択をしただけだったのに、寝衣の袖を彼女がつまむんだか掴むんだかわからないような頼りない手付きで握って離さないので、冷静そうな表情のその実、大いに驚いていた。
「主……」
と、部下として諫めるような声が出たが、審神者はぎゅうと口を引き結んで、俯いてしまう。
嗚呼、適切なのは部下としてではなく、恋仲としての振る舞いであったか、と敏く察して、日光がやわやわと審神者の頬を撫でようとした――彼女が優しく愛撫するような皮膚接触を好むことは日光も気づいていた――のだが、彼女がほろりと声をこぼしたものだから、その手は宙を彷徨うことになった。
「あの、今夜は、今夜は帰したくない、です」
音量はさほどないのに、夜の静寂の故かはっきりと日光の耳に刺さる声だった。想定外の内容、まるで男が女を留めるような物言いに日光の手が固まる。軽く目を見開いたままま動けなくなった日光に対し、彼女は覚悟を決めてきっと顔を上げた。
「帰しません」
その愚直な眼に、ほむらよりも明らかな欲望と人間らしい不安を見て、知らず日光の喉は音を立てて鳴った。
「主、」
呼びかける声も、従から主へというよりも、男から女へ、という色を濃くしていたが彼は自覚しない。固まって動けぬ日光の胸に彼女は飛び込んだ。
「はしたない女は嫌いですか?」
はしたない、そんなことは彼女が一番知っている。けれど中断するつもりはなかった。彼女は、日光が刀として、いつか命捨てるつもりであるのがたまらなく寂しく恐ろしかったのだ。日光が女の肉で篭絡できるような男だとは露思わなかったが、彼女にある武器といえばその身と、日光が彼女に向ける情のみ。
誘惑の仕方なんか知らない、けれど乞わずにはいられない。意図して彼女はその身のやわらかさを日光の固い肢体に擦り付けながら、再度、問う。
「こんなふうに、はしたなく誘う女は、日光さんにはふさわしくないですか……?」
乳房の先の尖りを、欲に煮えた血潮の熱さを、寝衣越しに日光の肌が感じ取れたかどうかは定かでない。
男らしい喉仏が、ごくり、と動くのを、喜悦を以て彼女は眺めたが日光はたまったものではなかった。恋しい女が、身を差し出している。彼女の気質は日光もよく知っている、腹芸のできぬ、嘘の付けぬ、とにかく正面突破しかできぬ女だ。それが危なっかしくて日光もほだされたのだから間違いない。その彼女が約を違えて迫ってきたのだから、彼女の女としての情がひたすらに日光を求めてやまぬことは彼にも痛いほどにわかった。
しかし日光は彼女の身を婚儀までは清いままにすると一文字の誇りにかけて誓った身である。主に恥をかかせると、わかっていても諫めずにはいられなかった――――彼は、己の肉欲よりもはるか上位に、彼女の身を、彼女が傷つかぬことを置いていたのである。男としての見栄であり、意地であった。
「自分を大切にしてくれ。俺は、」
「刀だ、いつか散る身だとおっしゃるんですよね?」
ぎゅうと彼女は口を一の字にした。まるで恋仲になる前の日光のように。
「散る身というからこそ、私に日光さんを刻んで、残してほしいです。……もう一度、聞きますよ」
ひし、と日光の背に腕を回し、衣越しに爪を立てて問う。
「はしたない女は、お嫌いですか?」
内容は挑発だ、しかし、声は不安にゆれて、すがるような声だった。事実、彼女の心臓は、日光に性的な乞いをすることで嫌われやしないかと、平素とは違う震え方をしていることを余さず彼女に伝えたし、身を擦り寄せられている日光も、彼女の心臓から伝え聞くさびしさを悟っていた。
――――抱くべきか。
そんな念が日光の内を駆け巡る。
純潔のまま初夜まで留め置きたいというのは日光の希望に過ぎない。ほかならぬ主が恋うた女が、身を暴いて物にせよと言うならば、背く理も利もどこにもない。奪い、暴き、胤を植えつければよい、それだけの話。それだけの話としても、審神者の不安と乞いとで揺れる眼を見ると、いま暴いてしまうのはあまりに惜しいように思われた。審神者は意図していないだろうが、その表情も声も、ただ日光だけを乞うていた。
