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人が営む社会には、どうしたって格差が生まれてしまう。限りなく公正に近づけることはできたとしても、格差を完全になくすことは難しい。人を貶めたり搾取しようと考える人間は必ず出てきてしまうからだ。
法の力で抑え込むこともできるだろう。しかし、法も完璧ではない。抜け穴がある。
「クソ親父のせいで、可哀想に……」
昨日も、今日も、そして恐らくこの先ずっと、エヴァンの視線の先で馬車馬のように働かされている人々の生活は変わらない。
どうやら自分はこの社会において搾取する側の立場だと、10歳かそこらには既に理解していたように思う。邪悪の化身のような父の元で育ちながら純朴な心でい続けることは、容易ではなかった。
家に帰るなり、エヴァンは自室に隠してあるスケッチブックを取り出した。
どのページにも、おぞましい容貌をした父が描かれている。彼が白い空間に描き出す父の姿はいつも狂気に満ちていた。あえて赤裸々に描いているのだ。父の支配に抵抗するため、そして、父の血が流れる自分自身への戒めのために。
エヴァンにとってスケッチは、たった一人で行うレジスタンスだった。
下描きを終えたところで、ふと窓の外を見上げる。ゆったりと流れる白い雲と真っ青な空とが作り出すコントラストは、美しくて眩しい。
だが、正直空は苦手だった。手の届かない遥か頭上にどこまでも続く美しい青は、エヴァンの鬱屈とした人生を嘲笑っているようにも見えるからだ。
だが、どういうわけだか今日は外にいたいと思った。
父の目があるため遠くへは行けないが、家の裏にある小さな草むらの木陰に座り、そこで絵を描いてみたい……そんな欲求がわき起こった。
父の寝室の窓から、炭鉱の様子を覗き見る。遠くの方に労働者に鞭を打つ父の姿があった。
すぐには戻らないだろうから、今なら少しくらい外出しても問題なさそうだ。
そうしてスケッチブックと鉛筆を服の中に隠しながら、エヴァンは家の裏へと駆け出した。ちょうど良さげな木陰に座り込み、膝の上で描きかけのページを開く。
気分が乗らなければすぐに帰るつもりだった。でも、頬を撫でる風は予想以上に心地よく、どうしてもっと早くこうしていなかったんだろうと後悔した。
化け物の様相をした父が労働者をなぶる絵は、この爽やかな晴れ空には似合わないかもしれない。それでもエヴァンは、この非日常を堪能しながら軽快に筆を進めた。
カサ、カサ。
不意に足音のようなものが聞こえてくる。それもすぐ近く、背を預けている木の後ろあたりで。
しまった、と思った。帰宅した父が探しに来たのだとエヴァンは焦った。
慌ててスケッチブックを伏せながら、音のした方を振り返る。だが、そこにいたのは父ではなかった。
同い年くらいであろう見知らぬ女性が、木の幹に半分隠れながらこちらをじっと見つめている。
「素敵なスケッチですね」
「は……、」
目を見開くエヴァンが照れているのだと勘違いしたのか、女性はクスクスと笑った。
父への反抗心として心のままに描き殴っていたスケッチを、誰かに認められる……それはエヴァンにとって初めての経験だった。照れていたわけではなく、どんな反応をするのが正解なのか分からなかったのだ。
彼女の言葉は荒んだ心に清水を注ぐかのような心地よさがあり、とても甘美で、色鮮やかで。
その言葉こそが、抑圧された自分の精神を解き放ってくれるものだと、エヴァンは直感的にそう思った。
名前と名乗った女性とエヴァンは、芸術という共通の興味のおかげですぐに打ち解けていった。
名前も絵を描いてみたいのだけど、レッスンを受けたり画材を買うだけの経済的余裕がないのだそうだ。エヴァンは改めて、富裕層に生まれた自分がどれだけ恵まれているかを実感した。そして、彼女のような家庭を持つ人間を安い労働力としてこき使う父の会社が、どれほど残酷かも思い知った。
彼は名前のためにスケッチのコツを話しながら、完成までの様子を隣で見せてあげるようになった。
その日からというもの、名前はエヴァンのスケッチを見たくて、エヴァンは彼女の喜ぶ顔が見たくて、父の目を盗んではたびたび木陰で逢い引きをした。
