鋭百

思い付いたまま走り出して、いざその人の前にたどり着いて初めて自分に何も用意が出来てないことに気付いた。かける言葉も気持ちも。楽しそうに語らいながらも走り寄ってきた自分を気に掛ける面々の中、一人と目があって一瞬の居心地のよさに息をつく。酸素がまわって急回転した思考が競技の最中だと急かす。
そう、僕だけじゃないんだ、チーム戦。足を引っ張れない。心臓が喉元で跳ねるような予感がして、先に何でも声を発さねばと名前を呼んだ。
「わかった。」
バクリと潰れた脈動に呑まれてどんな声が届いてしまったのかわからないが、確かに届いて、フィールドへの境界線を越えてくる彼に手を伸ばすも足は勝手に遠ざかっていった。頭も心も身体も全部がちぐはぐで気持ち悪い。ぐるぐるといろいろなものが渦巻いた内側が、ぱた、と、手にマユミくんの体温を感じて凪いだ。反射で指を柔く丸めたら確かな力で握り返されて、瞬きをすればもう彼は隣りにいた。
「行くぞ。」
「あ…うん」
バラバラに飛び散りかけていた自分がひとところにまとまり戻して焦点が合う。
久しぶりに深く呼吸が出来た心地がして、マユミくんに手を引かれるでもなく、一緒に、隣で、速度を合わせて。なんだか途端におかしな気持ちになって手を開けば自然と解かれて、でもやっぱりマユミくんは隣で走ってくれていて、目が合うと楽しそうに表情を緩ませた。ほんの少しだけれども。ストン、とマユミくんに握られてなくてもばらけずひとまとまりになったままの僕がマユミくんの隣に落ちてきたような、あたたかなざわつきを感じてもう一度手を伸ばして。



うすく明るくやわらかな光があって、目が覚めた。
ぼんやりと、布団の外に投げ出された手があたたかいのを感じて、手、握り返してくれた気がするんだけどな、ともう一度目を閉じる。
ああ、夢だ。目が覚めてしまった。瞼を閉じた暗闇で訪れない眠気に心が散らかる。
起きて。拗ねないで。顔を洗って。しっかりして。もう一度、手を洗って。夢だったと。すこし気恥ずかしくも嬉しかった記憶を脳が勝手に再構築して。失敗した。本当の記録はどうだったか。冷や水で濡れた視界で鏡の中の自分と目があった。
「バカだなぁ。」
思わず滑れた呟きに腹の底で何かが冷えた。洗ってもまだあたたかな気がする手を撫でてあわせて握った。困るなぁ、ほんものみたいにあたたかいなんて。こみ上げて来る気持ちは全部がまたバラバラで、気持ち悪くてまた散らかす。ざわついたままの手では片付けることも出来ずにそのまま、何も無かったように装おうと顔を整える。
「浮かれちゃ、ダメ。」
不意に出た自分の言葉に眉が引き攣る。浮かれてた?なんで。なんででも、とにかくこんなふわふわした気持ちは、ダメだ、じゃあなんで、この、途端に悲しくなるのは。……。
パシン、とやや強めに両の頬を叩いた。
「悲しくなるから、浮かれちゃダメ。」
すっかりクリアになった視界でいつもどおりの顔を確認した。よし、大丈夫。
支度をして蓋を被せて扉を閉めて。いつもどおりに外へ出た。
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