現十二番隊の元鬼殺隊は
「だぁあああ!」
木刀と木刀が打ち鳴らされる音が木霊する。鍔迫り合いするそれを呼吸で増した膂力で押し返すと、一護はたたらを踏んで姿勢を崩す。打ち潮を打ち込もうと構えると、目の前を霊力の矢が遮る。牽制の一発に続いて放たれた二発目を、構えを崩して弾き落としながら視線で辿ると、腰を落とした低い姿勢で次の矢をつがえている。ならば、と踵を返し石田の方へと向かって呼吸を使い一息に駆けだす。放たれた無数の矢を最低限の動きで躱し、撃ち落しながら懐へと潜り込む。ひゅ、と息を飲んだ石田へと容赦なく水面斬りで胴を捉えると、その鈍い打撃音と一撃の威力のまま、石田の身体が吹き飛ばされ、地面に跳ねる。ごほっ、と息を全て吐き出して苦し気に喘ぐ石田へ追撃をしようとした、その時。後ろ上段から振り下ろされる刀身の気配を察知し、身を翻して躱すと一護の一撃が地面を叩き割る。粗削りだが、それは確かに水流の軌跡を描いていた。この三か月でそこまでへ至った一護への賞賛と、その程度で鬼を斬れると思うのかと叱咤する気持ちをないまぜにしながら、一護の返す刀を受け止める。常中の使える自分と、瞬間的にしか呼吸の出来ない一護や石田では、戦闘経験はともかく瞬間的な力では天と地ほどの差がある。それでも、と押し勝とうと力を籠める一護の刀を受け止める木刀の手を、ふっと緩める。途端、一護は前につんのめるようにバランスを崩し、うわっと悲鳴を上げた。
それを僅かに身をひねるだけで躱し、左手で襟を掴むとぶん、と力任せに石田に向けて放り投げる。ようやく起き上がろうとしていた石田がそれを受け止められるはずもなく、うわぁ!と声を上げながら二人そろって地面に倒れ込んだ。
「いってぇ……」
「……早くどけっ、重い」
「あっ、わり」
石田の上に折り重なるように仰向けに倒れ込んだ一護が、下からの非難の声に慌てて退く。そして木刀を杖替わりに立ち上がって構え直すも、相対する勇慈は呼吸一つ乱すことなく、静寂不動の構えのままで待っていた。
「くっそ~……やっぱつえぇ…」
「練度が違うのだから、当然だ。……ようやく、全集中の呼吸が形になってきたな」
「! 本当か!?それなら、そろそろ——」
「まだその域には達していない。それに、一護。お前の日輪刀がまだできていない」
「あ、そか……。日輪刀じゃないと鬼は倒せないんだったな」
「……もうすぐ、とは聞いている。それまで待つことだ」
カァ、と烏が頭上で一つ鳴く。見上げると烏が円を描いて飛んでいた。納刀し、手を差し伸べると烏が舞い降りてくる。足に結び付けられている次の任務内容の文を黙読すると、きれいに畳んで懐にしまう。次の任務地は、ここから二日ほど走ったところにあった。
「任務が入った。俺は行く。カナエと共に」
「ん、分かった。それならまた自主練しとくぜ。機を付けて行けよ」
「もう出るのか?」
「少し遠いから、そのつもりだ」
「わかった。それなら、三十分時間をくれないか。朝の米がまだ残っていたから、それでおにぎりを作っておくよ。出先で食べてくれ」
「ん……ありがとう。……あ、一護」
「ん?」
「日輪刀、そろそろできるらしい。文にそうあった。任務の後取りに行って戻る」
きょとんとした一護のまんまるな瞳が、ぱ、と喜色に花開く。
「っ、ほんとか!?」
「本当だ。だから、次に帰ったら今日以上に扱く。ついてこれなければ、鬼狩りは出来ないと思え」
「っしゃぁ!やる気出てきたぜ!」
「落ち着けよ。そんな調子で、修行中に怪我しても知らないからな」
ぱしっと腕をつき合わせて喜びを露わにする一護が、誰よりも誰かを護りたいと強く願っている事は知っている。そのうえで、危ない事をしてほしくないと願う気持ちもあった。特に今は、替えの効かない生身なのだから。けれど、それで大人しく身を引く男でない事も知っている。そんなところは好ましく、そして尊敬していた。だからこそ、嬉しさと心配と、ないまぜになった複雑な心を持て余しながら、無理はするなよ、とそれだけを告げて任務の支度をするのだった。
ずしりと鉄の重みを感じられる包みを紐解くと、ていねいに包まれた布から顔を見せたのはまるで鏡のように顔が写り込むほど、深く漆塗された鞘。そして磨き上げられた鮫皮で作られた柄。それを緊張した面持ちで受け取った一護は、おぉ……と思わず感嘆の声を漏らした。
「これが…日輪刀……」
「そうだ、お前の鬼狩りのための、武器だ」
「……なんつーか、斬魄刀とおんなじ刀のハズなのに緊張するな…」
「そういうものなのか?僕には違いがわからないが…」
「俺もわかんねェよ。…な、ところで、抜いてみていいか?」
「ああ」
よし、と意気込んだ一護がかちり、と柄に手を掛ける。そして時間をかけてするり、と抜き放ち、ゆるりと切っ先を天上へと向ける。それをそわそわとした様子で見つめる石田と一護に、ああ、自分も昔はああだったな、と少し懐かしい気持ちになった。
