短編置き場
『愛しき人の子ら——どうか旧き人の欠片に、はなむけを——』
『私たちの願いはただひとつ……。この身を「祝福」として、星に還元すること。』
『古き魂の断片は、星海に還り、命の巡りに合流するだろう。』
『そう、これは私たちの勝手な願いだ』
『ここまで命をつないでくれた、すべての「人」に……この愛を返したいのだ』
手を迷わせて、そして下ろした。どう言葉をかけて良いかわからなかったから。
歯を食いしばり、せめてまっすぐ向き合おうと、溢れそうになる涙が零れないように上を向こうと、笑みを取り繕う。
別れの時は、笑顔で見送るものだという無意識がそうさせていた。
神が——エウロギアが、それまで浮かべていた微笑みを僅かに揺らがせたような気がした。
『さようなら人の子ら、愛しているよ。』
十二神が分かたれる。ひとり、またひとりと背を向ける。
止めるわけにはいかないと踏みとどまる。願いを踏みにじってしまうと我慢する。分かっていても、震える唇を止めることができない。
ビエルゴ神が、ラールガー神が背を向ける。
握りしめた拳が震える。それでも前を見ていようと、まっくらになりそうな視界を振り切って、ふらつきそうになる両足を踏ん張る。
アーゼマ神が背を向ける。そして、ナルザル神が背を向けた。
「——人の営みが価値となる。生を謳歌し、死を尊ぶがいい。」
振り返らないものだと思っていた。振り返らなければ、耐えられた。けれど、それがほんの少しだけ、名残惜しむようにわずかに振り返った。視線が絡み合う。そこで、限界がきた。
「……っ、兄ちゃん!!」
「——————、」
その声に、歩みを止めたことがおそらく、分水嶺であった。
………………
……………
………
スコープを覗き見る。映りこむエーテルの揺らめきは、かつて観測した揺らぎ、希薄になっていたものと異なり、落ち着いている。
穏やかな冷たいエーテルを肌で感じながら、精密な分析を試みる。そのエーテルの奥深く、生きとし生けるものすべてに存在する核たる魂は、不安定に瞬くことなくそこにある。
その魂の表面を、薄く薄く、青白い光が包み込んでいることが、エーテル測定器を通して観測できた。
「……うん。魂にも異常なし。えぇと…ハルオーネ様。もう大丈夫だ」
「構わぬ。世話をかけたな。」
人より大きな身体を起こして、ふわりと浮かびあがる。つい、と目を星天の座の中央へと向ける。
守護神と仰ぐニメーヤに治癒術を施している英雄の叔父と、それを愛おしそうに見つめ、受け入れているニメーヤ、アルジク兄妹。
幼いオポオポに力強く抱き着かれて、振り払うこともせず柔らかく撫でているオシュオン。
そして双子神へと縋り付いてる英雄を必死に宥めているナルザルと、先ほどまでのハルオーネと同じように腰を下ろして休んでいる他の神々がいた。
「……想いが動かす力とは、かくも強いものなのだな」
甲冑を鳴らして、手のひらを見やる。そして握りしめた拳から身体の隅々まで、意識を集中させてみるが、その感触は人との裁定の後に急速に弱った己とは程遠く、しかし、人から受け取った想いの力は確かに祝福機構へと還元されているようであった。その巡りが、非常に緩やかなものとなっていること。胸の内に暖かな光が宿っていることを除いて、ほとんど万全へと回帰していた。
「……秘石が神々と星との間にある絆であるように、人の祈り、想いは神と人を結びつける絆となる。……そうあの人に語ったんだって、聞いているよ」
ハルオーネが、足元の赤い髪の人の子を見下ろす。深くかぶった兜の奥にある蒼い瞳がまるで見えているかのように、人の子は力強く見上げている。
「あの人は、これまで何度も、絶望的な状況に勝ってきた。そうして得たものは、たくさんあったけれど……あの人個人が得たものなんて、きっと、そんなに多くない。だから、わがままを言えたこと、俺は良かったと思っているよ。」
「……そうだな。」
胸の内に宿る光を辿る。淡く、暖かいそれは人の温かさを移したかのようで…それでいて、星からの祝福のようであった。
「僕も同感です。……と、いうより。アレを放って星に還ってしまったのなら、アイティオンまで出向いて引き摺り出してやろうかと思っていましたよ。」
