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太陽がじりじりと地面に沈んでいき、窓の外が少しずつ暗く染まっていく。電気の紐に手をかけながら、もう少しだけ闇が深まるのを待ってみようかなんて無意味なことを考えてしまう。
そんなことをしたって、あの人にはもう会えないというのに。
私には、いつも夕暮れ時になると必ず思い出す人物がいた。深紅の瞳の奥に逸楽の色を宿した、紳士然とした佇まいのおじさまだ。もう何年も会っていないし、きっとこれからも会うことはないと思う。それなのに、たった半年間の交流は私の心に深すぎる爪痕を残し、忘れられない記憶となってしまった。
あれは四年前の夏、すっかり陽の落ちた夜闇の中で橋の手すりに身体をもたれ、川の流れる水をぼうっと見下ろしていた時だった。
「はぁ……」
春先だというのに、吐き出した溜息が白い息に変わるほど夜の屋外は肌寒い。こんなところに薄着で突っ立っていたら凍え死んでしまうかもしれない。それでも私は、もうしばらく穏やかな水音を聞いていたかった。代わり映えのない水の流れを、意味もなくただただ眺めていたかった。
「その川は浅いよ、お嬢さん」
背後から聞こえてきた声を、私は一瞬気のせいだと思った。こんな夜更けにこんな場所を人が通るわけがない。
でも、振り向いてみたら本当に人がいた。私と同じように少しくたびれた服をまとった中高年……ではなくて、小綺麗な明るいスーツに身を包んだ見知らぬ紳士が立っていた。
「浅い……って、どういう意味ですか。何かの隠語ですか」
「隠語? ははっ、警戒心の強いお嬢さんだ。だが、夜更けに出歩く淑女としては正しい返しかもしれないね……」
意味が分かりません、と反射的に出そうになった冷ややかな悪態を飲み込むと、黄色い紳士は言葉を続けた。
「いやね、私の目には、君がその川に身を投げて死のうとしているように見えたものでね」
「……そんなふうに見えましたか」
「ああ、見えた」
何を馬鹿な、と喉まで出かかった言葉が溶けていく。本当に彼の言うことは当てずっぽうで、私は絶望の淵に立たされてなどいなくて、せせらぎを眺めることになどすぐに飽きて何事もなく家に帰ったはずだと、そう言い切れるのだろうか。直接的に死を思ってはいなくとも、ほの暗い感情に支配されて動けなかったことは事実ではないか。
「おや、どうしたんだい、黙り込んで」
俯きがちだった瞳を少しだけ持ち上げてみると、彼は随分と楽しそうな顔をしていた。心配しているかのような口調と表情がまったく噛み合っていない。何なんだこの人は。どこまで失礼なんだ。
さっきまでのくもりガラスのような心はどこへやら、このおじさんを見ていたら感情のモヤはかき消えて、無性に腹が立ってきた。
「……泊めて」
「……何だって?」
「行くあてがないので、あなたのうちに泊めてください。今まさに捨てられようとしていたかもしれない肉体を救った責任をとって」
は? と腑抜けた声を出したその顔のまま、おじさんはしばらく固まっていた。止まった時が徐々に動き出し、彼の綺麗な顔はぐにゃっと崩れて、大声をあげて笑い出した。さすがに私の泊めろという要求は予想外だったらしい。
その時、楽しそうに歪んだ彼の口に生えた鋭利なものが目に留まる。人間なら絶対に持たない鋭い牙。しまった、このひとは……一瞬のうちに後悔して言葉を引っ込めようとしたところで、もう遅かった。
「まったく突飛な娘だな……いいだろう、ちょうど暇を持て余していたところだ、ついてきなさい」
やっぱりいいです。そんな簡単な一言が出てこない。彼の言葉はあくまで私の要求を尊重する形で返されたものなのに、なぜだか有無を言わせない雰囲気があった。
まずい者に目をつけられてしまったとその時になってようやく気づいた私は、黙って彼の後ろを歩きながら、せめて酷い目に遭わないことを祈るしかなかった。
気づけば私は、彼と一緒に電車に揺られていた。てっきり市内のどこかに居を構えているのだと思っていたが、どうやら彼の自宅はあの橋からは遠かったらしい。
逃げようと思えば、逃げられたのかもしれない。道中私と彼の間に会話はほとんどなく、横目でそっとうかがってみたら、彼は目を閉じて考え事をしている様子だった。電車のドアが閉まる直前にダッシュで逃げれば、ご老体では追いつけないんじゃないか。でもなぜか、私の頼りない勘のようなものが余計なことはするなと言っていた。
ソワソワとする私の雰囲気がそんな思考を表出してしまっていたのか、おじさんが隣で「ふふっ」と小さく笑った時、やっぱり妙な気を起こさなくてよかったと思った。
