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【冠赫】遁入者


「ごめん、ちょっと霊渓と共同で進めてる案件で出張頼まれちゃってさ。転送講座はまた後日でいい?」
 常と同じラフなパーカー姿の大爽が、心底すまなさそうに手を合わせる。そう言われては、阿赫も素直に頷くほかなかった。
「了解……っす。仕事優先ですし、気にしないでください」
「悪いことに街からも要請あって、肉体派は出払ってる人も多いと思うけど……何かあったら冠萱にお願いしてみて」
前科者にも力や権威を誇示せず、フランクに接してくるこの人間の執行人を、阿赫は自分でも意外なほど好もしく思っている。
 だが己は未だ「雑用」を手伝う身分でもなければ、その能力もない。おとなしく名目上の監督者のもとへと引き下がることにした。

「って、いねえし……」
 執務室は珍しくもぬけの殻だった。阿赫は勝手知ったる部屋の中へ踏み入れ、格子戸を開けて陽台へ出る。途端、降り注ぐ日差しのまぶしさに目を細めた。
 「これお詫びね、俺のおすすめ」と大爽から押し付けられた饅頭をかじりながら、はるか下に点々と浮かぶ館の離れ、それらを映す水鏡へとぼんやり視線を落とす。
(肉体派、か)
 ここひと月以上顔を合わせていない、かつての同志の逞しい横顔が脳裏をよぎった。
 ──アイツはもう現場で仕事できるだけの実力はあるだろうし、そろそろ行かされるのかな。
(ま、折角しごいてくる奴も留守なんだ。俺は羽伸ばさせてもらうか)

 一陣の風が、ざっと水面を揺るがす。
 ふと、視界の端にちらちらとはためいた点。紙か衣でも飛ばされたか、と初めは思った。だが──
(違う……)
 はためきながら舞い上がるそれは、鷹ほどの大きさの鳥だった。しかも何かに追われ、苦しみもがくように空をのたうつのが見えた時点で、阿赫は欄干から身を乗り出していた。
「おい!しっかりしろ、こっちだ!」
 どこまでも澄み渡る青のなか、とっさにかけた呼び声が木霊する。
「早く……冠萱!!」
 向こうの耳に届いたか、鳥はよろめきながらも執務室を目指して旋回する。阿赫はそのとき初めて、「彼」をまっすぐに追い、おそらくは傷つけているのが無数の紙の形代であることを認めた。
 アレを入れてはいけない。
 漠然とだがそう見定め、戸のそばで彼らを待ち受ける。鳥は渾身の力をふり絞り、長い尾羽を踊らせて矢のように室内へと飛び込んだ。家具が倒れ、重い書物が雪崩れ落ち、陶磁の割れる音──阿赫はかまわず、全体重をかけて扉を閉じる。進む道を絶たれた格子窓の外側へ、紙人形たちがびしびしと貼り付くのが見えた。
 必死で施錠を試みるうち、一枚の形代がなんとか隙間から押し入ろうとするのを、阿赫はとっさに指で弾く。
「ぅ、熱っつ……!?」
 形代に触れた瞬間、ビリビリと電流のように指先から伝わった熱。
 その正体が痛みであり、さらには仕掛けられた圧倒的な霊力を示すと理解するまでの間に、紙の人形たちは鍵のかかった窓からひとりでにぱらぱらと剥がれだし、彼方の空へと飛び去っていく。
(さすがに……会館建物の結界内には干渉できない、か)
 肩で息をつきながら、内心で胸を撫でおろす。いや、そんなことよりも──
 薙ぎ倒された調度類の奥、金色の羽を枝垂れさせてうずくまる、一羽の霊鳥。その姿でまみえるのは初めてだったが、阿赫は確信を持って呼びかけることができた。
 からだには無数の生傷が走り、嘴からも鮮血を滴らせている。よく目を凝らせば片翼は付け根付近を深々と切られており、痛々しさに覚えず阿赫の眉は顰められた。
「安心しなよ、奴らは行った。なあ、何なんだこれ」
 答えはない。鳥は警戒心の弛まぬ目つきでしばし阿赫を見つめていたが、やがて振り切るように再び窓の外を見据え、天井近くまで翔け上がる。
「うわっ!!」
 閉ざされた窓格子の硝子が、衝突の撃でがしゃんと割れ落ちた。
 どこへ行こうというのか。問いかけそうになって、はたと思い当たる。
 追われていた間も上へ上へと目指していた先。この館を統べるものの居室、それ以外にない。
「無理だ、落ち着けって!落ちて死ぬ気かよ──冠萱!」
 霊鳥の眼が見開かれる。刹那、いちどきに舞い上がったおびただしい羽毛が阿赫の視界を遮った。
 再び瞼を開けば、はらはらと白の浮き散る床には見慣れた男が、しかし見たこともない鮮紅の色にその衣を染めて倒れていた。

