次の夏には


「相澤くん、海に行こう」
細く掠れた声で彼が言った。久しぶりに聞いた彼の声は、恐ろしく静かで凪いでいた。

「…海、ですか」
白いカーテンを開ければ、うっすらと水滴がついたガラス越しの冬景色。
「うん。海」
壁も、床も、天井も真っ白な部屋の中、彼のくすんだ金髪と穏やかな瞳だけが鮮やかな色として浮かぶ。
俊典さんが横たわるベッドの隣に置いてある椅子へ腰を下ろして、冷えた細い手を握る。彼は相変わらず視線を動かさず、ただ窓の向こうに広がる灰色の風景を見ていた。
「外はまだ寒いですよ」
吊るされた袋から音もなく水滴が落ち、細い管を通って彼の中へ入っていく。幾筋もの小さな小さな川が彼の腕へと注いでいた。
「まだ、寒いかな」
ゆっくりと彼の頭がこちらへ振り向く。液体に満たされた袋を高く掲げるための金属の柱に囲まれている彼はまるで囚人のようだ。
「きっと、コートを着て行けば平気だよ」
少し力を加えただけでも脆く砕けてしまいそうな腕は、俺の体温では太刀打ちできないほど冷え切っていて、温まる気配は無い。
「海、行きたいなあ」
目を伏せて、彼は半ば諦めたように言った。

もう随分長く、彼はこの白い建物から出ていない。それどころかここ最近はずっとベッドの上で一日を過ごしている。常に何本もの管を繋がれた自分の姿を「サイボーグみたいだ」と笑いながら。

「行きましょう、海」
気付けば口が勝手に動いていた。
「看護師さんが許してくれるかなぁ」
虚ろな目が小さな期待と、深い絶望を含んで俺を見上げる。
「俊典さんが行きたいなら、俺はどんな手を使ってでもアンタを海へ連れて行きますよ」


* * *


私にとことん優しくて甘い相澤くんは、私のワガママに真面目な顔で応えてくれた。彼は点滴のせいで冷たくなった私の手を取って、酷く苦しそうに笑っていた。

それから数日後、彼はいつもの私服ではなくヒーローコスチュームで私の病室を訪れた。
「行きましょう」
一言、そう言った相澤くんは、私の腕に刺さった点滴の針を全て外してくれた。もう何度も抜いて刺してを繰り返されたから慣れてしまったのか、それとも服用している薬のせいか、痛みは感じなかった。
カーテンを開けて、はめ殺しの窓をナックルのようなものでぶち割った彼は、無言のまま私を抱き上げた。
防犯センサーが異変を感知し、けたたましいサイレンが響く中、私たちは白い部屋を飛び出したのだった。

捕縛武器を使って外壁を下り、地面へと裸足の足裏が触れる。久々に感じた外の空気は肌を切るように冷たかった。
「歩けますか?」
「うん…でも走るのは無理かも」
長い長い病室暮らしで、ただでさえ少ない筋肉がさらに衰えたようだ。リハビリをする体力も無く、もう人間として自ら出来ることもかなり減った。
「コートと、せめて靴ぐらいは持ってくれば良かったですかね」
「ううん、いいよ。行こう相澤くん」
申し訳なさそうな彼の表情が苦しくて、無理に明るく笑う。ひょいと再び抱えられた。
「警備員が来そうなんで、ちょっと急ぎましょう。落ち着いたらタクシーでも拾って」
「うん」
体を安定させたくて相澤くんの首に腕を回したら、額に軽くキスが降ってきた。
見上げた彼の顔が頼もしくて心強くて、どうしてか泣きそうになって、慌てて彼の胸に顔を埋めた。


* * *


哀しいほどに軽くなった体を横抱きにして、木枯らしが吹く中を歩く。白く薄い病衣がはためいて、幽かな音を立てた。
「寒いねえ」
「すぐタクシー拾いますんで、それまで我慢してください」
「うん…」
うっすらと微笑みながら、俊典さんはどこか嬉しそうだった。いまにも鼻歌を歌いだしそうなぐらいに。

