現十二番隊の元鬼殺隊は
歴史に”もしも”はないと言うが、もしもを夢想するのはヒトの性である。
ならばこそ、今ここで詠おう。
一つの未来と隣り合う、もう一つの未来の詩を。
耀哉は興奮冷めやらぬ様子で、鎹烏が運んできた記録を読んでいた。内容は、先日発生した花柱と鬼との交戦記録である。
任務地は、とある下町。かの町で女性が数名失踪するという事件が発生。これを産屋敷耀哉は鬼の仕業であると断定。
巡回担当地域の最も近い花柱・胡蝶カナエと数名の隊士を派遣するという決断に至る。なお、同行する隊士は花柱の選抜によるものであり、水柱・冨岡義勇の双子の兄、冨岡勇慈。ならびに、冨岡勇慈の客人である黒崎一護が同行。
そこで上弦の弐との会敵、交戦。以下は、上弦の弐との交戦記録を鎹烏を用いての戦闘報告である——
月のきれいな夜であった。夜は深まり、花も冷え、生き物たちが寝静まる夜の事。町の警邏に当たっていた一護は、寒の戻りに身を震わせながらいねぇなと一つ呟いていた。とん、と屋根の上に降り立ちながら、真っ暗な夜闇の中を見回している。
「カナエさんやお館サマの話だと、鬼がいるって話なんだけどな……」
まぁ、いないもんは仕方ねぇ。もう少し探すか、と再び空を駆ける。死神の高速歩法たる瞬歩は使えずとも、一瞬だけ呼吸をして走るだけでもそれなりに早く走れるのだ。あとは、気合である。
ちら、と視線を外して遠くを見てみるが、何の変わりもない。勇慈は東を、カナエは北と西を担当しているのだ。そちらにも変化が見受けられないようなので、まだ鬼は出ていないらしい。これは明日に持ち越しかもな、そう考えを巡らせたその時であった、からん、ころん、聞きなれた音がする。多分、これは下駄の音だ。浦原さんとよく似た音がする。足を止めて音の出どころを探ると、それは一つ隣の路地から聞こえてくるようであった。そちらへと降り立つと、わぁ!と驚いた男の声がする。
「びっくりした。急に上から人が降ってくるのだもの。やんちゃはだめだよ、君」
驚きながらも一護をめ、と窘める男に思わず、悪いと謝る。ニコニコと愛想よく笑う彼は二十歳くらいの若者で、白橡色のふわふわとした髪を垂らした体格のいい男だった。手には、色とりどりの花束を大事そうに柔らかく抱えている。
「悪いな、ちょっと人捜してたもんで」
「人探しかい?こんな夜更けに。子供は帰って寝なくちゃだめだよ」
「そういう訳にもいかなくってな。……あんた、なんの帰りだ?」
「ん?うーん……ちょっとした贈り物をね、贈ろうと思って。花を摘んだ帰りなんだよ」
すたすた、と男は歩き出す。一護も何となく、追従しながら花?と問い返した。
「最近、町で行方不明になった女の子たちが出たろう。その子たちは俺の知り合いでね。この花が好きだっていってたから、贈り物をね」
「? なんで、贈り物?ってか、知り合いなら贈り物よりも先に探さねぇか…?」
「だって、もう極楽に行っているもの。探す必要ないじゃない」
話の噛み合わなさに一瞬間を置いて、ぞっとした。違う、こいつ、行方不明になった女の子の身を案じて探している訳じゃない!そう悪寒と直感が過ぎり緊張を走らせる一護を嘲笑うように、にこやかに笑う目をゆるりと開いて、男は一護に向かって振り向いた。
「ねぇ、鬼狩りくん。それで、君が探しているのは、誰?」
ゆったりと持ち上げられた瞼の下に隠れていたのは、”上弦”と”弐”の文字。冷ややかな目に射貫かれて、いよいよ身が竦むように震えるのを抑えながら、アンタだ、と強気に返す。
「へぇ、俺かぁ。うーん…まぁ時間はあるし遊んであげてもいいよ。あ、でも先にこのお花を置いてきてからでいい?一刻もあれば帰ってくるからさ」
「……いいぜ。その代わり、町の中では戦わないし、仲間も呼ぶ。いいな」
「あ、お仲間いるんだね?いいよいいよ。好きなだけお呼び。それじゃあ、またあとでね」
また遊ぼう、そう口約束を交わすくらいの軽い調子で鬼は約束をする。そして振り返ると、もう一護の事など欠片も気にしていない様子ですたすたと歩きだしていった。まるで、お前に首は斬れないと言わんばかりの悠然とした姿で。
その余裕のある態度にギリ、と歯噛みしながら、一護は信号弾を一つ、宙へと飛ばした。鎹烏が気づいて、二人へ合図をしてくれるはずだ。
一護はその場を後にしながら、日輪刀の柄を強く握りしめていた。
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男は約束通り、一刻の後、町のはずれの林の中に現れた。相対する一護の他に、勇慈とカナエという増援を見ても眉一つ動かさず、それどころか女の子だぁと喜ぶ始末。舐められている。そう一護が怒りに静かに震えているのを落ち着けと勇慈が窘めた。