とてとてと、こちらに歩いてきたのは英雄の叔父——リルパである。今回の裁定に癒し手として参加していた彼は、常の冷めた表情の内側に相当な激情を隠しているらしい。珍しい姿であった。
ふわり、と後ろを付いてきたニメーヤ神、アルジク神を仰ぐ。
「こんな結末を迎えるなんて…思わなかったわ」
「我々の宿願も叶えた上で、そして己の願いも叶えるとは…そなたらには常々驚かされる。」
「お兄様ったら、素直に喜べばいいのに。……こうして、貴方たちとまだお話をする時間を与えられたこと…こんな素敵な運命へと導かれるなんて…人の子たちは、いつだって私たちの想像を超えていくのね」
胸に手を添えたニメーヤからそっと視線を外して、懐から煙草を取り出した。指先に集めた火のエーテルでいつものように火をつけて、深く吸い込む。
「……これは、又聞きを元にした勝手な推測なんですが、あなた方も『生きている』からこそ覆せた運命なんじゃないでしょうか」
ぷかりと一つ煙を吐き出しながら、リルパは続けた。
「真に機構であるのならば『ブレ』の原因になりかねない『愛しい』…なんて、心を持たせない方が良いでしょう。事実、ゾディアークの核だったアシエン・エリディブスを筆頭に…アシエンもまた、人の感情を有していた。その顛末はおよそ、機構とは程遠かったのをアレから伝え聞いています」
「その心がある時点で、貴方がたはきっと。生きている。そしてその生けるものの願いを受け入れないほど……アーテリスは、ハイデリンは狭量な星ではないかと。」
「貴方がたの心に、わずかにでもこの時を惜しむ気持ちがあったからこそ、絆…いわば、デュナミスは応えた。……なんて。青臭いですが、それでいいんじゃあ、ないでしょうかね。」
すっかりくつろいだ様子で養子へと目を向けながら締めくくる。その言葉を嚙みしめて、神々は瞳を閉じた。
光のエーテルは、解けゆくはずであったこの身の核たる魂を包み込み、馴染んでいる。しかし、己のことだからわかる。100年。100年もすれば、きっとエーテルは薄れて、今度こそ全てが星の海へと還るであろう。
猶予が与えられたわけだ。人の子で言うならば、余命。それを、残酷だとは思わなかった。神を諭すかのように紡がれた推論の大前提は正しかった。
これっきりだと区切りをつけようとしていたが、本当は、もっともっと自分たちだって、愛しい人の子たちと触れ合ってみたかったのだ。
「……参ったな…本当に…。この願いを…使命を果たそうって、みんなと約束していたんだけどな」
ぎゅう、とオポオポを抱きしめてオシュオンが呟く。それにおや、と煙草をふかしながら笑って答えた。
「あなた方の使命は果たされているのでは?これから先、祈りはアレに届くのでしょう?」
「あ、あぁ……そう、だが…」
「なら、固いことなんて考えないで。長めの休暇だとでも思えばいいんですよ。……それに、終末を乗り越えたばかりなんです。これから先、もっともっと人が強く生きるのを見ずに還るのは、もったいないんじゃあありませんか?」
その言葉に絶句した。休暇。休暇とは。その発想はなかった。しかし、確かにこれから先の十二神の代替を果たすのは祝福機構である。いつものように天へと座して人の子を常に見守る必要もないだろう。
言葉を探していると、畳みかけるようにスノーゲイムがそうですよ!と声を上げた。
「私も、もっともっと神々とお話してみたいです!冒険者さんばかりとお話されていましたが……ちょっとうらやましかったんですからね!」
「ああ、俺も。こうして深く互いを知る機会が得られたんだ。アラグ時代における十二神信仰、ラムウとラールガー神との共通項…いろいろと知りたいこともたくさんあるし、何より、俺も、もっと神々自身の事を知りたい」
「……人の子らは、ほんに我らを喜ばせるのが上手い」
扇でそうっと口元を隠しながら、アーゼマが呟いた。それを聞き届けて、さて、と煙草の火をさっと消した。そしてクルルの方を向く。
「ともかく、時間が必要でしょう。いったんこの場で解散にしては?神々にとってもこの顛末は想定外でしょうし……改めて話し合って、その後の事を決めましょう」
「えぇ、問題ないわ。ラハくんにスノーゲイムさんも、それでいいかしら?」
「俺は構わないよ。ここまで来たんだ。とことん付き合うさ。…でもまぁ、今はお互い休むべきだな。混乱しているだろうし」