通りがかったタクシーを止め、行き先を告げようとして躊躇う。怪訝そうな顔をする運転手に、俊典さんが言った。
「海に。ここから一番近い海へお願いします」
ますます不審そうな顔をしつつも、運転手は小さく頷いて車を発進させた。

「お客さん、まさか心中するつもりじゃないでしょうね?」
40代くらいのその運転手は、バックミラー越しにこちらを見て訊ねた。どう答えるべきか迷っていると、俊典さんが隣で声を上げて笑った。
「っははは!! そんな風に見えましたか」
「ええ……そっちのお連れさんがやけに思い詰めた顔をしてるんで」
俺か。
「勘弁して下さいよ、心中の手助けなんてしたくねえ」
幾分表情を柔らかくして、運転手はうんざりしたように呟いた。
「今どき心中なんてする人がいるんですか?」
「それがいるんですよ、特にこの季節は」
勘弁して欲しいや…と愚痴りながら運転手はハンドルを操る。俊典さんはずっと窓の外を飽きもせず眺めていた。

到着したのは、夏には大勢の家族連れで賑わう砂浜だった。この季節は人っ子一人おらず、ただ延々と波が打ち寄せている。
先にタクシーから降りた俊典さんの髪が海風に舞うのが見えた。


* * *


久しぶりに、本当に久しぶりに見た海は、灰色に澱んでいて空との境が分からなかった。厚い雲に遮られて、陽の光は一筋もなく、ただのっぺりとしたコンクリートのようだった。
裸足の足にアスファルトが痛い。ふらりと吸い寄せられるように砂浜へと続く石段を下った。
「………」
一歩踏み出すだけで崩れ落ちそうな膝を叱咤して、冷たい砂の上を進む。左右を見渡しても誰もおらず、強い風が吹き荒ぶ。
打ち寄せた波が私の爪先を舐めて、茶色の細かい泡を遺して引いていった。
「相澤くん」
後ろを振り返って彼の名を呼ぶ。自分の喉から出た声が驚くほど小さくて悲しくなる。愛しい人の名前すら、もう私は叫べないのか。


* * *


彼はまるで長い時の果てに行き先を見失い、途方に暮れた旅人のようだった。こちらを振り向いて何か言ったようだったが、その声はゴウゴウと哭く冬の風に拐われて聞こえずじまいだった。
今にも泣き出しそうに歪んだ表情に、慌てて駆け寄る。白い砂浜は腹が立つほどに歩きにくかった。
「っ…俊典さん!」
荒涼とした世界の中、彼がたった一人で立ち尽くしているのが見ていられなかった。

「相澤くん、あのね」
「はい」
空調の整った室内で身に付けることを前提とされた病衣はあまりに薄っぺらい。遠慮なく吹き付ける海風から彼を守るように抱き締めて、聞き逃してしまいそうな彼の声に耳を澄ませる。
「いつだったかな…海に、行ったよね」
「…はい」
「暑い夏の盛だったよ」
「ええ、覚えてます」
「今日みたいに、君と二人でタクシーに乗って」
俊典さんが今どんな顔をして喋っているのか分からない。何を思って喋っているのかも分からない。
「夕方まで、貝殻とかガラスとか拾って……帰るときに約束、したよね」
「………」
「また海に行こうって」
彼の細い肩が小さく震えていた。
「ねえ相澤くん…」
俺の背中に縋る彼の手に力がこもる。
「また…来たいね…っ…」
彼の頭の中には、もうずっと昔の夏の日、燦々と煌めく陽射しを浴びた広い大海原が鮮明に残っているのだろう。そしてその光景は確かに俺の中にもある。
「そう、ですね…また行きましょう、夏に」
「…うん…っ…!」
遠くからパトカーのサイレンが微かに聞こえる。
きっと叶わないだろう約束を交わして、俺たちは灰色の海をいつまでも眺めていた。


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