マギ
「ヤムライハ、ジャーファルの様子はどうだ?」
「かろうじて息はあるという状態です。かけられた魔法の命令式が複雑で解除方法がまだわからないのですが、恐らく直接体のあらゆる器官に作用して活動を止め、死に至らしめるものかと・・・。解析を行っていますが、仮に解除方法が分かったとしても今のジャーファルさんの傷の深さと体力を考えると、身体がもつとは思えません。」
重たい響きをもったシンの声と、もう泣いてしまっているのではないだろうかと思われるような悲痛なヤムライハの声がした。ぼやけていた視界が次第にはっきりしてくる。体はその存在が分からないほどに重かった。
ここは、どこだ・・・。朦朧とした頭で記憶を探る。
アル・サーメンを倒して、世界は平和になったように思われた。しかし、世界はそれを許さなかった。出る杭は打たれる。大きな力は、人々に恐怖を与え、そして、忌み嫌われた。
“シンドバッドを・・・、あの化け物を生かしておいてはいけない”そんな声を聞くようになり、そしていつしか、シンドリアは世界に敵とみなされてしまった。
“どうして、シンドリアが・・・、あの化け物の国だけがあれほどにも栄えている?”、“私たちがこれほどに衰えているのは、きっとあの国のせいに違いない”。皮肉にも、シンドリアという共通の敵を見出し、それまでいがみ合っていた国々でさえ、停戦し、協定を結びシンドリアを・・・建国者であるシンドバッドを攻め滅ばせようと動いた。
それからの日々はあっという間・・・。シンドリアの美しく青々とした自然は今や見る影もない焼け野が原であるし、民は疲弊し、ある者は死に、またある者は王に刃を向けた。
あぁ、自分はあの時。シンドリアの北の海岸に敵軍が上陸してきたと聞いて、そこへ向かって・・・、そこで。
敵軍から放たれた赤い閃光が体を貫いたのを覚えている。体の感覚が持っていかれる感覚と、そして視界の端に映ったその光を綺麗だと思ったのを。
「シン・・・」
口から出た声は自分のものとは思えないほど掠れて弱々しいものだった。
「ジャーファル!」
駆け寄ってきたシンが勢い余って手をつきベッドが軋む。
あぁ、シンのこんな顔を見たのはいつ振りだろう。不安に揺れる瞳に硬く噛みしめられた唇。手を伸ばしてシンの頬を撫でて大丈夫と云いたかったけれど、腕は重く動かせる気がしなかった。
慟哭の声をあげながらヤムライハが膝から崩れ落ちる。痛々しく頬に貼られた布が彼女の涙を床に落とす前に吸い込んでしまう。あぁ、女の子なのにこんなに傷だらけになって。
「ヤムライハ、大丈夫だから泣かないで」
「ふぁい・・・」
嗚咽を抑え込みながら返事を返すヤムライハの姿があまりにも悲痛で見ていられなかった。
シンのあたたかい手がそっと私の手を握りしめる。
「あぁ、大丈夫だ。ジャーファル。大丈夫だから。」
そんな泣きそうな顔でそんなことを云われても信用できませんよ。貴方はもっと嘘が上手だったでしょう?
握りしめられた手から震えが伝わってくる。不謹慎だけれど、シンが私のためにこんな姿になっているんだと思うと少し優越感に浸れた。
あぁ、自分はこのまま死ぬのかな・・・。ぼんやりした頭でそんなことを思う。そしてそれは実感とともにすとんと胸の底に落ちていった。
自然と喉が鳴る。云わないと。もし自分が死ぬときにシンに伝える言葉なんてずっと昔から決めていた。それこそシンを主だと決めたときから。
「ジャーファル」
シンのあたたかい手がそっと私の髪を梳く。優しい手つきで何度も。まるで子供のころ怖い夢にうなされているときにしてくれたように。シンの手が髪を梳くたびに私のなかの口にしようとしていた言葉が泡のように消えていって代わりにみじめな空気が開いた口からこぼれていく。
上を向いていてよかった。上を向いていなかったらきっと涙が頬を伝っていただろう。泣いてはいけない。それだけを思いながら瞬きをしないようにシンを見つめる。この過酷な日々でやつれはしているものも我らが王は美しかった。双眸の金の瞳は悲しみの色を宿しながらも、未だ輝きを失っていない。
そのとき、扉が勢いよく開いた。血だらけで元の色も分からなくなってしまっているボロを引きづって、顔が半分焼けただれている男が部屋に入ってくる。彼はシンのそばに行き膝をつくとシャルルカンの声でこう云った。
「マスルールが死にました」
・*・*・*・