狭い世界の中で一つの価値観に縛られながら生きてきたエヴァンにとって、この麗しい日々を何と表現したらいいのかは分からない。ただ一つ、確かなことを挙げるとすれば、今がとても幸せだということだ。
「エヴァンはどうして、ここでスケッチをするようになったの?」
ある昼下がりのこと。二人で持ち寄った軽食に手をつけていた時、彼女が不意に問いかけてきた。
そういえば、とエヴァンは思う。彼女とは絵画やこの街のこと、そして彼女の生活のことについてしか話をしたことがない。自分の身の上についての話は、今までに一切してこなかった。
緩やかに流れる雲に目を向ける。
彼女と初めてこの空の下で出逢ってから、もう三ヶ月目になろうとしていた。彼女から自分の話を聞きたいとせがまれたことはない。いつまでも自分を語ろうとしないエヴァンを見て、何か訳があるのだと察して今まで聞かずにいてくれたのかもしれない。
でも、もうそろそろいいんじゃないか。この木陰で絵を描くようになった経緯を彼女に伝えても。
自分の特異すぎる境遇は、いつまでも隠し通せるものではないだろうから。
心に決めたエヴァンは、彼女の方を振り向いた。
その直後、心臓が凍りついたように冷たくなった。エヴァンの様子に首を傾げる彼女の真後ろ、木の陰から見えた姿に、呼吸が止まった。
「あ、あ、父さ……、」
全部を言い終わるよりも前に、吹き飛ばされる彼女の身体。「うっ」と苦しそうな声を漏らして、名前は草の上を転がった。
「ここのところ様子がおかしいと思ったら、こんなところで油売ってやがったか……しかも、見知らぬ女なんぞと一緒に!」
自分の身体が自分のものでなくなったような、夢を見ているような浮遊感に全身が包まれる。起き上がろうとした彼女の頬を踏みつける父の言葉など、一つたりとも頭に入ってこない。
何だ? 今目の前で何が起きている? 必死に状況を理解しようとフル回転させた脳みそは、空回りするばかり。
「エ、エヴァン……っ」
「俺の息子の名を気安く呼ぶな! この阿婆擦れが! どこの馬の骨かも分からん貧乏女なんぞが、マクミラン家の長男に触れやがって! クソッ! クソが!」
胸の奥に並々と注がれていく恐怖と憎悪。感情を咬み殺すことに精一杯なエヴァンは、握り締めた拳に血が滲んでいることにすら気づかない。
どす、どす、肉を蹴る鈍い音と、父の罵声が脳を揺らす。名前の腕に、脚に、お腹に、容赦なくつま先をめり込ませる父に、まともな言葉が通じるとは思えなかった。それでもエヴァンは、「やめろ……やめろ……」と、うわ言のように何度も何度も繰り返した。
「は、っ……帰るぞ、エヴァン」
ひとしきり暴行を加えた父が、息を切らしながら彼女に背を向ける。
名前は死んではいなかった。今にも閉じてしまいそうな瞼で、口の端から血を流しながら、それでも頑張って呼吸をしていた。
しばらく起き上がれそうにない彼女を助けられない悔しさで、エヴァンの頬を涙が流れる。「男がメソメソしてんじゃねぇ!」と怒鳴る父がどんなに恐ろしくても、エヴァンはその涙を止めることができなかった。
帰り際、木陰に落としたスケッチブックに手を伸ばすと「捨てろ、そんなもん」と不機嫌そうに父が吐き捨てた。そよ風に揺られる名前のスカートとスケッチブックがどんどん遠くなっていく。
今までに何度も経験してきたはずの喪失感に、ここまで胸を締め付けられたのは初めてだった。エヴァンは全てを失ったのだ。激しい未練と復讐心だけを胸に残して。
エヴァンの父、アーチー・マクミランが管理経営する炭鉱で爆発による生き埋め事故が起きたのは、それから半年後のことだった。苛烈な洗脳と虐待の末、いつしか父に対して崇拝のような感情が芽生えてしまったエヴァンが、錯乱したアーチーの指示のもと行った蛮行だった。
社会的権力は、人間の感覚を狂わせる。
このことだけが、父から学んだ物事の中で唯一の真理であったかもしれない。炭鉱なき今、徐々に正気を取り戻しつつあったエヴァンは孤独の中でぼんやり思った。
正気を取り戻すにつれて父への崇拝も薄れていった彼の心に、トラウマになりかけていた甘い記憶と、確かな復讐心が顔を出してしまう。もはや今の彼を止める者など誰もいない。足枷は存在しないのだ。
その日の夜、エヴァンは倉庫の地下で父をなぶり殺しにしたのを最後に、この世界から姿を消した。