だが
「……?色、変わんなくねェか?」
待てど暮らせど、一護の刀は勇慈のような鮮やかな青に染まる事はない。うんともすんとも言わないその刀に、あれ?と首を傾げながらまじまじと刀を見つめる。勇慈もまた、一瞬それを呆けたように見、続けて眉尻を下げて少し困った様子で見つめていた。
「……色が変わらない場合がある。それは、呼吸の適正が限りなく低い時だ」
「っ! なら、俺は呼吸が出来ないって事なのか!?」
「いや、水の呼吸は出来ている。出来てはいるが、身体があっていないのだろう。そういう剣士の刀は、青くは染まらない。残念だが、そうなのだろう」
「んだよ…ここまで来て…!」
「! 待て、二人とも」
落胆を現す一護と諭す勇慈を静止するように、石田が声を上げる。二人の視線が向いたのを受けて、ここを見ろ。と石田が指し示す。ここ、と示されたのは
「……斬月…?」
漆黒の刀身が鈍く輝く。それは確かに、在りし日の天鎖斬月のような色合いの、日輪刀であった。一護の胸が熱くなる。青くなることを想像していたから、まさかそれが黒く染まるとは思っていなかったのだ。あの時失った、相棒が戻ってきたかのように感じて、嬉しさがこみあげてくる。だがしかし、それとは反して色が染まった事に喜ぶどころか勇慈は難しい顔を浮かべていた。
「黒か…」
「ん、黒だとなんかマズいのか?」
は、と現実に引き戻された一護が思い悩んだように吐き出される勇慈の言葉に、ぱっと振り向く。違う、すまない、と一言ことわってから、勇慈は言葉を続ける。
「日輪刀は持ち主によって色が変わるが……黒刀は、特に数が少なくて詳細が判明していない刀なんだ。出世できないという俗説もあるが…一旦それは置いておく」
「つまり、どういう事なんだ?」
「……端的に言おう。呼吸の適正が判明していないのが、黒刀だ」
「なん…だと……?それじゃあ、水の呼吸は使えないのか!?」
「いや、使える。使えるが、お前の身体に最も適した呼吸ではない、という事だ」
そういう事か、と石田は納得する。そして一護は、もっと悔しいだろうとも想像に難くなかった。これまでの三か月、常人なら習得に年単位かけるはずの呼吸を昼夜問わず死に物狂いで習得しようと努力して、いざ少し形になって戦場で戦える、足手まといにならずに済む、と思った矢先でのこの仕打ちだ。まさか、呼吸が身体に合っていないだなんて。
ギリ、と歯噛みする一護に向けていた視線をそっと外して、勇慈は目を伏せた。
「一護……戦うな、とはもう言わない。言わないから、もう一度約束してくれ」
そして胸の中で一護に掛けるべき言葉を見つけると、それを紡ぐために再び一護へと視線を向ける。
「絶対に、死ぬな。必ず、三人で生きて帰る。約束してくれ」
最早懇願に近かった。一護ならきっと、誰かを護るために自らを危険に晒せるとわかっているからこその、願い。仲間を傷つけたくないというのは、ここにいる三人に共通した願いだった。
呼吸が合わない、という事に焦燥を抱いていた一護はそれにはっとする。そして肝に銘じるように、あぁ、と頷くのだった。
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その日の夜。一護、そして石田は初めて任務に同行した。最も連携が取れるから、という理由で勇慈と組み、鬼殺隊からは鎹烏が一羽派遣されている。ガァガァと鳴きながら任務地へと走る一護と石田は、三月前とは比べ物にならないほどに走るのが楽になっている事に驚いていた。必死になって会得した呼吸と、基礎体力向上の訓練が身についている。それは二人にとってこの上ない自信になり、同時にこれが最低限のレベルだと言われた鬼殺隊の過酷さに身の引き締まる思いだった。
目的地は、とある峠道であった。一つの小さな村から始まって、もう一つ先へ歩いていくと路が分かれて、大きな街へも繋がる峠道。山の中の、分かれ道。そこで、失踪者が相次いでいる。最初の失踪者は、そこを日常的に使う村の住民。さては山に山菜採りにでもいって迷子になったか?と思われているだけであった。まぁ暗くなる前には帰るだろう、と。しかし待てど暮らせど、若者は帰ってこなかった。これはおかしい、といよいよ村を上げての探索に踏み切るも。纏う衣はおろか山菜の詰まっているであろう籠すらも見当たらない、まるで神隠しのような有様であった。
そこが神隠しの峠と言われるようになったのは、もう少し後の事。皆が皆薄気味悪いと敬遠するも、山里であるその村から出て薬などを買い付けにいくには、その峠道を通るしかない。その噂を聞けば人など寄りつこうはずもない。奇特なお人よしでもなければ。そう、お人よしがいたのだ。隣町の商人で。義理と人情に生きるような精気のある若者。