「はしたないのは知っています。でも私は……日光さんが……」
ほしいです、と、消え入るような声で告げられて、日光に何ができただろう。彼はもう少しで、己の胴から審神者を引きはがして唇と舌を奪うところだった。俺がどれほど我慢していると思っているんだ! そんなことを叫びながら、身にすり寄せられている柔らかく、甘く、欲を誘うことだけに特化した匂いを堪能して、その首筋に求愛の痕を残すところだった。
けれど、けれどやはり、彼にとっては、彼女のことが何よりも大切で損なえないものだったのである。
「はしたない女が嫌いか、か」
出た声は、日光が意図したよりも、いや、意図したからか、ずいぶんと感情を押さえて平淡に出た。本当は恥ずかしくて照れくさくてならなかったのに、はしゃぎがちで恥ずかしがりやのお頭を長く支えてきたせいか、日光はこういうときこそ、表層から情をぬぐいがちであった。
行き先をなくしていた手で審神者の首を撫でる。細い首、女の首、少し力の加減を間違えただけで、ぽきり、と折ってしまえる首。その撫で心地は格別だった。急所に触れられても無防備なまま、日光を信じてしまっている審神者の情を受ける心地もまた、格別に思われた。
……日光としても、欲がないわけがない。恋しい女に身を差し出されては木石ではいられない。しかしそうであったとしてももし己が折れた後、彼女を傷つけなどしたら、と、そう想像するだけで喉が張り裂けそうだった。
折れた己が刀としての用もなさぬ奴と侮辱されるのは甘んじて受ける。しかしもし主が、折れなどする刀に身を許したと誹りを受けるようなことになっては折れても折れきれぬ。主だけは、この女だけは何をおいても幸福でなければならないのに、誹りを受けるなどと耐えられない。
はしたない女は嫌いだ、というよりは、お前にそんな振る舞いは似合わない。そういって跳ね除けて一文字に与えらた室へ戻るのが最善手であり、そうすべきなのは日光にも判っていたのに、いざ言おうと審神者の眼を見たとたんに日光は動けなくなる。審神者の眼は、欲よりも懇願と寂しさでゆれていた。
情と不安に揺れる眼、日光のことが好きで好きでならない、身をひとつにしても決して悔いないと、言葉などよりもはるかに雄弁に訴えかけるその目を、うかつにも日光は見てしまった――――うまそうだ、この女が欲しい、と思ってしまった。
そんな己にうろたえて、口元に片手を押し付けた。
日光の狼狽に気づいているのか、日光の腕の中におさまったままでいる審神者は、目線だけで日光に答案を求めた。はしたない女は嫌い? その『女』が目の前の女を指す以上は、日光の答えはどうあがこうが同じものになっていた。
「……お前が、俺を、その……そういう目でみるのは、嫌ではない……」
惚れて求めた女に、乞い、恋い、求める眼で見られて嫌であるはずがない。事実日光の心臓は、戦場でもどんなに不利な戦局でも跳ねやしないのに、審神者の視線だけで千に乱れ、高鳴っていた。日光の返答をうけて、審神者の眼がきらと輝いたのもまた、好ましく、可愛くてならない。
「お前が俺を求めてくれるのが、嫌であるはずがない」
「なら、」
「それでも」
「……それでも?」
「俺は、お前の身だけは損なえない」
日光の言葉をうけて、寂しさと悲しみと、恋しい男に身を許すことのどこが損なうにあたるのかという怒りに、はくはく、と物言いを求めて開閉された審神者のくちびるであったが、そのすぐ隣の、頬ともいえぬ部位へくちづけられて震えさえ忘れてしまった。
――――唇を奪えば、その先を望まずにはいられないと日光自身わかっていたがゆえの、曖昧な接吻だった。
