北冬
朝からろくに動かしていない体が軋む。閉め切ったカーテンの色が橙色に濃くなって影が伸びるのをただ見ていた。静かに何事も無く過ごすよう、それが今日の天ヶ瀬冬馬の仕事だった。携帯電話は朝に一度鳴ったきり、ひたすら静かに、気配を殺すように、次の一報と本来の静けさを待っていた。昨日までの忙しさが嘘のように何もなく、退屈で長すぎる一日にもぽっかりと突然に消えた早すぎた一日にも思えた。細く長く息を吐いて瞼を開く。今日一日何度これを繰り返しただろうか。何度繰り返しても未だ冬馬自身からの音しか鳴らず、外からの音は一切、まだ、わからない。
スケジュールの合間になんとか捩じ込んだレッスンだった。映画の撮影が終わって公開を目前に控え、その宣伝の為に当面のスケジュールが埋まっている中で並行して新曲のリリース、ライブだって決まっていた。忙しくても充実していたから、貴重な個人レッスンに集中して取り組んでいた。その集中を裂いて入ってきたプロデューサーの顔は深刻そうに引き攣っていて、申し訳なさそうにこの数時間のうちに起きた事を説明した。
出演した映画の、主役の俳優のスキャンダルが出てしまったらしい。詳細も真偽もまだはっきりとはしないが、少なくとも映画の公開は延期になること、それに伴い明日以降の宣伝関連のスケジュールが一旦白紙になること。その件に関して冬馬は一切関係ないが、公開を目前にした映画の撮影の大半を共にしてほとんどの宣伝にも出ている助演者のアイドルにマスコミがマイクを向けないわけがないこと。
「要するに、とりあえず明日は大人しくしてしばらく様子を見るしかない、ということだな」
「そう…なりますね」
すみませんと頭を下げるプロデューサーに、あんたが謝ることじゃないだろ、と声をかけて、じゃあ誰が悪いんだ、と脳裏に過ぎる。今日は送るとプロデューサーが言うので、集中もし直せない気がしてそのまま帰路についた。
「なるべく早く連絡します。冬馬さんはよく休んで下さいね」
「…あんたもちゃんと休んでくれよな」
笑って礼を言うその人が当分休めないことは分かっていたが祈るような気持ちでそう言って見送るしかなかった。
なんとなく、テレビは点ける気にならなくてそのまま寝て、朝起きて動き始めた頃に着信があって、残念ですがランニングも控えていただけますかと告げる声に力が無くて、それきり。こっちは大丈夫だと確かに言ったがちゃんと明るく伝えられてただろうか。カーテンを少しだけ開け、明らかに不自然に多いエントランス周りの人達が見えてしまって、動揺したのが伝わってなければいい。
そんな途方もなく長いようにも一瞬のようにも感じた一日の暮れに、ようやく冬馬自身がたてた物音以外がした。一日ぶりぐらいに仕事をした携帯電話が鳴る。
「冬馬?今大丈夫?」
北斗からだった。聴き慣れた声に緊張が解れた心地がした。返事をしようとするも、一日誰とも話さなかったからかうまく声が出なかった。
「連絡が遅くなってごめん。プロデューサーから今話せることをまとめて預かって来たんだけど…このまま電話でじゃなくて、直接話してもいいかな?もちろん冬馬が良ければだけど」
「あ、あぁ。俺は構わない、けど…お前来れるのか…?」
日が暮れて外の人が増えたのか減ったのか全然状況は見てないからわからない。北斗はこの件について全く無関係だが、彼らが北斗を無視するとは思えなかった。
「冬馬、俺を誰だと思ってる?絶対に行かせてもらうよ。あ、何か欲しいものとかある?買い物してから向かうよ」
北斗が語気を強めたのに少し気圧された。買い物。ああそうだ、何か、食べないと。
「…大丈夫だ。悪いな」
「このくらいなんて事ないよ。じゃあすぐ行くから、あと少しだけ待ってて」
「おう」
電話が切れる音がして、また静かになった。冷蔵庫を開ける。二人分ぐらいなら余裕がある。そういえば北斗は食べるだろうか。聞き忘れた。今日一日開かれることの無かったカーテンはひんやりと暗くなっていて、ようやく部屋の電気を点けた。
「冬馬」
玄関に招き入れた北斗は冬馬を見るなり表情を濁らせた。
「おつかれ。わざわざ悪いな。外、大丈夫だったか?」
