【叶赫】籠のうちそと


「ん、おれ……寝てた、のか」
 叶子の左肩から腕にかけて寄りかかっていた重みが、もぞりと動く。
「ああ」
「……へえ。ちょっと鈍ったかな」
 独言にやや驚きをにじませた阿赫は、緩慢なしぐさで首を振り、ぱちぱちと目をしばたたかせた。
 今の二人が随う妖精の本拠、人の文明に忘れ去られた島。もう大陸にはそう残らないであろう齢の大樹の下、久々の聚霊を始めたのもつかの間、いつしか叶子の隣の青年は眠りに落ちていた。
「変なの。なんかおちつく、お前」
「鍛えてるからだろう。お前がもたれたくらいじゃビクともしない、好きなだけ──」
「ん、そうじゃなくて……さ」
 とろんとした瞳の焦点が、濃紺の奥の叶子の像へとゆっくり合わさっていく。
「寝るとき、こんな気が緩むっていうか……安心すんの、人間の街こっちに来てから初めてだから」
 あの人の誘い、乗ってよかったよ。お前みたいなのとも会えたんだし。
 ふにゃりと笑みくずれた口もとからこぼれたのは、顔合わせの頃からは想像もつかない、柔らかさをさらけ出した言葉だった。
(……まだ少し、夢うつつにいるんだろう)
 そう言い聞かせても、心底を鷲掴みにされるような、じんわりと這い上ってくる何かは叶子を去ってくれない。
「阿赫……」
 己と相手、どちらの何を制するべきか。迷いのまま、絞り出すように名前を呼ぶ。
 次の瞬間──金髪ゆたかなこうべは、再びかくん、と糸が切れたように叶子の肩口へうずまった。
(寝足りなかったか)
 タンクトップ一枚の半身に、今度は正面から受け止めることとなったそれ。頼りなくも弛緩しきった重み、規則正しい寝息と、自分より少しだけぬるく感じる体温と。
 信頼されている。それは叶子にとって、とても『ありがたいこと』だ。
 これ以上は考えまい。今はただ、その事実だけを享受するとしよう。
 叶子は眠る背中に手を添えようとして逡巡し、すぐにやめた。

「可愛いやつだろう」
 ぱち、と焚き火が爆ぜ、いまは叶子の膝へと落ち着いた阿赫をゆらゆらと照らす。傍からその寝顔を見つめる、頭領の妖精のまなざしはやさしい。
「見た目ほど冷淡じゃない。見てると、ときどき熱すぎて危なっかしいくらいだ」
「……そう思う」
 叶子も、本心からうなずく。
「これからも頼むよ、こいつのこと」
「なぜ俺に」
 問い返された風息が、ふっと笑いをもらした。その目はすでに、常のどこか人を寄せつけない深い色を取り戻している。
「阿赫はおまえを気に入ってるよ。おまえになら頼める。それに、おまえだってもう、そうせずにはいられないはずだ」
 一瞬──ほんの一瞬だけ、不思議な光が叶子を射抜く。だが、すぐそれもうつむいた長い前髪に隠れて見えなくなった。
 そして、叶子がその言の真意をたずねる機会は、ついぞ巡ってこなかった。

 あの夜、煙くゆる天を爛々と満たしていた星も、人のいとなみの光が埋めつくすこの街では息をひそめて久しい。
 追っ手の撹乱のため、屋上からそのまばゆい只中へと身を投じた阿赫は、着地してすぐに違和感をおぼえた。
「叶子……?」
 方々に分かれて逃げるはずの相手が、阿赫のゆくてを阻むかのように目の前へ立つ。訝しげに呼ばれた男の表情は、路地に落ちる濃い影で遮られてうかがえない。
「すまない」
 男はゆっくりと大股で踏み出し、距離を詰めてくる。街灯の下へさらされたまなざしと言葉に、阿赫の顔は一瞬にしてこわばった。
(知らない)
 今まで見たこともない、静かだが固い信念をたたえた瞳──それに相反して、苦衷の滲む声色。
「はっ……?え、なに──なんだよ、おまえ……、ッ!」
 阿赫が背を向けた刹那、逃さず叩き込まれた手刀で、小柄な体は声もなく落ちくずれた。細い髪は重力に従ってふわりと垂れ、受け止めた筋肉質な腕へと千々に広がる。
 いつかの記憶の同じ重みが、叶子の中に否が応でもよみがえってきた。
(……よりによって、背中を見せるとは)
 叶子の胸に苦いものがこみ上げる。元来の阿赫なら取らなかっただろう不覚。それを取らせたのが自身へのほどけきった心であることは、叶子が一番よく分かっていた。

