現十二番隊の元鬼殺隊は
人が人を忘れるとき、最初に忘れるのは声だと聞いた。
そして、人が死ぬときは忘れ去られるときであるとも。
ならば、あの人の声を覚えている限り、あの人はこの胸の内で生きているのだと己を慰めている。
勇慈は、冨岡家の双子の兄として生まれた。瓜二つの弟、義勇と、姉の蔦子の三人で生きていた。
そして勇慈は、幼い頃より”見えざるモノ”が見えていた。
「ねえさん、蔦子ねえさん。あそこに人がいるよ」
と、生者と死者の区別のつかぬ幼子を蔦子は諭した。
「いい?勇慈。人をちゃぁんと見る癖を付けるのよ。それが、貴方と義勇を守ることに繋がるわ」
「おれと義勇?」
「そう。ほら、よぉくみて。貴方の言っているあの人の胸は動いている?」
「………あんまり?」
「でしょう?勇慈、貴方はきっと、素敵な目を貰ってきたのね。寂しい思いをする人を取りこぼさない、優しい目。」
「だけど、気づかれちゃいけない人もいるの。悪い人がいることもあるの。だから、ちゃぁんと見るのよ。義勇は怖がりさんだからね」
「……わかった!」
幼子の無垢な肯定に、蔦子は一つ安堵の息を吐く。どうか、彼が大きくなってその目が見えなくなりますように、と。
その願いは、祝言を上げる日の前日に打ち砕かれた。
「いい。勇慈、義勇。何があっても、ここから出ちゃいけないわ」
蔦子に押し込められた襖の奥、押し入れの中。ただならぬ気配を感じて双子は怯えていた。
「…義勇、義勇。いいか、目を閉じて、じっとしていろ」
そうして、勇慈は義勇の耳を両の手で塞いでやる。兄さん、と縮こまる義勇は怯えていた。ほとんど同じ時に生まれたとはいえ、勇慈は兄である。兄は、弟を守るために在る。その想いに突き動かされるように義勇を包むように庇い、じっと息を顰める。
間もなく、壁が突き破られる衝撃に家が揺れ、姉の鋭い声が響いた。義勇の耳は塞いでいるから、ただ衝撃にびくりと震えるだけで済んだ。しかし、勇慈の耳を守ってやれる姉はここに居ない。バタバタ、と物が倒れる音と喉から絞り出されるような顰めた悲鳴。勇慈も震えた。今この襖一つ挟んだ部屋で、姉が何者かに襲われている。男なら、飛び出して姉を守ってやらねばいけなかった。だがそれ以上に、勇慈は兄であった。兄は、弟を守らなくてはいけない。
早く、早く収まれ。姉さんに手を出すなと普段祈りもしない神に祈りながら、音が止むのを必死に願っていた。
ながい、ながい時間が経ったような感覚がした。気が付けば、音が止んでいた。
恐る恐る、義勇の耳を放してやる。うんときつく握ってしまったせいか、少し赤くなっていた。可哀想に。涙を浮かべながら、それでも尋常ではない兄の様子に懸命に堪えていた。
「……兄さん、もう、大丈夫?」
義勇の目から、ぽろりと涙が零れる。慌ててそれをぬぐってやり、顰めた声で大丈夫だ。もう怖くないぞ。と伝えた。
努めて兄らしく、そうして、襖に手をかけて逡巡する。迷うな。弟が怯える。意を決して、襖を開けた。
「…………、蔦子、ねえさん…?」
そこにあったのは、まるで獣に喰い荒らされたような変わり果てた姿で事切れている、蔦子の亡骸であった。
「ねえ、姉さん……蔦子姉さん!!」
義勇が駆け寄る。姉さん、姉さんと必死で姉の閉じられた目が開くように揺り動かす。だが勇慈には、違うモノが見えていた。
「………嘘だ……」
そこに居たのは、泣きながら自分を揺さぶる義勇を悲しげな見つめる、血まみれの衣装をまとった蔦子の姿だった。
蔦子と視線が絡む。そうして、蔦子はごめんなさい、勇慈、義勇と口にした。
蔦子の願いは、叶わなかった。
床を激しく殴った。涙にむせるほど泣いた。自分は、弟を選んで姉を見殺したのだ。
家から逃げ出して、”鬼”に襲われて、鬼殺隊を知った。育手を知った。呼吸を知った。
姉の仇を討つために、覚悟を決めた。そのころには、義勇も少し笑うようになってくれていた。それが、兄としては嬉しかった。
だが同時に、怖ろしくもあったのだ。もし、もしもだ。義勇も蔦子姉さんのように失ってしまったら、俺は生きていけるのだろうか、と
「いいか、勇慈。二度と義勇に自分が死ねばよかった、なんて言わせるなよ。お前もだ。お前も、命を捨てるような真似を決してするな」
「錆兎……わかっている。二度と、言わせない。俺が護る」
覚悟を決めた。そうして、口調も少し変えた。常在戦場の構えたれ。常に冷静であれ、護るべきを護れるように、自分を律せよ、と。
しかしまたしてもそれも失ったのだ。錆兎という光を亡くして、義勇は泣き叫んだ。泣いて、泣いて、ふがいない自分を責めて、そうして口数がうんと減ってしまった。笑顔も見せなくなってしまった。
自分が力が足りなかったばっかりに、またしても、誰かよりも弟を守る事を選んでしまった。
錆兎が死んだのは、そのせいだ。
蔦子姉さん……
「勇慈、義勇。私の大事な宝物。二人で仲良く、生きるのよ」
錆兎……
「義勇!勇慈!腹ごなしに手合わせをするぞ、そして三人で必ず最終選別を乗り越えて、先生の元に帰るぞ」
それでもあなたの声を、お前の声を。優しい記憶が、100年経っても色褪せないのだと、自分を慰めているのだ
「お、今日の任務は勇慈とか。最近出世頭の甲さまと一緒なら、今日の任務はきっと楽勝だな!」
「静かにしろ。気を抜くな」
「相変わらず固いなぁ。そんなんだからとっつきにくいって言われるし友達少ないんだぞ」
「友達はいる」
揶揄い混じりに冗談を飛ばす味方の鬼殺隊員をよそ目に、林の中を駆け抜ける。今日の任務は、ある村で起きているという集団自殺を調査せよという命だった。我らが親方様は、そこに鬼がいると睨んでいる。走りながら、そういやさって別の隊員が口を開いた。
「勇慈、お前、下弦の鬼も討ったんだろう?なら、次の水柱はお前なのかな。それとも、弟の方?」
「お館様の采配次第だ。……だが、水柱になるのなら、俺がいい」
「それはアレか?弟には荷が重いってヤツか?」
「違う。あれは……足りない」
「足りないって、何が———」
ガァ!と烏が悲鳴を上げる。なんだ!?と仲間たちが歩を止めて抜刀する。柄に手を掛けながら、どこからの攻撃か、と注視する。
月の 呼吸
瞬間、荒れ狂う暴風と共に味方の隊士たちの胴が寸断される。声も上げず絶命してゆく隊士たちに目を見開きながら、抜き放った刃で暴風を撃ち落す。左の腹が、浅く抉れるだけで済んだ。
「カァ!カァ!襲撃!襲撃!撤退せヨ……ガァッ!」
己の鎹烏が撃ち落された。一緒に任務に当たっていた隊員の鎹烏も一羽残らず。そして今この場に何とか立っていられるのも、自分ただ一人だけであった。
「よく……防いだ……見事なり……」
黒い袴に、紫の衣を纏った侍の鬼が悠然と歩み寄る。瞳の数字は、”上弦”と”壱” 鬼舞辻無惨の配下、最強の鬼、上弦の壱がそこにいた。
浅く抉れた腹の傷全集中の呼吸で止血を試みる。ほう、と感心するように上弦の壱が呟いた。
「その歳で……呼吸をそこまで修めているか……素晴らしい……さぞ、鍛錬を重ねたのであろう……」
ゆるりと、上弦の壱の六つの目が勇慈を見つめる。
「お前、名は……なんという……」
「……鬼に教える、名など、無い!」
ヒュゥゥゥゥ……と、深く息を吸い込む。負傷を思わせぬ軽やかな足取りで踏み込むと、流れる水のように相手の懐へ潜り込む。上弦の壱は動かなかった。
「水の呼吸、参ノ型 流流舞い!」
そのまま逆袈裟斬りに斬り上げようと刀を振り抜いて、キン!と鋭い音が鳴り響く。目を見開き、上弦の壱の手元を見た。僅かに鞘から抜かれた刀身が勇慈の刀を阻んでいて、押し切る事ができない。相手は左手しか使っていないのに。
「もう一度言う……お前、名は……なんという……?」
「ぐっ!」
どん、と突き飛ばされてたたらを踏む。よろめきながら鬼に視線を定めると、ぞっとする重い殺気に身を包まれた。
「……ぁ…。」
身体が震える。怖気が止まらない。今この瞬間、自分の命は相手に握られている。呼吸が止まりそうになる重たい空気に何とか息を吐き出しながら、それでも答えねば死ぬという生存本能に従った。
「……冨岡、勇慈……鬼殺隊、甲だ」
「甲……そうか…。その呼吸、水の呼吸か……流麗たる波濤、水面を滑る足さばき…ふむ、歳は見るに、十七辺りであろうか……。実に、見事なり……。ゆえに、惜しい——……」
「惜しい……?」
「そう……その若さでそこまで鍛え上げられた水の呼吸……血気に逸る節は見受けられるが……それも若さというもの…。もう幾つ歳を重ねれば…良き剣士となったであろう……」
カチ、という音と共に鞘から刀が滑り出る。ぎょろりと目が覗いて一斉にそれが勇慈を射貫いた。ぞっと総毛だつ。
「あの御方からの命だ……鬼狩りは、滅する……その剣技と胆力に敬意を表し……こちらも、これで相手を致そう……」
ホォオオ、と呼吸音がする。まさか、と構えるよりも前に左腕の感覚がなくなるのが先であった。
「月の呼吸、壱ノ型」
闇月・宵の宮———
振り抜かれて動きがゆったりと緩慢になって、ようやく刀が振られたことに気付いた。振り抜かれた刀を目で追って、はっとした、その瞬間。ぼとり、と何かが落ちる音がする。ぞっと血の気の引いた身体を叱咤して目線を下に下げると、自分の左手首から先が切り落とされていた。
「あ、あ゛あぁあ゛!」
刀を取り落としそうに、痛みにのたうち回りそうになるのを堪えながら必死に止血する。ヒュウ、ヒュウ、と不格好な全集中の呼吸を施しながら傷口を縛り上げた。
「ふむ……気を失わず、それでいてすぐさま止血を試みる……か……ますます惜しい…お前が鬼であれば、さぞあの御方はお喜びになるであろうに……」
「だ……れがっ!鬼になど!!」
「やはり、若い……このすばらしさが分からぬとは……哀れなものよ……」
上弦の壱が、まるで稽古をつけるかのように構えた。
「来い……若き剣士よ。私は、黒死牟……私に、一太刀、入れてみせよ……!」
ふらり、ふらりと失血で揺れる身体に力を込めて、倒れないように踏ん張る。
「(すまない、義勇……)」
きっと、自分はこの戦いで死ぬ。しかし、この場に上弦の壱を縫い留めさえすれば、今宵この鬼による人への危害は無くなる。そして、剣戟にもしも、もしも誰かが気づいてくれれば、上弦の壱の情報を持ち帰ることが出来る!
