このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

ネヴァ

 扉を開けるとピアノの音がした。静かな旋律。この部屋のなかだけまるで水の中みたいだ。背後でドアが閉まると、深夜の喧騒は優しい音によって聞こえなくなった。
「おかえり」
 荒れた部屋の惨状と、ダイニングの机の上に腰掛けて歌っている白峰春人を見てため息がでる。
「だいぶやったん?」
「なんのこと?」
「それは、スナック菓子やないで」
 足元に転がっていた観葉植物の鉢植えを蹴飛ばす。ソファの上の荷物をすべて床に落として、そこに腰を沈めると、もうそこには斉木和志しかいなかった。医者という肩書も、男という性別も、なにもないただの空虚な存在に。心地いいと思う。そして、そう感じる自分を気に入っているという事実を愉快だとも。
 オレのあきれた顔を見て楽しそうに白峰は笑うと、手の中のボトルを振った。
「そうだね。魚のエサだ」
 白峰はゆったりとした動作で、机からおりると、部屋の中央で、幻想的な光を反射させている水槽にボトルの中身をばら撒いた。指先からこぼれる錠剤に、いったいこれがいくらするのか分かっているのか、と問いかけたくなる。ラリッた頭の人間にこんなことを云ったってしょうがないので云わないけど。
「僕たちはここにいる熱帯魚と変わらないよ。この部屋から出たら、うまく呼吸もできない」
 ガラスの上をすべる形のいい白い指先が、錠剤がゆっくりと水槽の底に落ちていく軌跡をたどる。
「白峰先生やっとったん?」
 肩をすくめるジェスチャーをした白峰が、ボトルに残った錠剤を口に運ぶ。
「あなたも本当は分かっている癖に。ねぇこれやりながらするとすごく気持ちがいいんだって。……斉木先生」
「へぇ、おもろいなぁ」
 ゆらゆらと近寄ってきた白峰の細い身体を引き寄せる。うわっともぎゃっとも云える白峰の呻き声と一緒に、成人男性 二人分の体重にソファがギシギシと音を立てた。
 胸の上の白峰の髪をサラサラとかき混ぜる。
「あんまりやると、ハゲるで」
「……いい男は、スキンヘッドでもきまるものだよ」
「あっそ」
 弧の字を描く彼の唇を軽く舐める。少し苦い。ジャンキーの味だ。昔、オレもこんな味をしていた。
「眼鏡邪魔なんだけど」
「とってくれへん?」
「女の子にもそういうことさせているの?」
「男とヤるには、少しの考える時間と不明瞭な視界が必要なんや」
「ふぅん。嫌な人」
 オレの眼鏡を噛んだ白峰が、そのままそれを捨てる。床を滑った眼鏡はそのまま落ちていた本に当たってその動きを止めた。
 乱暴なのは嫌い、とそれを視線で追っていた白峰が呟く。そういえば、そういう奴だった。乾いた空気と一緒に、まともだったころの彼を思いだした。優しくて、常識的で、今よりずっとつまらない男。何が彼を狂わせたのだろう。それは角度によって見え方が変わるだまし絵のような彼の性質か。それとも、蠱惑的な笑みの下に潜む彼の弱さか。そして、そんな彼をつくった過去か。未来か。
「……オレか」
「何云ってるの?」
 神経質そうな白峰の眉が吊り上がる。ルックスに自信があるらしい彼は、行為中のよそ見を嫌う。舞台の上のストリッパーのようなものだ。視線を集めて、そのうえで手の届かない存在だと思われる。きっとそれが彼の快感なのだ。快感の檻に閉じ込められた彼に手を伸ばした哀れな騎士が、彼の微笑とともにその腕をもぎ取られていくのをもう何度も見た。
「綺麗で優しくて白峰先生をこんな悪い大人にしてしまったんは、オレかな、って」
「己惚れないで」
「こわいなぁ。もう少し、愛想良くした方がええんちゃう? 薬もっとんは、オレなんやから」
 白峰から薬の入っていたボトルをもぎ取って、軽く振る。残り少ないそれがじゃらじゃらと音を立てた。ムッとした表情をつくった白峰が、スラックスの上から、オレの股間を舐めた。
「うわぁ。エロいなぁ」
 白峰が提供するセックスは独特だ。何か言葉を発していなければたまらない緊張感に包まれる。だから、彼とした後は、いつも喉が痛む。
「うわっ。ちょっ」
 突然、さっきまでのぞかせていた赤い舌を収めて、ニヤッと笑った彼が、オレの股間にかぶりついた。ガジガジと食まれて、それが腰にきて笑った。
「白峰」
 彼の口元に錠剤を差し出す。チュッと指先を吸われるのが面白くて何度も繰り返しているうちに、いつの間にか、オレのスラックスはソファから落ち、膝は彼の股間を刺激していた。
