鋭百

「今、何処だ」
通知を横に退けて画面を消すついでに電源ごと落とす。人通りの多い交差点に出て紛れて歩く。息苦しいのは人混みだからでも小走りで来たからでもなくて、だからといって大きく息をするにも止まるわけにもいかず、ただ歩く。誰とも目を合わせないように、見つからないように、苦しさを押し込めて努めて平然と。やがて人の流れは駅にたどり着いて、百々人は改札傍の路線図を見上げた。宛てもなく逃げ出してきたのだ、電車に乗るつもりは無かった。駅員が聞きなれた知らない地名をアナウンスしていて、よく考えずに乗り込んだ。
帰れないことはない。でも、帰れなくなっても、あまり良くはないけれど、それはそれで相応だと思った。
電車が走る音よりも、座れたというのに未だに落ち着かない鼓動の方が煩くて顔を覆って目を閉じる。呼吸は吸い込めば堪らなく苦しくて、飲み込んでから細く吐く。額に当てた自分の冷たい指よりも、髪を掻き上げられた時の優しい手つきと交わした熱い息が未だ鮮烈で、落ち着けそうになくて、蹲るように丸まりながら電車に乗ってしまったことを後悔した。



互いが互いにそれほどまでに気を許せる相手だと確認してからしばらく経った今日、眉見鋭心の口付けは信じられないほど完璧で、それが初めてだと言うのだから何もかもが嘘だと思った。しかし同時に、頬に触れた指がどうしようもなく強張っていたのだ。これが嘘な筈がないと飲み込んだ途端、ざわざわと身体が泡吹くように痺れた。震えて表皮を掠めただけの、ほんの少しだけ、本当に僅かに触れただけの唇で感じた体温が、文字通り思考をとろけさせるには充分だった。ちゃんと触れてこの震えを宥めて欲しいと手を握って、息苦しさに気がついた。
「ごめん、僕、帰る」
急な眩暈に何も考えずに鋭心を突き放して、百々人は自分の自宅を飛び出した。呆気にとられながらも引き留める鋭心の声は聞けてなかった。


初めて降り立った終点では人がまばらに一つしかない改札口に向かって歩いていて、百々人も他に倣って改札を出た。静かな住宅街に人が散って行くのを見届けて、振り返って路線図を見上げる。当駅の文字は見慣れない端の方にあった。それがなんだか新鮮で、写真を撮ろうと携帯を手に取って、電源を切ったこととその理由を忘れた訳ではないが改めて思い出した。端末のボタンに指を添わせて、幾分か落ち着いた鼓動がまた忙しなさを取り戻してしまいそうになったからポケットに端末を戻した。
写真に撮らないと決めた分、特にどこも特別そうに見えない住宅街に続く道をよく見渡した。家々の隙間から見える朱い空に口から空気が抜けてゆく。するとしばらくまともに吸えてなかったような気がする息が吸えて、気温の下がった空気に喉が刺された。目に入ったコンビニにふらりと入って、ぼんやりと物色してから買った水を口元に近づけて離す。代わりに人差し指で柔く触れてみて、また蹲ってしまいたくなるのを止めて水を流し込む。水を飲んでも未だふわふわとした頭で、ふらふらと駅に戻った。もう一度路線図を見上げて、駅名を辿りながらポケットの中の端末を撫でる。終点だと思っていた駅の先にも路線が続いているな、なんて当たり前のことを改めて思ったりして、最寄駅の場所を確かめた。通知の続きが気になってポケットの中で手を握って、帰路につくことを決めた。


最寄駅に帰る頃にはすっかり暗くなってしまっていた。いつもよりまばらな雑踏を乱さないように流れに沿いながら家路を辿る。信号を越える度、曲がり角を曲がる毎に人が少なくなって、とうとう一人になった一本道の先に百々人は鋭心を見つけた。家の前に鋭心がいることを珍しい、初めて見る光景だと足を止めた直後だった。忙しない様子に心臓のささくれが痛んだのは一瞬で、久方ぶりに瞳が合った鋭心が百々人の姿を捉えて、ふつりと解きほぐれた鋭心の心が真っ直ぐに百々人を貫いた。今まででいちばんやわらかな顔をして崩れる鋭心の名を呼び駆け寄る。堰き止めていた何かが吐き出てしまいそうになるのを飲み込んで、鋭心は険しい顔で漸く心配したと絞り出した。鋭心に握られた手から金属が手渡されて、百々人は見ずとも覚えがある重さと形にはたと目を合わせた。
「…玄関に落として行ったぞ」
あぁ、と今度は百々人が眉間を顰めた。
「連絡は付かないしプロデューサーや秀に相談しようかと何度も思ったのだが…どこから話せば良いものかと……だがお前は帰ると言って出て行ったから待ったんだ、自分の家に他人を残して、鍵も落として行ったくせにな」
揶揄う声は優しく乾いて、最後に良かったと呟いて離れた。
「悪かった。…もう、しないから安心しろ」
また仕事で、と瞳を伏せて逸らされるのを咄嗟に捕らえた。心配をかけた事、迷惑をかけた事、連絡を無視して待たせてしまった事、何も言わずに逃げてしまった事、謝らなければと思うことはたくさんあるが今はそれよりも言うべき言葉が、それを伝えなければもう二度とこうして手を握れないだろうと直感だけが走って適切に仕立てられずに手が力んだ。
「行かないで」
咄嗟に吐いて出たのは純粋な本心だった。自分は逃げたくせにそんな事言う資格なんかないくせにと締まりそうになる喉を震わせて、百々人は間違われたくない本心を手渡すように鋭心の掌を探した。
「嬉しかったよ。いままでにないくらい幸せで……底がないみたいに幸せで、怖くなっちゃったんだ」
見つけた掌は柔く丸んで、震えてうまく力の入らない百々人の手を温めていた。
「今はこのままきみの手を離すのが怖い」
呟きは飴玉のようにちいさく転がって、いっとう大事なものの様に光を溶かした。潰してしまわないように丁寧に、けれど無くさないようにたしかな力を込めて鋭心が手を握った。細められた瞳の輪郭が滲むのを見た。
「間違ったことをしてしまったかと思った」
「逃げちゃってごめんね…でも、待っててくれてありがとう」
硬く張った肩から空気を抜くみたいにして細く長く息をつく彼の乾いたベージュに触れてみたくなって手繰る。
「ねえ、もう逃げないからさ、…もう一回、いいかな」
跳ね飛んでしまいそうな心臓に目を伏せ、しかと地を踏んで手を引いた。
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