ヒュウ、と息を吸い込んだ。
「水の呼吸……弐ノ型 水車!」
跳躍。そして回転を加えながら斬撃を放つ。しかし片手で持ち上げられた刀に受け止められ、勢いが殺される。その、まるで山のような不動の様を足場に、空中で身体を捩じる。
「陸ノ型 ねじれ渦!」
「ふむ……」
この一太刀も防がれる。だが攻撃の手を緩めるわけにはいかない。後ろに飛びのき十分に距離を取りながら、もう一度深く息を吸い込んだ。
「拾ノ型 生生流転!」
回転を加えながら上弦の壱へと接近する。一つ、二つ、三つと回転を加えながら斬り結ぶ斬撃を、涼しい顔で受け流される。
「ふむ……片腕を落としたのは、早計だったか……しかし…すぐさま遠心力を主とした技に切り替えるその機転……やはり、素質がある……」
キィン!と鍔迫り合いの形に持ち込む。しかし途端、死の気配を感じ早々に不利を悟って飛びすさる。
途端、呼吸音もなく、刀を振ることもなく、三日月の刃が発生した。
「くっ…!」
細やかな三日月を撃ち落しながら、安全圏まで退避する。ほう、と上弦の壱が感心したように息を吐いた。
「月の呼吸、伍ノ型 月魄災渦……よくぞ、初見で見切った……」
「刀を振らずに斬撃を放つなど……!」
「そら、行くぞ……死んでくれるなよ……」
ホォオ、と深く息を吸い込む音がした。来る、と一つ呼吸をして刀を構える。
「月の呼吸、陸ノ型——常世孤月・無間」
縦に一振りしただけのようにしか見えなかったその太刀筋から、無数の斬撃が襲い掛かる。黒死牟にとっては、”この姿”における最強格の呼吸であるという自負があった。ゆえに、この斬撃で以って相手を図ろうという意図があった。
「——……む?」
故に、無傷で凌がれるなど、それはそれは想定外であった。
は、は、と浅い息を吐きながら、構えていた刀をゆるりと下ろす。
「水の呼吸……拾壱ノ型 凪……」
黒死牟には見えていた。それが、間合いに入った常世孤月・無間を超高速でかたっぱしから切り落とした神業であったという事を。
「……見事…!」
「ぅ、ごほっ…」
「その身体でそれだけの技を振るえば、負荷は計り知れぬ……拾壱ノ型、初見なり……。しかし、その技、さては、『未完』だな……?」
「……悪い、か……これは、弟の技だ……」
「弟……?」
「そうだ……弟の……義勇の……。俺は、兄なのに義勇に劣る。二番煎じもいいところだ…。だが……兄は、弟を護らなくてはいけない」
「……、」
「兄だから、蔦子姉さんと約束したから……!だから、俺は諦めは————」
「もう、良い」
ざん、と音がした。息が止まる。目を動かせば、上弦の壱がすぐ隣に立っていた。
「————ッ!」
ごほ、と大量の血を吐き出す。足が動かない。倒れ伏して、下半身の感覚がなくなっている事に気づいた。胴を、割られたことに終ぞ気づけなかった。
「その剣技と才覚を有しながら……弟に劣るなどと吐くか……下らぬ…。興覚めだ……。お前は、ここで終わりだ……そのまま失血死せよ…」
「う、ごほっ、ごほっ……」
上弦の壱は刀を収める。そのままくるりと踵を返して、歩き出す。
「ま……て……」
上弦の壱は歩みを止めない。嫌だ、嫌だ。ここで死ぬなど、俺はまだ何も遺せていない。一太刀も入れられていない!
「あ、あ゛ぁ゛あ゛あ゛!!」
「まだ…息をするか……力めば、死期を早める。諦めろ……」
「上弦の…壱!!」
「、!」
ヒュウウ、と最後の呼吸をした。そして腕と上半身を使って、思い切り日輪刀を投げ槍のように飛ばす。それは上弦の壱の頬を掠め、後ろにあった木へと深く深く突き刺さった。首を狙ったはずが的外れのところを貫いていた。
「……」
黒死牟は、ゆったりと歩みを勇慈へと向ける。倒れ伏した勇慈はぴくりとも動かず、そのため顎を持ち上げるように顔を上に向けられる。
「……やはり、お前自身が弟に劣るなど、言うものではない…。見事なり……」
濁った目と、呼吸の止まった顔を見ながら、黒死牟は六つの瞳を細くして見つめる。
勇慈の頬には、淡く青い、痣が浮かんでいた。
黒死牟の頬からつぅ…と、血がしたたり落ちた。
話は百六年前に遡る。
涅マユリは人を探していた。珍しいことに、比較的穏やかな人体実験のためにである。どちらかといえば内容は、身体測定に近い。その人物とは、先日の護廷十三隊の忘年会(嫌々と駄々をこねていたが、浦原に連れていかれたのだ)で我らが十二番隊の一発芸を繰りだした男であった。名は冨岡 勇慈というらしい。らしい、というのは、名を覚えていなかった涅が珍しく話題に出した人物に、浦原がこれまた嬉々として教えてくれたからである。余計なお世話だった。
「全く……動き回っていて捕まらない、という噂は本当のようだネ。まるで鮪のようだヨ」
その冨岡、十二番隊においては非常に珍しく猿柿ひよ里と同じような部類らしい。曰く常にあちこち動き回って、やれ書類を書庫から持ってくるだのやれ虚を捕まえる任務を引き受けるだの。ひとところに留まることもなく肉体労働の類を一手に引き受けているらしかった。最も、寡黙であるという点はあの小煩い副隊長とは違うらしいが。その無尽蔵ともいえる体力に振り回されている涅からしては、たまったものじゃない。
ふむ、と考える。まともに追いかけては、アレを捕まえるまでにどれだけ時間が要るかもわからない。それは非常に、時間のムダである。ならば、アチラからこちらへ接触するように仕向ければいい。
そうと決まれば話は早い。研究室へと足を向けながら早速、そのための一計を講じ始めた。
「……で、何故君がここにいるんだネ?浦原喜助」
「やだなァ、涅サンが珍しく人に興味を持ったって聞いて、そんな面白…珍しい事ボクが見逃すわけないッスよ」
「そういうところが気に喰わんと言っているんだヨ!!」
キャンキャンと浦原隊長に向かって吠えているのは、確か、うちの三席だった気がする。名前は……涅、マユリ、であっているはずだ。と、置いてけぼりをくらいながら勇慈は考え事をしていた。今日は元々非番であったが、火急の用ができたとかで最初に『浦原隊長』から、次に『涅マユリ』から、身体測定をしたいと申し出を受けてそれを引き受けたのだった。最も、鬼殺隊時代は休みらしい休みは花屋敷で治療を受けているときくらいで、基本的には常在戦場の構えでいたため、むしろ技術開発局の「休暇制度」には驚かされていた。福利厚生が行き届いている。なんて優しい組織なんだと思ったのは、間違いなく感覚がマヒしていた。
閑話休題。
「それでですね、冨岡サンにお願いしたいのは巨大虚 の捕獲なんですけどね」
「——!待て、それは新人には幾分か荷が重いんじゃないかネ?」
「だぁいじょうぶですって!ボクの見立て通りなら、冨岡サンは巨大虚くらいなら瞬殺ですよ、瞬殺。……あっ、殺しちゃダメなんでちゃんと捕獲してくださいね!」
はいこれ、捕獲用のロープです。と特注のロープを握らせながらニコニコと浦原隊長は笑っている。巨大虚……とは……通常の虚よりも大きくて手ごわい相手と聞く……が。
「(上弦の壱に比べれば、確かに赤子のようなものだろうな)」
「あ、それと。今回の任務は涅サンも一緒ですよ」
「はぁ??」
「だって、その方が身体測定も実戦データが取れるしいいでしょ?一石二鳥ッスよ。一石二鳥!」
「貴様……」
イラッとした顔で涅が浦原隊長を睨みつける。何故ここはこんなに仲が悪いのだろう。俺はここにいていいのだろうか、とおろおろしながら見守る。そのうち、フンッとそっぽを向くのは涅の方が早かった。