カナエが三人の一番前に立ち、刃を突き付けながら上弦の弐と対峙する。
「一護くんから話は聞いたけれど、この町で出ている行方不明事件に関与しているのは、貴方一人?」
「うーん、行方不明ってわけじゃあないんだけどなぁ……そうだよ。俺が救ってあげたのさ」
「救う…ですって?」
「そう。その子たちは生きる事に怯えていた。苦しんでいた。辛いと思っていた。けれど、俺が喰らい、一つになることで、その子たちは救済され、俺と共に高みへと至る」
そ、と胸に手を当てて噛みしめるように上弦の弐が答える。
「もう辛い思いなんてしなくていいんだよ」
「好き勝手言いやがって…!それの何が救いだ!」
「えぇ、だって辛い思いもしなくて済むし、悲しい思いもしなくて済むんだよ?そして、俺の血肉となって永遠の時を生きられる。どうしてそんなに怒っているんだい?」
理解が出来ないものを前にして、困惑の表情を浮かべる上弦の弐に一護がなお怒りを募らせる。それをカナエが左手を翳して静止する。
「貴方の考えは分かったわ。……私たちは、理解し合えないという事も」
「そう?残念だなぁ。俺はみんなに幸せになってほしいだけなんだけど」
「いいえ。貴方のそれは独りよがりよ。幸せには、いろんな形があるの。…その幸せの形を壊そうというのなら、容赦は出来ないわ」
カナエが刀を抜く。それに続くように、一護、そして勇慈も刀を抜き放った。えーっ!と弐の鬼は扇子で口元を隠しながら、目を瞬かせて問いかける。
「いいの?俺と戦っても勝てる見込みなんてないのに……可哀想。せめて、一息にすぱっと斬ってあげるからね」
あ、そうだ。それとね。と鬼が続ける。
「上弦の弐、だなんて冷たい名前で呼ばないでおくれよ。俺の名前は童磨。よろしくね?」
「よろしく、なんてするかよ!」
一番槍を入れたのは一護であった。水の呼吸を肺いっぱいに吸い込み、駆け出して水面斬りを繰り出す。それをわぁ!と驚いた声を上げながら扇で受け止める童磨。軽い調子で受けられたその刃は扇と拮抗し、金属同士の擦れあう音を響かせる。
「なんっ…重てぇ…!」
その細腕に似つかわしくない腕力に一護が驚いていると、対の扇のもう片方で口元を隠した童磨がうーんと言いながら、一護を押し返す。よろけた一護が体勢を立てなおそうとした、その前に閉じた扇で胴を薙ぎ払うと一護はそれに反応できず、吹き飛ばされて転がっていく。
「あれ?強かったかな」
「ぅ、っ……」
「あぁ、生きてたんだね。ごめんね、さくっと斬ってあげればよかった、ね!」
扇を項に翳して刀を受ける。背後から回り込んだ勇慈の一撃を受け止めながら、流し目に勇慈を見やって童磨は微笑んだ。
「だめだよ。人の話は最後まで聞くものだ」
「鬼の話など聞くに値しない」
ひゅん、ひゅん、と、水を纏いながら振り切られる刀を受け流しながら、童磨は笑う。
「わぁ!綺麗な剣技だね。よく鍛錬したんだね、きっと」
刺突から転じて、扇を持つ手首を落とそうと剣閃を流水のように操りながら狙いを定める。童磨もそれが分かっているからか、対の扇を両方駆使して斬撃を捌いていく。童磨もまた防戦に徹するのみならず、隙あらば勇慈の首を刈り取ろうと鉄扇を閃かせる。キィン!と、競り合う刃を上へと受け流して胴が開いた。その隙を見逃す鬼ではない。
「(貰った)」
キラリと光を纏った扇を振るう。半歩引いて、躱すだろうからその次に蓮葉氷かな。なんて計算を立てながら振るった扇は、半歩
ぱっ、と鮮血が散った。
「!」
それどころか半歩踏み込み、ヒュウウウと大きく息を吸い込んだ。
「壱ノ型 水面斬り」
「!」
間合いを詰められた。当たる。そう確信した瞬間、フゥと息を吹きかけた。童磨の息はひどく冷たく、ぴしりぴしりと頬に氷晶が走る。
「!?」
初見のそれを顔に受けた勇慈は型を解除し、一旦飛び退いて距離をとりながら回復の呼吸を行う。
そして走り出しながら打ち潮を構える。一回目、身を捩って躱される、二回目、扇で受け止められる。金属製の扇がちか、と瞬いたような気がした。舌打ちをしながら、三回目——
「っ、ごほっ…!?」
三回目、不動の童磨の首筋を目掛けて刀を振ろうとした時だった、急に呼吸をした肺がずきりと痛み、酷くむせ返る。とと、とよろけて縺れた脚は膝をつき、伏せるように身を丸めながらごほっ、ごほっ、と咳を繰り返す。自分の目の前で倒れ伏した勇慈を見つめ、にっこりと笑いながら扇を煌めかせた童磨がゆったり歩みよる。
「勇慈…!」
それを見て、一護が苦しむ勇慈の元へ駆け寄ろうと立ち上がる。その隣を蝶の羽織が通り過ぎて行った。刺突の構えをし、フゥゥゥと肺いっぱいに呼吸をする。
「花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬!」
