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おれの兄貴には、恋人がいた。
その事実を知った時は、あんな男を好いてくれる女がこの世に存在するもんなんだなぁ、物好きなやつだなぁなんて、両方ともにとって失礼なことを思ったもんだ。
あの兄貴と対等に付き合える女ってことは、きっと気が強くてさっぱりした感じの女だろうと予想してたんだが、初めて兄貴が恋人をうちに連れてきた時、その容姿や雰囲気のあまりの大人しさに心底驚いた。
髪や服装はこれといって装飾もされていない地味な印象で、周囲の様子を窺うような自信なさげな表情は、兄貴とはまったくの正反対だった。
おれの兄貴はこういう女が好みだったのかぁなんて、今まで一度も語り合ったことがない恋愛の好みを知らされて、何とも言えない気まずい気持ちになったのを覚えてる。
兄貴の恋人は、名前さんという名前らしい。さり気なく聞いてみたらすんなり教えてくれた。
それから名前さんは毎日のようにうちに遊びに来た。兄貴は親父のことも既に彼女には説明済みのようで、時々親父のいる二階の部屋に出向いては挨拶したりもしていた(当の親父は相変わらずの無反応だったが)。
そして何度も二人の様子を見ているうちに気づいたんだが、兄貴と名前さんは話をする時それほど楽しそうには見えなかった。いや、みんながみんな俺と仗助のようなノリで話すとは思ってないが、それにしても何というか……本当に恋人同士なんだろうかと思うほどに、二人が会話をする様子は実にたんぱくだった。
兄貴は名前さんと話していてもいつも通りほとんど表情を変えないか、たまに眉を寄せて気難しい顔を見せるくらい。名前さんは名前さんで、そんな兄貴に合わせてなのか元からなのかは知らないが、時々ほんのり微笑むくらいで、こちらもあまり表情の変化がなかった。
本当にいつ見てもそんな感じだ。
そういう事情があったもんだから、兄貴と名前さんが本当に恋人同士なのか、二人の仲は大丈夫なのかと、部外者でありながらおれはたまに心配になったりもした。
名前さんはいつもうちに遊びに来てくれるけど、もしかして強面の兄貴に脅されて無理やり連れてこられてるんじゃあないか、とも。
だがおれの心配をよそに、名前さんはある日パッタリ姿を現わさなくなるなんてこともなく、その後も何度もうちに遊びに来た。いつの間にやら五回に一回くらいは泊まっていくようにもなった。
どうやら部外者があれこれ考えるまでもなく、二人の関係は良好らしかった。
名前さんがうちに泊まりに来ることもすっかりお馴染みになったある日のこと。
「今日も彼女が泊まっていくから、あまり騒ぐなよ」と兄貴に釘を刺されたその日、おれはおれで溜めに溜め込んだ学校の宿題を片付けることにした。本当はそんなもんやりたくもなんともないが、おれのクラス担当の数学の先公がどれだけ遅くなろうと宿題だけは意地でもやらせるというハズレ教師だったから、仕方なくだ。
頭痛がする数字の羅列を見ていると、集中力は数分と経たずに穴の開いた風船よろしく萎んでいく。その後はどう頑張っても机に向かい続けることができなくなって、おれは気分転換に好きなバンドのテープでも聴きながら作業をすることに決めた。
机の引き出しに腕を突っ込み、手探りでガサゴソとまさぐる。しばらくの間そうしていたが、ふと、目当てのものはそこにないことに気づく。そういやあのカセットテープ、前に兄貴に貸したまんまだったなぁってことを思い出して、さっそく兄貴の部屋に行って返してもらうことにした。
今兄貴の部屋には名前さんが来ていることは分かっている。でも、おれは迷わず廊下に出た。
兄貴は名前さんが来ている時でも部屋のドアは開けっ放しにしていることを、いつも彼女が来るたびにお茶出ししてきたおれは知っているからだ。お茶出しを毎回任されるくらいだから、きちんとした用があれば少しくらい邪魔しても怒られることはないはず。