シンが部屋を出ていってからどれだけ経っただろう。シャルルカンにマゴイを注ぎ、治療室へ連れていったあと、彼は「少し行ってくる。すぐ戻る」と云い残して出ていった。
床にはまだシャルルカンの血痕が残っており、濃い血の匂いに満ちていた。
シャルルカンの痕跡から目をそらすように部屋を見渡すと、華美な模様の天井は煤に汚れ、毛の長い絨毯には汚れが目立つことに気づいて目を閉じた。
この部屋は城の奥にあるから耳を澄ませてみても痛いくらいの無音が広がっているけれど、きっと一歩外へ出たら、戦いの音がするのだろう。
もしかしたら次にこの部屋の扉を開けるのは、シンでも城の者でもなく、マスルールを殺した敵軍かもしれない。そう思うと途端にこの無音が恐ろしく感じる。
馬鹿みたいだ。今まで何度も死にそうな状態で取り残されたこともあったし、血を流しながら凍てつく夜を一人外で過ごしたこともあった。昔の・・・、暗殺集団にいたころの自分が今の自分を見たらきっと「惨めだ」「弱い」と云って笑うだろう。
昔の自分のことを決して好きにはなれないけれど、どうしてだろう。今この時だけは羨ましく思った。
そっと重く閉ざされた扉を見つめる。
「もし、再びこの扉を開けるのがシンだったら・・・?」
私は・・・。
きつく結んだ唇から口内に血の味が広がる。自分は最後までシンの善き従者として生をまっとうできると思っていた。どうして最後の最後にうまくいかないのだろう。
どうせなら、マスルールのように戦いの場でそっと息を引き取りたかった。まるで自分が死んでしまうなんて感じる実感がないまま、冷たい風に晒された蝋燭の火のように。
馬鹿みたいだ。そこまで考えてずっと供に生きてきた友とも家族とも云えるマスルールの死を羨む自分の非道さに嫌になる。
でも、きっとみんな分かっている。この戦争はシンドリアがなくなるまで終わらない。マスルールもヤムライハもシャルルカンもピスティもみんなそんなことはとっくに気づいている。そのうえで斬首台の階段が一歩ずつ踏みしめる囚人のように、死ぬことを前提に生きている。あと何回「おはよう」と「ただいま」と「ありがとう」、そして「さようなら」が云えるのか指を折って数えながら。そしてそれはきっと悲しいことなんだ。死があまりにも近すぎて、近すぎる故に実感が伴わなくてそれを悲しいと思うこともできないほど麻痺し、疲弊している私たちは王の・・・シンの仲間や国民の死を悲しむ姿を見てようやく泣くことができた。
頬にも怪我をしていたのかじくじくと涙が触れた跡が痛む。そっとベッドから足をおろし、床につく。体の節々に痛みが走ったが耐えられない程ではない。一歩二歩と歩を進めるうちに、痛みは薄れていき足は自然と動いた。
背後で扉が閉まる音が聞こえた。
・*・*・*・
「ここ、どこですか?」
足にまとわりつく砂を蹴散らしながら主と決めた男に問いかける。
「舟も壊れてしまいましたね」
砂浜に打ち上げられた元は船だったものを眺める。巨大南海生物の大群に囲まれてこれだけで済んだのだからよかっただろう。命があるまま逃げて来られたのだから。
足の指の間に入りこんでくる砂の不快感に顔を歪ませながらさらに島の奥へと進む。目の前に広がる豊かな緑から食料の心配はしばらくしなくてもよさそうだと安堵した。
「陸地に流れ着いたのは幸いでしたね・・・、ってさっきから聞いています!?」
波打ち際で足を止めたままさっきから私のことを無視し、動こうともしない主に腹を立てながら振り返ると、主は魅せられたようにその金眼を輝かせて目の前の景色を見つめていた。波とともに海原から吹き込んできた風が主の濃紺の髪を揺らす。風がやんだとき主の瞳は他を引き付けるような強い決意の光を宿していた。
「なぁ、ジャーファル、この島を俺達の国にしよう。ここを俺達の・・・みんなの帰る場所にするんだ。」
そう云って笑った貴方と黄金色に輝く太陽とそれをキラキラと反射させ迫ってくるオレンジ色の波を私は一生忘れない。
そのときはじめて「おかえり」と云ってもらえる居場所ができた気がしたんだ――――
・*・*・*・
冷たい回廊に自分の荒い呼吸だけが響く。爆発音がときおり壁を震わせ、その度に聞こえるはずのない悲鳴が耳を裂くようだった。城から市街地を眺めると、厚い煙や土埃が空を覆い、視界は薄暗く、瞼の後ろに焼き付いている美しい街並みは見る影もない。
