堀宮
「秀、次の日曜日、よかったら海にいかない」
あかねの言葉から敬語が消えたのはいつからだろう。もうずっと昔だったような気がする。高校生のころは、たしか敬語だった。大学生のころはどうだっただろう。社会人は?そこまで考えて、彼との関係の長さに笑った。これは、敬語も取れるわけだ。
行先のちがう段ボールが転がったガランとした部屋に、カーテンのない窓から差し込む日差しが四角く床を焼いた。そこをぼんやりと眺めていたら、不意にあかねがそう呟いた。
「海?」
「うん」
「今、冬だよ」
「人がいなくて、よさそうだね」
俺の好きなあかねの小奇麗な横顔を見つめると、明日のためにあとでラモーンズのCDを借りにいこう、と云われた。俺の好きな歌手がラモーンズで、だけどその音楽がiPodにしか入っていないということを彼は知っているのだ。
「調子にのっているかもしれないけど、井浦くんに好きな人がいないなら、一緒にいたいです」
あかねが、そんな遠まわしすぎる告白めいたことを口にしたのは、数年前のことでだった。俺はその真意に気づいていたはずなのに、自分のいいように解釈して、いつものようにおちゃらけてみせた。自分で云うのもあれだけど、同世代のなかでは一番大人だったし空気が読めた俺は、そこでもどういう態度を示したら自分にいいように転ぶかわかっていて、それを自覚する前に態度に示していたのだ。
「井浦、彼女できないの知ってんじゃん。全然いいよ」
あかねの傷ついた表情と言葉を発しようと開いた口が弱々しく笑みをつくったのを見た瞬間、予感めいた決心をした。あかねが離れていくまで、俺は彼女をつくれない。そして、つくらない、と。
つまり、俺もたぶんあかねのことが嫌いではなかったのだ。彼の抱いている好意が自分のそれと少し違っていても気にならず、彼に嫌われたくないと思う程度には。
あかねの恋や愛でぬれた唇を、やさしさとちょっとした自責で舐めて重ねた。そして、おなじ唇で問いをなげかける。なんで?どうして?と。あかねは、困ったような顔をして、わかっているくせに、なんて三文小説じみた台詞を二枚目役者の最高にエロい顔で云ってしまうわけだから始末に悪い。生でセックスしなきゃセーフでしょ。なんて保険の教科書を逆読みしたような思考と、揺れた空気によって感じる濡れた唇に、拒んだら、あかねは、いい思い出をありがとうございます、なんて云って笑ってオレの前から立ち去るのだろう、という確かな予感に裏付けされた怒りが頭のなかでマーブルを描き沈んでいった。
いろいろ終わった後の、井浦くんは流されやすいんですね。優しいからかな?に、好きじゃなきゃできねえよ、とみょうに低い声で返したのを覚えている。ゴミ箱のなかの蛍光グリーンに、誓える程度には、俺は、あかねのことが好きだという事実がこのとき発覚したのだった。それが、あかねと俺のはじめてだった。
そのあと、何度もあかねとはそういうことをした。なんだか色々ちゃんとしないといけないことだとか、考えていた難しいこととかはあったんだけど、それにちゃんと向き合うほど真面目ではなかったし、場面で好きに自分を弄れる器用さも持ち合わせていたから、差し迫って、この関係に困ることもなかったのだ。愛とは惰性である。そんな格言めいたことを頭の片隅に転がしながら、朝日に目を細めての賢者タイムは、それほど悪いものでもなかったし。
スピーカーから流れる激しいギターの音と単語ばかりの歌詞に、やっぱり、あかねにはこの音楽は似合わないな、と思った。信号が赤になったのをいいことに、スピーカーの停止ボタンを押す。
「いいの?」
「んぅ、気分じゃないから」
「ふーん。もう、つくかな?」
「波の音、聞こえる?」
助手席の窓があいて、ビュウビュウと音を立てて、こもっていた車内の空気をかき混ぜる。あかねのシャンプーの匂いや、さっきドライブスルーで買ったコーヒーの匂いのかわりに、かすかな潮の香りが車内を包んだ。
「音は、きこえないね」
あかねの楽しそうな声音と裏腹に、どこか楽しめない自分がいた。
それは、たぶんきっと。まぁ。
「次の角を曲がったら、いきなりバァッと海が広がってたりしないかな?」
俺の言葉に、グッとあかねが窓に身体を寄せるのがわかった。あかねのこういう子どもっぽい仕草は、とても可愛い。元来、お兄ちゃんで、きてしまった俺は、そういうのに弱いのだ。
「首出すなよ。せっかくのイケメンなんだから」
アハハ、とあかねが笑ったので、俺も笑う。
唐突に、視界が広がって、思わず二人で歓声をあげた。