「もうすっかり暗いし、全然大丈夫だったよ」
「そっか。それなら良かった…そういや電話で聞き忘れたんだけど、お前夕飯は?」
「冬馬がまだなら一緒に頂こうかな」
「俺はこれからだけど、食べたのか食べてないのかどっちなんだよ…出す量変わるだろ」
「たしかに。まだ食べてないよ。頂いてもいいかな?」
「当然」
そう笑う冬馬の顔にいつもの溌剌さはなかった。作り置きばかりで悪いと冬馬が冷蔵庫から取り出したのを、そんなことないよと笑って北斗が並べる。ひと段落して二人して手を合わせ、冬馬が先に箸を付けてから北斗も箸を動かした。
「…翔太も来たがってたんだけどね」
ああ、とその先に言わんとすることが容易に想像出来すぎて口を噤む。
「食べ終わってから話すよ」
それきり北斗も黙ってしまい、静かでいつもより少なめに夕食を終えた。
「冬馬は今日どうしてたの?」
「あー…えっと…」
食器を片付けながら北斗が訊ねた。何もしていない。本当に何もせずに一日が過ぎた。外には出られないし、何か個人練習するにもマンションでは難しく、何より今日はどうしても何にも集中が出来ず、かといって何もしてないと言う気にもなれなかった。
「テレビは?」
「見てねえ」
「ネットとかは?」
「全く」
「外には?」
「朝ランニングに行く前に連絡があって、今日は出てない」
「そっか」
北斗が眉間を強張らせて絞るように言った。
「本当は事態がもう少し良く、落ち着いてから冬馬に話したかったし、プロデューサーもそう頑張ってくれてたんだけど…流石に、これ以上冬馬に詳細を伏せておけないし、他の誰かから知ってしまうよりは俺から話したいって、プロデューサーに今の状況を聞いてきたんだ。俺の方が冬馬としっかり話せる時間があるから、ってね」
片付けを終えて、冬馬の家なのに北斗に促されて冬馬が先に座らされた。北斗は冬馬と目を合わせず、ほんのしばらくだけ黙ってから淡々と話し出した。
映画の共演者の、主役俳優のスキャンダルがまず発端で。一旦様子見という話が出たのが昨夜。今日になってさらに事態が悪いことがわかったと。
「…ドラッグ……?」
北斗から聞こえた音をなぞるように聞き返す。北斗は重苦しくため息を吐いて頷いた。
「残念だけど、お蔵入りになるだろう」
映画関連の今後の仕事は全部キャンセル、空いたスケジュールに新曲やライブのプロモーションを入れていく方向で。だから、冬馬は心配するな、と。そういった内容を聞いて理解しているような、しきれてないような。ああ、そうだ、とスケジュール帳を取り出して開く。キャンセルになるものは消していかないと。察して北斗が書類を差し出して、照らし合わせ改める。淡々と。少しレッスンが増えただけで殆どは空白ばかりのスケジュールになった。これは、まるで。
「961を飛び出した後みたいだな」
「違う。そんなことには絶対にならない」
「ああ、分かってる。全然状況が違うしな。今は俺たちだけじゃなくて、プロデューサーもいてくれて…その為に今頑張ってくれてるんだろ?分かってる…ただ、少し……似てるな、って感じただけだ」
「似てる?」
「スケジュールの空き具合。他は全然同じところは無いけど、これなら大丈夫だ。映画が一つお蔵入りになっただけで、俺たちには新曲もライブもある。全然大丈夫だ」
そう。所属事務所が無くなったわけでも、全ての仕事が無くなったわけでもない。このくらい、全然平気だと北斗の方を見ると、北斗の方が苦しそうに見えた。
「北斗?」
声をかけて漸く北斗が顔を上げた。取り繕うでもなく痛く真剣に心配を隠さない顔だった。息を吸って、何かを言いかけて呑み込んで、冬馬、と名を呼びかけながらスケジュール帳を無意味に彷徨う冬馬の手に北斗は手を重ねた。
「うん。大丈夫。大丈夫だから、…でも、何かあったらすぐに連絡して。こんな話、冬馬にはずっと無関係で、守られてるべきはずなんだ」
次の日は学校だった。半ば強引に押し切られてプロデューサーに送られて登校した。学校までやってくるような非常識なメディアはいないとは思うけど念には念を、と有無を言わせてもらえなかった。
「昨日はこちらからお話が出来ず、申し訳ありません」
