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生贄から始まる第二の愛され人生


 ナオは混乱していた。

 思えばつまらない人生だった。
 ナオは小さな山岳の村の長の家庭に生まれ、優秀な兄と愛らしい妹に挟まれて不必要な頭数として過ごしてきた。家族の一員として受け入れられようと努力したこともあったが、将来父の跡を継いで長となる兄や、隣町に嫁いでパイプ役となる妹に比べたら、何の役にも立たないナオの存在意義などこれっぽっちもなかったのだった。
 結局ゼロをイチにすることなどできないまま、ナオは18歳の誕生日を迎えた。

 ナオの住む村は四方を山と深い森に囲まれており、その山々には魔物が棲むと言われている。
 その魔物から村を護っているのが、東の森の奥のほう、地図にも載っていないような森の奥深くを根城としている吸血鬼だという。その吸血鬼に村を護ってもらうには、彼らの食糧、すなわち生きた人間を捧げる必要があった。
 ナオが18になった年は奇しくも、100年に一度の生贄を捧げる年だった。

 もしかしたら、もしかしたら召使の子どもや身寄りの無い村の子どもを身代わりにすることだってできたかもしれない。だがナオの父親である村長はそうしなかった。むしろ、ようやくナオにも今まで生きてきた意味ができたと言いたげな表情を浮かべていた。

 ナオだって、自分の身代わりに誰かが生贄になることを望んだわけではない。ただ、そんな可能性も全くないほどに、自分には死ぬことでしか存在を認められる方法がなかったことが虚しかった。

 ナオは父と伯父、その他村の重要な役割を果たしている大人たちに取り囲まれて、東の深い森に足を踏み入れた。
 普段は立ち入りを禁止されているその森に道はなく、麻袋をかぶっただけのようなみすぼらしいナオの素足は草木ですぐにボロボロになった。背の高い草がナイフのようにふくらはぎを掠めるが、ナオにとってそんなことはどうだって良かった。今までだって生きていたのか死んでいたのかわからないような人生だったのだ。18で死ぬのだって何も怖くはなかった。なにもかもがどうでもいい。自分がどこをどう歩いているのかもわからないが、そんなことも構わない。
 「見た目を整えるため」と、昨夜ざくざくに切られた不ぞろいな前髪の隙間から、ナオは自分が歩を進める毎に踏みしめられる草を見ていた。

「ここで跪け」

 うっそうとした森が続く中、急に視界が開けたと思ったら、古代ギリシャを思わせる石柱の門が目の前に現れた。巨大な尖塔の、ともすれば教会のようなものが建っている。これだけのものならば村からも尖塔の先が見えそうなものなのに、ナオは今までこんなものの存在を知らずに生活してきた。
 それは周りの大人たちも同じなのか、皆口をあんぐりと開けて天空を見上げている。
 同じく空を仰いでいたナオは、村長の声に膝をついて頭を垂れた。さっきまでの幻想的な光景など幻だったかのように、変わらない湿った土と草だけがそこにあった。

 グルル……と、どこからか狼のうなり声のようなものが聞こえてきた。大人たちが不安そうに辺りを見回す気配を感じながら、ナオは言われた場所に跪いて下を向いたまま動かなかった。
 ザン、ザンと、地面をゆっくり蹴って何かがこちらに向かってくる音がしていた。

「う、うわあああああ! 化け物だ!」

 誰かの叫び声に、ナオは思わず顔を上げた。
 そこには、1つの胴体に首から先が3つある黒い犬が、鋭い牙をむき出しにしてこちらを睨め付けていた。その犬が頭を左右に振る度に、吹き飛ばされてしまいそうな風圧が襲う。
 ナオはこの犬に見覚えがあった。家にあった本に書いてあった、地獄の番犬ケルベロス――・・・・・・。

「トレ、トリー、ドライ。止めないか」

 門の奥から、春の新緑の山のように凛とした
声の少年が姿を現した。長いポンチョのようなコートに身を包んだ、まだ長い睫毛に幼さの残る少年だ。尖塔からトコトコと出てくる様は、まるで聖歌隊の子どもを想像させる。
 だが、その不健康を通り越した青白い肌の色が、彼が普通の人間ではないことを物語っていた。ともすれば灰色にも見えそうなその肌に、やけに血色のいいピンク色の唇がアンバランスだ。

「生贄だけ送って寄越せばいいものを、うじゃうじゃと余計なやつらまで引き連れて。いったい何のつもりなんだか」
「な……」

 その純粋無垢な少年の外見とは裏腹に、吸血鬼の少年はナオらを見て吐き捨てた。

「なにしてるんだ、さっさとこっちへ来い」

 あまりのギャップにピンクの唇をぽかんと見つめていたナオは、咎めるような声にハッと我に返った。父の方を見ながら、おずおずと立ち上がる。父も少年の口ぶりにあっけに取られているようで、ナオを気にかける余裕は全く無いようだった。怒りか動揺か、はたまたその両方か、その肩は少しわなないているように見えた。