「はい!また後日、オムファロスに集合しましょう。」
「決まりですね。メイも、それでいいですね?」
「…………。」
未だに一言も発していない息子へ一応の声かけをするが、ろくな反応を示さなかった。肩をすくめ、はるか高いところにあるナルザル神の顔を見る。
「……それは、そちらに置いていきます。よくよく話し合ってください……お互いのために。それでは、また明日」
さっと身をひるがえして、一人足早に天球とオムファロスをつなぐ階段を下りていく。少し戸惑った様子で、ちらちらと心配するように目を向けながら、それに続いて彼らもまた去っていった。
「さて…人の子らの言う通り、私たちも身の振り方を考えるべきであろう。熟考するも良し。相談するも良し。各々の神域へと戻って、明日を想おうではないか」
ぱん、と手を合わせてサリャクが促す。それに賛成、とメネフィナをはじめとし他の神々も賛同した。唯一、ナルザルだけがあぁー…と、言葉にならない声を上げる。
「……すまぬ。先に帰っていてくれると、助かる。もうしばらく、我らはここにいる」
神々は顔を見合わせる。そして承知したと頷くと、一人、また一人と輝くエーテルへと転じ、ふわりと空へと消えていった。
祝福機構の上に、神と人が一人ずつ残っている。そろそろ神衣にしわがつくのではないだろうか、未だに強く握りしめられた手は解ける様子がない。
「……わかってて、やっていたの?今までの事」
ようやく開かれた口から洩れた言葉には、恨みの色が乗っていた。嘘はつけないので、肯定する。ぎゅう、とまた強く握りしめる。
「だったら……あんまりだ。俺が耐えられると思ったの」
「……すまぬ……だが、真実を告げれば、そなたは戦えなくなるだろう」
「当然だよ。前に言ったことあるだろ。俺に、兄ちゃんを殺させるつもりだったの。信じられない。酷すぎる」
ぐす、と僅かに鼻を啜る音がした。衣にじわりと、染みが広がる。
「……好きとか、さんざん言っておいてこの仕打ちはないでしょ…」
「すまぬ……本当に、すまぬ。愛しき子よ」
「……どれだけ詫びようと、今のそなたには響かぬかもしれない。だが、私たちは、そなたを愛している。この件で愛想をつかされたとしても——」
「尽かせられる訳がないから、悲しいんだよ…っ、兄ちゃんの分からず屋…!」
嗚咽を上げて、静かに泣き始めたのをぎゅう、と抱きしめて詫びを重ねる。手の感触があること、誰も見せなかった泣き顔を晒してくれること、約束を違えることを恐れて、手を伸ばせなかったこと。
悔やんで、そして、この時をこころに強く焼き付ける。
もう二度と違えないように、そうしておそらく一足先にこころを決めた。
今度こそ、共に生きる。最期まで。
********************************
数週間後のオムファロスにて
「そうか…いや、少し驚いておる。サリャクはともかく、アーゼマとリムレーンも彼らに着いていくとはのう」
「サリャク様もリムレーン様も、羨ましがっていましたからねぇ。秘石巡りについていけなかったこと。事情を知る彼らと共に行動すれば自ずと人と関わりを持てますから」
「ニメーヤとアルジクは、そなたと共に行くと決めたと聞いているが?てっきり、ここにも寄るものだとばかり思っていたのだが」
「あぁ……先日、冒険者登録をしましたね。依頼の手引きをしたのでさっそく、モードゥナで"石集め"をしていますよ。完遂したら来るでしょう」
「そうか。……各々、歩む道を見つけたのだな」
持ち込まれた小さな座卓に座り、人の姿を取ってお茶を飲みながら会話を交わす。それで、と。かちゃりとカップをソーサーに置いてリルパは先を促した。
「で、僕をオムファロスに招いたのは……凡そ察しは付いていますが、あの子の事で?」
「う゛っ……いや…うむ…その通りだ……」
「……あれ以来、顔を見せに来てくれるどころか音沙汰すらない。取り次いでは、貰えぬだろうか……」
「ふむ…」
双つ神は同じようにうなだれながら、そう依頼する。華めく神域での決戦以降、胸の内に抱きしめて、一晩過ごして、ちょっと頭を冷やしてくると出て行ってきり、姿を見ていないのである。
愛想を尽かされた……と、言われても仕方のない仕打ちをした自覚は大いにあるが、その点に関しては『愛想を尽かせられる訳がない』と言質を貰っている。