九回にも及ぶ薄桃色の斬撃が童磨を襲う。躱し、時に受け流しながらきれいな技だね、だなんて誉めそやす。二、三歩後退させた隙をついて、カナエが勇慈を抱えて飛び退る。しっかりして、と前を見据えながらも声をかけるカナエの声に、無駄だよと童磨は諭す。
「その子、俺の氷を吸ってしまったからね。肺胞が壊死しているんだ。きっととてもつらいはずだよ」
「なっ…!?」
「俺の血鬼術は、凍てついた血を霧の形変えて散布するもの。迂闊に近づくと凍え死んでしまうよ。辛くて苦しいから、無理しないで、ね?」
ぱきぱき…と、童磨の回りを取り囲むように氷の蓮華が咲き誇る。先ほどまで見られなかった術だ。だが、咳込んでいる勇慈を見るに、あの華の形状を取らずとも相手は氷霧を撒き散らせる。
カナエは、一つの決断を下した。
「一護くん、私が最初に切り込む。貴方は、離脱しなさい」
「は?……なっ、出来る訳ねぇだろ!?」
後に続いて、そう言われるものだと身構えていたら一転、逃げろという。一瞬脳が理解を拒んだ。そんな事、出来る訳がない!と言い募る一護に落ち着いて、と冷静なカナエの声が響く。
「勇慈くんの腕は柱並みよ。その勇慈くんが、一方的に術中に掛かってしまった。戦えるのは、私だけ。私が命を懸けて貴方達を逃がすから、この鬼の情報を、みんなに——」
「だめだ…!大体、あんた一人で勝てるのか!?それなら、三人で戦った方が——」
「三人で戦っても、勝てないわ」
カナエの残酷な言葉に絶句する。勇慈も脂汗を浮かべながら、カナエを見上げている。一護だけが、そんな…と、呆然としたように声をあげた。
「……私たちだけじゃ、勝てない。お願い、一護くん。お館様へ、みんなへ。この情報を、お願い」
カナエが走り出す。カナエさん!一護も駆けだそうとした、その足を氷の華が絡めとる。
「なっ…うわっ!」
つんのめって転び、ぱきぱき…と嫌な音に足を見やると華の巻き付いたところから氷が浸食を始めていた。マズい、動けなくなる。そう焦った一護は日輪刀の柄を握って、氷を叩き割ろうと強く強く打ち付ける。
カナエは走る。童磨の蓮華もまた、カナエを迎え撃たんと蔓を這わせる。のたうつ蓮華を切り伏せながら、前へと走るカナエに、口元に手を当てた童磨がフゥと息を吹きかける。
「血鬼術、凍て曇」
冷気の煙幕が急速に広がる。その冷気が到達するより前に呼吸を済ませ、肌を凍てつかせながら刀を構える。
「花の呼吸 陸ノ型 渦桃!」
跳躍、くるりと宙空で身体を大きく捩じると回転を加えながら刀を振るう。その空気の流れに沿うように凍て曇が渦を巻き、カナエの身体に無数の氷晶が付着する半面、煙幕は晴れた。
と、と降り立ってその凍て曇を纏った状態のまま童磨に迫る。力強く振り切られた刀は扇に阻まれたが、その咄嗟の機転に童磨はますますすごいと喜びを露わにする。
「けど、いいの?上がお留守だよ」
ぱきぱき、と氷の音がする。その言葉にはっと上を見上げると、無数のつららが頭上に形成されていた。離れなければ、そうカナエの足が動く前に動きが制限される。
「!?」
「だめだよ、動いちゃ」
童磨が、抜き身の刀を掴んで引き留めている。動揺を一瞬で収め、何とか引き抜こうと力いっぱいに引っ張るも、微塵も動く気配がない。童磨の手のひらが切れ、赤い血が刀を伝って滴り落ちる。引いてダメなら
「(押し返す!)花の呼吸——壱の型…!」
「ちょっと遅かったね。血鬼術…冬ざれ氷柱」
瞬間、童磨ごと押し貫くように無数のつららが落下した。
「カナエさん!!」
「カナエ…!」
もうもうと凍て曇の煙幕が辺りの視界を閉ざす。ちり、と肌に刺すようなそれを手で目を庇いながら見つめ、やがて曇りが晴れ始める。
カナエの右肩に、深く深くつららが突き刺さっていた。ぽたり、ぽたりと赤が滴り落ちる。
ちら、とカナエが後ろを向いた。悲しそうな、辛そうな、そんな表情で。ごめんね。そう、口が動いた時だった。
ぱ、と鮮血が舞う。一瞬の事に、二人は目を疑った。カナエが目を見開いて、蝶の羽が破れて血に濡れる。
ふらり、よろけながらどさり、と前に倒れ込んだカナエは浅い息を零し、伏せる身体を必死に起こして乱れた呼吸で前を見続ける。
「……ぅ、カナエさん…!くっそ、壊れろ!」
一護が凍り付いた足を引き抜こうともがいている。握りしめすぎた日輪刀の柄に擦れて剣だこがつぶれ、血の滲み始めた手もお構いなしで、氷を砕こうと叩き続ける。その横では勇慈が、ゴロゴロと鳴る肺と咳を抑えながら、日輪刀を地につけて膝をついている。
「カナエ…!逃げろ…!」
勇慈が声を絞り出す。立ち上がるだけでも、身体の内側から刺すような痛みが走る。それを堪えながらふらりと立ち上がり、冷気に震える刀を構えながらハァと一つ荒い息を零した。そして倒れ伏すカナエの前に庇うように立ち、切っ先を童磨に向ける。
