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思考や行動がてんで読めない、佇まいだけは紳士然としているおじさま吸血鬼に拾ってもらってからというもの、私のくだらない生活はすっかり様変わりしてしまった。
頼まれた掃除と洗濯をしながら日中を過ごし、夜には起床する彼にワインを注いで、時々話し相手をする。
どうやら彼は、私と出会う前はこの立派なお屋敷にはほとんど帰らなかったらしく、家事の手順などに特にこだわりはないからと好きにやらせてくれた。拙いやり方に文句も言わず、仕事ぶりを見るたび必ずお礼を言ってくれて、気が向いて作った軽食を出してみれば素直に美味しいと褒めてくれた。料理は彼の方が上手だというのに。
実を言うと、私はここでの生活がすぐに気に入ってしまった。同居人の目的は何なのか、何を考えているのかイマイチ分かりにくいという点に多少の不安はあれど、死んでもいいやと思うようにまでなっていた過去の生活とは比べようもないくらいに快適だった。
まだここに来て一週間ほどしか経っていないはずなのに、もう何年も住んでいるかのような安心感すら芽生えていた。誰かに「おはよう」や「おかえり」を言ってもらえるというただそれだけのことが、こんなにも心癒されるものだなんて思ってもみなかった。
「あ……」
いつものように取り出した洗濯物を畳んでいると、ガチャリ、玄関の戸が開く音がした。日が沈むなり目覚ましの音とともに起床して、すぐにどこかへ出掛けてしまったおじさんが帰ってきたらしい。
「おかえりなさい」
「ただいま」
革靴からスリッパに履き替えるおじさんの手には、どこかのお店の紙袋が握られている。それは何ですかと聞こうと思ったのだけど、家事代行たる人間が雇い主のプライベートにどこまで踏み込んでいいものか……
「手芸屋でいろいろ買ってきたんだよ」
そう言って右手の袋を掲げられて、自分が不躾に袋をじっと見つめてしまっていたことにハッとする。せっかく気をつかって口を閉じたのに、目線が正直すぎては意味がない。熱くなった顔を両手で覆いながら、「すみません……」と蚊の鳴くような声で頭を下げた。
自分の中で彼のイメージと手芸用品とが結びつかなくて、最初は誰かにプレゼントするものなのかなと思った。「久しぶりに編もうと思ったら、毛糸の残量が心もとなくてね」と、ぽつりとこぼされた言葉を耳にするまでは。
どうやら彼は、意外にも編み物を趣味としているらしい。
紙袋からひとつひとつ取り出されたカラフルな商品たちが、机の上に広げられていく。何色かの毛糸やボタン、道具類は、見ているだけでワクワクしてしまう。
購入品を広げるだけ広げて一度部屋の奥へ消えていったおじさんが、編み棒と他の色の毛糸の玉をいくつか抱えて戻ってきた。袋の中から取り出された紫、緑、橙、黄色の横に、奥の部屋から持ってきた同じ色のそれが並べられていく。そうして最後に並べられた風変わりな毛糸の色彩に、私の目は釘付けになった。
その毛糸は、快晴の空をそのまま転写したような美しい色をしていた。他の毛糸と違って白と水色が疎らに散りばめられていて、まるで本物の空のよう。夜闇を生きる吸血鬼らしからぬその色合いは、シンプルな毛糸たちに囲まれて文字通り異彩を放っている。
「……これが気に入ったのかい?」
「あ……はい、とても。毛糸ってこういう色合いのものもあるんですね、青空みたいで綺麗だなぁ」
「うーん、じゃあ、君も気に入ってくれたようだし、今回はこの毛糸を使おうかな」
「え、」
おじさんが作るものなのに、私が個人的に気になっただけの色を使ってしまっていいんですか。私がそう聞き返すよりも早く、彼は机の上から必要な道具と空色の毛糸をぱっぱと手に取り、廊下に出てしまった。
慌てておじさんの背中について歩く。毛糸と編み棒を持っているということは、これから別の部屋で編み物をするのだろう。私自身は特に編み物に深い関心があるわけではなかったけれど、彼がどんなふうに編むのかを見てみたい気持ちはあった。
廊下の突きあたり、屋敷の一番奥の部屋に入っていく姿を見て私の足がはたと止まる。今までに入ったことのない部屋だ。特に入ることを禁止されているわけではない。業務に必要のない部屋には基本的に勝手に入ることはないというだけのこと。