「? 耳が聞こえないのか?」
「え、あ、ごめんなさい……!」

 その場に呆然と立ち尽くして動く気配のないナオを見て、少年はいぶかしげに顔をしかめた。口調は相変わらず厳しいが、心配そうにナオの方へ歩み寄ってくる。
 ナオは斜め前の父親の背中をもう一度だけ見て少年に駆け寄った。父親はついにナオの方を振り返ることはなかった。「なんだ、聞こえてたのか」と胸を撫で下ろす少年の姿を見て、ナオはたじろいだ。

(生贄でもやっぱり五体満足でないといけないんだろうか……)

 ナオにはその少年の様子が理解できず、心がかき乱されるのを感じた。どうして生贄のことをそんなに気にかけるんだろう……。いや、それより、自分はこんな吸血鬼にも優しさを求めるほどに飢えていたのだろうか……。そう思うと、さっきまでどうだってよかった自分の人生が底知れず虚しいものに見えてきた。

(最期ぐらい、ちょっとだけでも心配されたかったかもしれない……)
「と、とにかく生贄は連れて来たんだ! これで良いだろう!?」
「……まあな」

 ナオの気持ちとは裏腹に、父親たちは捨て台詞を残して背を向けて木々の影に消えていった。
 少年はその後姿を見て、長いため息と共にかぶりを振った。

「あの中にお前の父親はいるのか?」
「え、は、はい。一番手前にいた……」
「そうか。息子が生贄にされているっていうのに、碌でもない父親だな」
「え……?」

 ナオは思わず少年の顔を見つめた。少し低い位置にあるので、丸い頭のフォルムもよく見える。あまりにも幼いその外見からは想像できないほど、少年の顔は憎悪に歪んでいた。逃げるようにして去っていった大人たちの姿がまだ見えているのか、少年はしばし木立の方を睨み続けていた。
 と、さっきまで大人しくしていたケルベロスが、普通の犬と変わらない仕草で少年に擦り寄った。一番左の顔など、頭を撫でてほしそうに少年に頭を擦り付けている。
 少年の登場にケルベロスの存在を忘れていたナオは思わず後ずさると、一番右の顔がナオの方を向いた。目が合った瞬間、ナオの体はメドゥーサに見つめられたように硬直した。

「お前たちに一人ぐらい食わせてやっても良かったかもな」
「バウ!」

 頭を撫でながらケルベロスと楽しそうに会話をする吸血鬼の姿を見て、ナオはフッと気が遠くなった。まるで異世界にでも来たような心地だ。
 自分の人生がどうだとか、人に愛されたかったとか、そんなことを考えて哀愁に浸る暇は全く与えられなかった。

「ちょっとスウェンちゃん、そんな物騒な事言うからその子引いちゃってるじゃない」

 背後から落ち着いた声がして、ナオは振り向いた。
 尖塔から女性が歩いてきているのが見える。長い髪が太陽の光でキラキラと輝き、ふんわりとしたゆとりのある長いワンピースをはためかせている姿は天使そのものだ。
だが、少年と同じように、その女性の肌もこの世のものとは思えないほど青白かった。

「うるさいな。お前はさっきの奴らを見てないからそんなことが言えるんだよ、ドルー」
「ちょっと! ドロシーって呼んでって言ってるじゃない! それに、上からちゃーんと見てたわよ、あの子と一緒にね」
「相変わらず趣味が悪いな……」
「さあさ、そんなにむくれてないで。あなたも早く会いたいわよね? あなたを呼んだここの主に」

 ドロシーにぐい、と顔を覗き込まれ、ナオはわけもわからないままとにかくうなずいた。
 ドロシーの顔は近くで見てもやはり天使のように整っていた。上を向いた睫毛に、黒目が大きくクリッとしている。唇は厚すぎず薄すぎず、つやつや日光を反射している。ミルクティー色の胸ぐらいまである長い髪は毛先がカールしており、動きに合わせてふわふわと揺れた。
 首から上はどこからどう見ても美しい女性のようなのだが、近くで見た彼女は顔に似合わず肩幅と胸板ががっちりしている。向こうから歩いてきている時には、ゆったりしたワンピースのせいで気付かなかったが、腕もこの三人の中では一番たくましい。

「さ、行きましょ! 私はドロシー。この子はスウェンちゃんよ。よろしくね! あなたのお名前は?」
「ナ、ナオです」

 差し出された手をナオが咄嗟に握りかえすと、ぎゅっと握り締められた。そのまま手を繋いだ体勢で尖塔の方へ引っ張られる。後ろからスウェンとケルベロスが続いた。
 尖塔の入り口をくぐると、ドロシーはにこにこ顔でナオを振り返った。

「ナオちゃん、私達のおうちにようこそ! これから仲良くしましょうね」
「よろしく」
「……え……?」

 ナオは混乱していた。


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