こいつァいけねェ、商売繁盛の神様お天道様もきっとこれにゃあ心を痛めてら。よしちょっくら俺がその”神隠しの峠”とやらを越えて村まで商いに行ってくらぁ!そうにこやかに笑って宣言する男を街の者は大層止めた。止しなよお前さんまで消えちまうよ!なぁに心配いらねェ。それに、商売なんて助け合いよ。巡り巡って、積んだ徳を元手に運が回ってくるかもなァ?なぁんて。
それが、最期の言葉になるだなんて。
村人が見つけたらしい。その日は雨の日だった。泥濘の中に薬箱が落ちていて、さらに草履が滑ったような跡。その跡の横に、見たこともない異形の足跡が見つかるだなんて。
街も、村も、阿鼻叫喚だった。あの峠には鬼神がいる。峠を通った人間を攫ってしまう鬼神が。祟りだ、と混乱に陥るのも、それがお館様の耳に止まるのも必然と言えた。
峠道に潜む鬼を討伐する。それが、三人に課された任務である。
「……そろそろか、二人とも。止まれ」
山の中で勇慈が待ったを掛ける。とん、と手近な木の枝に下りながら、どうしたんだ?と二人が振り向いた。
「じき、目的の峠に着く。そこに行く前に、二人には変装をしてほしい」
「変装?」
「あぁ、峠の噂を聞いて出向いてきた、物好きで好奇心の強い若者という体だ。今のところ、鬼は峠を通る人間を無差別に狙っている。おそらく、お前たちが出向いても何ら疑う事なく引っかかるだろう」
「なるほど。そこを抑えて倒すんだな」
「でも、日輪刀持ってちゃバレねーか?」
「ああ……だから一旦それを俺に預けてくれ。すぐそばで待機して、お前が襲われたのを確認したら縛道で縛り上げる。その隙に日輪刀を返す」
「やっぱ鬼に縛道って効果てき面だなぁ」
「そうだな。そんな術を人間が使えると思っていないから、以前の鬼もあっさり引っかかってくれたし」
うん、と顔を突き合わせて頷き合う。方針は決まった。それなら、一旦着替えておくか、と風呂敷の中から鍛錬用の胴着を取り出す。俺らは着替えて準備しておくから、一旦後でな。気負った様子もなく当たり前のように夜に備え始めた一護から日輪刀を受け取り、こくり、と一つ頷くと勇慈は瞬歩を用いて姿を消した。
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ぷすり、内魄固定剤 を注入しながら一息つく。そして手の挙動を確かめながら、少しだけその表情に影を落とす。
「(……内魄固定剤の消費が激しい。長期任務を見越して常に多めに持ち込んではいるが、今の身体は携帯型。自分用に[[rb:調整 > メンテナンス]]された義骸じゃないせいか、薬を打っても連結がやや鈍い。)」
現に、この三か月の間に二十本ほど消費している。常に六十本ほど持ち歩いているため、まだ数に余裕が多少あるとはいえ、単純計算であと半年。義骸との拒絶反応が酷くなれば、それ以下の期間で身体が動かせなくなる。内魄固定剤の精製には十二番隊で管理している特殊な薬草を用いる必要があるため、こちらでは精製が出来ないのだ。
ふぅ、と少し溜息をつく。そしてその視線を落とした時、遠くからじゃり、と足音が聞こえた。ぱ、と顔を上げて身を一層草むらに顰める。辺りはすっかり真っ暗で、鬼が活動するにはもってこいの時間帯であった。いつの間にか、山霧も漂ってきていた。視界が悪くなり、足音だけが山に響いている。
遠くから、少しずつ声が聞こえてきた。
「——……だからよぉ、絶対ここの神隠しなんて嘘だって!」
「嘘なものか。それに、嘘だというのなら君が手に持っているその棒はどう証明するつもりだい?」
「なっ、これはもし神隠しが起きたら俺が退治してやろうと思ってだなァ!」
「そんな棒なんかで退治できるものなら、苦労していないよ……はぁ、おばあ様が君を見たら嘆くだろうね」
「うるせ!」
驚いたことに、茶番をしながら歩いてきていた。おそらく石田が主で演技しているのだろう。一護のあれは……素のようにも見受けられる。よれよれになるまで着古した胴着を纏った、油断しきった若者。だからこそ、釣りあげられる。
「っ、」
重たく空気が粘つきだす。ひやりと冷える空気に、背中合わせに身構える二人。それを見て、ケタケタと山の中に笑い声が響き渡った。
「かわいいねぇ。かわいいねぇ。おばあ様のお遣いかい?坊やたち、こっちにおいで。飴をあげよう」
鈴の音を転がしたような、女の声。リィン、リィンと残響が木霊する。しかし、それはこんな暗闇の道を歩いている若者に向けるには、いささか粘ついた声色だった。
「坊やたち、おなかが空いていないかい?あぁ、それならこの前商人さんから貰ったお菓子があるよ。山菜もある。お鍋にしましょう。たんとお食べ。こっちへおいで」
「……その菓子も山菜も、テメーのじゃなくて誰かのだったんだろ」
「……何?」
