OLの徒然なる
名前変換
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カチッ、と大きな時計の長針が止まった。
通常の生活をしている一般人ならば、大体の人が空腹を覚えている時間。
パソコンに向かって上司から頼まれた仕事をこなしていた彼女も例に漏れずだった。
「(お腹は減った…、減ったけど…)」
なんとなくキリがよくない。そういう時はよくあったりする。
別段急かされた仕事でもなし、彼女の上司はそこで仕事を一旦中断してラウンジに行こうが叱責することはないだろう。
ただ、収まりが悪い。
パソコンに並んだ文字列を一瞥すれば、再びタイプを始めた。それが彼女の選択だったらしい。
そこそこの広さのあるその部屋には、今のところ彼女ー名字名前ーしか見当たらない。
上司にあたる人物は基本的に外勤で、そのサポート業務を行う名前は当然のごとく部屋に一人なのだ。
他に同じ役職の人間がいないからである。
最初の頃は名前自身、寂しさというか頼れる人間が側にいないことに心許なさも感じたが、今やそういうものは凌駕してしまった。
人というのは何をするにしても最初は戸惑うもので、いつかは慣れていくということを彼女が思い出したからだった。
既に規定の昼食時間からはおよそ一時間が過ぎようとしていた。名前の綺麗に整えられ、薄く色づいた指先は未だタイプを止めない。要するに、作業は未だ終わっていないということ。
いい加減、空腹も限界なのだろう。証拠に、この部屋でただただ、グ~という間延びした音が発生している。
「(女子としてはいかがかと思うけどー、誰もいないしいいや…)」
こういう時に部屋に一人、というのは大変に気楽なものだ。
しかし、油断は禁物である。来てほしくない時に、人は現れたりする。今は誰とも会いたくない、とか、バレたくないと思うとバレたり。
「…名前ちゃん、そんなにお腹空いてるなら休憩とっていいよ?」
「!!!」
「急ぎじゃないのに、本当に真面目だなぁ。一緒にお昼でも食べるかい?」
「聞いてたんですね…部長…」
勿論、自分の部屋だからノックをして入る必要はないのはわかるが、せめて何か物音をさせてくれと、名前は心底思った。気配さえわかれば、物音でなんとかしたのにと。椅子を引く音とか、無駄にタイプ音を出したりとか。
部屋の長たる人物は、扉の外からも聞こえたのか、それともこっそり入って聞いてしまったのかはわからないが、くっと口を噛み締めて笑いを堪えている。
それが年頃の女性へのせめてもの情けなのだろう。
しかし、笑われてる本人は部長ー唐沢克己ーに対して、せめて思い切り笑ってくださいと抗議していた。
「根の詰めすぎは良くない。プレゼンが明日って訳でもないしさ」
「なんだかキリが悪くて、キリのいいところまでーってと思っていたら、この結果です…」
妙に頬が赤いのは、当然羞恥によるものに決まっている。心の中だけではなく、表向きでもため息をつく彼女は、とりあえずキーボードから手を離した。
自分のデスクに荷物を置いた唐沢の手には、おそらく出先で買ったであろう弁当があるのが名前の目に映った。誘ってくれてはいるが、きっと誘いを受けたらその弁当はきっと家に持ち帰られるのだろう、とそう思ったら名前は首を横に振った。
「ラウンジで簡単なものを食べてきます。部長が帰ってきましたし、作業も部長に聞きながらの方が、部長にとっても都合が良いと思うので」
「お互い、お昼は随分ずれ込んだものだね」
苦笑しながらデスクで弁当の入った袋に手を突っ込む唐沢を見た名前は、データを保存すると、スマートフォンと財布を持ち、唐沢に一礼と一言添えると、部屋を出た。
唐沢の言うようにお昼の時間から随分と過ぎていた上に平日のせいか、ラウンジは閑散としていた。
適当なサンドウィッチとカフェオレを手にした名前は、どこにでも座ってくださいと言わんばかりのラウンジの机に荷物を置き、腰掛けた。
ふぅ、とカフェオレを飲んだ後に一息。眼精疲労を思わせる頭重感が少し軽くなったような気がした。
慣れた手つきでスマートフォンのロックを解除すれば、何かの通知が届いていた。
画面の表示に出てきた名前に、彼女の表情が緩む。
「(今、やっと休憩…っと)」
フリック操作で文字を入力して、送信する。
付き合って何年か経つ恋人への返信だった。相手は社会人で、彼女よりも5歳程度年上。
年上らしい包容力と近すぎない距離感が好ましいと、知り合いが開いた飲み会で出会ったときの第一印象だった。
最近は仕事が忙しいからと会えてはいないが、特に彼女は心配もしていなかった。当然、仕事で疲れていやしないかという心配はしていたが、色事に関する心配は全く。
要するに、誠実な人ということらしい。
「今からお昼?」
恋人への返信に気をとられていた彼女は、すぐ後ろに来ていた人の気配に全く気づいていなかった。びっくりしたように体を震わせると、後ろを振り返り、少し安堵した。
「なんだ、ユズルくんかぁ。後ろから来たからびっくりしちゃった」
「名前さんがスマホに夢中になってたからだと思うけど…」
なんとなく気恥ずかしくてスマートフォンを慌てて伏せる名前に、なんとなく察するユズル。噂では聞いたことがあったけど、とぼんやり思うユズルは少し慌てた名前に対して珍しいものが見れたかも、と思うに止まった。
恋バナの好きな女子や、からかいたがりの奴らは深く突っ込むだろうが。
自然な流れでそのまま名前の向かいの席に座れば、彼女も向き直ってユズルを見た。
「今日は早い?他の子たち、いないし」
「先生の都合で少し最後の時限が早く終わって。ラウンジに寄ったら名前さんいたから」
「そかそか、学校終わってすぐだし、少し落ち着いていったら?」
「うん、そうしようかな」
遅い昼ご飯に手を出し始めた彼女に、何かを少し言いたげになった様子のユズルだったが、少し躊躇った後、口を噤んだ。
お互いおしゃべりという訳ではない上に、二人の橋渡しをしてくれた人物はつい数ヶ月前にいなくなってしまった。共通の話題になる人が、いなくなってしまったのだ。
だからこそ、ユズルのその様子を彼女は見逃しはしなかった。しかし、わざわざ聞き出すことも、しなかった。
彼の聞きたいことについて、ずっとはぐらかし続けることに彼女は罪悪感を覚えていたから。
「…だいぶ遅めのお昼だからさ、お腹の減りのピークが通り過ぎちゃって。夜にいっぱい食べる羽目にならなきゃいいけど」
「 夜に食べ過ぎないようにね、この間名前さん夜にケーキ食べたって言ってたし。それでその後ダイエットーとか言ってたの覚えてる」
少し本調子になってきたユズルの様子に、名前はふっと口元が緩んだ。
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