これがなければ、正直ちょっと立ち直れなかったかもしれない。だがしかし、寂しいものは寂しいのだ。あまり強くは言えないが。
「これは噂ですが、あの子の姿をウルダハで見かけた者がいるそうですよ」
「……なに!それは、真か!?」
「ついでに、酒を煽りながらこう口走っていたそうですよ。『ちょっと自立しなきゃ…ヴィエラの男児って本来そうなんでしょ…』とか『もう少し、強くならないと』とか。あとは…そうですねェ。『兄ちゃんじゃなくて、兄さん。って、変じゃないかな…』とか?」
「は??」
意味が分からず思わず起立する。ザルも続いて立っていた。顔を見合わせる。この数週間で何が起きたのか。急に自立心が芽生えたのか。神としての人の自立を喜ぶ心と、兄としての弟離れへの本能的な焦りで、動揺が止まらない。あと、『兄さん』とはどういうことだ。
「もしかしたら、行けば会えるかもしれませんね。……ああ。そこに居なければ、ラザハンにいるかもしれません。いい訓練場がありますから」
「っ、…情報感謝する!こうしてはおれぬ。我らも行くぞ、ザル!」
「そうだな、ナル。話し合いが足りぬことが分かったのがよくよくわかった。あの子を捕まえねば」
カップに残ったお茶を煽り、馳走になった!と荷を纏めて軽やかに双つ神は駆けだす。オムファロスと地上を結ぶ門が揺らいで、ニメーヤとアルジクが転移してきた。走りながら、急いでいる故また後日!とそれだけを伝えて、ナルザルは地上へと降りて行った。
あらあら、とニメーヤは微笑みながら見送り、代わるように座へと腰を下ろした。
「忙しない事だ……。だが、あれは真面目である故、これからもこうした行き違いを繰り返すのだろうな」
「ふふ、そうね。お兄様。けれど、今度こそあの子の手を取れるのなら……いいえ、手を取ってもらわなくちゃ」
白魚のような指先でカップの中身を注いでいく。そして香りを楽しんで、喜びを滲ませ目を細める。
「うまく良くといいのですがねェ。本当に…手のかかる子たちですよ」
「あら。ふふ、あなたにかかれば、ナルザルも手のかかる子になってしまうのね」
「あんなにデカい息子は、一人で十分なんですけれどもねェ」
「ふ……」
卓を囲んで和やかに談笑をする。
遠い異国の地では、オシュオンが小さなオポオポと共に。
サリャクもまた、人が積み上げた英知の結晶を目の当たりにして、あの涼やかな細面に喜色を滲ませていることであろう。
アーゼマもその隣で蔵書を読み耽っているかもしれない。彼女は誰よりも、厳正なる審判を重んじるから。
リムレーンはもしかしたら、そのうち船旅に出るかもしれない。帆を上げて、白波を切り、これからの航海を任せた人の子の輝きを傍で見守りながら。
ノフィカはやはり黒衣森が気になるらしい。見えなくとも人と共に時には手を取り合い生きる精霊たちのように、これから人との関係を模索してみたいのだという。
ハルオーネは、メネフィナと北へ旅立つと聞いている。改めて信仰と雪深いかの地を訪ねて、そこの現在を見てみたいのだと言っていた。
その途中までは、ビエルゴも同行するらしい。彼は人と、獣人が手を取り合い、モノを積み上げ、生きているイディルシャイアを目的地としている。
ラールガーは、新たなる壊神信仰の根付いたギラバニアがやはり気になると言っていた。踏みつけられながらも粘り強く、そして誇りを失わなかったアラミゴを、ずっと想っていた。
そして、ニメーヤとアルジクは、己を守護神と仰ぐ英雄の叔父と共に生きてみたいと願い、先日冒険者の手引き を紹介してもらった。
ナルザルは、これから、光の戦士に会いに行く。
それぞれがそれぞれの道を歩み出した。長い長い、休暇。その間、たくさん生きて、時には辛い思いもして、けれど強く生きてみよう。これは、星と人から受け取った、十二神の門出への祝福。
「ニメーヤ様……ああいや、ニメーヤと呼んだ方が良いのでしたっけ…。もう少し、具体的なアドバイスでもしておいた方がよかったでしょうか」
「あら!ふふ、心配いらないわ。だって、彼もあの子も、お互い大好きだもの。大丈夫。きっと、素敵な未来が待っているわ!」
これは異説。あったかもしれない未来の一つ。冒険者と十二神は、その未来を生きていく。