「出て来いよ化け物!お前の正体なんてお見通しだ、俺が退治してやるぜ!!」
ぶん!と棒を振り回しながら若者が血気に逸る。隣でおい、黒崎!と窘めている男もいるが、哀れなものだ。こんなところで仲間割れだなんて、あぁ、哀れで可愛そう。
「かわいいねぇ、可愛そうだねぇ。よしよし、怖くないよ。二人とも一緒に…ここで死ぬのだから!」
「っ!」
一護の背面、泥の中から一護を貫くように手が付きだされた。その殺気を察知して身をよじって躱すと、泥から生えた手を逆に両手でつかむ。なにっ!?と声を上げる女が動揺している隙に、ヒュウウと全集中の呼吸を用いる。
「ふんっ、う、おぉおおお!」
「うぎゃああ!?」
ぐちょり、ずるり、と泥から本体が滑り出る。それを勢いに任せて宙に投げると、石田の弓が鬼の四肢を射貫く。ぎゃぁ!と鬼が悲鳴を上げ、地面に倒れる前に這縄が草むらから躍り出て、鬼をがんじがらめに絡めとる。
「一護!」
「おう!」
隣に現れた勇慈から刀を受け取り、日輪刀を抜き放つ二人。それを見て、鬼は鬼殺隊か…!と苦々し気に吐き捨てる。
「くそっ、くそっ!バレちゃあ仕方がないね。三人まとめて喰ってやる!」
「喰えるもんならな!」
一護が瞬歩と呼吸を応用して、一足飛びに鬼の元へと向かう。そして地面に転がっている鬼へ向かって、刀を振り下ろそうとした。
「血鬼術、霞隠し」
瞬間。鬼の身体が霧散する。なっ、と一護が目を見開きながら振り下ろしたそこにあったのは、縛り上げた形のままだらりと形を崩している這縄だけであった。
「なん…だと……どこに消えた…!?」
「一護、後ろだ!」
石田が弓を穿つ。ギィ!という悲鳴は一護の後ろから響き、慌てて後ろを振り向くと霧の中から腕だけが実体化して、一護を引き裂かんとしていた。
「な…!?」
「やっと気づいたのかい?この霧はアタシの身体そのもの。アンタらがいくらその剣を振り回そうったって、実体のないモノを斬れやしないよ!!」
何とも厄介な鬼だった。確かに、実体がなければ斬りようがない。それも、先ほどのように手だけ実体化が可能ならば。
どうする、と勇慈は考える。その間にも、鬼が四方八方から腕を突きだし、蹴りを加え、一護はそれを剣で受け流しながら石田を護っている。勇慈もまたそれに加勢するように石田を背にし、凪を振るう。
「(……単純に防衛戦をしていても、無駄だ。この霧から何とか鬼を引きずりださなければ…)」
「……あ」
「ん?」
勇慈と一護に守られている形の石田が、あっと何か閃いたような事を口にする。
「冨岡、あの霧が、鬼の本体と見て間違いないな?」
「あ、あぁ……」
「……それなら、行けるかもしれない。オイ、黒崎耳を貸せ。冨岡。合図があったらその…鬼を一か所に集められないか、呼吸で試してみてくれ」
「呼吸で……?分かった」
この場は引き受ける。二人は一旦安全圏へ、と後ろに押し出す。その滑稽なさまに鬼がギャハハハと汚い笑い声をあげた。
「安全!安全だって?そんなのどこにだってありやしないよぉ!この霧は、アタシの手足も同然なんだから!」
「
「なんだってぇ…?」
しゅん、と弧雀の展開をやめると一護の肩に手を添える。にやり、と笑いながら。そして一護は少しだけ緊張した顔で。
「……勇慈!今だ!やってくれ!!」
ヒュウウ、と強く息を吸い込んで低く構える。
「全集中 水の呼吸 参ノ型——流流舞い!」
たっ、と駆け出して水流のような足運びで舞を踊る。無論、斬る動作もしているのだがそれは霧を掠めるだけで鬼に手ごたえはない。だが、鬼もまた水面を踊るような足運びに追いつけず、鬼の手は空を切る。
その背後で、石田が静かに瞑想を始める。外界から、内へ、内へ。霊なるものを集わせて自分の中でぐるぐる、ぐるぐると加速させ始める。
「くそがぁあああ!」
「拾ノ型 生生流転!」
参ノ型から足運びがさらに苛烈な物になる。そのうねる水の軌跡は龍のように辺りを踊り狂い、空気の流れが生まれる。まるで霧を、刀の切っ先に絡めとるように。辺りを飲み込む水龍は峠の霧を飲み込み、霧を纏った水龍として顕現した。
「ギィ!」
鬼が振り回されている手応えを感じた。仕上げだ。
「————陸ノ型 ねじれ渦……一閃!」
ぐるりと上半身と下半身を反対にねじりながら、水龍を渦と成して天へと打ち上げる。水龍は霧を絡めとり、遠心力とその顎を以て鬼に食らいついている。
「————今だ!一護!石田!!」
「おう!!」
「準備は出来ている!」
天でくるり、と体勢を戻しながら地上の二人を見やる。そこで、目を見開いた。石田の中で加速された霊力が、一護の中に流れ込んでいっている。
「滅却師は大気中に偏在する霊力を収束、自らの霊力でコーティングすることで霊子兵装を作り上げる……。なら、その力を応用するだけだ」
一護が構える。その日輪刀に淡い光が宿り、石田の集めた霊力が渦巻いている。石田の霊力で、日輪刀が覆われている。