「さあ、中へどうぞ」
最寄りの駅に着いてからは、とにかく歩いた。歩いて歩いて、もう4〜5kmは歩いたのではとうんざりし始めた時、ようやっと彼の邸宅にたどり着いた。
想像通りの大きな屋敷のドアを開けて恭しく招き入れてくれた彼の横を通り、玄関に足を踏み入れる。いよいよ本当に逃げられなくなったんだと思ったら、足が震えた。
「おや、あまりにも立派なお屋敷だから見惚れてしまったかい? 自宅のように寛いでくれて構わないよ?」
「いえ、あの……」
そうではなく、と振り向きながら答えようとして、彼がまたニヤニヤと楽しそうな顔をしていることに気づく。ああ、だんだんとこの吸血鬼のことが分かってきてしまった。このひとは私の後悔も、不安も、恐怖もぜんぶ分かっている。分かっていて、わざと本質からそれたことを言うのだ。至極楽しそうな笑みを浮かべながら。
「そんなに冷たい目をされたら、おじさん悲しくなっちゃうな……」
「あ、……」
自宅という、彼の領域に入ったからだろうか。それまで指一本触れてこなかった彼の手のひらが私の頬に添えられ、肌の質感を確かめるように親指が上下する。固まっている私に構わず、その手はそのままちょっとずつずれていって、首筋——吸血鬼が血を吸う時にかぶりつく場所に触れた。
嘘、吸われるの? 「ひっ」と情けない声を上げ、瞼をギュッと閉じていると、低い体温がそっと離れていった。
「おいで、リビングはこっちだよ」
「…………」
その声色はけっして誤魔化しなどではなく、本当に何も起きていないかのように飄々としていて、私はしばらくの間言葉を発することすらもできなくなった。
*
「は……? どういうことですか」
「だから、今日だけと言わず、しばらく君をここに泊めてあげると言っているのだけど……どうしてそう何度も同じことを聞き返すんだい?」
いったいどういうことだろう。あれから私はこのひとに危害を加えられるでもなく、欲望の捌け口として扱われたりするでもなく、ただただ親切に寝床を提供され、無事に翌日を迎えていた。
昨夜の玄関でのあの出来事から推測するに、この吸血鬼は私のことを食料として見ていたのだろうと、私は良いカモとして騙されてここに連れてこられたのだろうと、そう思っていたのに。
しかも、行くあてがないという私に気をつかってか、今後もここにいていいとまで言い出したのだ。気まぐれもここまでくると不気味だった。
「あの……見返りとして、血を吸ったりしないんですか?」
「ええ? おやおや、近頃の女性は実に大胆だねぇ、この老いぼれに瑞々しいうなじを差し出してくれるというのかい?」
「な、ちが……っ、昨日の夜、あなたが……!」
「私が……何かな?」
本当に下心がないか確認したかっただけなのに、まるで私の方が邪な考えを持っているかのように誘導され、言葉に詰まる。悔しいけれど、私はたぶんどんなに知恵を絞ってもこのひとには敵わない。
「と、とにかく……お世話になりっぱなしなのも悪いですから、何とかアルバイトでも探して生活費を出します」
「それなら、ここの掃除や洗濯をしてくれればいいよ。給料も出そう」
「へ……?」
ぜひアルバイトでも何でもしてくれと背中を押されるつもりでいた私の心が、ぐにゃりと折り曲げられた。一瞬何を言われているのか分からなかったが、それはつまり、住み込みでここの家政婦のようなことをしろということだろうか。素性の知れない私が?
このひとは何を言っているんだ。コーヒーカップ片手ににこにこと微笑みながらする提案ではないだろう。
「出会ったばかりのどこの馬の骨かも分からない人間に、そんなこと任せていいんですか?」と率直に尋ねると、「私が一人の淑女に蹂躙されるほどヤワな吸血鬼に見えるのかね?」とさらりと返された。「それに……」と続けながら、おじさんがからかうように眉を下げる。
「車もない、自転車もない、交通の便も悪いこの場所から通える勤め先なんてあるのかい?」
「っ……」
この屋敷がどんな場所にあるのかは、昨夜案内してもらったのでよく知っている。立地のことを完全に忘れていた。彼の言うとおり、自家用車も自転車もなしにここからほぼ毎日通えるような職場なんてない。民家すらほとんど見当たらない場所だもの。
そんな状況だから、結局彼の提案を素直に飲むことしかできなくて。私はさっそくその日から広い屋敷で家事労働をすることになり、ミステリアスな紳士との奇妙な同居生活が始まった。
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