冬の海は、真っ黒くて、白い波が、まるで浜辺を削るように、力強くうちつける。そして、それに反するように空はどこまでも青く透き通っていた。地平線すれすれに鎮座した太陽が、あまりにも鋭くて、目を細めなきゃ立っていられない。
灰色の砂浜には、色々な物が転がっていて、俺たちは、それら一つ一つを物色して浜を歩くことにした。だって海の水は泳ぐにはつめたすぎるし、そこでなにかするにも、物陰もなにもなかったから。
しなびてビニールみたいになったクラゲやウッと鼻をつまみたくなるような臭いを放っているフグの死体とか、あとは色とりどりの世界中のゴミ。そういう不必要なもののなかから、陽の光を淡く閉じ込めるビーチグラスを見つけて、あつめていく。
「あっ、見て。秀の色」
淡い緑のピーチグラスを手のひらにのせられる。
ざらざらしたビーチグラスの感触から、元のかたちをさぐろうとして、あきらめた。
「あかねのはないかな?」
「ピンクの瓶って、あったけ?」
「香水とか?」
「高級品だね」
煙草をだして、それに火をつけた。あかねのゆるい視線が俺の口先をとらえ、地平線に向けられるのを肌で感じながら、俺は、煙草の煙の行方ばかりを目で追った。あかねが、俺が吸うたばこも、俺の聴く音楽もあまり好きではないことを知っていた。
「俺たちは、きっと似たもの同士だったんだ」
「うん」
あかねは、敬語という道具で、周りとうまく距離をとって生きてきたし、俺は、道化という仮面で、友達との距離をつめて生きてきた。それはけっして悪いことではなかったけど、お互いに見えていた姿が少しちがっていたから、時間とともに、それは、俺たちの形をそこなわせた。
手のひらのなかのガラスを思い切り海に放り投げた。さまざまな放物線を描き、青、茶色、そして緑の光を閉じ込めたそれは、暗い青色に吸い込まれて消えていった。
「すみません、煙草苦手なんです」
「そうなんだ。ごめんね」
最後の煙を吐き出して、胸ポケットから取り出した携帯灰皿に半分ほど残った煙草をねじ込んだ。
「寒くなってきましたね。帰ります?」
「うん。明日早いしね」
傾いた太陽は、赤く空を染めながら、ゆっくりと海を明るく染め、沈んでいく。
俺は、あかねの敬語を笑い飛ばしてしまいたかった。
あかねの言葉から敬語が消えたのはいつからだろう。もうずっと昔だったような気がする。高校生のころは、たしか敬語だった。大学生のころはどうだっただろう。社会人は?そこまで考えて、彼との関係の長さに笑った。これは、敬語も取れるわけだ。
行先のちがう段ボールが転がったガランとした部屋に、カーテンのない窓から差し込む日差しが四角く床を焼いた。そこをぼんやりと眺めていたら、不意にあかねがそう呟いた。
「海?」
「うん」
「今、冬だよ」
「人がいなくて、よさそうだね」
俺の好きなあかねの小奇麗な横顔を見つめると、明日のためにあとでラモーンズのCDを借りにいこう、と云われた。俺の好きな歌手がラモーンズで、だけどその音楽がiPodにしか入っていないということを彼は知っているのだ。
「調子にのっているかもしれないけど、井浦くんに好きな人がいないなら、一緒にいたいです」
あかねが、そんな遠まわしすぎる告白めいたことを口にしたのは、数年前のことでだった。俺はその真意に気づいていたはずなのに、自分のいいように解釈して、いつものようにおちゃらけてみせた。自分で云うのもあれだけど、同世代のなかでは一番大人だったし空気が読めた俺は、そこでもどういう態度を示したら自分にいいように転ぶかわかっていて、それを自覚する前に態度に示していたのだ。
「井浦、彼女できないの知ってんじゃん。全然いいよ」
あかねの傷ついた表情と言葉を発しようと開いた口が弱々しく笑みをつくったのを見た瞬間、予感めいた決心をした。あかねが離れていくまで、俺は彼女をつくれない。そして、つくらない、と。
つまり、俺もたぶんあかねのことが嫌いではなかったのだ。彼の抱いている好意が自分のそれと少し違っていても気にならず、彼に嫌われたくないと思う程度には。
あかねの恋や愛でぬれた唇を、やさしさとちょっとした自責で舐めて重ねた。そして、おなじ唇で問いをなげかける。なんで?どうして?と。あかねは、困ったような顔をして、わかっているくせに、なんて三文小説じみた台詞を二枚目役者の最高にエロい顔で云ってしまうわけだから始末に悪い。生でセックスしなきゃセーフでしょ。なんて保険の教科書を逆読みしたような思考と、揺れた空気によって感じる濡れた唇に、拒んだら、あかねは、いい思い出をありがとうございます、なんて云って笑ってオレの前から立ち去るのだろう、という確かな予感に裏付けされた怒りが頭のなかでマーブルを描き沈んでいった。
