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短編

 領主の息子は今年で16になるが、屋敷の敷地内からは一度も出たことがない。生まれつき体が弱いのを過剰に心配した領主が彼を屋敷に閉じ込めた。彼も幼い頃は、父が村から連れて来た子供たちと遊んでいた。しかし元より面白味のなかったそれは、彼が成長するにつれさらに陳腐なものに感じられるようになり、彼は一人で本を読んで過ごすことが多くなった。

 領主の息子はその日も本を読んでいた。天気のよい日は庭に出た方が良い。外に出られない彼を気遣った医者は領主にそう伝えていた。だが、領主は敷地とその外を区切る柵の近くには息子を行かせなかった。村の者は平気な「きん」でも、お前には致命的だ。領主はそう言った。息子は柵の少し内側、第二の柵のように巡らされた木立の木陰で本を読んでいた。
 一羽のウサギが息子の足元に座った。スンスンと忙しなく鼻を動かして、彼のズボンを嗅いでいる。息子はウサギを見たことがなかった。子供の頃から絵本で親しんだウサギとはーそれらは時計を持っていたり、サメという凶暴な魚を欺いて皮を剥がれたり、カメと競走をしたりしていたーこのようなものだったのかと、息子はしげしげとウサギを見つめた。

「あ、あのっ」

 息子は柵の外に青年が立っているのを見つけた。くたびれたベストに中途半端な丈のズボンをはいていた。ウサギが中に逃げ込んでしまいまして。青年はしどろもどろにそう息子に告げた。息子は少し耳慣れない彼のイントネーションに引っ掛かりながらも、ウサギを示してどうぞ、というジェスチャーをした。息子はウサギの触り方を知らなかったし、柵の近くには行けなかった。青年は辺りを見回して、恐らく彼は門を探していたのだったが見つからず、それから高い柵をひょいと登って敷地に降り立った。

「こおら、この贅沢者。お前に領主様の生活ができると思ったか、うすのろが」

 青年は友達に冗談でも言うようにウサギに話しかけた。彼は軽々とウサギを抱き上げ、息子に一礼してまた柵に戻って行こうとした。息子は青年の腕の中のウサギを見つめていた。

「こいつが何か悪さでもしましたでしょうか、領主様?」
「いや、そんなことはないよ。あと、僕は領主ではない。領主は僕の父だよ。だからそんなに畏まる必要はない」
「いやあ、ですが……」

 息子は立ち上がって、困ったように頭をかく青年の抱くウサギにそっと触れた。それは柔らかく、暖かかった。ウサギは気にも留めていない様子で、青年の腕の中で眠りこけていた。

「領主……いや、坊っちゃんはウサギがお好きですか?」
「……いや……」
「お好きではありませんでしたか」
「そうじゃなくて……初めて見たんだ。本で読んだことしかなくて」
「そうなんですか! いやあ、羨ましい限りです」

 息子は眉間に皺を寄せた。息子の手は青年と比べて白くて美しい。嫌味を言われても仕方がないのだろうかと、息子は自省した。青年は明るい眼差しで息子を見つめていた。

「ウサギが出てくる本は興味深いですが、自分は字を知らないもので。本を読んだことがありません」
「…………」

 飄々と笑う青年にかける言葉が息子は見つからなかった。彼は地面に置いたままにしていた本を取り上げ、青年に開いて見せる。

「これは、大陸の東部を調査した探検家の手記ーー日記なんだ。君が興味があるなら、僕が読んであげよう。その代わり、君はウサギを連れてくるんだよ」

 息子の言葉に、青年はクスクスと笑った。

「自分のような者には、ウサギを連れてこい! とだけ言えば良いのですよ。明日は真っ黒のウサギを連れて来ましょうか」

 青年の言葉に息子はキョトンと目を丸くした。そして頬を赤く染める。息子は対価など支払わずとも望みを叶えられるのだ。彼は自分でもそのことを忘れていた。

 青年の識字の能力の欠落が、息子に青年への共感を起こさせたのだった。息子は外に出られないが本で世界を感じることはできる。青年は世界に触れることができるがその世界は狭い。息子は初めて他人との触れ合いを求めた。二人はパズルがきれいにはまるように、互いの欠落を埋め合えるのだろうと息子には思われたのだった。

「いいんだ。ウサギだけ見たいなら、家の者に頼めばいいだけだ。でも君が来て話をしてくれたほうが、きっと面白いと思う。それに、君が本を読んだ感想も聞いてみたいよ」
「自分は読みませんよ。坊っちゃんが読んで、自分は聞きます」

 舌を出して笑う青年の姿は息子にとって新しいものだった。焼けて荒れた肌に映える白い歯を見上げて、息子もつられて笑った。彼は友達の作り方は知らなかったが、友達ができるような気がした。

「君がどんな話が好きかはわからないが、楽しい本を探しておくよ。それから」

 息子は右手の方を指差して言った。遠くに門番の壮年の男性が立っているのが見える。

「明日からは門を通っておいで」
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