「ねぇ、シン、貴方云っていましたよね。『大切なものは手から滑り落ちないようにしっかり握りしめておきなさい』って」
きっと、この国は私たちの手には収まりきれないくらいに大きくなってしまったんだ。落とさないように握りしめようと焦るたびに滑ってそして―――――
「なんだか馬鹿みたいですね」
自嘲気味に笑ってから再び壊れてしまった宝物を見下ろした。大切に大切にと守ってきたその結果がこれだなんて。
悲しいけれど後悔はなかった。きっと私が生きてきて唯一誇ることのできるモノだから。
「ごめんなさい」
きっと、この国の誰にも届いていないだろうけれど、懺悔の言葉を眼下の景色に向かって唱えた。最後まで寄り添えなくてごめんなさい。最後まで見届けられなくてごめんなさい――――
瞼に焼き付いた街並みとさよならするように戦争の音に背を向けた。どこからかまるで自分を糾弾するような悲鳴が聞こえてきた気がした。
・*・*・*・
城から一歩外に出ると、長い間室内にいたせいか一瞬視界が真っ白になった。馴れた目に映った世界は変わらずいつものものでまるでさっきまで見ていた世界が夢のなかのものだった気がしてくる。
薄い雲の切れ間から太陽が覗いている。絹のような薄い雲をまとったその姿は神々しく、地上で有害な煙を上げている自分たちを馬鹿にしているようでもある。
時刻は夕刻に差し掛かっているのか空はほのかに赤みがかっていた。
踏み出した足が白く輝く砂に取られる。濃い塩の香りが鼻をかすめ、カフィーヤがはためく。目の前に広がる痛いほど青々と広がる海原に涙が出そうになる。
ずいぶん遠い所まできてしまった。ここが私のはじまりの場所だ。そしてシンドリアのはじまりの場所だった。
崩れ落ちそうな体を引きずって波打ち際までたどりつくと打ち寄せては引いていく波に誘われるように自然と一歩二歩と沖へと進んだ。丈の長い官服がゆらゆらと海面を漂う。視界が歪んで、気づいたら高い飛沫を上げて膝から崩れ落ちていた。打ち寄せる波が胸に当たって砕けては白い泡となって消えていく。いつの間にか冷たくなっていた自分の体と海の境界が分からなくなっていった。波が打ち寄せる音だけが響いていた。他には何もない。
このままこうして海に沈んでいくのかな。
位海の底はとても安心できる場所のような気がした。
「もし、すべてが終わって、貴方にまだ残された時間があったのなら・・・、貴方、ここに来てくれますか?」
呟いた言葉は誰に聞こえることなく潮騒に飲まれて消えていく。それでいいと思った。あの人にこんなことを聞かせる訳にはいかない。
目の前が暗くなっていって深い深い海の底へ沈んでいく。波が打ち寄せる音だけの暗い世界の底へ――――
「っ!?」
突然暗い場所から強い力で引き戻された。後ろから胸の前に回された見覚えのある太い腕と背中に感じる太陽のようなあたたかさ。地平線に傾きかけた太陽が世界を染めている。地平線の彼方から引かれた黄昏の線がそっと私とシンの場所まで続いていた。
冷たいだけの私の頬を体温をもった熱いものが流れた。
「勝手にいなくなるな。心配しただろ」
耳元で感じる声にひどく懐かしさを感じた。抱きしめられた腕の力が強くて体が軋んで痛かったけれど、その痛みさえ心地よく感じた。
「・・・どうして、ここに・・・?」
「お前と何年一緒にいると思ってるんだよ」
「あんた、王様でしょ。馬鹿じゃないですか。なんで来たんです?」
「俺の部下はみんな優秀だから少しぐらい抜けてきても大丈夫だろう」
「あなたの中には責任感という言葉がないんですか?」
胸の前にあった手が肩に置かれてそっと体を反転させられる。
「なに泣いているんですか?」
笑いながら涙を流すシンはすごく歪でそれでいて愛しいと思った。シンの頬を流れる涙にそっと指を伸ばす。指先だけが火傷しそうなほどに熱を持った。
「お前がこんなに泣いているのは子供のとき以来かな」
シンの指先が私の涙でぐちゃぐちゃに歪んだ顔を濡らす涙をそっとなぐってから胸元に引き寄せた。懐かしいシンの匂いに包まれて、乾いた頬に再び涙が伝った。
「私ね、あなたと・・・そして、シンドリアのためだったら自分の命なんてどうなってもいいとそうずっと思って生きてきてきたんです」
「知っている」
シンの鼓動を感じながらゆっくりと息を吸った。