「今なら出来るはずだ…黒崎、いけ!霧ごとアイツを叩き斬れ!!」
「あぁ!いくぜ!!」
一護の肩を石田が押し出す。駆け出して、跳躍。大きく上段に構えをとる。あの構えは——
「(ああ……)」
眩しいものを見るように、勇慈が目を細める。二人でなら、きっともっと、強くなれる。眩しくて、少し羨ましくて、そして嬉しくて、その言葉を聞く前に口元が弧を描いた。
「————月牙天衝!!!」
斬撃の瞬間、石田の霊力を纏っていた刃から高密度の斬撃が迸る。それは水龍の首を切り裂くどころか、水龍そのものを喰らいつくして大きく爆ぜた。
くるり、すとんと着地した勇慈と危なげなく落下してきた一護を見て石田が笑い、そして天を見上げる。空は、晴れ渡って月が見えていた。
「……やった…」
決して自分ひとりの力ではない。石田がいなければ放つことすらままならない。だが、確かにこの日。一護は戦う力を取り戻したのだった。
一護と石田、そして勇慈の快進撃は続いた。東へ行って鬼を滅し、西へ行って鬼を滅し、まさに東奔西走の様相であった。倒した鬼の数は右肩上がり。その中に、なんと下弦の陸含まれているとなれば、ますます噂にもなろうというもの。
良い意味でも、悪い意味でも。
その日、一護たちは花屋敷を訪れていた。先日成し遂げた下限の陸討伐の折、石田が軸足を痛める怪我を負ったからだ。軸足である右足を痛めてしまえば、機動力の低下ならびに自前の弓の反動にすらダメージを受ける事になる。それをおしてまで討伐を成し遂げたのだから、誇るべき傷であった。最も、顔を青ざめさせた一護によって抱えられ、勇慈に導かれる形で花屋敷を訪れる羽目になったのだが。
「ちょっと筋を痛めただけだって、胡蝶さんも言ってただろう」
「でもよ…」
「いいから、何も立てなくなったわけじゃあるまいし、気にし過ぎだ」
なおも言い募ろうとする一護を窘めながら、パイプベッドから身を起こした石田は大げさだなと笑った。実際、この程度の怪我であれば軽い機能回復訓練込でも二週間ほどで復帰できる見込みを、花柱・胡蝶カナエの妹である胡蝶しのぶから伝えられていた。
「——あ!こんなところにいたのですね。探しましたよ!」
ひょこりと病室に顔を見せたのは神崎アオイ。花屋敷で隊士たちの看護を務めている女の子たちの一人であった。ズカズカと歩みより、一護の手をがしりと強く握る。自分より小さい女の子の、想像よりも力強いそれに一護は思わずうえっ!?と動揺を見せる。
「貴方も左腕の筋を少し痛めていたので、要治療ですよ!薬湯があるのでこちらにいらしてください」
「いやこんくらいなら大丈b」
「返事!!」
「ウィッス……」
アオイの推しは強い。それは花屋敷で治療を預かるものとしての責務”以外”からも来るものであったが、それを一護たちが知る由もないのであった。
「あー…それじゃあ、ちょっと薬貰ってくるわ。またな、二人とも」
「ああ、行ってこい」
ひらひら、と手を振って石田が見送ると一護は病室を出ていく。残ったのは勇慈と石田のみ。その勇慈もまた、ここにいても何も出来る事はないしな……と一人納得して石田に一声かけると、病室を後にした。
静かになった病室で、石田はごろんと横になった。
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一護とはこの後も任務がある。その為一護を待ちながら、花屋敷の縁側で日向ぼっこをしていると、不意に鼻を掠める香りに気が付いた。すん、と鼻をならすとそれは藤の香りのようであった。それに、僅かに嗅ぎなれた薬品の匂いがする。今見ている庭にあるのは、大きな桜の大木だけだ。どこから香ってくるのだろう、とふと気になった勇慈は腰をあげると、とてとてと廊下を歩きだす。屋敷の中を幾度か曲がって、突き当りの部屋。たどり着いたそこから香りが漂っていた、入っていいものか、否か。まぁいたとしても花屋敷の関係者だろう。それに、ここまで来たら流石にこれが何なのかはうっすら想像がつく。何の研究をしているのだろう。という好奇心が勝った。こんこん、とノックをすると、ちょっと待ってください!という高い声が響いた。しのぶのものだった。
大人しく待っていると、しばらくのち、バタバタという音とともにガラリと強く戸が開けられた。
「……名前を呼ばれなかったので、アオイたちじゃないとは思っていましたが……貴方でしたか。冨岡さん」
「すまない。忙しいところを」
「ホントですよ。まぁ、行き詰っていたので構いませんけど……」
「行き詰まる?その藤の香りとやはり関係が?」
「……貴方、何にも知らないんですね。まぁいいですよ。見ていきます?分かりっこないと思いますけど」