「おやおや。あんまり無理に喋ったり立つものじゃあないよ。肺も凍りそうなくらい辛いんだろう?」
ゆったりと”それ”は歩いてくる。[[rb:白橡 > しろつるばみ]]色の髪をなびかせながら、虹色の虹彩に冷たい優しさを灯して。
「ああ、安心してね。三人とも。そんなに怖がらずともいい、首をすとんと落とせば、それで終い。俺が皆を救ってあげるからね」
”上弦”の”弐”を宿した鬼が、歩みを進める。
一つ、二つ、伏して血を垂れ流し続けるカナエと、カナエを庇う勇慈に向かって、一歩ずつ。
悲鳴を上げる肺を押し殺して深く深く呼吸をする。ぱちんと刀を納刀し、前傾して構えをとる。
「水の呼吸 壱ノ型——!」
脚に血と酸素を巡らせて、心臓に血をごうごうと巡らせて、カッと身体が熱くなる。鍔を鞘から滑らせて青い刀身が僅かに顔を覗かせる。
「——水面斬り!!」
さながら雷の呼吸のごとし爆発的な瞬足は、瞬歩の応用だ。走り出した勇慈を迎え撃つように、氷の華が咲き乱れる。蔓を伸ばして脚を絡めとろうとする花を斬り捨て、最低限の動き最小の傷で躱し、迸る鮮血が霧氷に凍る。頬を蔓の一撃が掠めて血が滲んだ。
「へぇ。すごいね」
童磨が接近を許す。刀を両手で握り直し、くるりと一回転分の遠心力も乗せて、首を狙って刀を振る。しかし右手に携えた黄金の扇がそれを受け止めて、キィン!と甲高い音が響き渡った。
キチキチ…と、刃物同士の擦れあう音が鳴り止む事無く続いている。勇慈が渾身の力を込めて、両手で振った刀を、童磨は片手で抑え込んでいる。拮抗にも及ばない実力差。それにほろりと童磨は涙した。
「くっ……!」
「どうしてそんなに頑張っちゃうのかなぁ。全部無駄だというのに」
ほろりほろりと流れる涙は虹色の瞳から溢れて止まらない。ぱちんと左の扇を閉じた。
「もう、終わりにしよう。君はよく頑張った。足りない才能を、努力で補おうとした。その愚かさ、人の素晴らしいところだよ」
その扇を閉じたのを合図にするかのように、しゅるり、と氷の蔓が勇慈の足を絡めとって根を張る。
「なっ!」
それは脚を伝って腹へ、胸へ、そして腕へ。全身を絡めとられて凍り付き、身動きが取れなくなる。
燃えるように熱かった全身が急速に凍え始める。寒さに身体が震え、歯はカチカチと音を立てる。
「君が女の子だったら。喰べてあげたかったなぁ」
冷気で力の抜けた刃から扇を退けて、左手に掲げた黄金の扇を振り下ろす。
一瞬の、間。その瞬間、纏わりついた氷の華が砕かれて、きらきらと破片になってこぼれ行く。
同時に、ぱっ、と。今日一番の紅い華が咲き誇った。
どさり、と勇慈が糸が切れたように膝をついた。そして、がくり、とうなだれる。その一連の動きがまるでスローモーションのように、一護の瞳には映っていた。
「……っ、勇慈ーーー!!!」
血がべったりついた扇を一つ振って血を落とす悪鬼に向かって、一護が吼える。
「そんなに声を上げなくても、きっと一息に死ねたから安心していいよ。もう彼は痛くも辛くもないんだ」
「てっめぇ…!」
ぐ、と一護が全集中の呼吸を用いて無理やり氷から足を引き抜こうとする。目をまあるくした童磨はおやめ、と声をかけた。
「君。そんな事をしては脚が裂けるよ。やめておいた方がいい」
「うるせぇ!!脚が裂けようが腕がもげようが…てめぇだけは斬る!!」
「君に俺が斬れるはずがないよ。それは無駄な努力とはいわない。自殺っていうんだ」
「うるせぇって言ってんだよ!!」
ぱき、ぱき、と。何度も何度も叩きつけた氷に僅かに罅が入る。おや、と童磨は驚いた。そして、罅はだんだんと大きくなり、ばきりという音と共についに一護は氷から脱した。
「驚いた。君にその氷は砕けないと思ったのに」
「うぉおおおおお!!」
ヒュウウウウと呼吸をした一護が、走り出す。先ほど斬り捨てた彼よりも速度も、剣圧もかなり劣るそれ。可哀想だなぁ、と思いながら、童磨は首を許した。一護の全身全霊を込めて、首へと届けた刃は無慈悲にも、童磨の首に喰い込む事すらなく、柄を握る手から血が滴り落ちていく。
「————!!」
まるで、最初に戦った更木剣八の時のようだった。圧倒的な実力差。傷一つ与えられない絶望感。一護の顎の下へ手を添えて、ゆったりと持ち上げる。目線を合わせて、にっこりと。
「これで、わかっただろう?君に俺は斬れないよ。もう、終わりにしよう。ね?」
「……あ…」
久しく感じていなかった、絶望が胸を覆った。藍染の時に感じたものとは違う。あの時は、あまりの霊圧に気圧されていたが故の震えだった。だが、今回のこれは、違う。俺では、勝てない。護れない。己の無力を、思い知ったのだ。
「一護くん、逃げて…!」
カナエが息も絶え絶えに声を上げる。ゆるりと構えた扇が、水平に、首を狙って一閃するのをコマ送りのように止まった世界で見つめていた。
キィン!