「まァいい。私の足を引っ張らないでくれ給えヨ。冨岡」
「……よろしく頼む。涅三席」
「やだなぁ二人してお堅いんだから!もっとこう仲良くいきましょうよ、仲良く!ね?いってらっしゃーい!」
「君は本当にいちいち癪に障る男だネ!!」
————————————
—————————
——————
———
「ここであっているのか?」
「口の利き方に気を付け給えヨ。……あっているとも」
ぴぴ、と伝令神機の通知は廃病院を示していた。この地点を基準に半径50m以内に、およそ10分後、巨大虚の出現兆候あり。という技術開発局からの連絡をみながら涅が答える。それっきり黙して語ることが無くなった冨岡の様子を、涅はちらりと盗み見る。
冨岡 勇慈。流魂街の出身で、真央霊術院を6年ぴったりで卒業。斬・拳・走・鬼の成績は、鬼道以外は上の上と言ってもいい。むしろ鬼道で足を引っ張ったと言えるだろう。ここだけが唯一、下の中程度の実力しかなかった。座学に関しても、初年度から2年次の後期辺りまでは振るわない様子であったが、三年次から伸び始めこちらは中の中といったところか。良くも悪くもない。だからこそ、『十二番隊にはそぐわない』と言えた。むしろ、この成績ならばもっと前線に立つ部隊の方が良かっただろう。あぶれたのか、それとも、滑り止めか。いずれにせよ、その結果雑用を自分で引き受ける羽目になっているのだから、ついてないネというのが涅の素直な感想だった。
じっと観察を続ける。肉体の方は、十代後半。死神に見た目の年齢は当てにならないというが、冨岡は若いという情報は耳にしていた。ならば、外見年齢相応であるはずだというのに、この男、隙らしい隙がない。新米の死神など、実地以外で戦場に立ったことがないのにも関わらず、だ。まるで、歴戦の戦士を相手にしているような感覚がしていた。
「……来た。来るぞ、涅三席」
ズズ、と影がせりあがる。それはぶくぶくと肥大化しながら膨らみ、やがて後ろ足のみで立つ巨大な牛のような化け物が姿を現した。
「……あれか?」
「あぁ、あっているとも。”マヒシャ”……そう呼ばれている巨大虚だネ。マヒシャースラともいうヨ」
「そうか」
グォオオ!!
振りかぶられた前肢の攻撃をかわしながら、冨岡はぽつりと答える。
「私は今日、斬魄刀を抜く気はない。データ収集に徹するから、まぁ上手い事やってくれ給えヨ」
「わかった」
かちり、と鞘から斬魄刀を抜き放つ。手に馴染んだその刀は、いつか握っていた日輪刀そっくりに生まれてきた。青い刃が鞘から顔を覗かせて、ほう、と涅は面白いモノをみたように目を開く。
「青い斬魄刀……噂に聞いた通りだネ。そして独特の剣術を用い、剣先から流水の幻影が見えるとも」
冨岡が巨大虚の腕を切り落とす。痛みに怒りをあらわにした巨大虚はがむしゃらに攻撃を繰り出すが、まるで水面を掻ききって遊んでいるかのように、ひらりひらりと冨岡は流水のような足取りで躱してゆく。
「癪に障るが……浦原喜助の言った通りだったネ」
「……水の呼吸 肆ノ型」
「!」
「——打ち潮!」
巨大虚が冨岡を叩き潰そうと振り下ろした腕が地面にめり込む。そのうえに、とん、と降り立つと、そのまま一度刀を鞘に納めながら巨大虚の首めがけて走り抜ける。刹那、振り切られた刀は巨大虚の首を飛ばしていた。
どぉん……と、巨大虚が倒れ込む。土煙に目を庇いながら、涅が腕を下ろしてみたものは、涼しい顔の表情一つ変える事なく虚を葬った冨岡の姿であった。
「素晴らしい…素晴らしい!今、呼吸、と口にしたネ?なんだネそれは。一体どういった技術だい?そもそもその青い斬魄刀は始解しているのかネ?興味が尽きんよ、素晴らしい!今のデータだけじゃあ足りない。ぜひとも技術開発局に戻ったらすぐにでも追加で身体測定の項目を設定するから試験を——」
「………はっ」
はっ、と冨岡が顔をあげる。そうしていそいそと腰のポーチから浦原謹製特注ロープを引っ張り出すと、まるでハムを縛るかのように首を落とした巨大虚をロープで縛り上げ始めた。
「……何をしているんだネ?」
「縛っている」
「見ればわかるだろう。それ、今君が殺したじゃないか」
「……首を、落としただけだから…………まだ、死んでいない……と、思いたい……」
「基本的に生物は首を落とせば死ぬというものだヨ」
うっかりやってしまった。つい。虚は頭を割ればいいというのに今でもつい首を狙ってしまう。実際それで勝てる事もある(死なない虚もいる)が、今回は生きていることを願うばかりであった。冨岡は冷や汗をかいていた。
————————————
—————————
——————
———
任務に与えられた期間は、三日であった。しかし、初日の夜に済ませてしまったのだから、二日ほど余った計算になる。そのままとんぼ返りで局に戻り、先ほど述べた項目に加えて追加の試験を行い、冨岡の身体能力の秘密を暴いてみたいと意気込んでいたのだが、よくよく考えれば現世にいれば浦原の横やりが入らないのだ。ならば、現世である程度冨岡の身辺調査をやってしまった方が手っ取り早い。それは懐柔とも言う。そう切り替えた涅は、任務のために渡されていた金子を元に適当な喫茶店に入っていた。勿論、義骸に入ってである。きょろきょろとあたりを見回している冨岡は、あまり喫茶店に馴染みがないのであろうか。確かに、ビリヤードやトランプをしたり、本を読んでいる紳士淑女のいるこの場にこの純朴な青年がいる風景は、中々想像がつかない。
「お待たせしました、冷やし珈琲とライスカレーでございます」
女給が珈琲とカレーを持ってくる。前者は涅、後者は冨岡が頼んだものである。おぉ……とキラキラとした目でライスカレーを見ている冨岡に、純粋な疑問をぶつける。
「君、ライスカレーを食べたことがないのかネ?」
「ない。初めてだ。こんなところに来るのも、初めてだ」
「なるほど。道理でお上りさんな訳だ」
ずず、と珈琲を飲みながら、スプーンを駆使してちまちまとカレーを食べている冨岡を見やる。ぱぁ、と表情が明るくなった。わかりやすい。
「それで、だ。冨岡。私は善意が服を着て歩いているような男だが、己の性分には正直でネ。君のその、”呼吸”とは何なのか教えてくれ給えヨ。そんな戦術、尸魂界史上見た事も聞いたこともない」
「もぐ………、むむ……」
「……食べ終わってからでいいヨ」
もぐもぐ、むむ……と頬ばったライスカレーに喜んでいる顔が一転して、萎んだ花のようにしょぼくれた顔になる。そんなに話したくない事なのだろうか。どちらにせよ、聞き出すつもりだが、という心算でいると、水を一口飲んで一息ついた冨岡がぽつりと口を開いた。
「……誰にも言わない、か?」
「何をだネ」
「今から、俺が話す事」
「ふむ……それが、私や隊に仇なすようなものでない限り。まァ秘密の一つや二つくらい、あるものだ。話し給えヨ。聞いてから判じてやろう」
「そうか……」
かちゃり、と銀器を置く。珈琲を飲みながら観察を続けているが、冨岡の目が少し泳いでいる。覚悟を決めかねているのだろう。面倒な事である。だがしかし、こういうのは急かすとろくな結果にならないというのは実験を通して知っているため、じっくりと待ってやる。
「……俺は、もしかしたら、いや……この世界と違う世界で生きていたのかも、しれない」
「ウン?なんだって?」
