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ザアザア、ポツポツ、パタパタ。
午後の日程を終え、夕飯も取り終わって寮の部屋に戻った私の耳に届いたのは、降り注ぐ雨が窓や地面を打つ音だった。
片手でカーテンをまくると、窓を伝ううねった水流と薄暗い闇が目の前に広がる。
「訓練中に降り始めなくてよかった」
なんてポツリと言いつつも、実は雨はそんなに嫌いなわけじゃなかった。むしろ一定の間隔で静かに鳴り響く落下音や、いろんな光や景色を反射する水滴は、幻想的とさえ思う。
そしてこういう日には、何より楽しみなことが一つ、私を待っているのだ。雨の日、日が落ちたあと。この条件が揃った時にだけ迎えられる、幸せな一時。
消灯時間まで一時間を切っている今になってわざわざ出掛けようとする私を見て、同じ部屋の子が声をかけてきた。
「名前、今日もまたどこかへ行くの?」
「あ、うん……行ってくる」
「そう……教官にバレないように気をつけて」
鋭くもどこか柔らかさのある視線で私を追うミカサは、全てを分かっているようで詳細は聞いてこない。これはいつものことだった。
私が雨の日の夜どこへ出掛けているのかも、誰と会っているのかも、ミカサに話して聞かせたことはないけれど。私の浮かれた様子や嬉しそうな表情からして、何となく察しがついているのだろう。
そうやって根掘り葉掘り聞かずに自分の中で想像して終わりにしてしまうミカサを、ありがたくも思うし寂しくも思った。
でもやっぱり、生活を管理されている訓練兵という立場を考えると、ありがたさの方が少しだけ勝つ。このことが教官にバレたら、きっと面倒なことになるから。
こそこそと寮の扉の隙間から廊下を覗き見て、誰もいないことを確認してから飛び出した。玄関を出てしまえばこっちのもので、あとはコートのフードを被って目的地まで向かうだけ。
程なくして現れた、兵舎裏の物置小屋の扉。
閂がしてあるのを見て、彼の方はまだ来ていないのだと察する。かけてある閂をそっと外して中に入ると、埃っぽくてツンとする匂いが鼻腔をくすぐった。
表面がまばらに濡れたコートを脱いで用具入れの上に置くと、薄らと埃が舞うのが見えた。いつもここに置いているのだけど、いかんせん雨が降った日の夜にしか来ないものだから、その間に埃が溜まってしまうのだ。
「……やあ、こんばんは」
ロウソクに火を灯したところで背後から聞こえてきた声に、私の頬は簡単に緩んでしまう。
だらしない顔を見せたくなくて、振り返る寸前に表情筋を引き締めた。けれど、2m近い長身が自分のすぐ隣に腰を下ろすのを見ただけで、私のせっかく引き締めた頬は再び緩んでしまうのだった。
二人で並んで三角座りをして、しばらくの間ゆらゆらとゆらめくロウソクの火を見つめた。
この小屋には一応備え付けの明かりがある。ただ、それだとあまりにも明るすぎて外に光が盛れてしまう危険がある。
私たちは規則を破って寮を抜け出している身。できる限り存在感を消そうと、明かりではなくロウソクの火をつけることにしている。どちらから言い出したわけでもなく、気づいたらそれがお決まりとなっていた。
「名前は今日、調理場の当番だったよね。疲れてない?」
「うん、大丈夫。もうすぐ訓練兵も卒業だからね、さすがに慣れたよ」
「そっか……僕たちがこうしてここで話せるのも、来週までなんだね」
「そうだね。早いような、遅いような……」
そういえば、入団直後はよく話をする人たちの名前しか覚えてなくて、その中には今隣にいるベルトルトは含まれていなかった。
大人しくてあまり目立たないベルトルトとこうしてここで話すようになったのは、恋人どうしの逢引のためでも、若さゆえに有り余る欲求を満たし合うためでもない。
最初は、本当にただ偶然の出会いによるものだった。
***
「はっ、はぁ……っ」
もうかなり長いこと走っている。その間、降り注ぐ雨に打たれたせいで、すっかり服がビシャビシャだ。身体が重くなって走りにくい。でも、罰はきっちりこなさなければならないから止まるわけにもいかない。
そう、これは罰だった。規則を破ったことへの罰。休日に街へ出た時に何となく入った古本屋で見つけた『この世の理』という本が、運悪く教官の目にとまってしまったのだ。
なぜだかこの壁の中の世界では、外の世界に対する詮索はルール違反となっている。それはいずれ調査兵として壁の外に出るかもしれない、見習い兵士の立場だろうと例外ではないらしい。