「いやそれはいいって。北斗から聞いた。まだ慌ただしいんだろ?学校の送迎ぐらいいらねえのに…」
「いいえ、用心するに越したことはないんですよ」
口調は優しくも、しっかりと叱るようだった。
「…すみません。しばらく窮屈な思いをさせてしまって」
「わかってる。心配してくれてるんだろ。俺は大丈夫だから」
車から通学路を見るのは少し不思議な感じがするだけで、校門周りはいつもと変わらない様子だった。礼を言って降りようとすると、これまたプロデューサーが申し訳なさそうに引き留めた。
「下校の時なのですが…北斗さんがこちらにいらっしゃいます。夕方がユニットでのレッスンでしたので、北斗さんがその方が都合がいいとおっしゃって…お言葉に甘えさせていただきました。どうか、よろしくお願いします」
「あー、わかった」
北斗が迎えに来ることは今までにもよくあったし、翔太にだって同じようにしているから何でもない、いつもの事ではあるはずなのに、今日はやけに過保護だなと思った。ふと、制服のジャケットが重く、無力さを感じながら校門を通った。教室に入れば、その話が出ないわけがなく。適当に話を躱しながら、高校生なのだから他にいくらでも移る話題があるわけで、だから北斗やプロデューサーがこんなに心配するのがよくわからなくて。事実だけがはっきりとすれば、それだけで充分じゃないかと、渦中の真ん中に巻き込まれたわけではなくただ一本映画が無くなっただけ、たしかに大きくはあってもそれだけなのにと思っていた。
二週間もすればワイドショーの話題は変わるもので。冬馬はようやくいつも通りの朝を過ごせるようになった。いい加減毎日護送みたいな送迎はもう要らないと切り出したところ、珍しく翔太が冬馬に味方して二人を言いくるめてしまった。
「だってこれいつまで続けるの?ずっとやってたら北斗君もプロデューサーさんも倒れちゃうし、冬馬くんは朝のランニングしてないからなのか知らないけどずっと調子悪いもん。レッスンでのパフォーマンス落ちてきてるよ。もうそろそろいいんじゃない?」
そう割り込んできた翔太の声は少し震えていた。そうして皆に心配され戻って来た日常は、あんなに警戒していたのが馬鹿馬鹿しくなるぐらい呆気なく平和なものだった。こうして何も起こらないようにする為に裏で働いてくれてた人がいて、それは冬馬では出来ない分野だとは分かっている。ありがたいと思いつつも、どうしても守られている無力感が拭えなかった。
その日は三人揃ってのインタビューがあった。新曲とライブについて。いつも通り、意気込みを述べる。
「今回は特に三人で合わせる時間を多く取れたので、前よりももっといいライブを届けられる自信があります!」
特に冬馬は二人よりも多くレッスンに時間をかけることができた。結果論としてだが。明るい話題だけを記録したレコーダーのスイッチが切られ、挨拶をして席を立った時、それまで朗らかだった記者が急に暗くなった。
「天ヶ瀬さん、今回の映画の件残念でしたね」
隣の二人の纏う空気が冷えるのを感じた。
「主演の彼について、天ヶ瀬さんはーー」
「その話は今回のインタビューのテーマから外れていますので、お控え願います」
プロデューサーがすかさず割って来たのでそれ以上は何も無かったが後味がいいわけがなかった。
彼について、天ヶ瀬さんはーー。
どう思っているのか。そんなところだろうか。それは、この状況に対する憤りのコメントを期待されているのか、それともまさかあの人がとかというコメントか。
北斗の車で送られながらぼんやりと思う。
尊敬できる人だと見ていた、演技の技術も懐の大きさも、そういうところではまさかという驚きのショックが最初にあった。それから、真っ先に思い出すのは合間の休憩で穏やかに話す姿で。
「とても愛している人がいてね」
そう語る彼の目線の行方は知らなかったがその声のやわらかさには嘘があるとは思えなかった。その慈しむような口調は、どこか別のもっと近くで聞いたような覚えがあって、だからか尚更事実が明確にならないまま騒ぎ立てることに腹立たしくも哀しくもある。