固いモノ同士の音が響き渡る。一護は目を見開いてそれを見ていた。童磨もまた、それを驚いたように見ていた。
一護の首を覆うように走る、青白く光る”何か”を。
「え?……!」
どちらともつかない呆けた声の後、童磨が殺気を感じて横へと飛ぶ。後ろから、刀を構え直した勇慈が音もなく瞬歩を用い、斬り上げたのだ。童磨から解放された一護の手をとって、カナエの元まで二人は下がる。カナエと共に背に庇われてようやく、はっと一護は正気に戻った。
「勇慈くん…っ」
「勇慈、お前…無茶すんな、斬られてるんだぞ!」
「そうだよ。むしろなんで動けているの?……あぁ、傷口が凍っているからか。でもかなり痛いはずだよね?」
「……そうだな、痛い。全身が刺すように痛い。だが…」
ゆら、と顔を上げる。
「身体が、燃えるように熱いんだ」
一護とカナエは、勇慈の顔を見て息を飲んだ。
一護にとっては二回目、カナエにとってははじめてのそれ。
勇慈の頬を、赤い血と青い流水の痣が彩っていた。
「……なんだい?それ、まるで鬼みたいだね」
アハハ、と笑う童磨に刀を向けながら、一護。と声をかける。
「カナエを、頼んだ。……護ってくれ、俺の友達を」
たっ、と走り出す。徐々に徐々に早くなる脚。先ほどよりもともすれば早いかもしれない。肩から裂けているのに、凍って血が止まったにしても、動きがいい。それに少しだけ驚きながら、それでもばっさり斬ってるんだよなぁと童磨は思案する。
「まぁ、頑張りたい気持ちは汲んであげるけど、そろそろ疲れてきたなぁ」
上段から振られた滝壺を躱しながら、そうだ。と童磨はいいことを閃いたように扇を交差させた。
「血鬼術、結晶ノ御子」
童磨の手から零れ落ちた御子はすとんと地に降り、扇を構える。
「その子の相手しててよ。俺はあの子たちの相手してくるからさ」
そうにこやかに笑って童磨が背を向ける。
「(橙色の子のあの能力、意図して使えるものなのか無意識なのか……いずれにしても、血鬼術じゃなかったなぁ。人ならざる力を持つ人……あのお方なら喜んで研究に使ってくださるかな?ああ、鳴女ちゃんに連絡いれなきゃな)」
うんうん、と頷きながら童磨の関心が再び一護とカナエに向く。二人は肩を貸し合って支えて立ち、冷気と疲労で震える刀の切っ先を童磨へと向けている。
「しつこいようだけど、本当に無理しないでほしいのになぁ。一体何が君たちをそこまで奮い立たせるのか、理解できないや」
「さっきのは無しだ…悪いけど、俺達は帰るんだよ。こんなとこで、死ねるか」
「うん?帰るって、迷子なのかい? ————!」
ぱきん、と接続が断絶する感覚に目を見開いた。思わず驚いたように振り返ってみると、御子が、粉々になって勇慈の足元に散らばっている。
「……驚いた、どうやって壊したんだい?それは俺と同じくらいの強さの技が使えるのに」
「………」
「(だんまりかぁ…でも、さっきまでの彼なら無理だと思うんだよなぁ。……あの痣が出てから身体能力が向上したようだ。それが原因かな?)」
「まぁ。記憶しておこう。————血鬼術 蔓蓮華」
童磨の足元から伸びた蓮華が蔓を伸ばして襲い掛かる。無造作に。それら蔓の波が勇慈に届く間際、小さく一つ、呼吸音がした。
瞬間、蔓が解け、砕け落ちる。童磨が目を見開いた。鬼の目は乾かないというのに、ぱちくりと思わず瞬きを一つするその間に、勇慈が懐へ潜り込んでいる。
「——!」
首を狙った一撃を扇で受け止めた。ザザ、と押されて靴が地面と擦れあう。押されている。さっきまでの膂力ではない!
「血鬼術、散り蓮——」
「水面斬り」
扇を振るおうとした腕の感覚が途絶する。ぱ、と弧を描いて飛んだのは、童磨の腕だった。驚きを見せながらも即座に腕を再生させ、距離を取ろうと後ろへ飛び退る。それを水龍が追いかける。再び扇と刀が交錯した。やはり、押されている。だがしかし、勇慈もかなり息が荒れていた。そしてじわりじわりと、袈裟斬りにされた肩口から血が滲みだす。
その光景に、美味しそうだなぁ、と生唾を飲み込みながら童磨は思った。
「ねぇ君、もうおやめよ。死んでしまうよ」
「死なない。死ぬ前に、お前を殺す」
「……わからないなぁ」
寒烈の白姫を創り出し、広範囲に向けて白姫から息吹を繰り出す。勇慈は扇を押し返し、それを同じように後ろに下がる事で躱した。攻守が入れ替わる。童磨の枯園垂りを水面斬りで打ち払うと、続けて蓮葉氷が襲い掛かる。打ち潮が蓮葉氷を砕き、開けた所へと雫波紋突きをお見舞いする。避けきれなかった刺突が童磨の右目を抉り、貫いた。
再び攻守が入れ替わる。防御のために放たれた凍て曇をねじれ渦で絡めとり、童磨の腕を再び斬り飛ばした。
腕を再生させながら、それまで片手で受け止めていた刀を両手を使って受け止める。
「水の呼吸、参ノ型 流流舞い!」
「——冬ざれ氷柱」
冬ざれ氷柱を水流の足運びで躱される。再び懐に潜り込まれた。首を守るために構えた扇、しかしその切っ先は向きをカチリと切り替えて、扇そのものへと向かっていく。
「……!」
キィン!と、扇を跳ね上げた。童磨の腕もまた、扇を握り締めたまま天へと向けられている。もう一対の扇は先ほど落とした腕が握りしめたまま。ついに、童磨に隙が出来た。