「おい……」
 屈んだ阿赫が覗き込めば、返事の代わりにくぐもった呻きが上がる。
「そこで待ってな、いま回復役の奴呼んでくるからじっとして──」
「やめろ!!」
 聞くなり、はっと半身を起こした冠萱が立ち上がりかけた阿赫の手を掴む。傷ついた身のどこに残していたものか、そのまま凄まじい力で引き戻された。
「がは……ッ!」
 床に打ちつけられた背が鈍い音を立てる。
「てめえ……」
 予想外の痛みに顔を顰めながらも、阿赫は床へ縫い止められた手首のぬるつく感触に息を呑む。たちこめる血臭の中、恐る恐る真上の男を窺った。
「誰にも、誰にも言うな……」
 尽きかけている気力をふり絞ったことが、語尾の震えに滲んでいる。しかし見下ろす瞳に光はなかった。深すぎる海を思わせるそれに射抜かれ、阿赫の背筋に冷たいものが走った。
「あっ……ぐッ、痛い、……いたい離せって!」
 身をよじらせて逃れようとするが、手負いの相手へ蹴りを入れるわけにもいかず、徒労に終わる。
「……言わないで……」
 懇願にも似た声音ながら、ぎりぎりと押さえつける力は緩むそぶりもない。

 ──分かったから離せ!

 どくん、と慣れた感覚が阿赫の脳裏に広がる。
 他者の意識を司る、操り糸を握りしめたときのそれ。
 まさかと思うより早く、自らに覆いかぶさっていた体躯が脱力し、容赦なく全体重をもって圧しかかる。ぐえっと情けない悲鳴を上げたのち、阿赫はそっと肩口にうずまった顔へ目をやった。
 いくつもの擦り傷と滲む血、ほつれ乱れきった黒髪。それらは日頃事務方として見せる端然とした姿とはどうしても結びつかず、否応なく早鐘を打ちだす動悸を抑えられない。
 わかっている、こいつは間違いなく己の暗示によって失神しただけだ。
(それにしても……)
「……まさか、暫時といえど私を傀儡にできるまでになっていたとは。つくづく筋がいい」
 掠れ声が言う。どうやら、すでに意識の主導権は取り返されていたらしい。冠萱は再び上半身を起こそうとして、またがくりと阿赫へもたれるかたちになる。
「バカ、動ける怪我じゃない。そんな弱ってるから、俺なんかの術にかかるんだよ。……なんで、人呼んじゃダメなんだ」
「これは、私の独断でやったこと……そして犯したミスです。他の執行人にはどうしても知らせるわけにはいかない、彼らを危険に晒すことになるから」
「けど、このままじゃ……」
「本当にすまないと思っています。……知られてしまったついでに、ひとつ頼まれてはくれませんか」
 切れ切れの息をつきつつ、男が耳元で囁くように語る。
「本来の治癒は、あまりにも希少な力。当然ながら妖精は誰しも、その代替となりうる術を探し求め、鍛えてきた……例えばひとつには生霊系、生けるものの内を巡る時間に干渉し、その一部を巻き戻す術。またひとつには、そのものの精神を通じて、身体を形作る霊質の自己回復力へ訴える方法」
「…………」
「今の私には、己のなかに呼びかけるだけの力もない……だが君になら」
伏せていた顔をゆるゆると起こし、わかるだろう、というように目を合わせる。
「命じればいけるって?そんなことで──」
「やれる。その上で、ほんの少しだけ気を分けてくれれば」
「俺はまだ──」
「頼む……」
 ──ああもう!
 届く声のかぼそさに、阿赫は思わず舌打ちする。半ばヤケになって、思考の中の操り糸をぴんと張り直した。
 彼の霊質ひとつひとつに至るまで、ゆきわたらせるべき支配の流路をイメージして、実際に流し込む。