『私たちの願いはただひとつ……。この身を「祝福」として、星に還元すること。』
『古き魂の断片は、星海に還り、命の巡りに合流するだろう。』
『そう、これは私たちの勝手な願いだ』
『ここまで命をつないでくれた、すべての「人」に……この愛を返したいのだ』
手を迷わせて、そして下ろした。どう言葉をかけて良いかわからなかったから。
歯を食いしばり、せめてまっすぐ向き合おうと、溢れそうになる涙が零れないように上を向こうと、笑みを取り繕う。
別れの時は、笑顔で見送るものだという無意識がそうさせていた。
神が——エウロギアが、それまで浮かべていた微笑みを僅かに揺らがせたような気がした。
『さようなら人の子ら、愛しているよ。』
十二神が分かたれる。ひとり、またひとりと背を向ける。
止めるわけにはいかないと踏みとどまる。願いを踏みにじってしまうと我慢する。分かっていても、震える唇を止めることができない。
ビエルゴ神が、ラールガー神が背を向ける。
握りしめた拳が震える。それでも前を見ていようと、まっくらになりそうな視界を振り切って、ふらつきそうになる両足を踏ん張る。
アーゼマ神が背を向ける。そして、ナルザル神が背を向けた。
「——人の営みが価値となる。生を謳歌し、死を尊ぶがいい。」
振り返らないものだと思っていた。振り返らなければ、耐えられた。けれど、それがほんの少しだけ、名残惜しむようにわずかに振り返った。視線が絡み合う。そこで、限界がきた。
「……っ、兄ちゃん!!」
「——————、」
その声に、歩みを止めたことがおそらく、分水嶺であった。
………………
……………
………
スコープを覗き見る。映りこむエーテルの揺らめきは、かつて観測した揺らぎ、希薄になっていたものと異なり、落ち着いている。
穏やかな冷たいエーテルを肌で感じながら、精密な分析を試みる。そのエーテルの奥深く、生きとし生けるものすべてに存在する核たる魂は、不安定に瞬くことなくそこにある。
その魂の表面を、薄く薄く、青白い光が包み込んでいることが、エーテル測定器を通して観測できた。
「……うん。魂にも異常なし。えぇと…ハルオーネ様。もう大丈夫だ」
「構わぬ。世話をかけたな。」
人より大きな身体を起こして、ふわりと浮かびあがる。つい、と目を星天の座の中央へと向ける。
守護神と仰ぐニメーヤに治癒術を施している英雄の叔父と、それを愛おしそうに見つめ、受け入れているニメーヤ、アルジク兄妹。
幼いオポオポに力強く抱き着かれて、振り払うこともせず柔らかく撫でているオシュオン。
そして双子神へと縋り付いてる英雄を必死に宥めているナルザルと、先ほどまでのハルオーネと同じように腰を下ろして休んでいる他の神々がいた。
「……想いが動かす力とは、かくも強いものなのだな」
甲冑を鳴らして、手のひらを見やる。そして握りしめた拳から身体の隅々まで、意識を集中させてみるが、その感触は人との裁定の後に急速に弱った己とは程遠く、しかし、人から受け取った想いの力は確かに祝福機構へと還元されているようであった。その巡りが、非常に緩やかなものとなっていること。胸の内に暖かな光が宿っていることを除いて、ほとんど万全へと回帰していた。
「……秘石が神々と星との間にある絆であるように、人の祈り、想いは神と人を結びつける絆となる。……そうあの人に語ったんだって、聞いているよ」
ハルオーネが、足元の赤い髪の人の子を見下ろす。深くかぶった兜の奥にある蒼い瞳がまるで見えているかのように、人の子は力強く見上げている。
「あの人は、これまで何度も、絶望的な状況に勝ってきた。そうして得たものは、たくさんあったけれど……あの人個人が得たものなんて、きっと、そんなに多くない。だから、わがままを言えたこと、俺は良かったと思っているよ。」
「……そうだな。」
胸の内に宿る光を辿る。淡く、暖かいそれは人の温かさを移したかのようで…それでいて、星からの祝福のようであった。
「僕も同感です。……と、いうより。アレを放って星に還ってしまったのなら、アイティオンまで出向いて引き摺り出してやろうかと思っていましたよ。」
とてとてと、こちらに歩いてきたのは英雄の叔父——リルパである。今回の裁定に癒し手として参加していた彼は、常の冷めた表情の内側に相当な激情を隠しているらしい。珍しい姿であった。