「だけどね、今日もう死ぬんだと思ったとき、死にたくないと思ったんです。急に怖くなったんです。笑いながらあなたに『ありがとうございます。あなたのおかげで私はすごく幸せでした』って云えるとそうずっと思っていたんです。なのに、貴方を前にしたらそんなこと云えなくて。こんな風に泣き喚いて、死にたくないという言葉だけが溢れてきて」
シンの手が優しく頭を撫でてくれる。
「どうして、ここに来たんです。こんなことあなたに云いたくなかった。シンには知られたくなかった」
こんなことを云ってしまってシンはどんな顔をしているだろう。そっとシンの顔を見上げてみたけれど、視界が歪んでシンがどんな顔をしているか分からなかった。目を凝らしてみても色も形も歪んでぼやけて消えてしまう。太陽の赤い光を背負った黒い影へ手を伸ばしたいと思いながらもすでに体は海に溶けてしまったかのようだったからそれもかなわなかった。どんどん死へと向かっていく体に震えそうになる気持ちだけが募っていく。ただシンの心臓の音とそのぬくもりとそしてその匂いを感じているという事実だけが私が今ここに存在しているということの証明だった。
「俺は嬉しいよ。ジャーファルがそう思ってくれて。未練もなんもないですなんて悲しいこと云われるよりもずっと。お前に惜しんでもらえるような世界を作ることができたんだなって思えるから」
私の視力がほとんど失われていることに気づいたシンがさらに強い力で私を引き寄せて、耳元で優しく囁いてくれる。
「そうですね。きっとあなたに出会わなければ、こんなに面倒くさい感情なんて持たなくて済んだのに。あなたのせいですよ」
コツンと音がして私とシンの額が重なる。シンの顔は見えないけれど、どんな顔をしているのかはすぐにわかった。きっと私と同じ顔だ。
唇に柔らかいものが触れて離れていく。少し塩っぽい味。それはいままでのどのキスよりも短くそして忘れることなどできそうにないものだった。
「あーあ、あなたともっと生きたかったな。もう一度くらい世界中冒険してあなたの無茶に付き合うのもよかったかもしれない。続・シンドバッドの冒険なんてどうですか?」
「いいな。しかし、苦労するぞ。俺は止まらないからな。題名はレジェンド・オブ・シンドバッドの方がかっこよくないか」
「少しも落ち着こうとする気がないんですね。いいですよ。もう慣れてしまったので。レジェンドって自分で云ってどうするんです?」
シンの匂いが分からなくなる。こんなに近くにいるのに。
「どうせいつかはレジェンドって云われるに決まっている。はじめから自分で云ってもいいだろう。お前も伝説のシンドバッドの部下ジャーファルだからな。そろそろ腕の5本や10本生やしとかないとな」
シンと一緒に絵の具の付いていない筆で描く未来地図はとても愉快で楽しくて、そして悲しかった。そこには己の暗い過去やシンドリアの国王だとか政務官だとか世界の命運とかそういった煩わしいものが一つもなかった。ただただ楽しくて平和な世界。きっとずっと心のどこかで渇望してきてそうして得ることができなかったもの。
シンの声がだんだん遠くなっていく。波の音がうるさい。波の音でシンの声がよく聞こえない。
「そういえば、私、あなたのことがずっと好きだったんですけど、ご存知でした?」
驚いた顔でまじまじと見つめられ、吹き出しそうになる。
「はぁ、なにを今更。知っているも何もSexだって何度もしてきたん―――」
「いえ、今までお慕いしているとは申しあげていましたが、『好き』と、こう口にすることができなかったので」
いつものように少し挑戦的にシンを見上げる。虚を突かれたようにシンは少し呆けてから、ため息とともに私の肩口に頭を押し付ける。
「まいった。普段は涼しい顔をして無欲なふりをしているのに」
「すみません。ずっと・・・、どうしても欲しかったんです」
シンドリアだけでなく、貴方まで失くしてしまうことには耐えられそうになかった。だから最後に決して外れないエゴにまみれた薄汚く重い鎖を王につけた。それは、従者としてではなくただの私・・・、ジャーファルとしての願いと祈り。
「いいよ。あげよう。俺の残りの人生すべてお前に」
「あははは」
遠くで自分の笑い声が聞こえた。
ねぇ、シンもっとぎゅっとして。シンの体温がわからない。私はあなたの腕のなかにいる??シンの声はいつの間にか波にのまれて消えてしまった。そしてその波の音もいつしか聞こえなくなる。落ちていくなか伸ばした手の先に青い光を見た気がした。