いろいろ終わった後の、井浦くんは流されやすいんですね。優しいからかな?に、好きじゃなきゃできねえよ、とみょうに低い声で返したのを覚えている。ゴミ箱のなかの蛍光グリーンに、誓える程度には、俺は、あかねのことが好きだという事実がこのとき発覚したのだった。それが、あかねと俺のはじめてだった。
そのあと、何度もあかねとはそういうことをした。なんだか色々ちゃんとしないといけないことだとか、考えていた難しいこととかはあったんだけど、それにちゃんと向き合うほど真面目ではなかったし、場面で好きに自分を弄れる器用さも持ち合わせていたから、差し迫って、この関係に困ることもなかったのだ。愛とは惰性である。そんな格言めいたことを頭の片隅に転がしながら、朝日に目を細めての賢者タイムは、それほど悪いものでもなかったし。
スピーカーから流れる激しいギターの音と単語ばかりの歌詞に、やっぱり、あかねにはこの音楽は似合わないな、と思った。信号が赤になったのをいいことに、スピーカーの停止ボタンを押す。
「いいの?」
「んぅ、気分じゃないから」
「ふーん。もう、つくかな?」
「波の音、聞こえる?」
助手席の窓があいて、ビュウビュウと音を立てて、こもっていた車内の空気をかき混ぜる。あかねのシャンプーの匂いや、さっきドライブスルーで買ったコーヒーの匂いのかわりに、かすかな潮の香りが車内を包んだ。
「音は、きこえないね」
あかねの楽しそうな声音と裏腹に、どこか楽しめない自分がいた。
それは、たぶんきっと。まぁ。
「次の角を曲がったら、いきなりバァッと海が広がってたりしないかな?」
俺の言葉に、グッとあかねが窓に身体を寄せるのがわかった。あかねのこういう子どもっぽい仕草は、とても可愛い。元来、お兄ちゃんで、きてしまった俺は、そういうのに弱いのだ。
「首出すなよ。せっかくのイケメンなんだから」
アハハ、とあかねが笑ったので、俺も笑う。
唐突に、視界が広がって、思わず二人で歓声をあげた。
冬の海は、真っ黒くて、白い波が、まるで浜辺を削るように、力強くうちつける。そして、それに反するように空はどこまでも青く透き通っていた。地平線すれすれに鎮座した太陽が、あまりにも鋭くて、目を細めなきゃ立っていられない。
灰色の砂浜には、色々な物が転がっていて、俺たちは、それら一つ一つを物色して浜を歩くことにした。だって海の水は泳ぐにはつめたすぎるし、そこでなにかするにも、物陰もなにもなかったから。
しなびてビニールみたいになったクラゲやウッと鼻をつまみたくなるような臭いを放っているフグの死体とか、あとは色とりどりの世界中のゴミ。そういう不必要なもののなかから、陽の光を淡く閉じ込めるビーチグラスを見つけて、あつめていく。
「あっ、見て。秀の色」
淡い緑のピーチグラスを手のひらにのせられる。
ざらざらしたビーチグラスの感触から、元のかたちをさぐろうとして、あきらめた。
「あかねのはないかな?」
「ピンクの瓶って、あったけ?」
「香水とか?」
「高級品だね」
煙草をだして、それに火をつけた。あかねのゆるい視線が俺の口先をとらえ、地平線に向けられるのを肌で感じながら、俺は、煙草の煙の行方ばかりを目で追った。あかねが、俺が吸うたばこも、俺の聴く音楽もあまり好きではないことを知っていた。
「俺たちは、きっと似たもの同士だったんだ」
「うん」
あかねは、敬語という道具で、周りとうまく距離をとって生きてきたし、俺は、道化という仮面で、友達との距離をつめて生きてきた。それはけっして悪いことではなかったけど、お互いに見えていた姿が少しちがっていたから、時間とともに、それは、俺たちの形をそこなわせた。
手のひらのなかのガラスを思い切り海に放り投げた。さまざまな放物線を描き、青、茶色、そして緑の光を閉じ込めたそれは、暗い青色に吸い込まれて消えていった。
「すみません、煙草苦手なんです」
「そうなんだ。ごめんね」
最後の煙を吐き出して、胸ポケットから取り出した携帯灰皿に半分ほど残った煙草をねじ込んだ。
「寒くなってきましたね。帰ります?」
「うん。明日早いしね」
傾いた太陽は、赤く空を染めながら、ゆっくりと海を明るく染め、沈んでいく。
俺は、あかねの敬語を笑い飛ばしてしまいたかった。
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