「はぁ。これ高かったんやで。非常勤の音楽の先生の三ヶ月分はあった」
「ふぅん。そう。斉木は、よかったの? ひとりじめしちゃった気分」
 空になったボトルを床に転がして、そのままシャツの上から白峰の乳首をつねる。少し揺れた彼の身体に、オレのなかのサディスティックが刺激された。
「ラリッちゃったら、愉しみが減るやん」
「今度オレの前にあらわれるときはコンタクトにしたら? 薬を断つよりも、楽に愉しめると思うけど」
 脱がせたワイシャツを彼の手首にひとまとめにして、尖った乳首を無視しながら、血管が透けそうなほど薄い肌を舌先でなぞる。
 彼の唇が震えてきたところで、やっぱり次はコンタクトにしてきたほうがいいかもしれない、と云ったら、短く罵られた。彼はこういうジョークを好みそうだったのに。
 スラックスを脱がしながら、白峰の、すでに湿っていたそれをあやす。
「ふぅ、うう」
 ひとまとめにした白峰の腕が、ソファのひじ掛けを打つ。痣になったら可哀想だと思って、上体をずらして、完全に彼にのしかかりながら、片手でその腕をひじ掛けに押さえつけた。一瞬揺れた白峰の瞳の奥に、彼が隠して起きたがっていた過去が見えたような気がした。
 服のしわに挟まっていたのか、見慣れた錠剤が、革張りのソファの上を転がっていた。
「なぁ、これ入れてみたいんやけど。ええ? 白峰、これ好きやん」
 錠剤を白峰の顔の前にかざす。
 性器からくる快感に、荒い息をはく白峰が、定まらない視界でオレの指先を見て、少し怯える。
「先生的には、大丈夫なの?」
「先生的には、『なんでもいいか。愉しければね』やな」
 最高だ。心の底から嫌悪を表したような白峰の表情に、喉がなる。彼のこういうお綺麗なところを、オレはすごく気に入っている。
「ええやん。きっと、忘れとるよ。何もかも。きっと」
 少しひび割れた白峰の唇を舐めて、そのまま口内を蹂躙する。ドラッグにおかされて、苦い苦い彼の口内の元の味をオレは知らない。過去の彼は、優しい言葉ばかり紡いでいた気がするから、もしかしたら、蜂蜜のように甘かったのかもしれない。
 わざと音をたてながら、後ろを弄る。こうすることで、彼の理性だとかプライドだとかそういった余計なものが、グラグラと崩れていくことを知っていた。そして、それらを喪失した彼の辻褄をドラッグが、都合のいい夢で合わせていくことも。
「斉木は、ピアノを弾くのが上手だよね」
「あぁ。『ねこふんじゃった』とかお手のものや」
 愉しければいい。緩く淫靡にうごめく彼の内臓へ、最高の夢を見せる魔法の薬をいれてやる。
「たぶん、死なへんと思うけど……」
「死ぬの? 恐いことを云うのはやめてよ。こんなに綺麗な音楽、聞こえなくなってしまうのはもったいないよ」
 愉しければいい。オレに聞こえない音楽に耳をすませている白峰が、笑い出す。まるで不安など何もないように。
 途中まで包装を破ったコンドームを汚れた床に捨てた。こういう気分だった。白峰の明るさは、オレのなかのすべての誠実が意味のないようなものの気持ちにさせた。
 愉しければいい。白峰の細い腰を掴んで、自分が気持ちのいいように揺らす。相手は薬中だ。気をかけてやる必要もない。
「はぁ。あははっ。はぁっは」
「お前、やっぱヤり過ぎや」
狂ったように笑い続けて、うまく息ができずに、過呼吸気味の彼ために、時々彼の呼吸を奪ってやった。
「うっ、あははっ、いっ、音楽が……、うっ、うまれて、っくる。だれも聞いたことがな、ようなきれいな、」
 内臓がグルグルと動いて、オレの性器を締め付ける。とっくに白濁を吐き出して力なく揺れる白峰の性器を眺めながら、オレは、彼の内臓に、白濁を吐き出した。
「へぇ。オレも聞きたいなぁ。そんな音楽」
 愉しければいい。オレはこの行為を一度も愉しんだことがあっただろうか。
 狂ったように笑って歌う白峰を抱え込むようにして横たわる。
「可哀想なやつ」
 湿った部屋の中で、彼の口からこぼれる歌声だけが、出会ったころと変わらず乾いていた。
 乾いた空気のなか、オレのフラットでいられなかった感情が、夢を失った白峰の傷口を狡猾に抉って、彼に空虚な妄想を見せた。それがすべての始まりだった。かわりに、彼自身と彼の未来を奪いながら。
 床を転がっている空のボトルを眺める。そのなかに入っていたものは何だったのだろう。いや、今となっては、どうでもいいか。
 夜はまだ明けない。
1/4ページ
スキ