ぽつり、ぽつりと冨岡が口を開く。呼吸術は、”鬼”という化け物を倒すために戦国の世で編み出された技術であるという事。鬼の首領たる『鬼舞辻無惨』をもとに鬼は日本全国に存在している。日光を弱点とする性質を持つが、基本的には常人の何倍もの力を誇る超人的な肉体を持ち、さらにそれは、人を喰らう。人を喰らう理由は食料としてだけではなく、稀に『稀血』と呼ばれる鬼にとって希少性の高い血を得ることで力を得るためであり、そうして力を付けた鬼は血鬼術という怪しげな術(ここでピンときた、コレが鬼道が不得意な理由は嫌悪する鬼の術のようであるからだと)を使うという。
そこまで聴いて、ふぅんと涅は相槌を返した。なんだか虚のようであったからだ。
「鬼というのは面白味にかけるネ。いや……その不老不死性には若干興味があるのだが、虚と生態が割と似ているじゃないか」
「そう……だな……。俺も、混乱した。だが、鬼は、いたんだ」
「この現世には存在していなくとも…だネ?」
こくり、と冨岡が頷いた。それだけ人を喰らう化け物がいれば、調整者たる死神も尸魂界も大混乱間違いなしである。なんせ、現世側でバンバン人が死ぬのだ。調整しないと大変なことになるのは明白である。だというのに、”鬼”の存在が明らかになったこともなければ、話題に上がったことすらない。違う世界というのも、そうとも考えねば納得のいかない話であった。
「それで、そんな頓狂な事を言い出して否定されるのが怖くって、わざわざ前置きをしたのかネ?」
これにも、冨岡はこくり、とうなずいた。
「……俺は、姉を亡くしている」
「姉……?」
「蔦子姉さんという。祝言を迎える日の前夜に、鬼に襲われて亡くなった。姉さんは、俺と義勇を守って亡くなったんだ」
その時に、周りの人に鬼が殺したんだと言っても誰も信じてもらえなくて、頭がおかしいと言われて、義勇と一緒に逃げ出したんだ、と一息に言い切る。
ふむ、と涅は一つ呟くと顎に手を添えながら、何か考えるような仕草をした。ちらり、と冨岡が探るような目で自分を見やる。
「お前も……」
「ン?」
「お前も、俺の頭がおかしいと、思うか?」
きょとんとした。何を言い出しているんだろう。この男は。
「何を頓狂な事を。信じてやるヨ」
「えっ」
「その鬼とやらも、別の世界とやらもだ。大方、死神になれば現世に行けるからその……鬼殺隊とやらの近況を探れると思ったんだろう。その目論見が外れたのは残念な事ではあるがネ。君は運がいい。なんせ、誰でもないこの私に、その真実を打ち明けたのだから」
「涅……?」
ニヤリ、と涅は笑みを浮かべる。やはり、この男は面白い。呼吸術も身体能力も、今計画を立てているある事のための礎になれば御の字と思っていたが、まさかそれに異世界という不確実で未知の領域が加わるだなんて!なんて飽きない男だろう!素晴らしい!!
「そのうち見つけてやろうじゃないか」
「えっ?」
「君のいう、鬼のいる世界とやらをだヨ。なに、死神である以上生者に手を出すのはご法度だが、様子を見るくらいならいいだろう?実験も兼ねているのだから、現地調査も必要だネ。あぁ、それなら、単に死神を派遣するよりも鬼殺の術を知る人間が居た方が都合がいいというものだ。安全も考慮してだヨ」
両の手を組みながら、涅は戸惑いの表情を浮かべている冨岡に向かってにっこりと笑いかける。
「冨岡 勇慈。私は君が気に入った。共犯者として、そして友人として……今後とも、仲良くしようじゃないか」
————————————
—————————
——————
———
「戻った」
「お、おかえりッス!いやぁ、やっぱ瞬殺でしたね。ア、ちゃんと生きたまま届きましたよ。首は飛んでましたけど!」
「そうか」
浦原隊長の言葉にほっと一安心する。どうやら巨大虚はちゃんと生きたまま届いていたらしかった。何よりである。
「お、涅サンもおかえりッス!現世観光は楽しめましたかね?いやぁ、大正喫茶ってのも中々味があっていいモンでしょう?たまには」
「煩いヨ。静かにし給え」
連れだって戻ってきた涅に向かって投げかけた言葉を、涅は切って捨てた。本当にここはなんでこんなに仲が悪いのだろう。俺はここにいていいのだろうか、帰ってもいいだろうか、とおろおろとしていると、阿近が、ん、とお茶を出してくれた。ありがたい。お茶を飲みながら二人をおろおろと見守る。
「それじゃあ、私は研究室に戻るとするヨ」
「あ、あぁ。世話になった。涅三席」
「フン……ン?待ち給え、勇慈」
「えっ」
誰とも知れない、えっという声が響く。きょとんとしていると、君だヨ君と涅が指を差した。
「君は私の共犯者であり、友人であると私が認めたのだから、馴れ馴れしく『マユリ』と呼び給え。私も君を『勇慈』と呼ぼう」
「わかった……?」
「ちょ、ちょっちょっちょっと待ってくださいッスよ!いつの間にそんなに仲良くなったんですか!?」
ボクなんてマユリさんって呼んだらキレられるのに!!と浦原隊長がぴえんと泣く。
「冨岡サン!どうやってマユリさんと仲良くなったんスか!?」
「煩いヨ。君は余所余所しく『涅』と呼び給え」
「ほらぁ!こんなにとっつきにくいのに!」
「えぇと……あれは、6…4……10年と少し前……」
「律儀に数えなくってもいいんだヨ。勇慈。秘密にすると約束したろう?」
「む……そうか……」
「あー!ずるいッスよマユリさん!」
「だから、涅と呼べと言っているだろう本当に不愉快な男だネ!!」
キャン、とマユリが浦原隊長に噛みつく。阿近はそれを、騒がしいな……と思いながら見守っていた。
「懐かしいな……」
ざ、と土を踏みしめながら勇慈は見上げる。そこはかつて廃病院があった土地で、今でも空座町の心霊スポットだった。ここから、涅マユリとの友人関係が始まったのだ。
ぐねぐねとうねる霊圧測定器を使って現世の霊的安定性に異常がないかを調べていく。ここ最近、旅禍騒動で尸魂界側も空座町側も大騒ぎだったのだ。現世の霊圧が乱れれば、尸魂界との間の連絡手段にも滞りが出る。四席の座についた今も、勇慈はこういった現地調査任務などを積極的に引き受けていた。それは引きこもって研究したがりの多い技術開発局にとって、非常に助かる事でもあった。
ぴぴ、と伝令神機の通知が鳴る。取り出してみてみると、廃病院を中心に半径100m以内に虚の出現予測、時間は10分後。規模は普通、討滅せよという任務であった。まぁ今日は平日だからな…と納得しながら、刀に手をかけて静かに待つ。
またしても、伝令神機がぴぴ、となった。今度は通信のようだ。
「誰だ」
「誰だ、とはご挨拶じゃあないかネ」
「お前か、要件は?」
「いやなに、そこに虚が湧くだろう?始解して戦闘し給えヨ」
「何故」
「この前の旅禍騒動で君は剣を抜かなかったじゃないか。その前の戦闘も、そのさらに前も、始解の一つもしやしない。そろそろデータが古いんだヨ。更新しておきたい」
「戦闘時間は」
「1分でいい。それだけあればデータは更新できるとも」
「わかった。切るぞ」
ぷち、と伝令神機の通話を切る。
始解して戦闘をしろとはまた珍しい。次は何に興味を持ったのか、凡人たる自分の頭ではマユリの脳内は想像のつけようがない。だが、それでもいい。
——お前は、俺の言っている事を信じるのか?これが、妄想でないと言い切ってくれるのか?
——信じるも何も、そこに私の知らない未知の技術がある。それを行使する男がいる。なら、お前自身が”鬼”と”鬼殺隊”とやらの存在証明になるんじゃないかネ?