しのぶがその、”研究室”に人を招き入れる事はあまりない。妹たちも、カナエでさえも。それでも人を招き入れたのは、しのぶの言う通り行き詰まっていた愚痴を吐きたかったのもあるのだろう。そうとは知らずに招かれた勇慈は、なんの気なしに足を踏み入れる。壁には多種多様、色とりどりの干した毒草がかけられており、薬品棚には所せましと様々な瓶が置かれている。中には、鹿茸・亀板・熊の肝などの生薬もあった。
「これは……」
「私の研究室です。鬼を殺す毒を作る為の」
「鬼を殺す毒?」
オウム返しに勇慈が問いかける。しのぶは自分の小さな手を見つめながら、ぽつりと零す。
「私は体格があまりよくありません。……筋肉も、あまりないし、鬼を斬れないんです。だから、鬼を殺す毒を作って、鬼を殺している……体格に恵まれている貴方には、理解できないかもしれませんが」
しのぶの身長は、151cm。体重に至っては40kgにも満たない。勇慈と30kg程度の差があった。その華奢な身体で鬼を斬るのは確かにかなり困難が伴うだろう。そして、しのぶにとってはそれは強いコンプレックスであった。そのコンプレックスを克服するための手段として、毒を選んだ事。なるほど…と、自分より20cmくらい低い位置にある頭を見下ろしながら、勇慈はくるりと部屋を一見する。そして思った。
「毒、俺は好きだ」
「えっ」
「俺の友人も、そんなに体格はよくない。同じように、薬品や毒を以て敵を相手取っている。持てる武器を駆使して戦うのを、俺は悪い事だとは思わない」
思いがけない言葉が飛んできて、しのぶは絶句していた。まさか、あの水柱そっくりの兄が毒を全肯定するなど。押し黙ったしのぶにきょとり、としながら、勇慈は言葉を続ける。
「あと」
「、まだ何か?」
「俺の斬魄刀…彼岸花、という名前なんだが。これは毒の刀だ」
「えっ?毒の…?」
「ああ、再生阻害能力を持つ。俺が、元々鬼狩りをしていたから俺に似て生まれたんだろう。虚狩りに特化した刀として、生まれてきた」
「ちょ、ちょっとお伺いしてもいいですか?その毒って、どうやって相手に付与しているんですか?」
「……斬ったり、突いたり?斬れた箇所の再生が阻害される感じだ。最終的に面を割れば倒せるから、手段はあまり問わない」
「手段は、あまり問わない…」
しのぶが黙して考え込む。真剣に悩むその横顔に勇慈は何かマズい事を言っただろうか、と少しおろ…としたが、しのぶが口を開くのは思ったよりも早かった。
「その、あのですね。私、研究に行き詰まってまして、藤の毒の濃度を上げたいのに、中々上がらなくって。それに、いちいち刀に塗布してから斬るのも大変で。貴方なら、どう改善します?」
それは、一縷の期待でもあった。見上げてくる藤の瞳に目を瞬かせながら、もう一度部屋を見回して、考え込む。しのぶの真剣な相談であった。無下には出来ない。考えて、ちらりと黄色と黒の影が頭を過った。
「……アナフィラキシーショック」
「…はい?」
「アナフィラキシーショックという、免疫反応がある。わかるか?」
「いえ……どういうものなんですか?」
「たとえば蜂に刺された後、人体は免疫を獲得する。それに対する抗体が出来る。だが、そのアレルギーの元に”二度目”以降に晒された場合、免疫反応が暴走……過剰反応することがある。人間であれば血圧の低下や失神、症状が酷いモノは死に至る。……斬魄刀であれば、”弐撃決殺”を齎す肉体の過剰反応。それが、アナフィラキシーショックだ」
「免疫の暴走……待ってください、斬魄刀にその、あなふぃらきしーしょっく?というものを齎すものがあるんですか?」
「ああ、ある。二番隊隊長が持つ斬魄刀がそれだ。一度目で抗体…蜂紋華という死の刻印を刻み、その箇所にもう一度攻撃を加える事で必ず相手を殺す、弐撃決殺。これなら、応用が利くと思う」
「確かに、一度目の藤毒で抗体を付与できれば……けど、毒が完全分解されては意味がありません。それに、今の私の手持ちの毒じゃあ——」
「毒ならここにある」
ごそごそ、と腰のポーチを漁り、瓶を幾つか取り出して見せる。しのぶはそれを見て目をまんまるにし、それは、と尋ねる。
「俺の友人が作った、麻痺毒や致死毒だ。虚に向けて使う用だが……これも縁か。鬼に効く事は確認してある。…お前が使うといい」
そう言ってしのぶに手渡すと、しのぶはいよいよ動揺し、でも、と言い募ろうとする。
「でも…!ありがたいですけど、貴重なものなんじゃ」
「俺はいい。日輪刀もあるし、それに劣るとはいえ自作も調合も出来る。お前の研究に役立てるといい」
「それは……待ってください、自作?調合?貴方、薬学の心得もあるんですか?!」
「? ある。技術開発局の四席だからな。多少は心得ている」
だから、そうだな。と羽織を手近な椅子に畳んで掛けながら、隊服の袖をまくる。
「藤毒の研究には、少し興味がある。少し触っていいか?