突如エンティティが支配する霧の森へと連れ去られた彼は、これでくだらない世界とおさらばできる、ようやく自由になれたのだと思った。だが、待ち受けていたのはそれまでと何も変わらない、まさに地獄のような日々だった。
彼を誘拐したエンティティは言った。お前は余興を演じるための役割を担うのだ、その素質があるのだと。
ふざけるな、と一蹴したエヴァンを、エンティティは立ち上がることができなくなるほどに痛めつけた。力でねじ伏せ、思い通りに動かす……彼の父が生前に繰り返した愚行と、まるっきり同じだった。支配者が別の者に成り代わっただけに過ぎなかった。
「っ、ぐ……」
肩にめり込んだ金属が、身体を僅かに動かすだけで鋭い痛みとなって襲いかかる。
自分が崇拝するのは父だけだ。その父も死んだ今、彼はもう二度と誰かに心酔するようなマネはしないと決めていた。だが、創造神とやらの手のひらの上であるこの世界の中に、自分の身を守れるような逃げ場所などどこにもなかった。
ああ、名前に会いたい。叶わない願いと知りつつも、強いストレスを感じるたびにあの笑顔が頭に浮かんできてしまう。
元いた世界とこの霧の森、どちらも地獄には変わりないが、少なくとも向こうには名前がいた。
何度も後悔した。あの日の名前に、腑抜けな自分でも何かできることがあったのではないか、救えたのではないかと。
あれから一度も顔をあわせていない名前が、今も生きているのかすらも分からないなんて。二度と会うことが叶わなくなる前に、せめて一瞬だけでも愛しい姿を見たかった。
頭の中の思い出だけで、どれくらいの時間を生き延びられるかは分からない。過酷な環境に音を上げて殺されるのが先か、人の心を失うのが先か。人を虫けらのように扱っていた資産家の息子が、身体中に鞭を打たれ働かされる……皮肉なものだ。
与えられた武器を手に仮面で顔を覆ったエヴァンは、輝きを失いつつある瞳で常闇の空を見上げた。
***
「きゃあっ!」
ジメジメとしたフィールドの空気を、甲高い声が震わせる。
己の一撃で地面に伏せった生存者を、エヴァンはしばらく見つめたあと無心で担ぎ上げた。
もう何度繰り返したか分からないこの動作も、すっかり板に付いてしまった。変化のないこの世界でエンティティのための余興をこなす日々が始まって、どれくらいの時が経過しただろうか。
ここには時間を知るすべがない。時計もなければ、カレンダーもなく、頭上を覆う黒い空に日が昇ることすらもないために、正確な時間が分からないのだ。
狂った空間にい続ける中で、元いた世界のことが少しずつ記憶から抜け落ちていった。砂時計の中身がサラサラと落ちていくように、ゆっくりと自分の欠片が消えていく。そのことを惜しいと感じる心すら、もうほとんど残っていない。
担ぎ上げた生存者を吊った直後、近くの小屋の裏を駆け抜けていく人影が視界を掠める。見えたのは一瞬だが、新顔だったように思う。新たにこの世界に取り込まれてしまった、哀れな犠牲者だ。
「フン……クソ邪神のせいで、可哀想に」
かつて父の元で働く人々を見て口にしたのと同じ言葉をこぼし、武器を構えて女の後を追う。
あの頃のエヴァンは傍観者だったが、この世界でのエヴァンは加担者であり、加害者だ。しかし、父は自ら望んで人々を苦しめていたのに対し、自分は拷問を受け仕方なくやっている。その事実が彼の罪の意識を軽くしていた。
目の前に迫った女の背中へと振り上げた武器は、いとも簡単に命中する。
しかも運の悪いことに、彼女が倒れたのは地下室があるボロ小屋のすぐ近く。エヴァンは迷うことなく女を抱えて階段を下りていく。
「あぁぁあっ!」
悲痛な叫び声を上げながらジタバタともがく身体も、やがてぐったりと動かなくなる。
彼女は今、絶望のさなかにいるのだろうか。今でこそ慣れない儀式に不安や緊張を覚えていても、やがて自分のように何も感じなくなっていくのだろうか。
だが、そんなことは殺人鬼である自分には関係ない。生存者と自分は敵同士。彼女だって、いつまでも哀れみの目で見つめられるのもいい気はしないだろう。
地上へ戻ろうと、エヴァンは女に背を向ける。
「……ん?」
背後から何かが落ちるような音がして、足を止めた。見ると、女の足元にさっきまでなかった白いものが落ちていた。