廊下をぐるっと回って、少し奥ばったところにある兄貴の部屋へと続く角を曲がると、珍しく部屋のドアがキッチリ閉めてあるのが目に入った。一瞬引き返そうかとも思ったが、まあそれならそれでノックをすればいい話じゃないかと、おれは深く考えずに部屋の前に立って手の甲をドアの前に突き付けた。
その時、今までの人生で聞いたことのないような甘ったるい声が聞こえてきて、ドキリとした。「あ……」と小さく声が漏れ、頭の中がペンキの缶をひっくり返されたみたいに真っ白になって、何も考えられなくなる。
ドアの向こうから微かに聞こえてくる、「形兆、形兆……」と兄貴の名前を呼ぶしっとりと濡れた声。二人分の荒い呼吸音と、柔らかい肉どうしがぶつかる音、のようなもの。
いくら馬鹿なおれでも、今この部屋の中で何が行われているのかはハッキリと分かった。
二人は恋人同士なんだから、「そういうこと」をしていたって何も不思議じゃあない。だが、あんな性格の兄貴でもやることはやるんだなぁってのと、普段はたんぱくな二人がこんなにも情熱的な声を出すんだなぁってのが頭の中でグルグル回って、結局その場から立ち去るまでに数分もかかっちまった。
その間、アツアツなやり取りと生々しい音にずっと聞き耳を立ててしまっていたのが二人には申し訳ない気もしたが、まあそこは知らぬが仏ってやつだろう。
何にせよおれは、実の兄貴とその恋人である名前さんがちゃんと「恋人同士」なんだということを知ることができて、変な話だが胸のあたりがスッと軽くなったように思えた。
そんな俺だけが知る小さな事件があったのが、ほんのひと月前のこと。
まさかそれから一ヶ月足らずで兄貴が逝っちまうなんて、誰が予想できたか。
いや、兄貴は死んで当然のことをしてきた。死んで当然の男だった。そんなこと、心の奥底では分かっていた。
きっとその感情は、名前さんも多少なりと持ち合わせていたんじゃないかと思う。兄貴が彼女に自分のことをどこまで話したのかは知らないが、全てを隠し通せるような状況じゃあなかったから。
でも、いくら何でも突然すぎた。
「そっか……そう、なんだ……」
俺の口から兄貴の死を恐る恐る告げた時、そう言って無理に作ったような笑顔を浮かべた名前さんを見て、おれの中で何かが音を立てて崩れた。
やっぱり名前さんのその笑顔は、おれに気を遣わせまいと無理に作ったものだったらしい。弧を描いていたはずの口元はすぐにくしゃっと歪んでいって、あっという間に膝から崩れ落ちた。
玄関先でしゃがみこんで泣き出した名前さんに、おれは何て声をかければいいか正直分からなかった。
おれは女と縁がない。女の扱いなんて全く知らない。女が本気でわんわん泣くところを間近で見たのもこれが初めてだった。
とはいえ、放っておくのもどうかと思って「名前さん」とそっと呼びかけると、彼女は涙に濡れた瞳でゆっくりとおれを見上げた。赤くなった目尻と涙で揺れる瞳で、黙っておれを見た。
口元に手の甲を当ててしゃくりあげながらおれを見上げるその姿は、今までに見てきたどの名前さんよりもずっとずっと小さく見えた。
兄貴の隣にいた時はひどく大人びて見えたあの名前さんとは、まるで別人のようだった。
「億泰く、……ごめん、ごめんねっ……億泰くんが、一番辛いのに、ごめん……っ」
名前さんのその言葉は、明らかにおれを気遣ってのものだった。おれが今までどれだけ兄貴を頼ってきたか、この人だけは知っているから。だから、泣き崩れるほどに辛いくせに、自分のことは後回しにしようとする。
目を腫らしながら、声を震わせながら、それでも名前さんは恋人だった男の弟であるおれを第一に考える。
彼女の濡れた顔を見下ろしながら、ああ、おれはこれから兄貴の代わりにこの人を守らきゃならねぇな……と、ただ漠然とそう思った。
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