「かろうじて息はあるという状態です。かけられた魔法の命令式が複雑で解除方法がまだわからないのですが、恐らく直接体のあらゆる器官に作用して活動を止め、死に至らしめるものかと・・・。解析を行っていますが、仮に解除方法が分かったとしても今のジャーファルさんの傷の深さと体力を考えると、身体がもつとは思えません。」
重たい響きをもったシンの声と、もう泣いてしまっているのではないだろうかと思われるような悲痛なヤムライハの声がした。ぼやけていた視界が次第にはっきりしてくる。体はその存在が分からないほどに重かった。
ここは、どこだ・・・。朦朧とした頭で記憶を探る。
アル・サーメンを倒して、世界は平和になったように思われた。しかし、世界はそれを許さなかった。出る杭は打たれる。大きな力は、人々に恐怖を与え、そして、忌み嫌われた。
“シンドバッドを・・・、あの化け物を生かしておいてはいけない”そんな声を聞くようになり、そしていつしか、シンドリアは世界に敵とみなされてしまった。
“どうして、シンドリアが・・・、あの化け物の国だけがあれほどにも栄えている?”、“私たちがこれほどに衰えているのは、きっとあの国のせいに違いない”。皮肉にも、シンドリアという共通の敵を見出し、それまでいがみ合っていた国々でさえ、停戦し、協定を結びシンドリアを・・・建国者であるシンドバッドを攻め滅ばせようと動いた。
それからの日々はあっという間・・・。シンドリアの美しく青々とした自然は今や見る影もない焼け野が原であるし、民は疲弊し、ある者は死に、またある者は王に刃を向けた。
あぁ、自分はあの時。シンドリアの北の海岸に敵軍が上陸してきたと聞いて、そこへ向かって・・・、そこで。
敵軍から放たれた赤い閃光が体を貫いたのを覚えている。体の感覚が持っていかれる感覚と、そして視界の端に映ったその光を綺麗だと思ったのを。
「シン・・・」
口から出た声は自分のものとは思えないほど掠れて弱々しいものだった。
「ジャーファル!」
駆け寄ってきたシンが勢い余って手をつきベッドが軋む。
あぁ、シンのこんな顔を見たのはいつ振りだろう。不安に揺れる瞳に硬く噛みしめられた唇。手を伸ばしてシンの頬を撫でて大丈夫と云いたかったけれど、腕は重く動かせる気がしなかった。
慟哭の声をあげながらヤムライハが膝から崩れ落ちる。痛々しく頬に貼られた布が彼女の涙を床に落とす前に吸い込んでしまう。あぁ、女の子なのにこんなに傷だらけになって。
「ヤムライハ、大丈夫だから泣かないで」
「ふぁい・・・」
嗚咽を抑え込みながら返事を返すヤムライハの姿があまりにも悲痛で見ていられなかった。
シンのあたたかい手がそっと私の手を握りしめる。
「あぁ、大丈夫だ。ジャーファル。大丈夫だから。」
そんな泣きそうな顔でそんなことを云われても信用できませんよ。貴方はもっと嘘が上手だったでしょう?
握りしめられた手から震えが伝わってくる。不謹慎だけれど、シンが私のためにこんな姿になっているんだと思うと少し優越感に浸れた。
あぁ、自分はこのまま死ぬのかな・・・。ぼんやりした頭でそんなことを思う。そしてそれは実感とともにすとんと胸の底に落ちていった。
自然と喉が鳴る。云わないと。もし自分が死ぬときにシンに伝える言葉なんてずっと昔から決めていた。それこそシンを主だと決めたときから。
「ジャーファル」
シンのあたたかい手がそっと私の髪を梳く。優しい手つきで何度も。まるで子供のころ怖い夢にうなされているときにしてくれたように。シンの手が髪を梳くたびに私のなかの口にしようとしていた言葉が泡のように消えていって代わりにみじめな空気が開いた口からこぼれていく。
上を向いていてよかった。上を向いていなかったらきっと涙が頬を伝っていただろう。泣いてはいけない。それだけを思いながら瞬きをしないようにシンを見つめる。この過酷な日々でやつれはしているものも我らが王は美しかった。双眸の金の瞳は悲しみの色を宿しながらも、未だ輝きを失っていない。
そのとき、扉が勢いよく開いた。血だらけで元の色も分からなくなってしまっているボロを引きづって、顔が半分焼けただれている男が部屋に入ってくる。彼はシンのそばに行き膝をつくとシャルルカンの声でこう云った。
「マスルールが死にました」
・*・*・*・