いつもの通り、いつもの場所で車がスピードを落とす。降りる準備を、と荷物を手にまとめていると最近過ぎるほどに心配性な北斗がこれまた心配だと声を掛けてくる。
「冬馬、大丈夫?」
「だから心配しすぎだっての。お前もプロデューサーも。俺は全然大丈夫だって」
「スマホ足元に落ちてるのに?」
「うお、悪い!ありがとな」
尚も心配だと言わん顔でこちらを見てくる。これは少し冗談が入っているやつだ。
「これはたまたまだろ、大丈夫だって。じゃあな!」
「そうだね、おつかれさま冬馬」
「おー、おつかれ」
そう言って助手席のドアを閉める後に紛れて、北斗のおやすみが聞こえ、あっ、と思って窓越しに一瞬目が合ってカチリ、と何かが嵌った。穏やかに笑んで車を出した北斗の、聞き逃しかけた一言があの時の彼と重なって聞こえた。
ライブをする頃には何もかもいつも通りになっていて、それこそMCで軽く触れて流せる程度になっていた。家でカレーで打ち上げをして、食べ終わる頃に翔太の迎えが来て北斗は片付けの為に残ってくれた。
「ありがとな」
「ご馳走様してもらったんだからこれくらい当然だろ?」
「それもだけどそうじゃなくて、いろいろ」
しばらく返事はなくて、物音が片付いてから真っ直ぐと目を見つめられて北斗は言った。
「冬馬が冬馬のままで良かった」
向けられているものにどういう表情を返せばいいのか、わからなくなっていた。
「なあ、北斗。おまえ、俺のこと好きだろ」
切り出した言葉に北斗が笑みを崩していく。静けさが轟音のようでなんとか言葉を紡ぐ。
「嫌じゃないんだ。むしろ納得というか…」
俺もお前が好きだと迷いなく言えたらきっと幸せなのかもしれない、というのは何度も過った。その度に恐ろしくもなった。
「…なあ、人を好きになるっていけないことなのか?」
「そんなわけないだろ、あの人の件は相手も状況も良くなかったわけで普通はそうじゃないだろ?」
「じゃあ北斗はなんで隠してたんだ?」
こんなのこじつけだとわかっている。けど割り切れないのだ。
「間違った想いだったとは思えないんだ、お前もあの人も。だから…わからないんだ、暖かくみえるその感情に、隠さなきゃいけない非難されるようなこともあるのが」
それがまだ得体の知れない穴のように感じて、恐ろしく汚らわしいと思ってしまった自分が哀しくて。震える声で謝るのが精一杯だった。
スケジュールの合間になんとか捩じ込んだレッスンだった。映画の撮影が終わって公開を目前に控え、その宣伝の為に当面のスケジュールが埋まっている中で並行して新曲のリリース、ライブだって決まっていた。忙しくても充実していたから、貴重な個人レッスンに集中して取り組んでいた。その集中を裂いて入ってきたプロデューサーの顔は深刻そうに引き攣っていて、申し訳なさそうにこの数時間のうちに起きた事を説明した。
出演した映画の、主役の俳優のスキャンダルが出てしまったらしい。詳細も真偽もまだはっきりとはしないが、少なくとも映画の公開は延期になること、それに伴い明日以降の宣伝関連のスケジュールが一旦白紙になること。その件に関して冬馬は一切関係ないが、公開を目前にした映画の撮影の大半を共にしてほとんどの宣伝にも出ている助演者のアイドルにマスコミがマイクを向けないわけがないこと。
「要するに、とりあえず明日は大人しくしてしばらく様子を見るしかない、ということだな」
「そう…なりますね」
すみませんと頭を下げるプロデューサーに、あんたが謝ることじゃないだろ、と声をかけて、じゃあ誰が悪いんだ、と脳裏に過ぎる。今日は送るとプロデューサーが言うので、集中もし直せない気がしてそのまま帰路についた。
「なるべく早く連絡します。冬馬さんはよく休んで下さいね」
「…あんたもちゃんと休んでくれよな」
笑って礼を言うその人が当分休めないことは分かっていたが祈るような気持ちでそう言って見送るしかなかった。
なんとなく、テレビは点ける気にならなくてそのまま寝て、朝起きて動き始めた頃に着信があって、残念ですがランニングも控えていただけますかと告げる声に力が無くて、それきり。こっちは大丈夫だと確かに言ったがちゃんと明るく伝えられてただろうか。カーテンを少しだけ開け、明らかに不自然に多いエントランス周りの人達が見えてしまって、動揺したのが伝わってなければいい。