私は罰として訓練場の付近を走り続けることを命じられてしまった。まだ訓練兵となってから一週間だというのに、まったくついてない。
汗でベトベトな上に途中から大粒の雨まで降ってきたものだから、もう身も心もボロボロだ。
「うぅ……もうダメ、無理……」
いよいよ足が上がらなくなって、私はよろけながらコースを逸れた。教官には具体的な周回数を指定されたわけではないので、足が動かなくなるまで走ればもう十分だろう。
ふらふらとした足取りで、無心でただ宿舎を目指す。頭がぼーっとして、今にも倒れこんでしまいそうになる。でも、ここで倒れたらきっと風邪をひく。何とか寮までは戻らなくては。
その時、宿舎より少し手前の地点にある物置の掘っ建て小屋が目に入った。動かない足と苦しい呼吸で動くのもやっとな状態の私の身体が、小屋へと吸い寄せられていく。ほんの数秒前まで健在だったはずの”寮まで戻る”という目的意識が、砂のようにサラサラと崩れ落ちる。もはや理性など皆無だった。
どこでもいいから一旦休みたい……その一心で、私は小屋の古びた扉に手をかけた。ギィ、という鈍い音と同時に、ツンとした埃の臭いが鼻をつく。
閉めた扉に背を預けて座り込むと、空腹による吐き気と強烈な眠気に襲われ俯いたまま目を閉じた。
「だ、大丈夫?」
「えっ」
突然聞こえた自分以外の声に、飛んでいこうとした意識がフッと頭の中に戻ってきた。
慌てて上げた頭に鈍痛が走って、片手で押さえながら小屋の奥へ視線を向ける。
「だ、誰……?」
「えっと、僕だよ……って言っても、たぶん分からないよね……僕、目立たないし」
明かりのついた燭台を手にこちらへ歩み寄ってきたのは、長身で大人しそうな顔をした男子だった。いきなり自虐をし始める自信なさげな態度や所作からして、私と同じ訓練兵だろうか。
確かに彼の言うとおり、彼の名前は分からなかった。
「とにかく、こっちへ来て。その格好だと風邪ひくよ」
目の前に伸ばされた手を掴もうとして、自分の手が汗や泥などで想像以上に汚れているのが目に入り引っ込める。ビシャビシャになった手を埃まみれの床についたせいで汚れてしまったのだろう。
しかし、目の前の彼はそんなことお構い無しといったふうに強引に私の手をとると、小屋の奥へと連れていった。
むこうを向いてるから服を脱いでこれで拭いて、終わったらこれを巻いて。
そう言って彼は毛布を何枚か差し出すと、言葉通り背を向けた。手には本が握られていて、私が着替え始めるとページをめくる音が聞こえてきた。
「あの……あなたの名前は?」
「……僕は、ベルトルト。ベルトルト・フーバーっていうんだ」
「そうなんだ……私は名前。助けてくれてありがとう、あなたも訓練兵だよね?」
「うん、そうだよ。ってことは、君も?」
「うん……さっきまで、規則を破った罰で走らされてたの」
素性の分からない男のすぐ横で無防備な姿をさらすことにモヤモヤとした感情を覚え、なるべく気まずい沈黙が起きないようにと話しかけ続けた。読書の邪魔をしてしまってる自覚はあったけれど、そんな心配をよそに、彼は鬱陶しそうにするでもなくこちらの問いにそつなく答えてくれる。
彼の名前はベルトルトだということや、やはり私と同じ104期訓練兵だということ、彼は山奥の村出身で巨人を目にしたことがあるということなどを知った。
そして、彼はいつも雨の日の夜にここに来て、一人で読書をしているということも。たまには一人の時間が欲しいのだそう。
その気持ちは私も理解できる。いくら兵士として生きることを決意したとはいえ、プライベートな時間が少ないことは、人によっては大きなストレスになりうる。きっと彼も私も、根っこのところは似ているのだろう。
「は……っくしゅ」
「あ、寒いよね……もっとこっちに来なよ。身体を寄せ合っていれば少しはマシだと思うから」
大胆すぎる提案に、思わず「へ……?」と素っ頓狂な顔で固まる。事情が事情とはいえ、初対面の人間が真顔でもっと近寄れと言ってくるなど誰が予想できようか。
私の様子を見てようやく自分の発した言葉の不用意さを理解したのか、みるみる頬を染めて慌て出すベルトルト。
いや、僕はそんなつもりじゃ! とか、ただ君に暖まってほしくて!とか、喋れば喋るほど墓穴を掘ってしまっているとしか思えない彼が、何だか可愛く思えてきて。
