紫煙 sg×kwmr
オフィスに忘れ物をした。
手を洗おうと思って外したリングを、洗面台に置きっぱなしにしていたことに気がついたのは、オフィスの近くで友人と晩御飯がてらに飲んでいた時だった。
誰から貰ったというものでもないけれど、とても気に入っていたので無くなっていたらショックだ。
二軒目の誘いをやむなく断って、僕はお気に入りのリングを迎えに行くことにした。
夜がとても冷え込むようになり、オフィスへ向かう僕の息も白く染まる。
雪がほとんど降らない都会において、冬になったなぁと一番実感するのは、吐く息が白くなることかもしれない。
明日は休みだし、二軒目行けなかった分は家に帰ってから飲もう。などと考えながら、歩く足はだんだんと早まっていった。
「あれ、?」
誰もいないと思っていたオフィスに入ると、あかりが着いていた。
もうそろそろ23時だが、誰かまだいるんだろうか。
「失礼します。」
急に入って驚かせるのも、と思い声をかけたが返答はないので、一先ず足は洗面台へ向かう。
リングは置いた記憶のある場所で見つかった。存在を確かめるように指にはめてほっと胸をなでおろす。あって良かった。
そのまま黙って帰ってもよかったのだが、時間も時間だし、こんな遅くまで誰が残っているんだろう?と気になり、ついつい明かりのついた部屋へと足が向いてしまう。
部屋の扉を開けると、ぱっと見た感じでは誰もいないけれど、ベランダに出る窓が空いていた。
この寒いのに、ベランダに出てるのか。
「失礼します、」
ともう一度声をかけて、ベランダを覗くと、
誰だか顔を確認するより先に、すん、と鼻腔へたどり着いたのは煙草の匂いだった。
「…志賀くん、?」
少し掠れた声で僕の名を呼びながら、此方へと向いたのは、河村さんの顔。
「お疲れ様、です。あれ、煙草…」
口にして、あ、と気がつく。
普段全く吸わない河村さんが煙草を口にしている、という、あまりに唐突な出来事に言葉が先に漏れてしまったが、きっと河村さんはそこに一番触れられたくなかったはずだ。
まして、動画でもあまり交流のない僕なんかには特に。
「ばれちゃった、」
ふ、と綻ぶように笑う顔が、あまりにも儚くて美しい。河村さんは、顔では笑いつつ、目ではどこか苛立っているような、そんな少々の不穏を感じさせるような顔つきで、それは見る側の僕を小さく身震いさせてしまうほどの威力をもっていた。
人の心に敏感だと言う自負があった、僕はもっと上手く距離をはかることが出来たし、相手が厭な所には触れずにやり過ごすようなことだって出来たはずだった。
それでも、口から「煙草」が先に漏れてしまったのは、
目の前の彼が煙草を細い指に挟み、薄い唇で吸う姿というのがこうも美しいものだったのかと、感動するほど心を揺り動かされてしまったせいだった。
今の今まで、神と煙草というイメージは僕の中で途轍もなく不似合いなものだったはずなのに。
「みんなには、面倒だから言わないでねぇ、」
と、言葉自体は緩く発しながらも、口よりも物を言いがちな河村さんの鋭い眼光が確実に僕を捕らえる。
「言いませんよ。誰かにばらすのは、勿体ないです。」
これは僕の正直な感想ではあったが、傍から聞いたら少し変態的な返答でもあっただろう。
それでも河村さんの、この美しく煙を纏った姿というのは息を飲むほど価値があると思ったのだ。
「なんだそれ、」
と、気が抜けたようにまた微笑を浮かべる河村さんは、その横顔ひとつで簡単に、僕の心など撃ち抜いてしまう。
憂いを帯びているという言葉が1番似合うはずのその表情が、なぜだかやけに艶めかしく、だからと言って他人が手を出す隙がない。
美しさとは本来、他人に愚弄されるべきものでは無いのだと、あくまで崇高に扱うものなのだと、改めて実感させられる。
殺傷能力のあるほどに綺麗なその横顔で紫煙をくゆらせる河村さんをながめているうち、ふと湧いたのは、この場面を切り取りたい。という願望だった。
「あの、写真とってもいいですか?」
「なに、これを弱味に脅しでもするの?」
嫌そうな顔で僕を見る、そんな表情ですら、嘆息が出るほど綺麗だ。
「いえ、ただ僕が、今の美しい河村さんを写真に撮りたいと感じてしまって。」
そう言うと河村さんは、困ったように眉を下げた。
いつも、鋭くなんでも見透かしてしまいそうな目は、一瞬でこんなにも消え入りそうに弱々しい目に変わっていく。
その変容に、思わず呼吸を忘れてしまいそうになる。
「…撮って満足してしまうなら、撮らないで一生惜しんでくれた方がいい。」