そんな途方もなく長いようにも一瞬のようにも感じた一日の暮れに、ようやく冬馬自身がたてた物音以外がした。一日ぶりぐらいに仕事をした携帯電話が鳴る。
「冬馬?今大丈夫?」
北斗からだった。聴き慣れた声に緊張が解れた心地がした。返事をしようとするも、一日誰とも話さなかったからかうまく声が出なかった。
「連絡が遅くなってごめん。プロデューサーから今話せることをまとめて預かって来たんだけど…このまま電話でじゃなくて、直接話してもいいかな?もちろん冬馬が良ければだけど」
「あ、あぁ。俺は構わない、けど…お前来れるのか…?」
日が暮れて外の人が増えたのか減ったのか全然状況は見てないからわからない。北斗はこの件について全く無関係だが、彼らが北斗を無視するとは思えなかった。
「冬馬、俺を誰だと思ってる?絶対に行かせてもらうよ。あ、何か欲しいものとかある?買い物してから向かうよ」
北斗が語気を強めたのに少し気圧された。買い物。ああそうだ、何か、食べないと。
「…大丈夫だ。悪いな」
「このくらいなんて事ないよ。じゃあすぐ行くから、あと少しだけ待ってて」
「おう」
電話が切れる音がして、また静かになった。冷蔵庫を開ける。二人分ぐらいなら余裕がある。そういえば北斗は食べるだろうか。聞き忘れた。今日一日開かれることの無かったカーテンはひんやりと暗くなっていて、ようやく部屋の電気を点けた。
「冬馬」
玄関に招き入れた北斗は冬馬を見るなり表情を濁らせた。
「おつかれ。わざわざ悪いな。外、大丈夫だったか?」
「もうすっかり暗いし、全然大丈夫だったよ」
「そっか。それなら良かった…そういや電話で聞き忘れたんだけど、お前夕飯は?」
「冬馬がまだなら一緒に頂こうかな」
「俺はこれからだけど、食べたのか食べてないのかどっちなんだよ…出す量変わるだろ」
「たしかに。まだ食べてないよ。頂いてもいいかな?」
「当然」
そう笑う冬馬の顔にいつもの溌剌さはなかった。作り置きばかりで悪いと冬馬が冷蔵庫から取り出したのを、そんなことないよと笑って北斗が並べる。ひと段落して二人して手を合わせ、冬馬が先に箸を付けてから北斗も箸を動かした。
「…翔太も来たがってたんだけどね」
ああ、とその先に言わんとすることが容易に想像出来すぎて口を噤む。
「食べ終わってから話すよ」
それきり北斗も黙ってしまい、静かでいつもより少なめに夕食を終えた。
「冬馬は今日どうしてたの?」
「あー…えっと…」
食器を片付けながら北斗が訊ねた。何もしていない。本当に何もせずに一日が過ぎた。外には出られないし、何か個人練習するにもマンションでは難しく、何より今日はどうしても何にも集中が出来ず、かといって何もしてないと言う気にもなれなかった。
「テレビは?」
「見てねえ」
「ネットとかは?」
「全く」
「外には?」
「朝ランニングに行く前に連絡があって、今日は出てない」
「そっか」
北斗が眉間を強張らせて絞るように言った。
「本当は事態がもう少し良く、落ち着いてから冬馬に話したかったし、プロデューサーもそう頑張ってくれてたんだけど…流石に、これ以上冬馬に詳細を伏せておけないし、他の誰かから知ってしまうよりは俺から話したいって、プロデューサーに今の状況を聞いてきたんだ。俺の方が冬馬としっかり話せる時間があるから、ってね」
片付けを終えて、冬馬の家なのに北斗に促されて冬馬が先に座らされた。北斗は冬馬と目を合わせず、ほんのしばらくだけ黙ってから淡々と話し出した。
映画の共演者の、主役俳優のスキャンダルがまず発端で。一旦様子見という話が出たのが昨夜。今日になってさらに事態が悪いことがわかったと。
「…ドラッグ……?」
北斗から聞こえた音をなぞるように聞き返す。北斗は重苦しくため息を吐いて頷いた。
「残念だけど、お蔵入りになるだろう」