このまま固まっていたら、あくまで善意として提案してくれた彼があまりにも気の毒だ。お邪魔します、と素直に身を寄せると、彼は自分への警戒が解けたことにひどく安堵しているようだった。
「ふっ……ふふ」
「え、なに?」
「ベルトルト、面白いなぁって。今まであなたの名前すら知らなかったのがもったいないよ……私たち、仲良くなれそうなのに」
「そうかな?」
「うん、そう」
悪戯心が芽生えた私はつい彼をからかいたくなって、どさくさに紛れてすぐ横にある肩にこてんと頭を乗せてみた。大きすぎる身体がピクリと揺れて、小さく息を呑んだのが気配で分かった瞬間、私の中に言いようのない恍惚とした感情が溢れ出す。
彼とまたここで会いたい。
訓練場や宿舎じゃなくて、この場所で二人きりで会いたい。誰にも邪魔されずに、二人で雨の音を聞きながらたまに言葉を交わしたい。そんな気持ちが胸を埋め尽くした。
そっと見上げた彼の瞳には、私と同じ思いが滲んでいるように思えた。綺麗なグリーンの瞳の中でロウソクの火が揺らめくのを見ていると、またここにおいで、と言われているようだった。
だから、次の雨の日も私はまたここへ来た。
もし彼が一瞬でも浮かない顔をすれば、大人しく出ていくつもりでいた。でも、小屋の中にいた彼は嫌な顔一つしないどころか、私がまた現れたことに驚きもせず「おかえり」と言ってくれて、心の底から嬉しくてたまらなかった。
あの日の彼が「またおいで」と目で言っていた気がしたという私の独りよがりな考えは、妄想なんかじゃなかったんだと確信した瞬間だった。
私たちが暮らすこの壁の中は、雨が多い気候というわけじゃない。つまり、彼とここで話をする機会はそんなに頻繁にあるわけではなかった。その少ない回数も、重ねるうちにすっかりお馴染みの仲になっていて、いつの日か雨が降ってくれるよう祈るまでになった。
そんなに会いたければ、いっそ雨が降らなくても定期的に会う約束でもすればいい。もしかしたら、彼も心の隅でそう思ったことがあるのかもしれない。
でも、お互いそんな約束を提案することは一度もなかった。
雨の日、訓練日程が全て終わった夜にここへ来る。そんな特定の条件下で待ち合わせる以外のことは決してしない、不思議な関係。
そんな関係をダラダラと続けてしまったのは、特別感を感じたかったからなのか。それとも単に、二人とも自分自身の気持ちに対して臆病だったからなのか。
答えはたぶん、後者だと思う。
***
「ベルトルト」
「ん?」
私たちは三年の間に、一体何度ここで落ち合ったのだろう。この当たり前の日常に一旦 区切りがつくことが目前となった今、正確な回数を数えてなかったことが急に空しく感じる。
「卒業……だね」
「……またその話?」
「ごめん」
「いや、謝らなくてもいいよ」
少しの沈黙が訪れる。頭の中を整理して切り替えるチャンスだと言うのに、それでも私はまた
似たような話題を繰り返してしまう。彼の口から、私に対する明確な言葉が欲しくて。
「正式に兵団に入ったら、兵団ごとの宿舎とかがあるんだよね、きっと」
「うん、そうだと思うよ」
「今より忙しくなるし、その……死ぬかもしれないよね」
「……兵士だからね」
「…………」
「名前……言いたいことがあるなら、はっきり言った方がいいと思うけど……」
胸の中でずっとぐるぐる回ってる感情のやり場に困って、それなのに時間は待ってはくれなくて。私はわけも分からず焦っていた。余裕がなかった。
「なにそれ、ベルトルトにだけは言われたくないよ、ベルトルトなんて自分の意思すらないくせに」と、気づいたらそう口走ってしまっていた。
こんなのほとんど八つ当たりだ。素直な気持ちを上手く表出できずにいるのは、自分だって同じくせに。
言葉を放ってしまったあとでハッとして彼を見る。驚きと悲しみの混じったような瞳に、鼻の奥が熱くなって視界が歪んでいった。
「あ、……ごめん……ごめんなさ、っ」
拭っても拭っても溢れる涙を、手首で塞き止めるように覆う。止めなきゃ、止めなきゃと思うほど、袖は冷たくなっていくばかりだった。重たい空気は呼吸の自由すら奪っていく。
ふう、と深く息を吐く音が隣から聞こえた。
「……分かった。見せるよ、僕の意思」
「え、」
突然低い声で囁いた彼を見上げるより早く、全身を柔らかい圧力に包まれた。自分以外の匂いが急激に流れ込んできて、頭が真っ白になる。
彼とは何度も二人並んで話をした。けれど、こんなに近くで彼の匂いを感じたのは初めてだった。