それは、僕に聞こえるか聞こえないか、という程の微かな声だった。
それでも、よく聞かなければ分からない程に少し涙が滲んだ声だった。
なんて、酷い。
なんて、酷いことを、言ってのけるんだろう。
凶器のように美しい顔をして、透けるように儚い声をして、こんなにも酷いことを。
身震いする。寒さにでも恐怖にでもない。
美しさに身震いするのは人生で初めてだ。
あぁなんて、河村さんは河村さんなんだろう。
「随分、ひどいこと、いうんですね、」
「こんなに、不安定な状態の僕のことを、美しいなんて表現する君は、傲慢だよ。」
吸い終えた煙草の火を足元で揉み消し、吸殻を携帯灰皿に入れるのは、確かに拍子抜けするほど人間らしい行動だ。
なのに、何故、貴方がやるとこんなにも。
「…傲慢、と言うより、強欲なんじゃないでしょうか、僕は。」
衝動的に、河村さんの手首を掴んで引き寄せて、煙草をさっきまで挟んでいた指に口付ける。寒い中で冷え切った指に纏う煙草の匂い、その奥には、しっかりと河村さん自身の匂いがした。
河村さんは呆気に取られたような顔で僕を見つめる。
全てを吸い込む洞のような黒目と、それを取り囲む妖しい白目のコントラスト。
誰も知らない所でその白目の方に映した世界を、僕にも少しだけ分けて欲しい、なんて
強欲にもそんなことを思ってしまうくらいに僕は、河村さんの美しさに興奮し、血が沸いているのを感じて深く、嘆息を漏らす。
「酔狂、だな。」
鼻で笑うように言う河村さんの言葉尻に、僅かに動揺が伺える。
それでも逃げる素振りを見せない河村さんは、きっと、僕を、赦すんじゃないだろうか。
「こんなの…甘んじて受け入れちゃダメじゃないですか。」
掴んだままの指先の冷たさに、じわじわと酒の酔いが覚めてきつつある。
ダメじゃないですか、などと自分で言いつつ、目の前で小さく唇を震わせる河村さんを、僕をきっと赦すだろう河村さんを、どうして僕のものにするかばかりに気が取られる。
「…好きに、していいよ、」
「…」
「覚悟が、あるなら、」
冬の夜風に冷え切った身体を抱き寄せる。
僕は僕の覚悟の証明を、今から始める権利をもらってしまったのだ。
手を洗おうと思って外したリングを、洗面台に置きっぱなしにしていたことに気がついたのは、オフィスの近くで友人と晩御飯がてらに飲んでいた時だった。
誰から貰ったというものでもないけれど、とても気に入っていたので無くなっていたらショックだ。
二軒目の誘いをやむなく断って、僕はお気に入りのリングを迎えに行くことにした。
夜がとても冷え込むようになり、オフィスへ向かう僕の息も白く染まる。
雪がほとんど降らない都会において、冬になったなぁと一番実感するのは、吐く息が白くなることかもしれない。
明日は休みだし、二軒目行けなかった分は家に帰ってから飲もう。などと考えながら、歩く足はだんだんと早まっていった。
「あれ、?」
誰もいないと思っていたオフィスに入ると、あかりが着いていた。
もうそろそろ23時だが、誰かまだいるんだろうか。
「失礼します。」
急に入って驚かせるのも、と思い声をかけたが返答はないので、一先ず足は洗面台へ向かう。
リングは置いた記憶のある場所で見つかった。存在を確かめるように指にはめてほっと胸をなでおろす。あって良かった。
そのまま黙って帰ってもよかったのだが、時間も時間だし、こんな遅くまで誰が残っているんだろう?と気になり、ついつい明かりのついた部屋へと足が向いてしまう。
部屋の扉を開けると、ぱっと見た感じでは誰もいないけれど、ベランダに出る窓が空いていた。
この寒いのに、ベランダに出てるのか。
「失礼します、」
ともう一度声をかけて、ベランダを覗くと、
誰だか顔を確認するより先に、すん、と鼻腔へたどり着いたのは煙草の匂いだった。
「…志賀くん、?」
少し掠れた声で僕の名を呼びながら、此方へと向いたのは、河村さんの顔。
「お疲れ様、です。あれ、煙草…」
口にして、あ、と気がつく。
普段全く吸わない河村さんが煙草を口にしている、という、あまりに唐突な出来事に言葉が先に漏れてしまったが、きっと河村さんはそこに一番触れられたくなかったはずだ。
まして、動画でもあまり交流のない僕なんかには特に。
「ばれちゃった、」
ふ、と綻ぶように笑う顔が、あまりにも儚くて美しい。河村さんは、顔では笑いつつ、目ではどこか苛立っているような、そんな少々の不穏を感じさせるような顔つきで、それは見る側の僕を小さく身震いさせてしまうほどの威力をもっていた。