シンが部屋を出ていってからどれだけ経っただろう。シャルルカンにマゴイを注ぎ、治療室へ連れていったあと、彼は「少し行ってくる。すぐ戻る」と云い残して出ていった。
床にはまだシャルルカンの血痕が残っており、濃い血の匂いに満ちていた。
シャルルカンの痕跡から目をそらすように部屋を見渡すと、華美な模様の天井は煤に汚れ、毛の長い絨毯には汚れが目立つことに気づいて目を閉じた。
この部屋は城の奥にあるから耳を澄ませてみても痛いくらいの無音が広がっているけれど、きっと一歩外へ出たら、戦いの音がするのだろう。
もしかしたら次にこの部屋の扉を開けるのは、シンでも城の者でもなく、マスルールを殺した敵軍かもしれない。そう思うと途端にこの無音が恐ろしく感じる。
馬鹿みたいだ。今まで何度も死にそうな状態で取り残されたこともあったし、血を流しながら凍てつく夜を一人外で過ごしたこともあった。昔の・・・、暗殺集団にいたころの自分が今の自分を見たらきっと「惨めだ」「弱い」と云って笑うだろう。
昔の自分のことを決して好きにはなれないけれど、どうしてだろう。今この時だけは羨ましく思った。
そっと重く閉ざされた扉を見つめる。
「もし、再びこの扉を開けるのがシンだったら・・・?」
私は・・・。
きつく結んだ唇から口内に血の味が広がる。自分は最後までシンの善き従者として生をまっとうできると思っていた。どうして最後の最後にうまくいかないのだろう。
どうせなら、マスルールのように戦いの場でそっと息を引き取りたかった。まるで自分が死んでしまうなんて感じる実感がないまま、冷たい風に晒された蝋燭の火のように。
馬鹿みたいだ。そこまで考えてずっと供に生きてきた友とも家族とも云えるマスルールの死を羨む自分の非道さに嫌になる。
でも、きっとみんな分かっている。この戦争はシンドリアがなくなるまで終わらない。マスルールもヤムライハもシャルルカンもピスティもみんなそんなことはとっくに気づいている。そのうえで斬首台の階段が一歩ずつ踏みしめる囚人のように、死ぬことを前提に生きている。あと何回「おはよう」と「ただいま」と「ありがとう」、そして「さようなら」が云えるのか指を折って数えながら。そしてそれはきっと悲しいことなんだ。死があまりにも近すぎて、近すぎる故に実感が伴わなくてそれを悲しいと思うこともできないほど麻痺し、疲弊している私たちは王の・・・シンの仲間や国民の死を悲しむ姿を見てようやく泣くことができた。
頬にも怪我をしていたのかじくじくと涙が触れた跡が痛む。そっとベッドから足をおろし、床につく。体の節々に痛みが走ったが耐えられない程ではない。一歩二歩と歩を進めるうちに、痛みは薄れていき足は自然と動いた。
背後で扉が閉まる音が聞こえた。
・*・*・*・
「ここ、どこですか?」
足にまとわりつく砂を蹴散らしながら主と決めた男に問いかける。
「舟も壊れてしまいましたね」
砂浜に打ち上げられた元は船だったものを眺める。巨大南海生物の大群に囲まれてこれだけで済んだのだからよかっただろう。命があるまま逃げて来られたのだから。
足の指の間に入りこんでくる砂の不快感に顔を歪ませながらさらに島の奥へと進む。目の前に広がる豊かな緑から食料の心配はしばらくしなくてもよさそうだと安堵した。
「陸地に流れ着いたのは幸いでしたね・・・、ってさっきから聞いています!?」
波打ち際で足を止めたままさっきから私のことを無視し、動こうともしない主に腹を立てながら振り返ると、主は魅せられたようにその金眼を輝かせて目の前の景色を見つめていた。波とともに海原から吹き込んできた風が主の濃紺の髪を揺らす。風がやんだとき主の瞳は他を引き付けるような強い決意の光を宿していた。
「なぁ、ジャーファル、この島を俺達の国にしよう。ここを俺達の・・・みんなの帰る場所にするんだ。」
そう云って笑った貴方と黄金色に輝く太陽とそれをキラキラと反射させ迫ってくるオレンジ色の波を私は一生忘れない。
そのときはじめて「おかえり」と云ってもらえる居場所ができた気がしたんだ――――
・*・*・*・
冷たい回廊に自分の荒い呼吸だけが響く。爆発音がときおり壁を震わせ、その度に聞こえるはずのない悲鳴が耳を裂くようだった。城から市街地を眺めると、厚い煙や土埃が空を覆い、視界は薄暗く、瞼の後ろに焼き付いている美しい街並みは見る影もない。