自分でも自分の存在を信じられないまま、成り行きで死神になった動機すら見破られたのだ。隠し事をしなくていいのは、気が楽だった。そのうえで、存在を肯定されたのだ。
マユリの思考は理解できないし、人体実験に関しても若干顔をしかめるような事もする。だが、それでも構わない。それに、アレは案外、懐に入れた者には甘いところがあるのだ。
ずず、と虚が湧き上がる。なるほど確かに、大して脅威にはならなそうな相手だ。だがやれと言われたのだから、やる。
「————咲き誇れ、『彼岸花』」
すらり、と抜き放った青い斬魄刀を片手に、虚めがけて走り出した。
そして、人が死ぬときは忘れ去られるときであるとも。
ならば、あの人の声を覚えている限り、あの人はこの胸の内で生きているのだと己を慰めている。
勇慈は、冨岡家の双子の兄として生まれた。瓜二つの弟、義勇と、姉の蔦子の三人で生きていた。
そして勇慈は、幼い頃より”見えざるモノ”が見えていた。
「ねえさん、蔦子ねえさん。あそこに人がいるよ」
と、生者と死者の区別のつかぬ幼子を蔦子は諭した。
「いい?勇慈。人をちゃぁんと見る癖を付けるのよ。それが、貴方と義勇を守ることに繋がるわ」
「おれと義勇?」
「そう。ほら、よぉくみて。貴方の言っているあの人の胸は動いている?」
「………あんまり?」
「でしょう?勇慈、貴方はきっと、素敵な目を貰ってきたのね。寂しい思いをする人を取りこぼさない、優しい目。」
「だけど、気づかれちゃいけない人もいるの。悪い人がいることもあるの。だから、ちゃぁんと見るのよ。義勇は怖がりさんだからね」
「……わかった!」
幼子の無垢な肯定に、蔦子は一つ安堵の息を吐く。どうか、彼が大きくなってその目が見えなくなりますように、と。
その願いは、祝言を上げる日の前日に打ち砕かれた。
「いい。勇慈、義勇。何があっても、ここから出ちゃいけないわ」
蔦子に押し込められた襖の奥、押し入れの中。ただならぬ気配を感じて双子は怯えていた。
「…義勇、義勇。いいか、目を閉じて、じっとしていろ」
そうして、勇慈は義勇の耳を両の手で塞いでやる。兄さん、と縮こまる義勇は怯えていた。ほとんど同じ時に生まれたとはいえ、勇慈は兄である。兄は、弟を守るために在る。その想いに突き動かされるように義勇を包むように庇い、じっと息を顰める。
間もなく、壁が突き破られる衝撃に家が揺れ、姉の鋭い声が響いた。義勇の耳は塞いでいるから、ただ衝撃にびくりと震えるだけで済んだ。しかし、勇慈の耳を守ってやれる姉はここに居ない。バタバタ、と物が倒れる音と喉から絞り出されるような顰めた悲鳴。勇慈も震えた。今この襖一つ挟んだ部屋で、姉が何者かに襲われている。男なら、飛び出して姉を守ってやらねばいけなかった。だがそれ以上に、勇慈は兄であった。兄は、弟を守らなくてはいけない。
早く、早く収まれ。姉さんに手を出すなと普段祈りもしない神に祈りながら、音が止むのを必死に願っていた。
ながい、ながい時間が経ったような感覚がした。気が付けば、音が止んでいた。
恐る恐る、義勇の耳を放してやる。うんときつく握ってしまったせいか、少し赤くなっていた。可哀想に。涙を浮かべながら、それでも尋常ではない兄の様子に懸命に堪えていた。
「……兄さん、もう、大丈夫?」
義勇の目から、ぽろりと涙が零れる。慌ててそれをぬぐってやり、顰めた声で大丈夫だ。もう怖くないぞ。と伝えた。
努めて兄らしく、そうして、襖に手をかけて逡巡する。迷うな。弟が怯える。意を決して、襖を開けた。
「…………、蔦子、ねえさん…?」
そこにあったのは、まるで獣に喰い荒らされたような変わり果てた姿で事切れている、蔦子の亡骸であった。
「ねえ、姉さん……蔦子姉さん!!」
義勇が駆け寄る。姉さん、姉さんと必死で姉の閉じられた目が開くように揺り動かす。だが勇慈には、違うモノが見えていた。
「………嘘だ……」
そこに居たのは、泣きながら自分を揺さぶる義勇を悲しげな見つめる、血まみれの衣装をまとった蔦子の姿だった。
蔦子と視線が絡む。そうして、蔦子はごめんなさい、勇慈、義勇と口にした。
蔦子の願いは、叶わなかった。
床を激しく殴った。涙にむせるほど泣いた。自分は、弟を選んで姉を見殺したのだ。
家から逃げ出して、”鬼”に襲われて、鬼殺隊を知った。育手を知った。呼吸を知った。
姉の仇を討つために、覚悟を決めた。そのころには、義勇も少し笑うようになってくれていた。それが、兄としては嬉しかった。
だが同時に、怖ろしくもあったのだ。もし、もしもだ。義勇も蔦子姉さんのように失ってしまったら、俺は生きていけるのだろうか、と
「いいか、勇慈。二度と義勇に自分が死ねばよかった、なんて言わせるなよ。お前もだ。お前も、命を捨てるような真似を決してするな」
「錆兎……わかっている。二度と、言わせない。俺が護る」
覚悟を決めた。そうして、口調も少し変えた。常在戦場の構えたれ。常に冷静であれ、護るべきを護れるように、自分を律せよ、と。
しかしまたしてもそれも失ったのだ。錆兎という光を亡くして、義勇は泣き叫んだ。泣いて、泣いて、ふがいない自分を責めて、そうして口数がうんと減ってしまった。笑顔も見せなくなってしまった。
自分が力が足りなかったばっかりに、またしても、誰かよりも弟を守る事を選んでしまった。
錆兎が死んだのは、そのせいだ。
蔦子姉さん……
「勇慈、義勇。私の大事な宝物。二人で仲良く、生きるのよ」
錆兎……
「義勇!勇慈!腹ごなしに手合わせをするぞ、そして三人で必ず最終選別を乗り越えて、先生の元に帰るぞ」
それでもあなたの声を、お前の声を。優しい記憶が、100年経っても色褪せないのだと、自分を慰めているのだ
「お、今日の任務は勇慈とか。最近出世頭の甲さまと一緒なら、今日の任務はきっと楽勝だな!」
「静かにしろ。気を抜くな」
「相変わらず固いなぁ。そんなんだからとっつきにくいって言われるし友達少ないんだぞ」
「友達はいる」
揶揄い混じりに冗談を飛ばす味方の鬼殺隊員をよそ目に、林の中を駆け抜ける。今日の任務は、ある村で起きているという集団自殺を調査せよという命だった。我らが親方様は、そこに鬼がいると睨んでいる。走りながら、そういやさって別の隊員が口を開いた。
「勇慈、お前、下弦の鬼も討ったんだろう?なら、次の水柱はお前なのかな。それとも、弟の方?」
「お館様の采配次第だ。……だが、水柱になるのなら、俺がいい」
「それはアレか?弟には荷が重いってヤツか?」
「違う。あれは……足りない」
「足りないって、何が———」
ガァ!と烏が悲鳴を上げる。なんだ!?と仲間たちが歩を止めて抜刀する。柄に手を掛けながら、どこからの攻撃か、と注視する。
月の 呼吸
瞬間、荒れ狂う暴風と共に味方の隊士たちの胴が寸断される。声も上げず絶命してゆく隊士たちに目を見開きながら、抜き放った刃で暴風を撃ち落す。左の腹が、浅く抉れるだけで済んだ。
「カァ!カァ!襲撃!襲撃!撤退せヨ……ガァッ!」
己の鎹烏が撃ち落された。一緒に任務に当たっていた隊員の鎹烏も一羽残らず。そして今この場に何とか立っていられるのも、自分ただ一人だけであった。
「よく……防いだ……見事なり……」
黒い袴に、紫の衣を纏った侍の鬼が悠然と歩み寄る。瞳の数字は、”上弦”と”壱” 鬼舞辻無惨の配下、最強の鬼、上弦の壱がそこにいた。
浅く抉れた腹の傷全集中の呼吸で止血を試みる。ほう、と感心するように上弦の壱が呟いた。
「その歳で……呼吸をそこまで修めているか……素晴らしい……さぞ、鍛錬を重ねたのであろう……」
ゆるりと、上弦の壱の六つの目が勇慈を見つめる。
「お前、名は……なんという……」
「……鬼に教える、名など、無い!」
ヒュゥゥゥゥ……と、深く息を吸い込む。負傷を思わせぬ軽やかな足取りで踏み込むと、流れる水のように相手の懐へ潜り込む。上弦の壱は動かなかった。
「水の呼吸、参ノ型 流流舞い!」
そのまま逆袈裟斬りに斬り上げようと刀を振り抜いて、キン!と鋭い音が鳴り響く。目を見開き、上弦の壱の手元を見た。僅かに鞘から抜かれた刀身が勇慈の刀を阻んでいて、押し切る事ができない。相手は左手しか使っていないのに。
「もう一度言う……お前、名は……なんという……?」
「ぐっ!」
どん、と突き飛ばされてたたらを踏む。よろめきながら鬼に視線を定めると、ぞっとする重い殺気に身を包まれた。
「……ぁ…。」
身体が震える。怖気が止まらない。今この瞬間、自分の命は相手に握られている。呼吸が止まりそうになる重たい空気に何とか息を吐き出しながら、それでも答えねば死ぬという生存本能に従った。
「……冨岡、勇慈……鬼殺隊、甲だ」
「甲……そうか…。その呼吸、水の呼吸か……流麗たる波濤、水面を滑る足さばき…ふむ、歳は見るに、十七辺りであろうか……。実に、見事なり……。ゆえに、惜しい——……」
「惜しい……?」
「そう……その若さでそこまで鍛え上げられた水の呼吸……血気に逸る節は見受けられるが……それも若さというもの…。もう幾つ歳を重ねれば…良き剣士となったであろう……」
カチ、という音と共に鞘から刀が滑り出る。ぎょろりと目が覗いて一斉にそれが勇慈を射貫いた。ぞっと総毛だつ。
「あの御方からの命だ……鬼狩りは、滅する……その剣技と胆力に敬意を表し……こちらも、これで相手を致そう……」
ホォオオ、と呼吸音がする。まさか、と構えるよりも前に左腕の感覚がなくなるのが先であった。
「月の呼吸、壱ノ型」
闇月・宵の宮———
振り抜かれて動きがゆったりと緩慢になって、ようやく刀が振られたことに気付いた。振り抜かれた刀を目で追って、はっとした、その瞬間。ぼとり、と何かが落ちる音がする。ぞっと血の気の引いた身体を叱咤して目線を下に下げると、自分の左手首から先が切り落とされていた。
「あ、あ゛あぁあ゛!」
刀を取り落としそうに、痛みにのたうち回りそうになるのを堪えながら必死に止血する。ヒュウ、ヒュウ、と不格好な全集中の呼吸を施しながら傷口を縛り上げた。
「ふむ……気を失わず、それでいてすぐさま止血を試みる……か……ますます惜しい…お前が鬼であれば、さぞあの御方はお喜びになるであろうに……」
「だ……れがっ!鬼になど!!」
「やはり、若い……このすばらしさが分からぬとは……哀れなものよ……」
上弦の壱が、まるで稽古をつけるかのように構えた。
「来い……若き剣士よ。私は、黒死牟……私に、一太刀、入れてみせよ……!」
ふらり、ふらりと失血で揺れる身体に力を込めて、倒れないように踏ん張る。
「(すまない、義勇……)」
きっと、自分はこの戦いで死ぬ。しかし、この場に上弦の壱を縫い留めさえすれば、今宵この鬼による人への危害は無くなる。そして、剣戟にもしも、もしも誰かが気づいてくれれば、上弦の壱の情報を持ち帰ることが出来る!