「ご苦労さま。上出来だろう」

 落ち着きはらった声が降ってくる。音もなく背後へ降り立った男を一瞥した叶子に、驚きはない。
「とんだ試験になってしまったね。他の執行人からも、仲間を捕らえたとの連絡が複数入っている」
「……そうでしたか」
「无限様のことは本当に申し訳なかった。当初の予定通りに連絡をつけられず、きみを一派の仲間とみなしたまま鉢合わせてしまったようで」
「いや、俺も気づいてもらおうと思えばできたでしょうが、あの方とは一度正面から戦う機会がほしかった」
「さすがは、龍游会館武闘派きっての期待の星だ」
 男が微笑する。
「それに……」
「こちらの彼に気づかれる虞を排したかった?」
「そう、なります」
 ぎこちなく頷く新人の横顔をしばし見つめたあと、男はおもむろに手を差しのべた。
「では、その者の身柄はこちらで引き受ける。領界を展開できなかった以上、外へ出られない彼ら全員の捕縛は時間の問題とはいえ、万一ということもある。前線への加勢を」
「館につくまで、俺がこれの面倒を見ます」
 ──叶子。
 男が、予想の内だというようにかぶりを振る。
「今さら、私などが語るまでもないが……執行人となれば、切り捨てねばならない事物も数限りなくある。今回の潜入は、きみがそれに耐えうるかを試すため課された試練だろう」
「承知しています」
「我々が風息を見誤っていたこともあって、結果的には大事になってしまったが。きみは役目を果たした、深入りする必要はもはやない。間諜であったことも彼の記憶から消し去るのが相当だ」
「それも無用のことです」
「……意識を失わせることに成功した時点で、きみへの評価は定まっている。こちらとしても、その後の態度を原因に覆すのはなるべく避けたいのが本音だ」
 物腰はやわらかなまま、ひときわ低くなった声色のみが明確に圧を発している。だが、叶子はことばが口をついて出るのを止められなかった。
「評定を失うのも、……こいつに罵りを受けるのも、当然だと理解しています。だが何かがひとつ違っていれば、俺も同じ境遇にいたかもしれない。今後の更生を考えても、この者をこの先、一人にするべきではない──と思います」

 沈黙が落ちた。
 やがて──ぱきぱきとアスファルトが微小な破片となって舞い上がり、叶子の腕の直下へ渦を巻き始めるのを、男は目ざとく見てとる。
(無意識、ということにしてあげよう)
 大きく息をつくと、ひとりごとのように呟く。
「いつか、きみを拾い教えた師が言っていた。ただ他者をすくい上げ、その依って立つ礎となりたい。優しさなどよりももっと素朴な願いが、きみの力にはあると」
 言葉を切り、叶子へと向き直った。
「法を執行するにあたって、捕らえ裁くのはスタート地点にすぎない。大切なのはその後だ。きみが収監者との新たなコミュニケーションの道を拓く可能性も、ゼロではない……か」
 たとえそれが、ほとんど夢物語に過ぎないと分かっていても。
 かつてこの若者のように虜囚の清洗を拒んだものの、いざ対面し『二度と会わない方がどれほど良かったか』と嘆く館の間者を目にした経験が、一度や二度ではないとしても。
 それらを無言のうちに飲み込み、男は続ける。
「彼の言葉に免じて、この場は私が引き受ける。安全に連行するように」
「谢谢你、冠萱大人」
 意識のない体を抱えたまま、叶子は深々と頭を垂れる。顔を上げればすでに執行人の影は地を蹴り、ビルを縫って風と消えていた。

 近くなり遠くなるサイレンを聞きながら、叶子は師が言ったという評を反芻する。
(俺がこれのそばにいてやりたいと思うのは、本能や力のためだけなのだろうか?)
 寄り添って眠る彼の髪のこそばゆさ、頬のやわらかさ。
 いつもの皮肉げな色でよそおうのを忘れた瞬間の、幼さすらにじむ笑み。
 それらを手ひどく裏切ったことに後悔はない。会館のあり方が最大多数の妖精を守る、その信念が揺らぐこともない。
 ただ、──冠萱には告げなかった思いがひとつだけある。
 彼から心開かれる日が永遠に巡ってこないとしても。今後向けられるのが憎悪だけだとしても、忘れられるよりはずっといいということ。もう二度と向けられない表情でも、 なかったことにはしたくない。
 それは今までおぼえもしなかった、確かな我欲だ。
(もっとも、あの方には見透かされているだろうが)
 冠萱が申し出を許容したのは、あくまで今の叶子に思想面での根本的な問題は見られないと判断したゆえだろう。今後も監督を続ける心づもりなのだと受け止めた。
(こいつとどう接していくかも含めて、か)

 瞬間──にわかに地を揺るがす轟音が腹の底へと響き、叶子は顔を上げる。
 中央区方面だろう。いずれ劣らぬ二つの術がぶつかり合い、破壊と崩壊が石の城を瓦礫の山へと変えていく。
 一方は執行人中最強の名をとる男、もうひとりはきっと風息だ。
『おまえだってもう、そうせずにはいられないはずだ』
 彼はどこまで知っていたのだろうか。
 おそらくは叶子自身さえ気づけていなかった、是や非を超えた執着の情までも。
「すまないな、阿赫」
 何もかも諦められない、決して諦めるつもりもない──己のような厄介者に捕らえられるなど。
「ん……」
 遠い地響きが伝わったか、意識のない阿赫の眉間へかすかに皺が寄る。
 覗き込んだ青白い頬をなで、面差しをやわらげてやりたい衝動をぐっと抑えて、腕の中へと抱え直す。直後、叶子は林立するビルの谷間へと身を躍らせた。
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