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「髪、伸びたね」
川で洗い物をする背中に向かって話しかけると、振り向いた彼は不思議そうな顔をしていた。
それが何か、とでも言いたげな表情は、生前の彼の生活がどんなものであったかを物語っている。
「邪魔じゃないの? 前髪が目にかかってるよ」
「……邪魔といえば邪魔かもしれないな」
「じゃあ、切ってあげる。この後、部屋に行ってもいい?」
「…………」
「切ってあげようか」だと、きっとすぐに断られてしまう。「切ってあげる」と言い切ってしまうくらいが、彼相手には丁度いいのだということを名前は知っていた。
「……まあ、いいけど」
「ありがとう。じゃあ、早く仕事を済ませちゃおう?」
薪を持ち上げて微笑みかけると、いつもクールなジェイクも薄く笑みを浮かべてくれて。
「どうしてわざわざ俺の髪を切ってくれるんだ?」との彼の疑問には、「視界がいい方が逃げやすいでしょ?」と曖昧に誤魔化した。
短い髪のあなたの方が、私はカッコイイと思うから…… 喉の奥でつかえたままだった名前の本音が、彼の耳に届く時は来なかった。
最初は自分の頭髪を触らせることに抵抗を覚えていたジェイクも、数回目にはすんなりと散髪を受け入れるようになり、そのうち自分から切ってほしいとお願いするまでになった。名前もそのお願いをいつでも快く受け入れる。彼女がジェイクの髪を整えることは、いつしか二人にとって習慣となっていた。
すっかり打ち解けた頃、今まで一方的に世話を焼いてもらっていたジェイクは名前に恩返しがしたいと思うようになったらしい。
ある時、急に改まったような態度で「髪を結わせてほしい」と言い出した彼に、名前は問い返す。
「切るんじゃなくて、結びたいの? どうして?」
ジェイクはバツが悪そうに眉を下げた。
本当は切ってあげたいけど、自分の下手な腕前で名前の綺麗な髪を台無しにしたくないんだ……彼は小さな声でそう言って、ほんのり染まった頬を隠すようにそっぽを向いた。
初めて呼んでくれた名前に、真っ直ぐな褒め言葉、照れた表情。それらの裏に隠れた感情に気づかないほど、名前は鈍感ではない。思わず溢れた嬉し涙が頬を伝う。
濡れた頬に優しく落とされた口付けの温もりは、今でもはっきりと覚えている。
ジェイクと名前がそんな甘酸っぱいやり取りをしたのが、およそ二年くらい前のこと。
彼に近づきたくて思いつきで始めた散髪の習慣が、まさかこんなにも長く続くなんて。物思いに耽りながら、今日も名前は切り終わったばかりの硬い黒髪に櫛を通す。土埃と汗で傷んでしまった毛先を労わるように、優しく、優しく。
「っ……」
「ごめんね、絡まってるところを梳くとき痛いよね……」
「これくらい、ヤツらに切りつけられたりフックに吊られる痛みに比べたら、全然」
「ふふ、それはそうでしょ」
軽口を言いながらケラケラと笑うジェイクなんて、親密になる前はどんなに望んでも見られなかった。本当に愛しくてたまらない。
幸せを噛み締めながら、大切な宝物を磨くみたいに丁寧に毛並みを解していく。
一通り梳かし終わると、後ろから彼の手のひらが伸びてきた。今度は自分が名前の髪をいじる番だから櫛を渡してくれ。そういう合図だ。
「今日はどうすればいい?」
「それじゃあ、高めに結んでもらおうかな……できる?」
「ああ、やってみる」
場所を交代して、今度はジェイクがベッドの上に腰かけ、名前は彼の手前の床へ。
髪の具合を確かめるように上から下へ無骨な指が通る。髪には神経なんか通ってないのに、強く握ると痛みがあるとでも思っているかのような繊細な手つきは、普段の野性味あふれる彼からは想像もできなくて、たまらない。
その仕草で感じるゾワゾワとした感覚が、名前はとても好きだった。
「高さ、これくらいでいいか?」
「あ……んん、もう少し上……」
「もう少し……このへんか?」
「うん……そこでいいよ、お願い」
「分かった」
確認しながら少しずつ持ち上げられた毛束が、頭頂部と後頭部の中間あたりで固定される。