刀を握り直し、ヒュウウウ、と深く息を吸い込む。そして、首へと向けて刀を振るった。
「水の呼吸、壱ノ型———ッ!!?」
「え……?」
童磨はきょとん、とした顔でそれを見ていた。
かはっ、と息が荒れた。手が震えだす。足がわななく。氷に蝕まれた身体が、裂けるように痛い。
「(こんな、時に……っ!)」
ガクガクと震える脚に縺れて倒れこみ、両手のひらを地面について荒い息を零す。
連結の鈍った義骸の中で、勇慈が苦悶の声を上げている。
それを童磨は、命拾いした、とは思わず。変なの、と思いながら眺めていた。
「……まぁ。いいか」
「————勇慈!!」
「勇慈くん!!」
扇を振り上げた。息もつかせない攻防をそれまで見守っていた二人が、声を上げた。
「やれやれ……出向いて早々に面倒ごとに巻き込まれるとは。お前はつくづく、お人好しの馬鹿だヨ」
ひらり、と、黒い蝶が舞う。童磨の胸から突き抜けた刃に留まったそれは、ひらひらと羽を羽ばたかせている。
こぽ、と口から血を零しながら、緩慢な動きで童磨が後ろを振り向いた。
「……誰だい?君」
「フム。疋殺地蔵で刺したというのに動けるというのかネ?いやはや。”鬼”というのは味も素っ気もない虚崩れかと思っていたのだが…想定外だ。いいネ!興味深い」
ひらり、と蝶が羽ばたいた。それを勇慈は信じられないものを見た、と言わんばかりの表情で見上げていた。青い髪のような束を左右に垂らし、金属製の補聴器具を取り付けている風変りな人物。それは——
「……マユリ…?」
護廷十三隊十二番隊隊長・技術開発局二代目局長 涅マユリの姿がそこにあった。傍らには、ネムも控えている。
ぎょろ、とマユリの琥珀色の瞳に射貫かれて、少し肩が跳ねた。
「全く……この私が!わざわざ!借りたくもない手も借りてせっかく研究を完成させて迎えに来てやったというのになんだネその様は!!ネム!!」
「はい、マユリ様」
ネムが勇慈の側に寄り、袈裟斬りにされた傷口をきつく縛り上げる。うっ、と呻き声も出たがネムはお構いなしだ。
「ねぇ、話について行けないんだけど」
ぎぎ、と少しずつ童磨が身体を動かし、ずるりと斬魄刀から抜け出す。少しだけふらついて、すごいなぁと面白そうに声をあげた。
「ねぇ、これって毒?すごいね、藤の毒でもなさそうなのに俺に効くなんて。ところで君は誰なんだい?この子の友達?」
「喧しいヨ。静かにし給え」
懐から取り出した小瓶の中身を童磨に振りかける。ばしゃり、と浴びたそれを舐めとってみたが、少し舌がひりついた。その感触が癖になって、面白そうにぺろ、と再び毒を舐める。
「やっぱり藤の毒じゃない!うわーすごい!どうして効くんだい?」
「喧しい、と言っているのが分からないのかネ?」
疋殺地蔵についた血を採取しながら、童磨の横を素通りして、勇慈の側に立つ。そしてそのまま膝をついて勇慈の腕を取ると、ぷすりと有無も言わせず注射器を刺した。にわかに四肢の感触が戻り始める。刺されたのは補肉剤ではなく、内魄固定剤だった。
「そんな粗悪品の義骸を使うから、こんなところで倒れる羽目になるんだヨ。愚図め」
「仕方ないだろう……咄嗟だったし、死神のままだと石田以外には見えないんだ」
「放っておけばいいだろう。鬼殺隊も何もかも」
「そういう訳にはいかなかったんだ」
「知っているヨ。お前に感染させた菌で、監視だけは出来たのだからネ」
刀を握り、ふらりと立ち上がる。それを手助けした後でネムは後ろに下がり、二人を保護してくれていた。それにほっと息をついて、マユリと共に童磨へと向き直る。
「お前、どこまで知っている?」
「お前がこちらに来てからの情報なら、取得済だヨ」
「そうか。なら…後は任せた」
万全とは程遠い状態だが、負ける気がしなかった。呼吸を一つして童磨の元へと一息に駆け出す。対の扇から迎え撃つように放たれた散り蓮華を生生流転で巻き込み、傷をつけながらも止まることなく走り抜ける。
「はぁあああ!」
「おっ…と!」
首を狙った一撃を首を逸らす事で躱し、それでも止まることのない脚を絡めとろうと蔓蓮華を繰り出す。それを右へ、左へ、振るった刀で打ち払いながら走り続ける。童磨が後ろへと飛んだ。氷の華を撒き散らしながら牽制し、しかしそれを水龍が飲み込んでいく。面倒だな、と思った童磨が迎撃の為に扇を構えた。
「そろそろ、だネ」
ぽつりと口を開いたマユリがゆったりとした動作で刀を真正面に構える。
その時、虫の羽音が響き渡る。マユリを視認できていないはずのカナエと一護ですら耳を塞ぎたくなるような、耳障りな虫の羽音が。
ぞわり、と童磨の背筋が泡立った。
「(今の————)」
はっと気づいた。鬼狩りに押されて意識の外に追いやっていた男が刀を構えて、”何か”している。その”何か”がこの不快感の原因だ。扇を重ねて結晶ノ御子を創り出し、刀を払った隙をついて男の元へと走らせる。アレが何かは結局よくわからないが、『今後の戦いに生かせるように』なんて、悠長な事をしている場合じゃない。そう直感させた。
扇を交差させて、刀を受け止める。御子たちが男の前で跳ねた。首を斬って、おしまい。そのはずだった。
ニヤリ、とマユリが笑みを浮かべた。
「————卍解」