「あっ…はい!あ、それならこっちのピペットを使ってください」
「助かる。ならそうだな。まずは藤毒の抽出方法からなんだが——…」
その日、しのぶの藤毒の研究は大いに進み、弐撃決殺の毒の精製に成功するに至るのは、後日の話である。
勇慈がしのぶと毒の開発で盛り上がっている頃、一護は治療を終えてぶらぶらと花屋敷を歩いていた。一度石田のところにも顔を見せたが、勇慈はあれから帰ってきていないらしい。どこへ行ったのだろう、と探す途中で、病室の前を幾つか通り過ぎる。
「——で、———だよな」
「——な。まったく——だ」
「あんな奴、鬼と変わらないよな」
ぴくり、と一護の肩が少し跳ねる。病室の前で足を止め、隊士たちの話声に耳を傾ける。その顔には影が落ち、表情を伺い知ることはできない。
「この前の下弦討伐の時も、使っていたぜ。怪しい技。俺はこの目で見たんだ。死神だって話だけど…死神って、不吉だよな」
「そうなんだよな。大体、死の神を名乗るくらいなら鬼を皆殺しにしてから言ってほしいぜ」
「はははっ!言えてる」
「……さっきから黙ってりゃ好き勝手言いやがって…てめーら一体どういうつもりだ!?」
がたん!と強く戸を開けて怒鳴り込む。一護の剣幕にびくりと肩を震わせたその隊士を見て、一護の苛立ちはさらに増した。あろうことか、件の下弦の陸を討伐した際救出した隊士だったからだ。つかつかつか、と歩みより、胸倉を掴み上げながら一護は眦をつり上げる。隊士の一人は負傷から逃げる事も出来ずパイプベッドの上で身を縮こませ、掴み上げられている隊士は締まる首にかかる手に両手を添えながら喘いでいる。
「なっ…おま、はなせっ…」
「まずはアイツに謝るのが先だろうが!てめー、勇慈がいなくちゃ死んでた癖にふざけんなよ!!」
「お、横暴だ!誰か!誰か!」
「うるせぇ!てめーも同罪だからな!!」
もう片方の隊士が大声を上げるのを睨み、吐き捨てながらも一護の怒りは収まらない。胸倉を掴み上げる手に添えられた手に力がこもる。それに気づいて前を見据えると、恨みのこもった目で逆に睨みつけられて一瞬動揺した。
「さっきから好き勝手言いやがって…鬼に家族を殺されたこともない餓鬼が口出すんじゃねぇ!!」
「んだと!?」
「あんな力、人間じゃない!それを味方だって言うお前も、どうかしてる!人間じゃないなら、きっといつか鬼の味方をするに違いないんだ!!」
「ふざけやがって…!あいつに助けられた癖に、よくもぬけぬけと…!」
一護が拳を振り上げる。それをそのまま力任せに振り切ろうとした。隊士が目を瞑って身構える。それを、やんわりと制したのは手弱女の如き小さな手だった。
「はい、そこまで」
やんわりと、だが一護が渾身の力を込めて振り切ろうとした腕が静止されている。それを顔色一つ変えずに止めているのは、花柱・胡蝶カナエ。一護が驚きに目を見開いていると、助けがきたと思った隊士たちがカナエ様!と声を上げる。
「カナエ様!あぁ、助かりました……こいつを追い出してください!俺達に危害を加えようと!」
「そうね、殴るのはよくないわ」
「そうでしょう。そうでしょう!」
「けれどね、私も怒っていないとは一言も言っていないわ」
「…………へ?」
「当然よ。だって勇慈は、私の友達だもの」
にこりと花開くように笑うかんばせは冷ややかな瞳を携えて、隊士たちを見つめている。その瞳に貫かれて、隊士たちはまごつく。バツが悪そうに、けれど、心の中では間違っていないと思いながら。
「貴方たちがご家族を殺された辛さ、悲しさ……それは、貴方たちのものよ。『人』にぶつけてはダメ。ましてや、命を救ってくれた人に」
「…………はい」
「血鬼術のようで恐ろしかったのよね」
「……そうです…」
「なら、私から勇慈にはなるべくその術は隊士たちの前で使うのを控えるようお願いするわ。使うな、とは言えない。彼にも彼の芯があるもの。けど、これは訂正して頂戴ね」
カナエはかがみながら、隊士たちとしかと目を合わせて話しかける。優しく、ていねいに。
「彼は、人よ。死神かもしれないけれど、今も昔も、鬼殺隊の為に戦ってくれる、人。神に託す役目を、人に託してはいけないわ。ね?」