どうやら折りたたまれた画用紙のようだ。懐から落ちたらしい。拾い上げてみたはいいが、広げてみないことには何が書いてあるか分からない。
「や、めて……返して……大切なものなの……」
大切なもの。
この世界に私物を持ち込めた人間は少ないゆえに、トラッパーはその言葉を聞いて興味が湧いてしまった。
いつもと変わらない退屈な時間に刺激を与えてくれるものだといいが。そんな期待を込めて、画用紙の折り目を広げていく。一つ、また一つと開いていくと、リングから切り取った跡が出てくる。
どうやらこの画用紙は、スケッチブックから切り取ったものらしい。
「……っ」
その時、忘れかけていた記憶の扉に光が差し込んだ。全身の血管が一気に沸き立つような、妙な興奮が彼を包む。
トラッパーは夢中で残りの折り目を開いた。途中、何度も何度も、もつれる指で紙を破きそうになりながら。
そうして目の前に現れたのは、懐かしい人物画のスケッチ。他の誰でもない、過去の自分自身が描いたものだった。
獣のようなおぞましい顔をした父が労働者に牙をむくその絵の周りには、愛しい人への説明のために書き込んだメモが、多少掠れてはいたが残っていた。
「お前……名前、なのか……?」
その名を聞いて、暗がりでよく見えなかった女の顔が持ち上がる。雰囲気こそ変わっていたものの、そこにいたのは間違いなく、あの木陰の下で共に過ごした人物で。
薄れていたはずの罪悪感が急激に蘇り、慌てて彼女をフックから降ろす。
紛うことなきルール違反だ。こんなことをすれば、帰還後に痛い目に合わされるのは明白だった。
だが、今はエンティティのご機嫌取りなど知ったことか。あの日、名前よりも父の言いつけを選んでしまったことを深く後悔していた彼に迷いはなかった。もう二度と選択を間違ったりするものか。
何が起きたか分からない様子の名前に向かって、彼は不気味な仮面を外し、この世界で他の誰にも見せたことのない素顔を晒す。
拷問の傷でボロボロの顔では気づいてもらえないんじゃないかという不安もあった。だが、困惑に揺れていた名前の瞳にはすぐに光が宿った。
「エ、ヴァン……?」
「そうだ、俺だ」
「本当に、エヴァンなの?」
「ああ、」
逸る気持ちを抑えられず、彼女をきつく抱きしめた。会いたい……そう願っては何度も諦めてきた届かないはずの存在が、今、確かにこの手の中にいる。
おずおずと腕を回してきた彼女のすすり泣く声が聞こえた時、エヴァンは心の底から安堵した。軽蔑されていてもおかしくないというのに、彼女も自分のことを想い続けていてくれたのだ。
聞きたいことが山ほどある。それに、スケッチを大切に持っていてくれたことへのお礼や、あの日彼女に言えなかった謝罪の言葉だって言いたい。
だが、いろんな感情が一気に押し寄せて、結局何ひとつ上手く紡げやしなかった。
「好きだ、ずっと好きだった……大好きだ、名前」
壊れたレコードのように同じ言葉しか言えなくなったエヴァンに、彼女は「私もだよ」と優しく微笑んで、傷だらけの彼の肩に頬ずりをする。
「私ね……怒ってないよ」
「……あの日、親父を止められなかったことか? それとも、今ここに吊ったことか?」
「……どっちも」
「どうして……」
「だって、エヴァンも被害者でしょう?」
エヴァンは何も悪くない。そう言って力なくふにゃりと笑う姿は、慈愛からくる許しのようでも、強大な力に対する諦めのようでもあった。思わず抱き締める腕に力が込もる。
「でももう、あのお父さんはいないんだね……」
「ああ……」
「……ねぇ、エヴァン」
「何だ」
「これから先、エンティティに酷いことされたら私に教えてね。私、エヴァンのためなら殺人鬼の陣営にだって飛んでいくから」
そう言って慈しむように頬に添えられた手は、こんなにも儚く小さい。
たまらなくなって、唇を寄せて、そのままそっと重ね合わせた。ほんのり血の味がする二人の初めてのキスを、ロマンチックだなんて思ってしまったのは不謹慎だろうか。
「ようやく一緒に生きられるんだな……箱庭の中で、永遠に」
思い出の青空が見られなくとも、本当の意味での自由なんてなくとも、彼にはそれでいいとさえ思えた。
名前が同じ世界で生きている。ただそれだけで、十分すぎるくらいに幸福だった。
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