映画関連の今後の仕事は全部キャンセル、空いたスケジュールに新曲やライブのプロモーションを入れていく方向で。だから、冬馬は心配するな、と。そういった内容を聞いて理解しているような、しきれてないような。ああ、そうだ、とスケジュール帳を取り出して開く。キャンセルになるものは消していかないと。察して北斗が書類を差し出して、照らし合わせ改める。淡々と。少しレッスンが増えただけで殆どは空白ばかりのスケジュールになった。これは、まるで。
「961を飛び出した後みたいだな」
「違う。そんなことには絶対にならない」
「ああ、分かってる。全然状況が違うしな。今は俺たちだけじゃなくて、プロデューサーもいてくれて…その為に今頑張ってくれてるんだろ?分かってる…ただ、少し……似てるな、って感じただけだ」
「似てる?」
「スケジュールの空き具合。他は全然同じところは無いけど、これなら大丈夫だ。映画が一つお蔵入りになっただけで、俺たちには新曲もライブもある。全然大丈夫だ」
そう。所属事務所が無くなったわけでも、全ての仕事が無くなったわけでもない。このくらい、全然平気だと北斗の方を見ると、北斗の方が苦しそうに見えた。
「北斗?」
声をかけて漸く北斗が顔を上げた。取り繕うでもなく痛く真剣に心配を隠さない顔だった。息を吸って、何かを言いかけて呑み込んで、冬馬、と名を呼びかけながらスケジュール帳を無意味に彷徨う冬馬の手に北斗は手を重ねた。
「うん。大丈夫。大丈夫だから、…でも、何かあったらすぐに連絡して。こんな話、冬馬にはずっと無関係で、守られてるべきはずなんだ」
次の日は学校だった。半ば強引に押し切られてプロデューサーに送られて登校した。学校までやってくるような非常識なメディアはいないとは思うけど念には念を、と有無を言わせてもらえなかった。
「昨日はこちらからお話が出来ず、申し訳ありません」
「いやそれはいいって。北斗から聞いた。まだ慌ただしいんだろ?学校の送迎ぐらいいらねえのに…」
「いいえ、用心するに越したことはないんですよ」
口調は優しくも、しっかりと叱るようだった。
「…すみません。しばらく窮屈な思いをさせてしまって」
「わかってる。心配してくれてるんだろ。俺は大丈夫だから」
車から通学路を見るのは少し不思議な感じがするだけで、校門周りはいつもと変わらない様子だった。礼を言って降りようとすると、これまたプロデューサーが申し訳なさそうに引き留めた。
「下校の時なのですが…北斗さんがこちらにいらっしゃいます。夕方がユニットでのレッスンでしたので、北斗さんがその方が都合がいいとおっしゃって…お言葉に甘えさせていただきました。どうか、よろしくお願いします」
「あー、わかった」
北斗が迎えに来ることは今までにもよくあったし、翔太にだって同じようにしているから何でもない、いつもの事ではあるはずなのに、今日はやけに過保護だなと思った。ふと、制服のジャケットが重く、無力さを感じながら校門を通った。教室に入れば、その話が出ないわけがなく。適当に話を躱しながら、高校生なのだから他にいくらでも移る話題があるわけで、だから北斗やプロデューサーがこんなに心配するのがよくわからなくて。事実だけがはっきりとすれば、それだけで充分じゃないかと、渦中の真ん中に巻き込まれたわけではなくただ一本映画が無くなっただけ、たしかに大きくはあってもそれだけなのにと思っていた。
二週間もすればワイドショーの話題は変わるもので。冬馬はようやくいつも通りの朝を過ごせるようになった。いい加減毎日護送みたいな送迎はもう要らないと切り出したところ、珍しく翔太が冬馬に味方して二人を言いくるめてしまった。
「だってこれいつまで続けるの?ずっとやってたら北斗君もプロデューサーさんも倒れちゃうし、冬馬くんは朝のランニングしてないからなのか知らないけどずっと調子悪いもん。レッスンでのパフォーマンス落ちてきてるよ。もうそろそろいいんじゃない?」
そう割り込んできた翔太の声は少し震えていた。そうして皆に心配され戻って来た日常は、あんなに警戒していたのが馬鹿馬鹿しくなるぐらい呆気なく平和なものだった。こうして何も起こらないようにする為に裏で働いてくれてた人がいて、それは冬馬では出来ない分野だとは分かっている。ありがたいと思いつつも、どうしても守られている無力感が拭えなかった。