徐々にうとうとし始めた名前に、「眠ったら変な髪型にするからな?」とからかうように言うジェイク。ただ、それは彼にとって軽口でもあると同時に警告でもあった。
ベッドの上から座り込む名前の後ろ姿を拝めることは、正直言ってかなりの役得だ。髪を結うために毛束を持ち上げると、角度的にうなじがよく見える。
もちろん、ジェイクはそれを目当てに彼女の髪を結っているわけではない。恩返しをしたい気持ちは真心だ。それでもやっぱり、目を引くものがそばにあると自然と視線がいってしまうもので。
そんな状況で無防備な姿を晒されでもしたら……
毛束の奥で見え隠れするうなじを眺めながら櫛を動かすものだから、手のひらにうっかり力が入る。
「痛っ!」
「あっ、悪い」
ジェイクが引っ張ってしまったのは、刺激に弱い生え際部分。おかげで名前の眠気は一瞬で吹き飛んだが、それと引き換えにひりひりした痛みが首筋を襲う。
彼を責めるつもりはない名前は、滲んだ涙を見せないように俯いた。だが、その仕草がものすごく痛がっているようにでも見えたのか、ジェイクは心配そうに彼女の首筋に手を添えた。
痛い思いをさせてしまった焦りのせいか、名前の身体がピクリと反応を示したことに彼は気づかない。
「痛かったろ? 大丈夫か……?」
「う、うん、大丈夫……もう少しだけ優しくしてくれる?」
「えっと……こうか?」
「ん、……ふふ、それだとくすぐったい」
「んー、力加減が難しいな……」
もう痛い思いはさせまいと、髪の毛を握る方向を変えてみたり、櫛の角度を調整したり。名前のことを本当に大切に思っているからこそ、彼はこうして一生懸命になってくれるのだ。
直前の痛みなど忘れてしまったかのように、名前の口角が自然と持ち上がる。
「でもジェイク、前より上手くなったよね。何度もお願いしてるからかな?」
「そうか? まあ、いつも俺だけがいじってもらうばかりだと悪いしな」
「そんな、いいのに……私はやりたくてやってるんだから」
「物好きだよな、こんなこと頼んでもしてくれない人の方が多いってのに」
過去の記憶に思いを馳せるような表情をしながら、彼は小さく笑う。
私はジェイクが好きだからやりたいの…… あの日、川辺で彼に伝えられなかった好意が再び浮かんできたけれど、名前はまた声に出せずに飲み込んだ。
あの頃のジェイクは、こんなふうに語りかけてくれることなんてほとんどなくて。それでも私は、儀式の時に淡々と仕事をこなす彼の姿に惚れてしまった。この世界での彼しか知らないくせに、そんな彼の一部分だけを見て、生意気にも好きになってしまったのだ。
もしも、あの日からずっと好きだったことを伝えたとしたら、彼はどんな反応をするだろう。
髪を切るうちに打ち解けて好きになったんじゃない。川辺で声をかけたあの時からジェイクが好きで、近づきたかったのだと、素直に伝えたら……
「あ、」
気の抜けた彼の声がして、ヘアゴムが脚の横に降ってくる。
拾わなきゃ。お互いがそう思って同時に手を伸ばしたものだから、彼の指先と名前の指先がぶつかって。
名前が咄嗟に振り向くと、姿勢を下げていたジェイクの顔が触れてしまいそうなほど近くにあった。
「…………」
「…………」
唇に吐息がかかる。ピリピリと小さな電気信号が頭に走って、ここまま彼に触れてしまいたいと、ただただそう感じた。
ジェイクも同じように思ってくれているのか、少しずつ顔が寄ってくる。そっと瞼を閉じ、呼吸を止めて、ひたすらにその瞬間を待つ。
熱の先端が触れた。
ガタン。
突然ドアの外から聞こえた物音に、弾かれたように目を開ける。
音の正体は分からないが、人が倒れるような音にも聞こえた。
儀式中の殺人鬼を除いては他に脅威のない箱庭世界とはいえ、イレギュラーな出来事が全くないとも言いきれない。ジェイクが護身用のナイフを後ろ手に握ったのを見て、恐る恐るドアの方へと向かう名前。
だが、薄く開いたドアの先にいたのは、廊下に座り込む四人の仲間たちだった。
「え、……みんな何してるの? 大丈夫? すごい音がしたけど……」