おどおどとしている私に気づいた彼が、扉を押さえたままこちらを見た。入ってもいいということだろう。失礼します、と畏まりながら扉をくぐる。視界に飛び込んできたものを見て、私は思わず感嘆の声を漏らした。
「ふふ、そんなに珍しいものでもないだろう?」
「え、そうですか? 私は今まで外国の物語の中でしか見たことがなかったです、暖炉なんて」
部屋の右手中央にはレンガ造りの大きな暖炉があった。最近は使っていなかったためか中は綺麗に掃除されたままの状態だけど、手前に置いてある椅子やミニテーブルなんかも含めた景色がまるでおとぎ話の中のようで、私はすっかり興奮してしまった。
ぽっかり空いた空洞の真ん中に、大きな薪がひとつ、ふたつと並べられていく。一見お菓子のバーみたいに見える着火剤を薪の下に潜り込ませ、取り出した多目的ライターで三か所ほど火を灯すと、室内の明度がパッと上がる。
初めてのおもちゃを前にした子どもみたいにそわそわと火が大きくなるのを見守っていると、「ほら、こっちにおいでお嬢さん」と暖炉の前の椅子が引かれた。
「あ……すみません、夢中になっちゃって」
「別に構わないよ。初めて見たんだろう? 暖炉」
「そうですけど、こんな大人が子どもみたいにはしゃいじゃって、ちょっと恥ずかしいです……」
私の自虐的ともとれる発言に彼はふふ、と軽く笑って、それ以上なにか言葉をくれることはなかった。
ミニテーブルを挟んで、彼の向かい側の椅子に腰かける。いつごろ買ったものなんだろう。座ると少しだけ軋む音がした。
おじさんの少しごつごつとした指が、毛糸の球を丁寧に解く。一周、二周、三周……テーブルの上の糸の束がある程度増えると、素早く結び目が作られて、目まぐるしい速さで二本の編み棒に絡められていく。
もし私が彼の弟子か何かで、職人は見よう見まねで覚えるもんだなんて言われてこれを見せられたら、きっと泣いていた。それくらい手慣れていて、今までどれほどの時間をこの趣味に費やしてきたのかが伺える手つきだった。
火の粉が弾けるパチパチという音が大きくなってきた。そこに混ざる編み棒どうしがぶつかる小さな音が、二人きりの静寂の中にほのかな色を添える。
おじさんは何も言わずに毛糸を編んでいく。私もそれを無言のまま見つめる。
「そういえば」
珍しく考えるよりも先に声が出た。何らかの関係を持った相手にこれを聞くのは当然という意識が、私の中にはあったから。
「おじさんの名前は、何ていうんですか……?」
出会って間もないとはいえ、一週間ひとつ屋根の下で暮らしている相手だ。いつまでもおじさんおじさんと呼ぶのも変だろう。でも彼は軽くこちらを一瞥すると、また編み棒に視線を戻してしまった。もしかして、吸血鬼の間には気軽に名前を聞いてはいけないなどのマナーがあるのだろうか。少し焦りが出る。
けれど、どうやら私の不安は杞憂だったらしく、たっぷりと時間をおいたあとでようやく彼は口を開いた。
「そうだなぁ……ユカワ、とでも呼んでおくれ」
「…………」
私も馬鹿ではない。その口ぶりからして、教えてくれた名前が偽名であることはすぐに察した。
本名を知りたいんです、と喉まで出かかった言葉を声にすることはできなかった。私はそんな図々しいお願いをできる立場だろうか? そんなふうに考えてしまって、何も言えなくなった。何だか急に現実に引き戻された気分だ。
私は、ここでの生活が気に入っている。それは嘘ではない。でも、今みたいにここの主であるおじさん――ユカワさんが時々分からなくなることがあって、そういう時はいっそ出会わなければよかったかもしれないと思うほど、どうしようもなく不安になった。
私は今までとは違う心地いい生活の中で、私にとってのおじさんと、おじさんにとっての私は違うのだというごく単純な事実を忘れてしまっていたのだ。唐突にそのことに気づかされてしまい、チクチクと胸が痛んだ。
でも悪いのはユカワさんではなく、きっと傲慢な私の方だ。
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