ふわり、と後ろを付いてきたニメーヤ神、アルジク神を仰ぐ。
「こんな結末を迎えるなんて…思わなかったわ」
「我々の宿願も叶えた上で、そして己の願いも叶えるとは…そなたらには常々驚かされる。」
「お兄様ったら、素直に喜べばいいのに。……こうして、貴方たちとまだお話をする時間を与えられたこと…こんな素敵な運命へと導かれるなんて…人の子たちは、いつだって私たちの想像を超えていくのね」
胸に手を添えたニメーヤからそっと視線を外して、懐から煙草を取り出した。指先に集めた火のエーテルでいつものように火をつけて、深く吸い込む。
「……これは、又聞きを元にした勝手な推測なんですが、あなた方も『生きている』からこそ覆せた運命なんじゃないでしょうか」
ぷかりと一つ煙を吐き出しながら、リルパは続けた。
「真に機構であるのならば『ブレ』の原因になりかねない『愛しい』…なんて、心を持たせない方が良いでしょう。事実、ゾディアークの核だったアシエン・エリディブスを筆頭に…アシエンもまた、人の感情を有していた。その顛末はおよそ、機構とは程遠かったのをアレから伝え聞いています」
「その心がある時点で、貴方がたはきっと。生きている。そしてその生けるものの願いを受け入れないほど……アーテリスは、ハイデリンは狭量な星ではないかと。」
「貴方がたの心に、わずかにでもこの時を惜しむ気持ちがあったからこそ、絆…いわば、デュナミスは応えた。……なんて。青臭いですが、それでいいんじゃあ、ないでしょうかね。」
すっかりくつろいだ様子で養子へと目を向けながら締めくくる。その言葉を嚙みしめて、神々は瞳を閉じた。
光のエーテルは、解けゆくはずであったこの身の核たる魂を包み込み、馴染んでいる。しかし、己のことだからわかる。100年。100年もすれば、きっとエーテルは薄れて、今度こそ全てが星の海へと還るであろう。
猶予が与えられたわけだ。人の子で言うならば、余命。それを、残酷だとは思わなかった。神を諭すかのように紡がれた推論の大前提は正しかった。
これっきりだと区切りをつけようとしていたが、本当は、もっともっと自分たちだって、愛しい人の子たちと触れ合ってみたかったのだ。
「……参ったな…本当に…。この願いを…使命を果たそうって、みんなと約束していたんだけどな」
ぎゅう、とオポオポを抱きしめてオシュオンが呟く。それにおや、と煙草をふかしながら笑って答えた。
「あなた方の使命は果たされているのでは?これから先、祈りはアレに届くのでしょう?」
「あ、あぁ……そう、だが…」
「なら、固いことなんて考えないで。長めの休暇だとでも思えばいいんですよ。……それに、終末を乗り越えたばかりなんです。これから先、もっともっと人が強く生きるのを見ずに還るのは、もったいないんじゃあありませんか?」
その言葉に絶句した。休暇。休暇とは。その発想はなかった。しかし、確かにこれから先の十二神の代替を果たすのは祝福機構である。いつものように天へと座して人の子を常に見守る必要もないだろう。
言葉を探していると、畳みかけるようにスノーゲイムがそうですよ!と声を上げた。
「私も、もっともっと神々とお話してみたいです!冒険者さんばかりとお話されていましたが……ちょっとうらやましかったんですからね!」
「ああ、俺も。こうして深く互いを知る機会が得られたんだ。アラグ時代における十二神信仰、ラムウとラールガー神との共通項…いろいろと知りたいこともたくさんあるし、何より、俺も、もっと神々自身の事を知りたい」
「……人の子らは、ほんに我らを喜ばせるのが上手い」
扇でそうっと口元を隠しながら、アーゼマが呟いた。それを聞き届けて、さて、と煙草の火をさっと消した。そしてクルルの方を向く。
「ともかく、時間が必要でしょう。いったんこの場で解散にしては?神々にとってもこの顛末は想定外でしょうし……改めて話し合って、その後の事を決めましょう」
「えぇ、問題ないわ。ラハくんにスノーゲイムさんも、それでいいかしら?」
「俺は構わないよ。ここまで来たんだ。とことん付き合うさ。…でもまぁ、今はお互い休むべきだな。混乱しているだろうし」
「はい!また後日、オムファロスに集合しましょう。」
「決まりですね。メイも、それでいいですね?」