人の心に敏感だと言う自負があった、僕はもっと上手く距離をはかることが出来たし、相手が厭な所には触れずにやり過ごすようなことだって出来たはずだった。
それでも、口から「煙草」が先に漏れてしまったのは、
目の前の彼が煙草を細い指に挟み、薄い唇で吸う姿というのがこうも美しいものだったのかと、感動するほど心を揺り動かされてしまったせいだった。
今の今まで、神と煙草というイメージは僕の中で途轍もなく不似合いなものだったはずなのに。
「みんなには、面倒だから言わないでねぇ、」
と、言葉自体は緩く発しながらも、口よりも物を言いがちな河村さんの鋭い眼光が確実に僕を捕らえる。
「言いませんよ。誰かにばらすのは、勿体ないです。」
これは僕の正直な感想ではあったが、傍から聞いたら少し変態的な返答でもあっただろう。
それでも河村さんの、この美しく煙を纏った姿というのは息を飲むほど価値があると思ったのだ。
「なんだそれ、」
と、気が抜けたようにまた微笑を浮かべる河村さんは、その横顔ひとつで簡単に、僕の心など撃ち抜いてしまう。
憂いを帯びているという言葉が1番似合うはずのその表情が、なぜだかやけに艶めかしく、だからと言って他人が手を出す隙がない。
美しさとは本来、他人に愚弄されるべきものでは無いのだと、あくまで崇高に扱うものなのだと、改めて実感させられる。
殺傷能力のあるほどに綺麗なその横顔で紫煙をくゆらせる河村さんをながめているうち、ふと湧いたのは、この場面を切り取りたい。という願望だった。
「あの、写真とってもいいですか?」
「なに、これを弱味に脅しでもするの?」
嫌そうな顔で僕を見る、そんな表情ですら、嘆息が出るほど綺麗だ。
「いえ、ただ僕が、今の美しい河村さんを写真に撮りたいと感じてしまって。」
そう言うと河村さんは、困ったように眉を下げた。
いつも、鋭くなんでも見透かしてしまいそうな目は、一瞬でこんなにも消え入りそうに弱々しい目に変わっていく。
その変容に、思わず呼吸を忘れてしまいそうになる。
「…撮って満足してしまうなら、撮らないで一生惜しんでくれた方がいい。」
それは、僕に聞こえるか聞こえないか、という程の微かな声だった。
それでも、よく聞かなければ分からない程に少し涙が滲んだ声だった。
なんて、酷い。
なんて、酷いことを、言ってのけるんだろう。
凶器のように美しい顔をして、透けるように儚い声をして、こんなにも酷いことを。
身震いする。寒さにでも恐怖にでもない。
美しさに身震いするのは人生で初めてだ。
あぁなんて、河村さんは河村さんなんだろう。
「随分、ひどいこと、いうんですね、」
「こんなに、不安定な状態の僕のことを、美しいなんて表現する君は、傲慢だよ。」
吸い終えた煙草の火を足元で揉み消し、吸殻を携帯灰皿に入れるのは、確かに拍子抜けするほど人間らしい行動だ。
なのに、何故、貴方がやるとこんなにも。
「…傲慢、と言うより、強欲なんじゃないでしょうか、僕は。」
衝動的に、河村さんの手首を掴んで引き寄せて、煙草をさっきまで挟んでいた指に口付ける。寒い中で冷え切った指に纏う煙草の匂い、その奥には、しっかりと河村さん自身の匂いがした。
河村さんは呆気に取られたような顔で僕を見つめる。
全てを吸い込む洞のような黒目と、それを取り囲む妖しい白目のコントラスト。
誰も知らない所でその白目の方に映した世界を、僕にも少しだけ分けて欲しい、なんて
強欲にもそんなことを思ってしまうくらいに僕は、河村さんの美しさに興奮し、血が沸いているのを感じて深く、嘆息を漏らす。
「酔狂、だな。」
鼻で笑うように言う河村さんの言葉尻に、僅かに動揺が伺える。
それでも逃げる素振りを見せない河村さんは、きっと、僕を、赦すんじゃないだろうか。
「こんなの…甘んじて受け入れちゃダメじゃないですか。」
掴んだままの指先の冷たさに、じわじわと酒の酔いが覚めてきつつある。
ダメじゃないですか、などと自分で言いつつ、目の前で小さく唇を震わせる河村さんを、僕をきっと赦すだろう河村さんを、どうして僕のものにするかばかりに気が取られる。
「…好きに、していいよ、」
「…」
「覚悟が、あるなら、」
冬の夜風に冷え切った身体を抱き寄せる。
僕は僕の覚悟の証明を、今から始める権利をもらってしまったのだ。
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