「俺もお前が欲しい、咬み砕いて飲み下して、俺のものにしたい。だが、お前がもし、後ろ指を指されるような……折れた刀に身を許したと、他の審神者どもから嗤われるようなことになっては……」
包み込まれるように、抱きしめられる。日光と審神者は背丈の差があるから、いつも抱擁は、日光が審神者を包みこむように、外界から隠して仕舞いこむような形になる。
とくん、と彼女の心臓が日光への好意で跳ねたのと、日光が欲まみれの息を咬み殺すのは同時であった。
喰らいたい、が、許されぬ。
「俺は俺を千度折っても、許せなくなる」
溜め息のように吐き出された言葉が重かった。恋着と未練の重さだった。あの、男らしい、潔い、日光が。己に対して未練を持っている。それだけで審神者の血は卑しく熱を帯びてしまう。もっと未練を残して、もっと浮世に執着して、命捨てるなどと寝言でも言えなくしてやりたい、
そんな、主として、審神者なるものとして、抱いてはならぬ念をもってしまうほど、彼女のほうが日光を欲していて、欲しくて欲しくて、我がものとしたくて、遠くへ逝かないでほしくて、参っているのだ。……日光の声を聴きながら、彼女はしずかに、その事実を自覚した。
日光を困らせた。
(どうしよう)
悪意あって困らせたかったわけではない。
(さびしかっただけで、私、)
けれど、困らせた。日光は心情をやたらと明らかにする男ではない。疎まれたかもしれない。しつこく面倒だと思われたかもしれない。
(嫌われたかもしれない……)
そう思うと、謝罪はするりと喉から出た。
「ごめんなさい、へんなことを言いました」
一度は約を受け容れて、言質まで与えたことを、反故にしようとした。審神者なるものと刀剣とのかかわりとして、褒められたことではない。それだけ彼女は日光がいなくなることを怖れて日光の痕跡をほしがっていたのだと、そんなことは勘案にも入らない。
非は彼女に在った。謝罪し、身を離し、日光の寝衣を掴んだままでいる手を離す。それだけのこと、それだけをすべきなのに、身を離すまでは出来ても、手に握った日光の衣を離すのがどうしてもできなかった。別れがたいという情を殺しきれなかった。審神者としては恥ずべきことと知りながら、やはり彼女は、どうしても日光を留め置きたくて手放したくなくてならなかったのである。審神者が手を離せば、いつだって日光は、戦場の奥深く、審神者の手の届かぬ所で吶喊して、貫き通して、二度と帰らぬ、そんな不吉な予感が日光からは常にした。命は捨ててこそ、そう思っているという確信があった。
この男は、命を惜しまぬ。ゆえに、いつであっても、己の手の届かぬところへ逝きうる。そう思うと、血も胎もざわめいてならなかった。己のうちに、たしかにこの刀が、男がいたと刻み付けてほしいのに、肝心の日光がそれだけはならぬという。いつだって、己は斃れうるという。手を離せるわけがなかった。
そんな、寝衣を摘まむんだか掴むんだかわからない中途半端な手つきで、あなたを手放したくない、そばにいて、と乞われて、名残惜しい離れがたいと目に見える形で執着されて、はいそうですかと頷けるほど、日光は木石ではなかった。己の衣を握った審神者の手を、己の手で包んでしまう。
「今夜は」
日光は、己は何を言おうとしているのだろう、と、意識の遠いところでぽつんと言う別の己の存在を感じた。感じると同時に殺した。そんなのは要らない。この女が己を求めたこと、己もこの女から離れがたいこと、けれど、この女だけは傷つけたくないこと、その三点のみが重要事であった。
「……今夜は、帰らなくていいのだろう?」
片手は審神者の手をくるみ、片手は照れと恥じらいに口元を隠し、両の眼を少しだけ泳がせながらも彼は問うた。
「お前の室にいてもいいのだろう?」
ぎゅうと手に力を入れて離すまじとしながら言われたものだから、たまらず審神者は日光の顔を見てしまった。