その日は三人揃ってのインタビューがあった。新曲とライブについて。いつも通り、意気込みを述べる。
「今回は特に三人で合わせる時間を多く取れたので、前よりももっといいライブを届けられる自信があります!」
特に冬馬は二人よりも多くレッスンに時間をかけることができた。結果論としてだが。明るい話題だけを記録したレコーダーのスイッチが切られ、挨拶をして席を立った時、それまで朗らかだった記者が急に暗くなった。
「天ヶ瀬さん、今回の映画の件残念でしたね」
隣の二人の纏う空気が冷えるのを感じた。
「主演の彼について、天ヶ瀬さんはーー」
「その話は今回のインタビューのテーマから外れていますので、お控え願います」
プロデューサーがすかさず割って来たのでそれ以上は何も無かったが後味がいいわけがなかった。
彼について、天ヶ瀬さんはーー。
どう思っているのか。そんなところだろうか。それは、この状況に対する憤りのコメントを期待されているのか、それともまさかあの人がとかというコメントか。
北斗の車で送られながらぼんやりと思う。
尊敬できる人だと見ていた、演技の技術も懐の大きさも、そういうところではまさかという驚きのショックが最初にあった。それから、真っ先に思い出すのは合間の休憩で穏やかに話す姿で。
「とても愛している人がいてね」
そう語る彼の目線の行方は知らなかったがその声のやわらかさには嘘があるとは思えなかった。その慈しむような口調は、どこか別のもっと近くで聞いたような覚えがあって、だからか尚更事実が明確にならないまま騒ぎ立てることに腹立たしくも哀しくもある。
いつもの通り、いつもの場所で車がスピードを落とす。降りる準備を、と荷物を手にまとめていると最近過ぎるほどに心配性な北斗がこれまた心配だと声を掛けてくる。
「冬馬、大丈夫?」
「だから心配しすぎだっての。お前もプロデューサーも。俺は全然大丈夫だって」
「スマホ足元に落ちてるのに?」
「うお、悪い!ありがとな」
尚も心配だと言わん顔でこちらを見てくる。これは少し冗談が入っているやつだ。
「これはたまたまだろ、大丈夫だって。じゃあな!」
「そうだね、おつかれさま冬馬」
「おー、おつかれ」
そう言って助手席のドアを閉める後に紛れて、北斗のおやすみが聞こえ、あっ、と思って窓越しに一瞬目が合ってカチリ、と何かが嵌った。穏やかに笑んで車を出した北斗の、聞き逃しかけた一言があの時の彼と重なって聞こえた。
ライブをする頃には何もかもいつも通りになっていて、それこそMCで軽く触れて流せる程度になっていた。家でカレーで打ち上げをして、食べ終わる頃に翔太の迎えが来て北斗は片付けの為に残ってくれた。
「ありがとな」
「ご馳走様してもらったんだからこれくらい当然だろ?」
「それもだけどそうじゃなくて、いろいろ」
しばらく返事はなくて、物音が片付いてから真っ直ぐと目を見つめられて北斗は言った。
「冬馬が冬馬のままで良かった」
向けられているものにどういう表情を返せばいいのか、わからなくなっていた。
「なあ、北斗。おまえ、俺のこと好きだろ」
切り出した言葉に北斗が笑みを崩していく。静けさが轟音のようでなんとか言葉を紡ぐ。
「嫌じゃないんだ。むしろ納得というか…」
俺もお前が好きだと迷いなく言えたらきっと幸せなのかもしれない、というのは何度も過った。その度に恐ろしくもなった。
「…なあ、人を好きになるっていけないことなのか?」
「そんなわけないだろ、あの人の件は相手も状況も良くなかったわけで普通はそうじゃないだろ?」
「じゃあ北斗はなんで隠してたんだ?」
こんなのこじつけだとわかっている。けど割り切れないのだ。
「間違った想いだったとは思えないんだ、お前もあの人も。だから…わからないんだ、暖かくみえるその感情に、隠さなきゃいけない非難されるようなこともあるのが」
それがまだ得体の知れない穴のように感じて、恐ろしく汚らわしいと思ってしまった自分が哀しくて。震える声で謝るのが精一杯だった。
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