ヒュウ、と息を吸い込んだ。
「水の呼吸……弐ノ型 水車!」
跳躍。そして回転を加えながら斬撃を放つ。しかし片手で持ち上げられた刀に受け止められ、勢いが殺される。その、まるで山のような不動の様を足場に、空中で身体を捩じる。
「陸ノ型 ねじれ渦!」
「ふむ……」
この一太刀も防がれる。だが攻撃の手を緩めるわけにはいかない。後ろに飛びのき十分に距離を取りながら、もう一度深く息を吸い込んだ。
「拾ノ型 生生流転!」
回転を加えながら上弦の壱へと接近する。一つ、二つ、三つと回転を加えながら斬り結ぶ斬撃を、涼しい顔で受け流される。
「ふむ……片腕を落としたのは、早計だったか……しかし…すぐさま遠心力を主とした技に切り替えるその機転……やはり、素質がある……」
キィン!と鍔迫り合いの形に持ち込む。しかし途端、死の気配を感じ早々に不利を悟って飛びすさる。
途端、呼吸音もなく、刀を振ることもなく、三日月の刃が発生した。
「くっ…!」
細やかな三日月を撃ち落しながら、安全圏まで退避する。ほう、と上弦の壱が感心したように息を吐いた。
「月の呼吸、伍ノ型 月魄災渦……よくぞ、初見で見切った……」
「刀を振らずに斬撃を放つなど……!」
「そら、行くぞ……死んでくれるなよ……」
ホォオ、と深く息を吸い込む音がした。来る、と一つ呼吸をして刀を構える。
「月の呼吸、陸ノ型——常世孤月・無間」
縦に一振りしただけのようにしか見えなかったその太刀筋から、無数の斬撃が襲い掛かる。黒死牟にとっては、”この姿”における最強格の呼吸であるという自負があった。ゆえに、この斬撃で以って相手を図ろうという意図があった。
「——……む?」
故に、無傷で凌がれるなど、それはそれは想定外であった。
は、は、と浅い息を吐きながら、構えていた刀をゆるりと下ろす。
「水の呼吸……拾壱ノ型 凪……」
黒死牟には見えていた。それが、間合いに入った常世孤月・無間を超高速でかたっぱしから切り落とした神業であったという事を。
「……見事…!」
「ぅ、ごほっ…」
「その身体でそれだけの技を振るえば、負荷は計り知れぬ……拾壱ノ型、初見なり……。しかし、その技、さては、『未完』だな……?」
「……悪い、か……これは、弟の技だ……」
「弟……?」
「そうだ……弟の……義勇の……。俺は、兄なのに義勇に劣る。二番煎じもいいところだ…。だが……兄は、弟を護らなくてはいけない」
「……、」
「兄だから、蔦子姉さんと約束したから……!だから、俺は諦めは————」
「もう、良い」
ざん、と音がした。息が止まる。目を動かせば、上弦の壱がすぐ隣に立っていた。
「————ッ!」
ごほ、と大量の血を吐き出す。足が動かない。倒れ伏して、下半身の感覚がなくなっている事に気づいた。胴を、割られたことに終ぞ気づけなかった。
「その剣技と才覚を有しながら……弟に劣るなどと吐くか……下らぬ…。興覚めだ……。お前は、ここで終わりだ……そのまま失血死せよ…」
「う、ごほっ、ごほっ……」
上弦の壱は刀を収める。そのままくるりと踵を返して、歩き出す。
「ま……て……」
上弦の壱は歩みを止めない。嫌だ、嫌だ。ここで死ぬなど、俺はまだ何も遺せていない。一太刀も入れられていない!
「あ、あ゛ぁ゛あ゛あ゛!!」
「まだ…息をするか……力めば、死期を早める。諦めろ……」
「上弦の…壱!!」
「、!」
ヒュウウ、と最後の呼吸をした。そして腕と上半身を使って、思い切り日輪刀を投げ槍のように飛ばす。それは上弦の壱の頬を掠め、後ろにあった木へと深く深く突き刺さった。首を狙ったはずが的外れのところを貫いていた。
「……」
黒死牟は、ゆったりと歩みを勇慈へと向ける。倒れ伏した勇慈はぴくりとも動かず、そのため顎を持ち上げるように顔を上に向けられる。
「……やはり、お前自身が弟に劣るなど、言うものではない…。見事なり……」
濁った目と、呼吸の止まった顔を見ながら、黒死牟は六つの瞳を細くして見つめる。
勇慈の頬には、淡く青い、痣が浮かんでいた。
黒死牟の頬からつぅ…と、血がしたたり落ちた。
話は百六年前に遡る。
涅マユリは人を探していた。珍しいことに、比較的穏やかな人体実験のためにである。どちらかといえば内容は、身体測定に近い。その人物とは、先日の護廷十三隊の忘年会(嫌々と駄々をこねていたが、浦原に連れていかれたのだ)で我らが十二番隊の一発芸を繰りだした男であった。名は冨岡 勇慈というらしい。らしい、というのは、名を覚えていなかった涅が珍しく話題に出した人物に、浦原がこれまた嬉々として教えてくれたからである。余計なお世話だった。
「全く……動き回っていて捕まらない、という噂は本当のようだネ。まるで鮪のようだヨ」
その冨岡、十二番隊においては非常に珍しく猿柿ひよ里と同じような部類らしい。曰く常にあちこち動き回って、やれ書類を書庫から持ってくるだのやれ虚を捕まえる任務を引き受けるだの。ひとところに留まることもなく肉体労働の類を一手に引き受けているらしかった。最も、寡黙であるという点はあの小煩い副隊長とは違うらしいが。その無尽蔵ともいえる体力に振り回されている涅からしては、たまったものじゃない。
ふむ、と考える。まともに追いかけては、アレを捕まえるまでにどれだけ時間が要るかもわからない。それは非常に、時間のムダである。ならば、アチラからこちらへ接触するように仕向ければいい。
そうと決まれば話は早い。研究室へと足を向けながら早速、そのための一計を講じ始めた。
「……で、何故君がここにいるんだネ?浦原喜助」
「やだなァ、涅サンが珍しく人に興味を持ったって聞いて、そんな面白…珍しい事ボクが見逃すわけないッスよ」
「そういうところが気に喰わんと言っているんだヨ!!」
キャンキャンと浦原隊長に向かって吠えているのは、確か、うちの三席だった気がする。名前は……涅、マユリ、であっているはずだ。と、置いてけぼりをくらいながら勇慈は考え事をしていた。今日は元々非番であったが、火急の用ができたとかで最初に『浦原隊長』から、次に『涅マユリ』から、身体測定をしたいと申し出を受けてそれを引き受けたのだった。最も、鬼殺隊時代は休みらしい休みは花屋敷で治療を受けているときくらいで、基本的には常在戦場の構えでいたため、むしろ技術開発局の「休暇制度」には驚かされていた。福利厚生が行き届いている。なんて優しい組織なんだと思ったのは、間違いなく感覚がマヒしていた。
閑話休題。
「それでですね、冨岡サンにお願いしたいのは
「——!待て、それは新人には幾分か荷が重いんじゃないかネ?」
「だぁいじょうぶですって!ボクの見立て通りなら、冨岡サンは巨大虚くらいなら瞬殺ですよ、瞬殺。……あっ、殺しちゃダメなんでちゃんと捕獲してくださいね!」
はいこれ、捕獲用のロープです。と特注のロープを握らせながらニコニコと浦原隊長は笑っている。巨大虚……とは……通常の虚よりも大きくて手ごわい相手と聞く……が。
「(上弦の壱に比べれば、確かに赤子のようなものだろうな)」
「あ、それと。今回の任務は涅サンも一緒ですよ」
「はぁ??」
「だって、その方が身体測定も実戦データが取れるしいいでしょ?一石二鳥ッスよ。一石二鳥!」
「貴様……」
イラッとした顔で涅が浦原隊長を睨みつける。何故ここはこんなに仲が悪いのだろう。俺はここにいていいのだろうか、とおろおろしながら見守る。そのうち、フンッとそっぽを向くのは涅の方が早かった。
「まァいい。私の足を引っ張らないでくれ給えヨ。冨岡」
「……よろしく頼む。涅三席」
「やだなぁ二人してお堅いんだから!もっとこう仲良くいきましょうよ、仲良く!ね?いってらっしゃーい!」