その愚直と至誠の、ふたつの紫が、女恋しとありえぬ色で煮えているのを、そして、その熱を抑えて彼女を傷つけまいとしているのを、ひた、と、見てしまった。
ひゅ、と、息を呑んでしまった彼女の頬にくちづける。唇にはしない。そんなことをすれば何をどうしてしまいたくなるのかは、日光が一番わかっていた。
「室に入れてくれ。同じ寝床で眠りたい。……一文字の名誉にかけて、何もしないと誓う」
頬に口寄せたまま言うので、彼女は気が遠くなりそうだった。
こくん、と、頷いて日光を受け容れてしまってからのちのことは、実は彼女にとっても夢見心地のうちに起こったことで、こまやかな認知はできていない。彼女の頷きに日光は瞼へのくちづけで応えて、彼女を抱えるようにして室へ入った。彼女の布団は日光には小さいのに、いや、小さいからこそ、日光は身を曲げ、足を曲げ、彼女と隙間なく寄り添い寝床を共にしなければなからなかった。己から誘ったことであるのにやはり心臓がありえない跳ね方をした審神者に、日光は蟀谷へくちづけて宥める。
「誓って、婚儀までは何もしない」
婚儀の後は覚悟しろ、とは言わずに置いた。
声だけは努めて静かに保ったがやはり底に熱がうかがえる声に、審神者の胎がさざめきそうになる。
(この、私を傷つけまいとするひとが、私の夫になる刀。いつだって私を置いて逝く覚悟のまま、翻意してくれないこのひとが、私の夫になる刀。)
たまらなくなって日光の眼を見ると、その紫は審神者が予想したよりもずっと穏やかで優しい色をしていた。
「何もしない。安心して眠ってくれ」
いつだって彼女は、日光の眼が、冷たいとさえ言われることもある日光のあの眼が、まるで人間みたいに眦を下げて優しく甘く笑みをかたちどると、心臓が震えてしまってならなくなる。それと同時に、こころのうちをいつだって丸裸にされてしまうのだ。
「……日光さん、さっきはごめんなさい」
「気にしない」
「一緒に寝てくれて、ありがとう」
「俺がしたかっただけのこと」
「婚儀までですよね? 婚儀のあとは日光さんに好きなだけ甘えていいんですよね?」
「……うむ」
「楽しみです。そしたら日光さんは、私の旦那さんなんですもん」
「今でもお前の刀だ」
「旦那さんになった日光さんも欲しいんです」
わたし、あなたがほしいの、死地(よそ)へなんて逝かないように。
言葉にはしなかった本音がどこまで日光に届いたかは知れぬ。ただ彼女は、届いていなければよい、と思った。届けば、刀である日光にはただの負荷であろうと思ったのである。
「婚儀が楽しみですね」
「そうだな」
そこから、婚儀用にと日光が彼女に選び与えた色打掛の話になり、衣といえばと日光の内番着を先日彼女が繕った話になり、修繕といえばとそろそろ本丸内の道場の傷みをどうにかせねばという話になり……日光の相槌が穏やかで、染み入るので、よもやま話は随分長く続いた。
日光の声を聴きながら、とろ、とろ、と安心しきって眠りまなこになった審神者が、どこまで起きていての言葉であるのか、はやく日光さんのものになりたい、と言ったのは、夜も更けてのことだった。彼女も半分眠っていただろう、日光の身体に己の身を預けきって夢と現の境目を行き来していた。
もはや聞いてはいまい、そう思いながらも、日光は口をひらいた。
「先ほどの、『はしたない女は嫌いか』だが」
彼女はほとんど寝入りかけながら、かろうじてまぶたをあけた。ただ目を開けてぼんやりとしていただけだったから、日光の紫の眼がどんな色をしていたかを視認できていたかどうかは知らぬ。
日光の声を聴きながら夢へ夢へと落ちていこうとする彼女を、日光も引き留めはしなかった。とん、とん、と、背をやわらかに叩いて見送る。それに彼女は必死で抗うのだが瞼はとても正直だった。
「にっこうさん……?」