「ねぇ、シン、貴方云っていましたよね。『大切なものは手から滑り落ちないようにしっかり握りしめておきなさい』って」
きっと、この国は私たちの手には収まりきれないくらいに大きくなってしまったんだ。落とさないように握りしめようと焦るたびに滑ってそして―――――
「なんだか馬鹿みたいですね」
自嘲気味に笑ってから再び壊れてしまった宝物を見下ろした。大切に大切にと守ってきたその結果がこれだなんて。
悲しいけれど後悔はなかった。きっと私が生きてきて唯一誇ることのできるモノだから。
「ごめんなさい」
きっと、この国の誰にも届いていないだろうけれど、懺悔の言葉を眼下の景色に向かって唱えた。最後まで寄り添えなくてごめんなさい。最後まで見届けられなくてごめんなさい――――
瞼に焼き付いた街並みとさよならするように戦争の音に背を向けた。どこからかまるで自分を糾弾するような悲鳴が聞こえてきた気がした。
・*・*・*・
城から一歩外に出ると、長い間室内にいたせいか一瞬視界が真っ白になった。馴れた目に映った世界は変わらずいつものものでまるでさっきまで見ていた世界が夢のなかのものだった気がしてくる。
薄い雲の切れ間から太陽が覗いている。絹のような薄い雲をまとったその姿は神々しく、地上で有害な煙を上げている自分たちを馬鹿にしているようでもある。
時刻は夕刻に差し掛かっているのか空はほのかに赤みがかっていた。
踏み出した足が白く輝く砂に取られる。濃い塩の香りが鼻をかすめ、カフィーヤがはためく。目の前に広がる痛いほど青々と広がる海原に涙が出そうになる。
ずいぶん遠い所まできてしまった。ここが私のはじまりの場所だ。そしてシンドリアのはじまりの場所だった。
崩れ落ちそうな体を引きずって波打ち際までたどりつくと打ち寄せては引いていく波に誘われるように自然と一歩二歩と沖へと進んだ。丈の長い官服がゆらゆらと海面を漂う。視界が歪んで、気づいたら高い飛沫を上げて膝から崩れ落ちていた。打ち寄せる波が胸に当たって砕けては白い泡となって消えていく。いつの間にか冷たくなっていた自分の体と海の境界が分からなくなっていった。波が打ち寄せる音だけが響いていた。他には何もない。
このままこうして海に沈んでいくのかな。
位海の底はとても安心できる場所のような気がした。
「もし、すべてが終わって、貴方にまだ残された時間があったのなら・・・、貴方、ここに来てくれますか?」
呟いた言葉は誰に聞こえることなく潮騒に飲まれて消えていく。それでいいと思った。あの人にこんなことを聞かせる訳にはいかない。
目の前が暗くなっていって深い深い海の底へ沈んでいく。波が打ち寄せる音だけの暗い世界の底へ――――
「っ!?」
突然暗い場所から強い力で引き戻された。後ろから胸の前に回された見覚えのある太い腕と背中に感じる太陽のようなあたたかさ。地平線に傾きかけた太陽が世界を染めている。地平線の彼方から引かれた黄昏の線がそっと私とシンの場所まで続いていた。
冷たいだけの私の頬を体温をもった熱いものが流れた。
「勝手にいなくなるな。心配しただろ」
耳元で感じる声にひどく懐かしさを感じた。抱きしめられた腕の力が強くて体が軋んで痛かったけれど、その痛みさえ心地よく感じた。
「・・・どうして、ここに・・・?」
「お前と何年一緒にいると思ってるんだよ」
「あんた、王様でしょ。馬鹿じゃないですか。なんで来たんです?」
「俺の部下はみんな優秀だから少しぐらい抜けてきても大丈夫だろう」
「あなたの中には責任感という言葉がないんですか?」
胸の前にあった手が肩に置かれてそっと体を反転させられる。
「なに泣いているんですか?」
笑いながら涙を流すシンはすごく歪でそれでいて愛しいと思った。シンの頬を流れる涙にそっと指を伸ばす。指先だけが火傷しそうなほどに熱を持った。
「お前がこんなに泣いているのは子供のとき以来かな」
シンの指先が私の涙でぐちゃぐちゃに歪んだ顔を濡らす涙をそっとなぐってから胸元に引き寄せた。懐かしいシンの匂いに包まれて、乾いた頬に再び涙が伝った。
「私ね、あなたと・・・そして、シンドリアのためだったら自分の命なんてどうなってもいいとそうずっと思って生きてきてきたんです」
「知っている」
シンの鼓動を感じながらゆっくりと息を吸った。