四人は部屋の中と名前の姿を交互に見たあとで、少し安堵したような顔をした。なぜここにいるのか、何をしていたのか、事情がさっぱり分からない。仲間たちが無言のまま部屋の前で身を寄せあっている姿は、不気味さすらあった。
「あー……えっと、私らは、その……」
「……? ジェイクに何か用でもあった?」
「えっ? あー、そうそれ! 私たち用事があったんだけど……ここに来たら忘れちゃって。だからその、またねっ!」
「へ? ちょ、ちょっと……!」
終始視線が泳ぎっぱなしだったネアが、三人の背中を押して一目散に走り去っていく。わけも分からないまま取り残されてしまった名前は、黙って彼らを見送ることしかできず……
静寂が戻った廊下の先を、名前はしばらくの間ぼうっと眺めていた。
「……たぶんアイツらにバレたな」
「え?」
「何が」と問うよりも前に、彼の言わんとしていることに気がついてハッとする。そういえば、ジェイクと名前の関係は他の仲間たちに一切話していない。
みんなといる時の二人はほとんど会話をしないため、二人の関係について誰かに聞かれることもなく、話すタイミングがなかったのだ。
「どうしよう……あとで何か言われるかな……」
「言われるだろうな」
「うう……」
「まぁ、見られたものは仕方ないだろ……別に悪いことをしてるわけじゃないんだから、いつも通り堂々としていればいいんじゃないか?」
「……そ、そっか、そうだよね」
思いのほかジェイクはあっさりとしていて、動揺する様子はない。それは名前への深い愛情ゆえなのか、それとも仲間たちへの厚い信頼ゆえなのか。あるいはその両方なのかもしれない。
「それにしても、みんな部屋の前で何をしてたんだろうね?」
「どうせ俺らの会話を盗み聞きして、変なことをしてるんじゃないかと勘違いでもしたんだろ……」
「? 変なことって……?」
「え、」
そこを聞き返されるとは思っていなかったのか、彼は一瞬だけ面食らったような顔をした。
視線を外して遠くの方の床を見ながら、一つ大きく息を吐く。
「……セックス……とか」
「セ……、」
二年近くも親密にしていて初めて彼の口から聞いたその言葉は、名前の脳をショートさせるには十分すぎる威力があった。
最初の一文字を復唱してしまっただけなのに、熔けた鉄でも被ったみたいに全身がボンッと熱くなって、急に息がしずらくなって。ごまかすための言い訳の言葉が、次から次へと名前の脳内に溢れ出してくる。
「ご、ごめんね、聞き返しちゃって! 察しが悪いとこういうことがあるからダメだよね、ほんと……!」
「…………」
「やだなぁー、みんな変な想像ばっかりするんだから! 私たち、ただお互いの髪をいじってただけなのにね?」
「…………」
「こんな環境だし、そんなことしようなんてまず考えつかなかったというか、いくら部屋に二人きりだからってみんなが思ってたようなことなんて何も——、」
「俺は」
いつもより心なしか低い声が、まくしたてる彼女の言葉を遮った。二つの視線がぴったりと重なって、ジェイクが覚悟を決めたように拳を握りしめる。
「俺は……名前となら、そういうことをしてもいいと思ってる……けど……」
時が凍りつくというのは、きっとこういうことを言うのだろう。
ここは確かに現実のはずなのに、まるで今この瞬間だけ空想の中にでもいるような、そんな心地がした。
心のどこかで、いつか言われる日がくることを分かっていた言葉のはずなのに、いざその時がくると声すら出せなくて。黙り込む名前は耳まで真っ赤に染めて、右へ左へ視線を泳がせる。直前の多弁が嘘のよう。
冷静に見えるジェイクも、心の奥底には照れや緊張が確かにあった。それでも彼はソワソワとする名前にそっと手を差し出して、気まずさに耐えながら彼女が自らの意思でその手をとってくれるのを待った。
二人分の早鐘を打つ鼓動と熱っぽい吐息の音だけが、部屋の空気を揺らしている。
凍りついた時が再び動き出すまでに途方に暮れるような時間がかかったことは、言うまでもない。
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