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ぼんやりと、懐かしい匂いがした気がして目が覚める。
遠くのほうから声が聞こえたような、と瞬きをすれば見慣れたリビングの床で。何をしていて寝てしまったのかと思案したのは一瞬で、それを明らかにするよりも先に一人暮らしの家で感じることのない人の気配に飛び起きた。
足音を立てて跳ねるように起きたのに緊張が霧散したのはこれも一瞬だった。気配のするキッチンの方へと向かい立ち上がると母が居て、急に立ち上がった冬馬と目があった。
「おはよう冬馬、ご飯もう少しだから準備してね」
「お、おう…?」
靄がかかる思考をそのままに、促されるままに食器棚を開く。何かが足りないような、何かが見つからないような。ぼんやりと食器棚を眺めながら母に問う。
「母さんのコップどこだっけ?」
違う。この違和感は別の何かを聞くべきなのにそれが思い出せない。
「もう、ここにあるじゃない」
棚の奥から懐かしい気がするグラスを取り出した母は不思議そうに冬馬を見た。
「どうしたの、ボーッとして。体調でも悪いの?」
冬馬の前髪を分けて手を当てる母と、今しがた棚から出てきたグラスを交互に見て、額に感じる体温に目を閉じた。
「熱はなさそうだけど…眠いの?冬馬」
離れていく体温に息が詰まりかけて、はたと瞬きをする。溢れたのを弾くように拭かれて、しっかりと感覚があることに酷く安心した。
「…長い夢を見ただけだ、なんでもない」
驚くでも怪訝そうにするでもなく、本当になんでもないように母はそっか、と言って食事の盛り付けを始めた。
やや甘口のカレーには星が沈んでいた。食卓は静かで、穏やかで。満ち足りていると感じるのに、ぽっかりと浮いた空虚感が拭えなくて、理由を探そうとすると痛みの予感に身体が強張る。口に含んだカレーがそれを溶かして無くなる。
「どう?おいしい?」
「ああ、うまいぜ」
自慢げに笑う様子にふと思い出して、そういえばと冬馬はキッチンに向かった。
「新しくスパイスを買ったんだ。これ、使っていいからな」
キャビネットから取り出して見せた先には誰も居なかった。しん、と暗く静まった部屋にむしろ違和感を感じない。何故だろうかと辺りを見渡した瞬間、瞬きと共に声が降ってくる。
「へ〜、どこで買ったの?」
明るいキッチンで、冬馬の手にある小瓶を見ながら問う母に何の気も無しに冬馬は答えた。
「これは仕事で行ったところで見つけたやつなんだが…」
にこやかに話を聞いている母の顔を見ながらどうしようもない違和感に言葉が詰まる。
「そう、お仕事で見つけたのね」
「あ、あぁ…」
「珍しいのね〜、これ、どうやって使うの?」
「じゃあ、次は俺が作るぜ。その時に見せるから」
次なんて無いだろ、何を言っているんだ。警鐘のように過ぎる言葉が痛くて顰めた顔に気付いてない母は当たり前の様に言って笑う。
「そう。じゃあ次の時ね。楽しみね」
「おう」
嬉しそうに母が食卓に戻る。後を追うようにして冬馬も席に着いた。
そうしてまたカレーを食べる。懐かしい甘みのあるルウに痛いのが溶けて消えていく。痛みが癒えていくのが何故だか苦しくて手を止めた。その痛みを完全に無くしてしまってはいけないと感じた。何故だかわからないが涙が滲んで、瞬きで拭った視界でカレーに沈んだ星が光って見えた。
「…母さん、これ、前も作ってくれたよな」
「そうね。あの時の冬馬、すっごくはしゃいじゃって」
「そうだっけ」
「そうよ、覚えてるんだから」
自慢気に言う母の顔はとても穏やかで。星型に切り抜かれたにんじんを掬いあげて口に運ぶ。棘が抜けたような、痛みはそのままに苦しさだけがほどかれた。
「………母さん、俺…アイドルやってるんだ」
「うん、知ってるよ」
「いい奴なんだ、北斗も翔太も」
「ふふ、それも知ってる。あなたが選んだ人たちだもの」
「…そっか」
ふと、二人の顔が浮かんで声が聞こえた気がした。
「………母さん、俺、」
「行かなきゃ、でしょう?」
「…。あぁ」
冬馬の答えなど最初から分かっているかのように母は微笑んでいた。
残り少なくなったカレーは少しずつ味がぼやけていて、それでも微かに残る優しい味を忘れたくなくて、覚え込ませるようにしっかりと味わった。完食する頃には皿の輪郭もふやけていて、夢が醒めようとしていることを悟った。
「ごちそうさま」
手を合わせて、ほどいて。
「母さん、美味しかった。ありがとう」
ほどいた手が握られる。握り返して、もう一度。
言おうとした言葉はつっかえて、音にならなかった。
「…冬馬、ありがとう。ずっと見てるからね」
手の内の感覚が次第に薄れていく。言いたいことが、伝えたいことが、叫んでもそれらは音にならなかった。
するりと握っていた感覚が抜けて、それはふわりと冬馬の頭を撫でた。
微笑んでやわく抱きしめられて。母の顔は見えなくなって、最後にとん、と肩を押された感覚は鮮明だった。
「大丈夫よ。いってらっしゃい」
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