おぎゃあああ……と泣き声が響き渡る。刀から生じた煙がもうもうと浮かび上がり、異形の姿を成す。頭は赤子、胴体は芋虫のような。その小さくて巨大な手が、御子を圧し潰した。
「は……?」
「————金色疋殺地蔵」
マユリが名を呼ぶと、金色疋殺地蔵から毒霧が溢れ出す。それは瞬く間に辺り一帯を包み込み、童磨と勇慈。そして巻き添えを喰らう形となったカナエと一護はネムに介抱されていた。ぷすり、とネムが一護に注射を施す。
「って!」
「動かないでください。この毒の為の、血清です」
「血清…?」
カナエがオウム返しに問い返す。毒、女は毒と言った。それなら、そんなに効かないだろう。そう思いながら刀を返した童磨の予想は、想定よりも早く裏切られる形となる。
「……エ?」
どろり、皮膚が爛れる。ぐずぐずになって、ぽたりぽたりと血を流し始めた。あれ、おかしい。なんで。その疑問に答えたのは怪しい赤子を従えた男だった。
「先程も言ったがネ。私はそいつに監視用の菌を仕込んである。虚圏と尸魂界を隔てても監視の出来る優れものだ。なら、次元の狭間を飛び越えてでも私がそいつを監視できるのは、道理とは思わないかネ?」
「監視……だって?」
「そうとも。とっくに、調査済みなのだヨ。君たち”鬼”とやらが”藤”に弱い事も、ネ?……嗚呼。ついでに、先ほど君が舐めとった毒は、アナフィラキシーショックを誘発する為のものだヨ」
「————!」
だめだ。この男、殺さないと。童磨がマユリに向けて扇を振るった。その吹雪を、マユリの前に現れた男が凪に還す。
「後は任せたヨ」
「……ああ」
右腕がずるりと溶けて崩れた。足も崩れた。残った左手で、扇を振るう。
「————血鬼術、霧氷・睡蓮菩薩」
巨大な氷像が菩薩の形を成し、地面に向けて掌底を放つ。地面が割れ、砕けた破片に足踏みをする。
「(ここに来てまだこれ程の力を———!)」
ふわりと浮いた姿勢を立て直し、ねじれ渦で冷気を絡めとる。地面に降り立って、掌底を躱す。ごろごろと無様に転がりながらも、ぐずぐずに腐り落ちていく童磨を睨み上げて。
「————勇慈」
ぱしゃん、後ろから何か掛けられた。マユリの声が、
「適正濃度の、超人薬だヨ」
マユリの指示で金色疋殺地蔵が睡蓮菩薩を抑え込むのが、緩慢な動きで見て取れた。刀を握り直す。走り出して、ゆっくりと動き出した睡蓮菩薩の掌底を躱し、飛び上がって、童磨の首元へと刀を振るう。
「う゛あ゛ぁ゛あ゛ああ!!」
刃が首へとめり込んだ。その後ろから、睡蓮菩薩の吐息が勇慈を襲う。身体が急速に凍りつき始め、腕が固まって動かなくなる。
「(あと一息——!)」
「勇慈ィ!!」
一護だった。一護が菩薩の身体を駆けあがり、思い切り刀を振りかぶる。そして、勇慈の刀を押し込むように振り抜いた。
「———————!」
ザン。首が、落ちていった。
「フム。首を落とすと塵になって消えるのか。いやはや、惜しい事をしたものだヨ。もう少し試したいコトがあったのだがネ」
まぁ目的は達したのだから、帰るとしよう。そう告げるとマユリは地獄蝶を呼び寄せる。それに待ったをかけたのはカナエだった。
「待って…ください。勇慈くんも、一護くんも、ひどい怪我をしているのだから、治療してから——」
「治療なら後でいくらでも出来る。それとも何かネ?この私の部下をこれ以上扱き使うつもりなら相応の覚悟があると思っていいのかネ?エ?」
「マユリ、待て。そうじゃ…ない…」
こほ、と咳込みながら勇慈が止める。ふらふらとおぼつかない足取りでカナエの元に寄ると、隣に膝をついて傷の具合を確かめる。ネムの処置は適切であった。傷は深いが、数本打っていたらしい注射のおかげで血は止まり、失血死の心配はない。それにほっと安堵した。そして気が抜けると、自分の方がふらりと眩暈に襲われた。
「勇慈」
そっとネムに支えられる。ネムに肩を支えられ、ちかちかとする視界を振り払いながら、カナエに向けて告げる。
「……お別れだ」
「……そう、みたいね」
「義勇には、急ですまないと謝っていたって、伝えてほしい」
「…きっと寂しがるわ」
「そうだな……」
沈黙が場を支配する。帰る事を目的としていた。それがいつか来るとは思っていた。それでも、急な別れはやはり、寂しい。一護も同じ思いを抱いていた。しかし、勇慈はもっと寂しいだろう。そう思ったから、言葉を勇慈に譲って静かに黙していた。
「……上弦の弐討伐の報告も、頼む」
「えぇ。……勇慈くん。それに、一護くんも」
カナエが顔を上げて、勇慈の顔を見つめる。少し涙で目が潤んでいたが、花のように笑ってくれた。
「——元気でね」
「ああ……」
「……カナエさんも、怪我。ちゃんと治してくれよ」
「……別れは済んだかネ?それでは、帰るとするヨ。叶うのであれば、次にまみえる事があるとすれば鬼を全て滅した後であってくれヨ」
ふぅわりと地獄蝶が舞う。鱗粉を散らしながら、くるりと一護と勇慈、そしてマユリを包む。きらきらと瞬きながら。やがてヴェールのようなそれが解けた時、三人の姿は跡形もなくきれいに消えていた。
カァ、カァと遠くで烏が鳴く。朝が来る。日が昇って、太陽の光がひとすじ差し込んだのを眩しそうに、カナエは見上げていた。
[
ベン!