「……はい」
「いい子。…疲れたでしょう?お茶でも持ってくるわね。一護さん、お手伝いをお願いしてもいいかしら?」
「え、あ……はい」
カナエに続いて一護が病室を後にする。自分より低い位置にある頭と、揺れる蝶の髪飾りを追いかけながら、一護は先ほどのカナエと隊士のやりとりを思い出していた。給湯室に着くと、がらりと戸を開けてカナエが入り、一護も続いて入ろうとした。そこで、くるりとカナエが振り向き、一護を見上げながらありがとう、と一つ口を開いた。
「え、」
「一護さん、怒ってくれたでしょう?勇慈くんの事で」
「いや、それは当然っつーか…」
「貴方にとっては勇慈くんは友達だから当然かもしれないけれど、鬼殺隊にとっては勇慈くんは異質な存在なのよ」
異質、と言い切った。それにむっとしながら、なんだ、お前もそんな事いうのかよと呟くと、拗ねた子供のように映ったのだろうか。小さい子を見つめる姉のようにくすりと笑いながらごめんなさいね、そうじゃないのよ、とカナエが続ける。
「鬼殺隊は……鬼に兄弟姉妹や家族、身内を殺された人が大勢いるわ。……そうね。一つの集合体ともいえるかしら。鬼への憎悪という絆で結びついた。人知を超える仕業は、全て、鬼のもの。だから、勇慈くんが生きていてくれる事にすら、勇慈くんを知らない隊士たちから見たら怖いものに映ってしまうのよ」
「勝手だろそんなの…勇慈は鬼じゃねぇし、死んでもねぇよ」
「そうね、勝手だわ」
「頭も固い」
「そうね、私もそう思うわ。けれど、それが[[rb:鬼殺隊 > わたしたち]]の普通だったの。……一護くんは、これからもきっと嫌な思いをする事が沢山あると思う。けど、勇慈くんの味方でいてね」
そ、と手を取られて胸の前で握られる。手弱女のようだ、と思った手は剣だこで固くなっていて、よく見ると少し荒れていた。ともすれば、自分より剣だこが多い。それだけ過酷な戦いをしてきたのだと思ったら、なんだかバツが悪くなった。
「……おう」
「ありがとう」
ふわりとカナエが笑う。その可憐な微笑みに一瞬どきりとしながら、ぶっきらぼうに視線を逸らした。
ぱ、と手を離したカナエがお茶をいれましょう。と一護を促した。
「そうだ、一護くん。雨竜くんには相談したのだけど、今度の任務一緒に来てくれないかしら?」
「え?あ、あぁ。いいぜ」
「ありがとう。貴方と、勇慈くんがいたらきっとどんな鬼が相手でも平気だわ」
そう笑ったから、まさかこうなるだなんて、一護も、そして今ここに居ない勇慈もこうなるとは思ってもいなかったのだ。
ぱ、と鮮血が舞う。目を見開いて、蝶の羽が破れて血に濡れる。
どさり、と前に倒れ込んだカナエは浅い息を零しながら、ぜぇぜぇと身体を起こして前を見続ける。
「……ぅ、カナエさん…!」
一護が凍り付いた足を引き抜こうともがいている。その横では、日輪刀を地につけて膝をついている。
「カナエ…!逃げろ…!」
勇慈が声を絞り出す。ふらりと立ち上がり、冷気に震える刀を構えながらハァと一つ荒い息を零した。
「おやおや、可哀想に。あんまり無理に喋ったり立つものじゃあないよ。肺も凍りそうなくらい辛いんだろう?」
ゆったりと”それ”は歩いてくる。[[rb:白橡 > しろつるばみ]]色の髪をなびかせながら、虹色の虹彩に冷たい優しさを灯して。
「ああ、可哀想に。安心してね。三人とも。そんなに怖がらずともいい、首をすとんと落とせば、それで終い。俺が皆を救ってあげるからね」
”上弦”の”弐”を宿した鬼が、歩みを進める。
大正コソコソ噂話
勇慈としのぶは花屋敷で顔を合わせた事が何度かありましたが、各々の戦い方を話したのは今日が初めてでした。勇慈はその戦い方を、二番隊隊長・砕蜂の戦い方が応用できると思い、アナフィラキシーショック用の毒を精製しています。ついでに予備の携帯型義骸も提供しました。隊士の治療の役に立つならば、と。
仮にも十二番隊四席、簡単な毒の精製ならお手の物、と口にしたところ、怒ったしのぶに尻を叩かれたそうです。
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