こんな時、どうすればいいのかが分からない。嫌でも熱くなっていく身体を動かせずにいると、抱きしめられる腕の力は緩まるどころか少しずつ強くなっていく。
「流されやすい僕にだって、自分の感情や考えはあるんだ。あまり表には出さないだけで」
怒っているような声じゃない。でも、今までの彼からは想像できないような確かな意思を感じさせる、力の篭った声色だった。
腕の中でそっと顔を上げると、思ったよりも近くにあった瞳には涙が膜を張っていた。ゆらゆらと揺れるそれが儚くて、美しくて、視線をそらせなくなってしまう。時の流れが遅く感じる。
「僕は……君が好きだ」
「あ、……」
「正直、もっと早くこうしていればよかったよ……こんな、卒業ギリギリの日じゃなくて。僕が臆病だったのが悪いね。ごめん、遅くなって……」
「そんな……そんなの、私だって」
「でも名前は、僕に気持ちを伝える努力はした。直接的な言葉じゃなくても、ちゃんと自分の感情を訴えようとしてた」
訴えだなんて、そんな大層なものじゃない。
相手から欲しい言葉を引き出すために遠回しな言葉をぶつけることは、こうして相手を困らせてしまうし、自分のためにだってならないのだから。
……でも。それでもベルトルトは、そんな私の拙い意思表示を受け入れてくれたばかりか、ちゃんと気持ちを汲んで望んでいた言葉をくれた。
結局、彼にはずっと助けられてばかりだ。
彼と最初に出会ったあの日だって、彼がここでずぶ濡れだった私を助けてくれたからこそ、今この場所でこうして幸せを感じることができている。
鮮明に戻りかけていた視界がまた歪んでいく。溢れた涙は、頬を伝う寸前にベルトルトの親指が優しく払った。
私も好き。好き、好き。
壊れたレコードみたいに、同じ言葉を何度も口にする。ようやく伝えることができたその言葉の形を確かめるみたいに、彼の胸の中で、何度も、何度も。
「僕たち、両想い……だね」
「改めて言われると恥ずかしい……」
「ちょっとね」
「うん……」
二人で抱き合ったままくすくすと笑って。そのあと、ベルトルトが少しだけ表情を引き締めた。
「……僕たちの関係のこと、みんなに言おう」
「えっ?」
「あまり考えたくはないけど……僕たちは兵士だから、いつ死ぬか分からないだろ?」
「そっか、そうだったね……」
「もしどちらかが死んでしまったとしても、みんなが僕らの関係を知っていれば、生き残った方を精神的にケアしてくれるだろうから」
「そう、だね……」
それは、目を逸らしたままではいられない現実。ベルトルトの言うことはもっともだ。
明日になればみんなそれぞれ希望する兵団に正式加入して、憲兵以外は本格的に戦場に赴くことになる。
ベルトルトは調査兵団に入ることに決めたと、今日初めて教えてくれた。私は駐屯兵団希望。どちらも巨人と対峙し、命を落とす危険がある。
いつも当たり前のようにお互いの顔が見られる日々とは、もうお別れなんだ。
胸の中がチクチクして、離れかけていた身体を抱きしめ直した。彼も同じように緩みかけていた腕の力を強めてくれる。
正直まだ恐怖は消えない。けれど、これでも覚悟はできているつもりだ。
その証拠に、もう涙は出なかった。
「名前……」
名前を呼ばれて見上げるなり、至近距離まで顔を寄せられ、ふわりと優しく重なる唇。深夜の肌寒さなんてもはや微塵も感じないほどに、顔も身体も火照って、蕩けて。身体の力が次第に抜けていき、自然と瞼が下りた。
そう、もしかしたらこれが最初で最後かもしれないのだから、今日くらいは許されるはず。
こんなところを誰かに見られたら、兵士が色恋にうつつを抜かすなんてと叱られてしまうかもしれない。でも今は、邪魔をするものなんて何も無い。ここには私とベルトルトの二人きり。雨の日、この時間のこの小屋は、三年前からずっと私と彼だけのもの。
もっと身体の隅々まで刻み込みたい。ベルトルトの熱を、生きた証を。もっと、もっと。
口付けを続けながら少しずつ服の中へと移動してくる彼の手のひらを受け入れつつ、私は閉じた瞼を薄く開く。キスの最中の可愛い彼の表情だって、この目に焼き付けておきたいから。
ザアザア、ポツポツ、パタパタ。
まだしばらくは止みそうにない雨音が、肌を寄せ合う二人の熱くて甘い吐息を優しくかき消してくれた。
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