「…………。」
未だに一言も発していない息子へ一応の声かけをするが、ろくな反応を示さなかった。肩をすくめ、はるか高いところにあるナルザル神の顔を見る。
「……それは、そちらに置いていきます。よくよく話し合ってください……お互いのために。それでは、また明日」
さっと身をひるがえして、一人足早に天球とオムファロスをつなぐ階段を下りていく。少し戸惑った様子で、ちらちらと心配するように目を向けながら、それに続いて彼らもまた去っていった。
「さて…人の子らの言う通り、私たちも身の振り方を考えるべきであろう。熟考するも良し。相談するも良し。各々の神域へと戻って、明日を想おうではないか」
ぱん、と手を合わせてサリャクが促す。それに賛成、とメネフィナをはじめとし他の神々も賛同した。唯一、ナルザルだけがあぁー…と、言葉にならない声を上げる。
「……すまぬ。先に帰っていてくれると、助かる。もうしばらく、我らはここにいる」
神々は顔を見合わせる。そして承知したと頷くと、一人、また一人と輝くエーテルへと転じ、ふわりと空へと消えていった。
祝福機構の上に、神と人が一人ずつ残っている。そろそろ神衣にしわがつくのではないだろうか、未だに強く握りしめられた手は解ける様子がない。
「……わかってて、やっていたの?今までの事」
ようやく開かれた口から洩れた言葉には、恨みの色が乗っていた。嘘はつけないので、肯定する。ぎゅう、とまた強く握りしめる。
「だったら……あんまりだ。俺が耐えられると思ったの」
「……すまぬ……だが、真実を告げれば、そなたは戦えなくなるだろう」
「当然だよ。前に言ったことあるだろ。俺に、兄ちゃんを殺させるつもりだったの。信じられない。酷すぎる」
ぐす、と僅かに鼻を啜る音がした。衣にじわりと、染みが広がる。
「……好きとか、さんざん言っておいてこの仕打ちはないでしょ…」
「すまぬ……本当に、すまぬ。愛しき子よ」
「……どれだけ詫びようと、今のそなたには響かぬかもしれない。だが、私たちは、そなたを愛している。この件で愛想をつかされたとしても——」
「尽かせられる訳がないから、悲しいんだよ…っ、兄ちゃんの分からず屋…!」
嗚咽を上げて、静かに泣き始めたのをぎゅう、と抱きしめて詫びを重ねる。手の感触があること、誰も見せなかった泣き顔を晒してくれること、約束を違えることを恐れて、手を伸ばせなかったこと。
悔やんで、そして、この時をこころに強く焼き付ける。
もう二度と違えないように、そうしておそらく一足先にこころを決めた。
今度こそ、共に生きる。最期まで。
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数週間後のオムファロスにて
「そうか…いや、少し驚いておる。サリャクはともかく、アーゼマとリムレーンも彼らに着いていくとはのう」
「サリャク様もリムレーン様も、羨ましがっていましたからねぇ。秘石巡りについていけなかったこと。事情を知る彼らと共に行動すれば自ずと人と関わりを持てますから」
「ニメーヤとアルジクは、そなたと共に行くと決めたと聞いているが?てっきり、ここにも寄るものだとばかり思っていたのだが」
「あぁ……先日、冒険者登録をしましたね。依頼の手引きをしたのでさっそく、モードゥナで"石集め"をしていますよ。完遂したら来るでしょう」
「そうか。……各々、歩む道を見つけたのだな」
持ち込まれた小さな座卓に座り、人の姿を取ってお茶を飲みながら会話を交わす。それで、と。かちゃりとカップをソーサーに置いてリルパは先を促した。
「で、僕をオムファロスに招いたのは……凡そ察しは付いていますが、あの子の事で?」
「う゛っ……いや…うむ…その通りだ……」
「……あれ以来、顔を見せに来てくれるどころか音沙汰すらない。取り次いでは、貰えぬだろうか……」
「ふむ…」
双つ神は同じようにうなだれながら、そう依頼する。華めく神域での決戦以降、胸の内に抱きしめて、一晩過ごして、ちょっと頭を冷やしてくると出て行ってきり、姿を見ていないのである。
愛想を尽かされた……と、言われても仕方のない仕打ちをした自覚は大いにあるが、その点に関しては『愛想を尽かせられる訳がない』と言質を貰っている。