「俺は、お前が俺を求めてくれるのを、はしたないとは思わない」
日光だって、いつもならこんなこと素面では言えない。けれど彼女がもう眠る間際と思ったから、彼女が相手であったから、油断するように白状してしまった。
「……嫌どころか、うれしいと思う」
どこまで理解しているのか、日光の、うれしい、に反応してへにゃりと笑った彼女に、日光は耳を少し赤くした。……この審神者は、腹芸ができない。将としてどうかと思うときもあるが、特に日光に対して嘘をつくのが苦手だ。うれしいときはうれしいといい、楽しいときは楽しいという。その審神者が、日光がうれしいというのを素直に喜ぶのである。さすがに気恥ずかしい。
しかしこれだけはと日光は釘を刺そうとした。彼女は眠りかけているから覚えてはいないかもしれない。覚えておらぬほうがいい、覚えていては怯えさせてしまうかもしれない。刀の情が、人と違う深さ濃さであることに。
「お前が欲するのが俺であるならば、うれしい。……俺でないならば、俺は許せない」
審神者は主であり日光は従である。万一にも日光の他に好む相手ができたとなれば、日光は審神者に対して何も口出しできない。しかし、それを認めることはできない。おそらく、呪う。慍むでは済まさぬ。相手となった男を許さないし、審神者のことも許せない。きっと苛烈な情のままになるだろう。
「他の男などにその身をくれてやるなよ」
怯えさせぬように、夢のうちに刷り込むように、やわやわと、しかし断固として、己であればいい、他の男になど見向きもするなと願われて、審神者の眠りかけの脳は意味が取れずにぽやぽやと停止して眠りに落ちかける。
「どうして?」
なんでそんなことをいうの、とでも言いたげな、無邪気な寝ぼけ声だった。
「なんだと……?」
「私、日光さんしか欲しくないのに、どうして」
こんなにあたたかく包んで、よく眠れるようにしてくれるの、日光さんだけなのに。そんな寝言を言いながら、彼女は日光に身をすりよせて、そして眠りへと旅立った。
日光は暫し、何も言えぬまま、腕の内に眠る彼女をまじまじと見たままでいた。
やがて、恋しい女が欲しがっているのが己だけという事実に胸の内を熱くしながらも、彼女の安心しきった寝顔が愛しくてかわいくて、日光もまた眠りにつくことにした。
――――婚儀が済んだなら、容赦はしない。
喉の奥から湧く熱を奥歯で噛み殺しながら、日光はゆっくり、ゆっくりと寝入った。深夜だった。
翌朝、日の出の気配に日光が目を覚まして身じろいだので、それにつられて彼女も目を覚ました。やはり狭い布団で身を寄せ合い動きが制限されたこともあってか、日光の美しくしなやかな長髪にはしっかり癖がついていて、彼女はそれを見て笑った……笑う彼女にもしっかり寝癖がついていたので、たまらず日光も笑った。
審神者は日光の髪を丹念にくしけずり、鼻歌まで歌いだしそうに上機嫌であった。身を重ねなかったとはいえ、男と枕を並べて共寝したのちとは思えぬすこやかさに、なぜだか日光の喉は鳴る。
(初夜の床では、)
彼はもう、腹いっぱいに貪ってよいのだ。
追伸:
なんの前置きもなく左腕が主のところへいったきり夜中になっても戻らなかったので、実は山鳥毛と南泉は祝杯をあげていた。日光の一度決めたら貫徹する質は彼らこそ知っていたが、日光と審神者がどうにかなる前からずっとはらはらどきどきしながら見守ってきたので彼らが結びついたなら重畳と思っていた。
それを早朝に、審神者の気配をほとんどつけぬ――しいて言うならば髪紐にだけ、審神者が日光の守護を願っての霊力が結びついていた――ままで一文字の部屋へ戻ってきたので、彼らはさすが日光と思いながらも、やっぱり落胆して日光を迎え入れたとかなんだとか。
(おしまい)
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