「君は本当にいちいち癪に障る男だネ!!」
————————————
—————————
——————
———
「ここであっているのか?」
「口の利き方に気を付け給えヨ。……あっているとも」
ぴぴ、と伝令神機の通知は廃病院を示していた。この地点を基準に半径50m以内に、およそ10分後、巨大虚の出現兆候あり。という技術開発局からの連絡をみながら涅が答える。それっきり黙して語ることが無くなった冨岡の様子を、涅はちらりと盗み見る。
冨岡 勇慈。流魂街の出身で、真央霊術院を6年ぴったりで卒業。斬・拳・走・鬼の成績は、鬼道以外は上の上と言ってもいい。むしろ鬼道で足を引っ張ったと言えるだろう。ここだけが唯一、下の中程度の実力しかなかった。座学に関しても、初年度から2年次の後期辺りまでは振るわない様子であったが、三年次から伸び始めこちらは中の中といったところか。良くも悪くもない。だからこそ、『十二番隊にはそぐわない』と言えた。むしろ、この成績ならばもっと前線に立つ部隊の方が良かっただろう。あぶれたのか、それとも、滑り止めか。いずれにせよ、その結果雑用を自分で引き受ける羽目になっているのだから、ついてないネというのが涅の素直な感想だった。
じっと観察を続ける。肉体の方は、十代後半。死神に見た目の年齢は当てにならないというが、冨岡は若いという情報は耳にしていた。ならば、外見年齢相応であるはずだというのに、この男、隙らしい隙がない。新米の死神など、実地以外で戦場に立ったことがないのにも関わらず、だ。まるで、歴戦の戦士を相手にしているような感覚がしていた。
「……来た。来るぞ、涅三席」
ズズ、と影がせりあがる。それはぶくぶくと肥大化しながら膨らみ、やがて後ろ足のみで立つ巨大な牛のような化け物が姿を現した。
「……あれか?」
「あぁ、あっているとも。”マヒシャ”……そう呼ばれている巨大虚だネ。マヒシャースラともいうヨ」
「そうか」
グォオオ!!
振りかぶられた前肢の攻撃をかわしながら、冨岡はぽつりと答える。
「私は今日、斬魄刀を抜く気はない。データ収集に徹するから、まぁ上手い事やってくれ給えヨ」
「わかった」
かちり、と鞘から斬魄刀を抜き放つ。手に馴染んだその刀は、いつか握っていた日輪刀そっくりに生まれてきた。青い刃が鞘から顔を覗かせて、ほう、と涅は面白いモノをみたように目を開く。
「青い斬魄刀……噂に聞いた通りだネ。そして独特の剣術を用い、剣先から流水の幻影が見えるとも」
冨岡が巨大虚の腕を切り落とす。痛みに怒りをあらわにした巨大虚はがむしゃらに攻撃を繰り出すが、まるで水面を掻ききって遊んでいるかのように、ひらりひらりと冨岡は流水のような足取りで躱してゆく。
「癪に障るが……浦原喜助の言った通りだったネ」
「……水の呼吸 肆ノ型」
「!」
「——打ち潮!」
巨大虚が冨岡を叩き潰そうと振り下ろした腕が地面にめり込む。そのうえに、とん、と降り立つと、そのまま一度刀を鞘に納めながら巨大虚の首めがけて走り抜ける。刹那、振り切られた刀は巨大虚の首を飛ばしていた。
どぉん……と、巨大虚が倒れ込む。土煙に目を庇いながら、涅が腕を下ろしてみたものは、涼しい顔の表情一つ変える事なく虚を葬った冨岡の姿であった。
「素晴らしい…素晴らしい!今、呼吸、と口にしたネ?なんだネそれは。一体どういった技術だい?そもそもその青い斬魄刀は始解しているのかネ?興味が尽きんよ、素晴らしい!今のデータだけじゃあ足りない。ぜひとも技術開発局に戻ったらすぐにでも追加で身体測定の項目を設定するから試験を——」
「………はっ」
はっ、と冨岡が顔をあげる。そうしていそいそと腰のポーチから浦原謹製特注ロープを引っ張り出すと、まるでハムを縛るかのように首を落とした巨大虚をロープで縛り上げ始めた。
「……何をしているんだネ?」
「縛っている」
「見ればわかるだろう。それ、今君が殺したじゃないか」
「……首を、落としただけだから…………まだ、死んでいない……と、思いたい……」
「基本的に生物は首を落とせば死ぬというものだヨ」
うっかりやってしまった。つい。虚は頭を割ればいいというのに今でもつい首を狙ってしまう。実際それで勝てる事もある(死なない虚もいる)が、今回は生きていることを願うばかりであった。冨岡は冷や汗をかいていた。
————————————
—————————
——————
———
任務に与えられた期間は、三日であった。しかし、初日の夜に済ませてしまったのだから、二日ほど余った計算になる。そのままとんぼ返りで局に戻り、先ほど述べた項目に加えて追加の試験を行い、冨岡の身体能力の秘密を暴いてみたいと意気込んでいたのだが、よくよく考えれば現世にいれば浦原の横やりが入らないのだ。ならば、現世である程度冨岡の身辺調査をやってしまった方が手っ取り早い。それは懐柔とも言う。そう切り替えた涅は、任務のために渡されていた金子を元に適当な喫茶店に入っていた。勿論、義骸に入ってである。きょろきょろとあたりを見回している冨岡は、あまり喫茶店に馴染みがないのであろうか。確かに、ビリヤードやトランプをしたり、本を読んでいる紳士淑女のいるこの場にこの純朴な青年がいる風景は、中々想像がつかない。
「お待たせしました、冷やし珈琲とライスカレーでございます」
女給が珈琲とカレーを持ってくる。前者は涅、後者は冨岡が頼んだものである。おぉ……とキラキラとした目でライスカレーを見ている冨岡に、純粋な疑問をぶつける。
「君、ライスカレーを食べたことがないのかネ?」
「ない。初めてだ。こんなところに来るのも、初めてだ」
「なるほど。道理でお上りさんな訳だ」
ずず、と珈琲を飲みながら、スプーンを駆使してちまちまとカレーを食べている冨岡を見やる。ぱぁ、と表情が明るくなった。わかりやすい。
「それで、だ。冨岡。私は善意が服を着て歩いているような男だが、己の性分には正直でネ。君のその、”呼吸”とは何なのか教えてくれ給えヨ。そんな戦術、尸魂界史上見た事も聞いたこともない」
「もぐ………、むむ……」
「……食べ終わってからでいいヨ」
もぐもぐ、むむ……と頬ばったライスカレーに喜んでいる顔が一転して、萎んだ花のようにしょぼくれた顔になる。そんなに話したくない事なのだろうか。どちらにせよ、聞き出すつもりだが、という心算でいると、水を一口飲んで一息ついた冨岡がぽつりと口を開いた。
「……誰にも言わない、か?」
「何をだネ」
「今から、俺が話す事」
「ふむ……それが、私や隊に仇なすようなものでない限り。まァ秘密の一つや二つくらい、あるものだ。話し給えヨ。聞いてから判じてやろう」
「そうか……」
かちゃり、と銀器を置く。珈琲を飲みながら観察を続けているが、冨岡の目が少し泳いでいる。覚悟を決めかねているのだろう。面倒な事である。だがしかし、こういうのは急かすとろくな結果にならないというのは実験を通して知っているため、じっくりと待ってやる。
「……俺は、もしかしたら、いや……この世界と違う世界で生きていたのかも、しれない」
「ウン?なんだって?」
ぽつり、ぽつりと冨岡が口を開く。呼吸術は、”鬼”という化け物を倒すために戦国の世で編み出された技術であるという事。鬼の首領たる『鬼舞辻無惨』をもとに鬼は日本全国に存在している。日光を弱点とする性質を持つが、基本的には常人の何倍もの力を誇る超人的な肉体を持ち、さらにそれは、人を喰らう。人を喰らう理由は食料としてだけではなく、稀に『稀血』と呼ばれる鬼にとって希少性の高い血を得ることで力を得るためであり、そうして力を付けた鬼は血鬼術という怪しげな術(ここでピンときた、コレが鬼道が不得意な理由は嫌悪する鬼の術のようであるからだと)を使うという。
