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【叶赫】無題



 初秋の夜風が、龍游の街をのびやかに覆う大樹たちをさやさやと揺らしては吹きすぎる。ほうほう、と鳥が鳴き、もの悲しい虫の音がそこかしこで響く。
「やはり、気を許してはいないな」
「当然といえば当然。子どもとはいえ、理屈じゃ納得しても肌に感じるものは拭えない」

 ──小黒。彼らと俺たちの志は同じ。相手が无限だから、手段を選ばないように言ったのは俺だ。
 ──うん、わかったよ風息。これからよろしくね、叶子に阿赫。
 頭を撫でられながら、幼い妖精は笑顔をつくった。阿赫たちを、というよりも、撫でてくれる手の主の言葉を疑いたくない。そんないじらしさがいらえには滲んでいた。

「妖精の楽園にきたって、王さまには疎まれる。おれたちらしくはあるかな」
「館は本当に諦めたと思うか」
「あーあ。こんなだだっぴろい星空、いつぶりだ?」
「阿赫」
 本来ならば、霊域には朝も夜もない。これは、あの幼子の霊力によって作られたまがいものの空だ。
 それを誰もが知っている。二人も、二人をこの企てに誘い、今は幼子へかしずく件の妖精たちも。

 叶子の力は土壌の息を止めたアスファルトを引き剥がし、コンクリート壁を粉砕した。
 たちまち風息が焦がれた頃の緑に覆われ、呼吸を取り戻してゆく大地を眺めていた、隣の小柄な背。金髪に隠れて表情がうかがえなくても、何の感慨も浮かんでいないだろうことを叶子は察していた。
「ありがとう。いくら思いのままになるとはいえ、小黒が消耗しないわけじゃない。俺たちでできることはやらないと」
 かつての『計画』の首謀者であり、今は霊域の主の保護者となった紫紺の妖精が笑ってそう言う。
「阿赫にも本当に感謝している。ここから人間たちに出て行ってもらえたのは傀儡術のおかげだ。小黒もきっと、わかってる」

「あの執行人の介入がこれで終わるとは思えん」
「領界へ入ってくるって?ずいぶんと高評価だな」
「……伊達に連敗してない」
「連中が来るなんて考えたくもないね。もうここだけが好きにやれる場所なんだ、おれも、お前も。主に歓迎されてなかろうが知ったことか」
 好きにやれてる顔なのか、それが?
 そう口にしかけて、やめる。投げかけた瞬間に叶子自身へと跳ね返ってくる、やくたいもない問いだ。
「あの小猫が来たんだよ、今日」
「小黒が?お前のところへか」
「お前にもよろしくって」
 阿赫がうつむいて自らの頭を示す。見ればさらりと揺れたサイドの髪のあいだに、赤紫もあざやかな二輪の菊花が挿してあった。なんだそれ、と言いかけて思い当たる。
「あの人たちの差し金か」
 風息が小黒と阿赫たちの距離感を案じているそぶりは、確かにある。だが彼がそれ以上に憂いているのは、新たに楽園へ迎えた妖精たちの一部が、あまりにも強大な領界の主の力を目の当たりにして畏怖をつのらせていることだ。
 おそれも敬いも、度を越せば待つのは強すぎる反動だ。

 ──これ、風息や洛竹が咲かせてくれたんだ。持っていって、みんなにあいさつしてきたらいいよって。
 提げた籠へ溢れんばかりの紫の花を抱えた黒猫の妖精は、そう言ってはにかんだ。阿赫はとりたてて愛想笑いを返す気も起きず、ただありがとうとだけ言って、二輪の花へと手を伸べた。
 ──あ、待って。いいこと思い出した。
 ぱっと腕を引っ込めた幼子の声は、自らの思いつきに心なしか弾んでいた。子どもの柔らかな手が、座る阿赫のニット帽と耳の間の髪束を少しかきあげ、握った切り花をさし入れる──

「ここはあいつの霊域。触れた相手の記憶を読むなんてワケない。だが、普段は意図してその術を自分で遮断していたようだ。おれを読んでしまったとき、あいつ自身も油断したって顔だった」
 阿赫の記憶に触れた。それはつまり、風息と自らとの出会いのからくりを知ったということだ。
「ま、力だけ奪わずに小黒を領界の主へ据えた時点で、あの人にはもうとっくに覚悟できてたことだろうけどな」
(確かにそうだ)
 自由に暮らす願いを同じくした段階ともなれば、もはや露見したとて致命的な問題にはならないと見做していただろう。
 だが、今はどうか?
 誰しもに力をおそれられ、神同然の扱いを受ける幼子の孤独など、叶子には想像もつかない。つかないなりに、眼下の痩躯を見やって思う。
 どんなに翳りを帯びても、阿赫のまなざしが諦観に沈むことはなかった。愛しくて、わが身をおいても安息の地平を与えたいのに、それすら叶えてやれない──ただひとりの同胞を思うにももどかしい自分と、楽園へ一縷の望みをかけてやってきたあまたの妖精の願いを背に負う幼子。
「全部が全部、思い通りに動いてんのにな。まだ足りない。な、おれって贅沢?」
 そんなことはない。そう伝える代わりに、叶子は阿赫の小ぶりな後ろ頭を引き寄せて口付けた。やわらかく細い髪を、せめていとおしみが伝わるようにと幾度もくしけずり、撫でさする。
「ふっ……はぅ……んん、」
 永くは続かない世界。そのたしかな予感が互いの裡をたゆたい、熱を逃すまいとしてぬめる舌が、抱く腕がいっそう貪欲さを増す。
「…………!」
 そのとき、一瞬──ほんの一瞬だけ、指先へ触れた強い霊力の気配に、叶子ははっと唇を離した。
「ん、……なに……?」
 とろりと融けかけた瞳のまま、訝しげにうかがう阿赫とともに、彼の耳元から抜き取った花を見つめる。
「いや。……必要ない、俺たちには」
 対象の動向を感知するための霊質。それらが形作っていた花弁はひときわ明るく輝くと、思い思いに楽園の空の黒暗へと散じていった。



***

このあと二人が外界の館勢と偶然接触し、散々悩み抜いたすえ彼らの手引きをしてmisterioso展開になるのもよし、ずっと耳目をふさいでお互いに溺れるもよしとされる
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