琵琶の音が響き渡る複雑怪奇な城の中で、猗窩座は目を開く。
辺りを見回して、自分の立つべき場所を確かめる。
「————異空間…無限城……」
ここに呼ばれたという事は
「上弦が、鬼狩りに殺られた——?」
「ヒョッ!これはこれは、猗窩座様。いやはやお元気そうで何より…九〇年ぶりほどでございましょうか?ヒョッヒョッヒョ!」
「玉壺か…」
ぬるりと壺から出でた異形の鬼を流し見る。上弦の伍、玉壺であった。その脇からか細く枯れた悲鳴が立ち上る。
「恐ろしい、怖ろしい。しばらく会わぬうちに玉壺は数も数えられなくなったと見える……呼ばれたのは百九年ぶりじゃ…。割り切れぬ不吉な数字…奇数!恐ろしい怖ろしい」
「ねぇ、ここに呼ばれるのって久しぶりじゃない?」
欄干にとりついて震えあがるのは上弦の肆、半天狗。そして艶めいた女の声は上弦の陸、堕姫のものであった。半天狗の方は恐ろしい怖ろしいと怯えながら、猗窩座を見つめ、堕姫の方は何の用だろうと辺りを見回している。それを無視して、正面に座す琵琶の音を奏で続ける女へと猗窩座は声をかけた。
「琵琶女、無惨様はいらっしゃらないのか?」
ベン!と琵琶を一つ奏でながら答える琵琶女、鳴女は、まだお見えではありません。と問いに返す。そうか、と返した猗窩座。
「なら、上弦の壱はどこだ。まさか、やられた訳ではないだろうな?」
「上弦の壱様は最初にお呼びしました。ずっとそこにいらっしゃいますよ」
「!」
ばっ、と下方にある御簾の奥を見つめる。そこに静かに、座していたのは紫の衣に刀を差した侍風の男。上弦の壱、黒死牟であった。
「……私は…ここにいる……」
掠れた声で答える。そして微動だにせぬまま、黒死牟はもう一つ告げる。
「無惨様が……お見えだ……」
上弦の月が天を仰ぐ。そこに在ったのは、反転した世界でピペットを一つ構え、ぽたりぽたりと試薬を試しながら、試験管を振る鬼の首魁。鬼舞辻無惨だった。
「……上弦の月が欠けた。童磨が死んだ」
「!!」
「あの男が…」
「ヒィイイ」
「嘘……」
「初めから本気で戦っていれば勝っていた。そもそも、勝って当然であった。それを逃したのだ。あの男は。」
「私は不快の絶頂にある。百九年ぶりに上弦を殺されたからだ。」
「黒死牟」
「はっ……」
無惨は試験管に目を向けたまま、黒死牟を呼びつける。
「童磨を殺した男、水の呼吸の使い手。勇慈と名乗っていた。あれは、貴様の目で見た覚えがある。殺していなかったのか?」
「……勇慈……嗚呼、覚えがありまする……あれは、半年前…確かに、胴を割って殺した男…類まれなる水の才を持つ男…」
「御託はいい。殺したのか?」
「……確かに…」
「何故生きている?原因を究明しろ。青い彼岸花を探す事も忘れるな」
「委細、承知……」
黒死牟は伏して詫びる。そしてすっと音もなく立ち上がると、ベン!と一つ琵琶の音が鳴り響く。黒死牟の姿が掻き消えた。
「私はお前たちを上弦だからと甘やかしすぎていたようだ。これからは、死に物狂いでやったほうがいい。青い彼岸花を探せ。産屋敷を始末しろ。そして、童磨を殺した橙色の髪の男を探せ」
「は、はい…!」
「ヒィイイ…お許しを、お許しを!」
ベン!ベベン!と琵琶の音が鳴り響くと共に上弦が一人、また一人と送り返されていく。そして後に残ったのは鬼舞辻無惨、ただ一人であった。
無惨は思案する。童磨の目を通して視た闘いの情報を。
「(橙色の髪の男…童磨が首を刎ねようとした際、何か”青白いモノ”が阻んでいた……。血鬼術ではない。そもそも、あんな男鬼にした覚えはない…。そして、不可解な死に戻りをした男と、気味の悪い赤子を使役する男……)」
「私の嫌いな物は、変化だ。状況の変化、肉体の変化、感情の変化。あらゆる変化は劣化を齎す。だが…」
未知の変化であれば、太陽克服の兆しになるかもしれない。その予感に、僅かにだが期待を寄せた。
ぴちょん、と試薬の垂れる音だけが響いた。
「そうか……!倒したか、上弦を!よくやった…カナエ、勇慈、一護…!」
こほ、と咳込みながら産屋敷耀哉は笑みを浮かべる。傍らに控えたあまねが背中を支えながら、二人で寄り添って鎹烏の伝令を聞いていた。
「あまね……これは兆しだ、百年変わらなかった状況が、今変わったのだ。わかるか?運命が、動き始める。変わり始める」
喜色ばんだ、普段に比べるとはるかに血色のいい顔で興奮を隠せないまま耀哉は言い募る。
「この波紋はいずれ大きな波となって広がっていく。私には視える。そして、あの男の元へ…!鬼舞辻無惨……!」
「耀哉様…えぇ、えぇ…!必ず…!」
「あまね、子供たちは?カナエたちの安否はどうだい?」
「——それが…」
「……なるほど。二人は、いや、三人は元の世界に戻れたんだね」
少し落ち着いた様子で耀哉は静かに独り言ちる。耀哉はきっと残念がると思ったのだ。上弦の弐討伐を成した勇士が二人、鬼殺隊から離脱した報を聞けば。だがしかし、耀哉は残念がる素振りを見せるどころか、穏やかな笑みすら浮かべている。
「耀哉様…?」
「あぁ、すまないね。あまね。いや…こう言ってしまえば、少し彼らには悪いのだけどね」
「彼らは、必ずまた私たちの前に現れる。そう予感しているんだ」
ねぇ、勇慈。そう呟いた耀哉の言葉は、蒼天だけが聞き届けていた。
大正コソコソ噂話
石田の元にも地獄蝶は来ています。眠っている間に運ばれたので、朝になって花屋敷では大騒ぎになって探される事になりますが、石田は知る由もありません。
後で目が覚めた時にめちゃくちゃびっくりしています。
護廷十三隊コソコソ噂話
マユリは鏡の鬼を鹵獲しました。一護へ死神の力を取り戻す研究を一旦中断して、浦原喜助と共に鬼の研究を進め、最短で鏡の血鬼術を解析しました。その技術を以て、あとは時空の歪みの最も少ないタイミングを狙って突入しました。
童磨戦闘中に合わせて突入できるように、血鬼術の解析後数日分観測したらしいです。