これがなければ、正直ちょっと立ち直れなかったかもしれない。だがしかし、寂しいものは寂しいのだ。あまり強くは言えないが。
「これは噂ですが、あの子の姿をウルダハで見かけた者がいるそうですよ」
「……なに!それは、真か!?」
「ついでに、酒を煽りながらこう口走っていたそうですよ。『ちょっと自立しなきゃ…ヴィエラの男児って本来そうなんでしょ…』とか『もう少し、強くならないと』とか。あとは…そうですねェ。『兄ちゃんじゃなくて、兄さん。って、変じゃないかな…』とか?」
「は??」
意味が分からず思わず起立する。ザルも続いて立っていた。顔を見合わせる。この数週間で何が起きたのか。急に自立心が芽生えたのか。神としての人の自立を喜ぶ心と、兄としての弟離れへの本能的な焦りで、動揺が止まらない。あと、『兄さん』とはどういうことだ。
「もしかしたら、行けば会えるかもしれませんね。……ああ。そこに居なければ、ラザハンにいるかもしれません。いい訓練場がありますから」
「っ、…情報感謝する!こうしてはおれぬ。我らも行くぞ、ザル!」
「そうだな、ナル。話し合いが足りぬことが分かったのがよくよくわかった。あの子を捕まえねば」
カップに残ったお茶を煽り、馳走になった!と荷を纏めて軽やかに双つ神は駆けだす。オムファロスと地上を結ぶ門が揺らいで、ニメーヤとアルジクが転移してきた。走りながら、急いでいる故また後日!とそれだけを伝えて、ナルザルは地上へと降りて行った。
あらあら、とニメーヤは微笑みながら見送り、代わるように座へと腰を下ろした。
「忙しない事だ……。だが、あれは真面目である故、これからもこうした行き違いを繰り返すのだろうな」
「ふふ、そうね。お兄様。けれど、今度こそあの子の手を取れるのなら……いいえ、手を取ってもらわなくちゃ」
白魚のような指先でカップの中身を注いでいく。そして香りを楽しんで、喜びを滲ませ目を細める。
「うまく良くといいのですがねェ。本当に…手のかかる子たちですよ」
「あら。ふふ、あなたにかかれば、ナルザルも手のかかる子になってしまうのね」
「あんなにデカい息子は、一人で十分なんですけれどもねェ」
「ふ……」
卓を囲んで和やかに談笑をする。
遠い異国の地では、オシュオンが小さなオポオポと共に。
サリャクもまた、人が積み上げた英知の結晶を目の当たりにして、あの涼やかな細面に喜色を滲ませていることであろう。
アーゼマもその隣で蔵書を読み耽っているかもしれない。彼女は誰よりも、厳正なる審判を重んじるから。
リムレーンはもしかしたら、そのうち船旅に出るかもしれない。帆を上げて、白波を切り、これからの航海を任せた人の子の輝きを傍で見守りながら。
ノフィカはやはり黒衣森が気になるらしい。見えなくとも人と共に時には手を取り合い生きる精霊たちのように、これから人との関係を模索してみたいのだという。
ハルオーネは、メネフィナと北へ旅立つと聞いている。改めて信仰と雪深いかの地を訪ねて、そこの現在を見てみたいのだと言っていた。
その途中までは、ビエルゴも同行するらしい。彼は人と、獣人が手を取り合い、モノを積み上げ、生きているイディルシャイアを目的地としている。
ラールガーは、新たなる壊神信仰の根付いたギラバニアがやはり気になると言っていた。踏みつけられながらも粘り強く、そして誇りを失わなかったアラミゴを、ずっと想っていた。
そして、ニメーヤとアルジクは、己を守護神と仰ぐ英雄の叔父と共に生きてみたいと願い、先日
ナルザルは、これから、光の戦士に会いに行く。
それぞれがそれぞれの道を歩み出した。長い長い、休暇。その間、たくさん生きて、時には辛い思いもして、けれど強く生きてみよう。これは、星と人から受け取った、十二神の門出への祝福。
「ニメーヤ様……ああいや、ニメーヤと呼んだ方が良いのでしたっけ…。もう少し、具体的なアドバイスでもしておいた方がよかったでしょうか」
「あら!ふふ、心配いらないわ。だって、彼もあの子も、お互い大好きだもの。大丈夫。きっと、素敵な未来が待っているわ!」
これは異説。あったかもしれない未来の一つ。冒険者と十二神は、その未来を生きていく。
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