そこまで聴いて、ふぅんと涅は相槌を返した。なんだか虚のようであったからだ。
「鬼というのは面白味にかけるネ。いや……その不老不死性には若干興味があるのだが、虚と生態が割と似ているじゃないか」
「そう……だな……。俺も、混乱した。だが、鬼は、いたんだ」
「この現世には存在していなくとも…だネ?」
こくり、と冨岡が頷いた。それだけ人を喰らう化け物がいれば、調整者たる死神も尸魂界も大混乱間違いなしである。なんせ、現世側でバンバン人が死ぬのだ。調整しないと大変なことになるのは明白である。だというのに、”鬼”の存在が明らかになったこともなければ、話題に上がったことすらない。違う世界というのも、そうとも考えねば納得のいかない話であった。
「それで、そんな頓狂な事を言い出して否定されるのが怖くって、わざわざ前置きをしたのかネ?」
これにも、冨岡はこくり、とうなずいた。
「……俺は、姉を亡くしている」
「姉……?」
「蔦子姉さんという。祝言を迎える日の前夜に、鬼に襲われて亡くなった。姉さんは、俺と義勇を守って亡くなったんだ」
その時に、周りの人に鬼が殺したんだと言っても誰も信じてもらえなくて、頭がおかしいと言われて、義勇と一緒に逃げ出したんだ、と一息に言い切る。
ふむ、と涅は一つ呟くと顎に手を添えながら、何か考えるような仕草をした。ちらり、と冨岡が探るような目で自分を見やる。
「お前も……」
「ン?」
「お前も、俺の頭がおかしいと、思うか?」
きょとんとした。何を言い出しているんだろう。この男は。
「何を頓狂な事を。信じてやるヨ」
「えっ」
「その鬼とやらも、別の世界とやらもだ。大方、死神になれば現世に行けるからその……鬼殺隊とやらの近況を探れると思ったんだろう。その目論見が外れたのは残念な事ではあるがネ。君は運がいい。なんせ、誰でもないこの私に、その真実を打ち明けたのだから」
「涅……?」
ニヤリ、と涅は笑みを浮かべる。やはり、この男は面白い。呼吸術も身体能力も、今計画を立てているある事のための礎になれば御の字と思っていたが、まさかそれに異世界という不確実で未知の領域が加わるだなんて!なんて飽きない男だろう!素晴らしい!!
「そのうち見つけてやろうじゃないか」
「えっ?」
「君のいう、鬼のいる世界とやらをだヨ。なに、死神である以上生者に手を出すのはご法度だが、様子を見るくらいならいいだろう?実験も兼ねているのだから、現地調査も必要だネ。あぁ、それなら、単に死神を派遣するよりも鬼殺の術を知る人間が居た方が都合がいいというものだ。安全も考慮してだヨ」
両の手を組みながら、涅は戸惑いの表情を浮かべている冨岡に向かってにっこりと笑いかける。
「冨岡 勇慈。私は君が気に入った。共犯者として、そして友人として……今後とも、仲良くしようじゃないか」
————————————
—————————
——————
———
「戻った」
「お、おかえりッス!いやぁ、やっぱ瞬殺でしたね。ア、ちゃんと生きたまま届きましたよ。首は飛んでましたけど!」
「そうか」
浦原隊長の言葉にほっと一安心する。どうやら巨大虚はちゃんと生きたまま届いていたらしかった。何よりである。
「お、涅サンもおかえりッス!現世観光は楽しめましたかね?いやぁ、大正喫茶ってのも中々味があっていいモンでしょう?たまには」
「煩いヨ。静かにし給え」
連れだって戻ってきた涅に向かって投げかけた言葉を、涅は切って捨てた。本当にここはなんでこんなに仲が悪いのだろう。俺はここにいていいのだろうか、帰ってもいいだろうか、とおろおろとしていると、阿近が、ん、とお茶を出してくれた。ありがたい。お茶を飲みながら二人をおろおろと見守る。
「それじゃあ、私は研究室に戻るとするヨ」
「あ、あぁ。世話になった。涅三席」
「フン……ン?待ち給え、勇慈」
「えっ」
誰とも知れない、えっという声が響く。きょとんとしていると、君だヨ君と涅が指を差した。
「君は私の共犯者であり、友人であると私が認めたのだから、馴れ馴れしく『マユリ』と呼び給え。私も君を『勇慈』と呼ぼう」
「わかった……?」
「ちょ、ちょっちょっちょっと待ってくださいッスよ!いつの間にそんなに仲良くなったんですか!?」
ボクなんてマユリさんって呼んだらキレられるのに!!と浦原隊長がぴえんと泣く。
「冨岡サン!どうやってマユリさんと仲良くなったんスか!?」
「煩いヨ。君は余所余所しく『涅』と呼び給え」
「ほらぁ!こんなにとっつきにくいのに!」
「えぇと……あれは、6…4……10年と少し前……」
「律儀に数えなくってもいいんだヨ。勇慈。秘密にすると約束したろう?」
「む……そうか……」
「あー!ずるいッスよマユリさん!」
「だから、涅と呼べと言っているだろう本当に不愉快な男だネ!!」
キャン、とマユリが浦原隊長に噛みつく。阿近はそれを、騒がしいな……と思いながら見守っていた。
「懐かしいな……」
ざ、と土を踏みしめながら勇慈は見上げる。そこはかつて廃病院があった土地で、今でも空座町の心霊スポットだった。ここから、涅マユリとの友人関係が始まったのだ。
ぐねぐねとうねる霊圧測定器を使って現世の霊的安定性に異常がないかを調べていく。ここ最近、旅禍騒動で尸魂界側も空座町側も大騒ぎだったのだ。現世の霊圧が乱れれば、尸魂界との間の連絡手段にも滞りが出る。四席の座についた今も、勇慈はこういった現地調査任務などを積極的に引き受けていた。それは引きこもって研究したがりの多い技術開発局にとって、非常に助かる事でもあった。
ぴぴ、と伝令神機の通知が鳴る。取り出してみてみると、廃病院を中心に半径100m以内に虚の出現予測、時間は10分後。規模は普通、討滅せよという任務であった。まぁ今日は平日だからな…と納得しながら、刀に手をかけて静かに待つ。
またしても、伝令神機がぴぴ、となった。今度は通信のようだ。
「誰だ」
「誰だ、とはご挨拶じゃあないかネ」
「お前か、要件は?」
「いやなに、そこに虚が湧くだろう?始解して戦闘し給えヨ」
「何故」
「この前の旅禍騒動で君は剣を抜かなかったじゃないか。その前の戦闘も、そのさらに前も、始解の一つもしやしない。そろそろデータが古いんだヨ。更新しておきたい」
「戦闘時間は」
「1分でいい。それだけあればデータは更新できるとも」
「わかった。切るぞ」
ぷち、と伝令神機の通話を切る。
始解して戦闘をしろとはまた珍しい。次は何に興味を持ったのか、凡人たる自分の頭ではマユリの脳内は想像のつけようがない。だが、それでもいい。
——お前は、俺の言っている事を信じるのか?これが、妄想でないと言い切ってくれるのか?
——信じるも何も、そこに私の知らない未知の技術がある。それを行使する男がいる。なら、お前自身が”鬼”と”鬼殺隊”とやらの存在証明になるんじゃないかネ?
自分でも自分の存在を信じられないまま、成り行きで死神になった動機すら見破られたのだ。隠し事をしなくていいのは、気が楽だった。そのうえで、存在を肯定されたのだ。
マユリの思考は理解できないし、人体実験に関しても若干顔をしかめるような事もする。だが、それでも構わない。それに、アレは案外、懐に入れた者には甘いところがあるのだ。
ずず、と虚が湧き上がる。なるほど確かに、大して脅威にはならなそうな相手だ。だがやれと言われたのだから、やる。
「————咲き誇れ、『彼岸花』」
すらり、と抜き放った青い斬魄刀を片手に、虚めがけて走り出した。