「だけどね、今日もう死ぬんだと思ったとき、死にたくないと思ったんです。急に怖くなったんです。笑いながらあなたに『ありがとうございます。あなたのおかげで私はすごく幸せでした』って云えるとそうずっと思っていたんです。なのに、貴方を前にしたらそんなこと云えなくて。こんな風に泣き喚いて、死にたくないという言葉だけが溢れてきて」
シンの手が優しく頭を撫でてくれる。
「どうして、ここに来たんです。こんなことあなたに云いたくなかった。シンには知られたくなかった」
こんなことを云ってしまってシンはどんな顔をしているだろう。そっとシンの顔を見上げてみたけれど、視界が歪んでシンがどんな顔をしているか分からなかった。目を凝らしてみても色も形も歪んでぼやけて消えてしまう。太陽の赤い光を背負った黒い影へ手を伸ばしたいと思いながらもすでに体は海に溶けてしまったかのようだったからそれもかなわなかった。どんどん死へと向かっていく体に震えそうになる気持ちだけが募っていく。ただシンの心臓の音とそのぬくもりとそしてその匂いを感じているという事実だけが私が今ここに存在しているということの証明だった。
「俺は嬉しいよ。ジャーファルがそう思ってくれて。未練もなんもないですなんて悲しいこと云われるよりもずっと。お前に惜しんでもらえるような世界を作ることができたんだなって思えるから」
私の視力がほとんど失われていることに気づいたシンがさらに強い力で私を引き寄せて、耳元で優しく囁いてくれる。
「そうですね。きっとあなたに出会わなければ、こんなに面倒くさい感情なんて持たなくて済んだのに。あなたのせいですよ」
コツンと音がして私とシンの額が重なる。シンの顔は見えないけれど、どんな顔をしているのかはすぐにわかった。きっと私と同じ顔だ。
唇に柔らかいものが触れて離れていく。少し塩っぽい味。それはいままでのどのキスよりも短くそして忘れることなどできそうにないものだった。
「あーあ、あなたともっと生きたかったな。もう一度くらい世界中冒険してあなたの無茶に付き合うのもよかったかもしれない。続・シンドバッドの冒険なんてどうですか?」
「いいな。しかし、苦労するぞ。俺は止まらないからな。題名はレジェンド・オブ・シンドバッドの方がかっこよくないか」
「少しも落ち着こうとする気がないんですね。いいですよ。もう慣れてしまったので。レジェンドって自分で云ってどうするんです?」
シンの匂いが分からなくなる。こんなに近くにいるのに。
「どうせいつかはレジェンドって云われるに決まっている。はじめから自分で云ってもいいだろう。お前も伝説のシンドバッドの部下ジャーファルだからな。そろそろ腕の5本や10本生やしとかないとな」
シンと一緒に絵の具の付いていない筆で描く未来地図はとても愉快で楽しくて、そして悲しかった。そこには己の暗い過去やシンドリアの国王だとか政務官だとか世界の命運とかそういった煩わしいものが一つもなかった。ただただ楽しくて平和な世界。きっとずっと心のどこかで渇望してきてそうして得ることができなかったもの。
シンの声がだんだん遠くなっていく。波の音がうるさい。波の音でシンの声がよく聞こえない。
「そういえば、私、あなたのことがずっと好きだったんですけど、ご存知でした?」
驚いた顔でまじまじと見つめられ、吹き出しそうになる。
「はぁ、なにを今更。知っているも何もSexだって何度もしてきたん―――」
「いえ、今までお慕いしているとは申しあげていましたが、『好き』と、こう口にすることができなかったので」
いつものように少し挑戦的にシンを見上げる。虚を突かれたようにシンは少し呆けてから、ため息とともに私の肩口に頭を押し付ける。
「まいった。普段は涼しい顔をして無欲なふりをしているのに」
「すみません。ずっと・・・、どうしても欲しかったんです」
シンドリアだけでなく、貴方まで失くしてしまうことには耐えられそうになかった。だから最後に決して外れないエゴにまみれた薄汚く重い鎖を王につけた。それは、従者としてではなくただの私・・・、ジャーファルとしての願いと祈り。
「いいよ。あげよう。俺の残りの人生すべてお前に」
「あははは」
遠くで自分の笑い声が聞こえた。
ねぇ、シンもっとぎゅっとして。シンの体温がわからない。私はあなたの腕のなかにいる??シンの声はいつの間にか波にのまれて消えてしまった。そしてその波の音もいつしか聞こえなくなる。落ちていくなか伸ばした手の先に青い光を見た気がした。