 あふれる血を止め、傷をふさぐことだけ。強かに打たれた手足のゆがみを直すことだけ。
 ──それだけが、おまえのなすべきこと。

 背に回されていた両の腕が俄にひしと力を強め、阿赫の体は反射的にびくりとこわばる。どうやら体調の異変ではなく、さらに霊力を求めんとしての無意識によるようだ。
(……こんなとこで終わらせてたまるかよ、後味悪いったらない)
 だいたい、執行人には言えないってなんだ?あの館長サマは知ってるのか?俺はもう奴の力の形代に触れちまってる、関わりありませんじゃすまない。巻き込むなら巻き込んでもいいから、中途半端にやるなっての。当人からご説明があって然るべきだろうが。

 声にならないそれらを無理に飲み下して、阿赫はひたすらに指令を送り続ける。
 どうか早く、常の鉄壁の精神力をもって跳ね返してくれと願いながら。

 どれほどの刻が過ぎたか、阿赫には判然としない。大半の執行人が出払った館の執務区域は静まりかえり、この部屋の騒音を聞いて駆けつけるものもないようだった。
 締め切られた窓の格子から漏れだす細い光の帯が、部屋中に散乱した書物や破片、鳥の羽根、倒れた卓や椅子たちの輪郭をうっすらと照らしている。
 耳元で未だやまない、はっ、……はっ、と浅く不安定な息の音。互いの衣のみを隔てた先で聞こえる、どくどくと忙しない自らのそれに比して、あまりにも頼りない鼓動。
 ──やめろ、全部聞きたくない。集中させろ。
 阿赫がなかば無意識に、彷徨うように空へと伸ばした手は、やがて冠萱の背の体温を探りあてて、漸く落ち着いた。


 目の前にかざした掌を開いて、握りしめる。明け方に深々と切られた腕も、上がるようになっている。
(感覚が戻ってきた)
 燃えるように冠萱の身を苛んでいた熱さと痛みは、癒えてこそいないが小康状態を得たようだった。ここまでくれば自力で聚霊し、治すことができるだろう。
 先ほどまで腕の中にいた青年は、今は傍らで糸の切れたように眠っている。
(命の恩人だなんて)
 そんな役目を負わせるはずではなかった。側で修練を積ませているとはいえ、時がくれば手放す、預かりものだと──最近は特に、己へ言い聞かせていたのに。
 かき抱いた体から気を借り、朦朧とする意識に命令を流し込まれながら、冠萱は阿赫の千々に乱れる思念を肌で感じ取ることができた。
 ──巻き込んでもいいから。
 その言葉に触れたとき、胸の奥にしまいこんで久しい何かが疼かなかったわけではない。
 だがそれ以上に、言いしれぬ後悔に締めつけられたのも確かだ。
 腕をかばいながら眠る体を抱き上げて、衝立で隔てられた仮眠用の寝台へと横たえる。
(さて、片付けは今のうちにやるとして──)
 彼が目覚めたら、どこから話そうか。
 感謝の念を伝え、すまなかった、と詫びるだけでは、すでに彼を満たすことはできないのだ。
 疲労が滲む阿赫の横顔と金髪、服や手首に至るまでを、赤黒くこびりついた血がべとりと汚している。
 綺麗に拭ってやらなければ。そう思いつつ、白いやわらかな頬につうと指をすべらせる。
(どうか許してほしい)
 牢を出て街に暮らす道を選んだなら知ることもなかっただろう、世の均衡の裏にある昏い淵へと手を取り、引き込んでしまうことを。
 そして──いま少し縁をつなぎとめられる予感を、愚かにも心のかたすみで僥倖としてしまう己を。
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