DQ3 夜明けの果てに君と


 勇者。

 魔王バラモス。

 そして、アリアハン。

 頭の中では、知っているはずの物語が次々とつながっていく。けれど、いざ目の前に本物の勇者がいるとなると、何をどう考えればいいのか分からなくなってしまう。

 そんなカエデの隣を、アレルはいつもと変わらない足取りで歩いていた。

 草原を抜ける風が、二人の間を吹き抜けていく。遠くには町を囲む城壁が見え、その向こうに赤い屋根や石造りの建物が並んでいた。陽の光を受けた城壁は明るく照らされ、見慣れたはずの景色が、現実のものとして目の前に広がっている。

 カエデは町並みを見渡した。

 知っている。

 この町の造りも、城へ続く道も。

 もちろん、実際に歩くのは初めてだ。けれど、何度も見た景色だからこそ、どこに何があるのか、頭の中にはっきりと地図が浮かんでいた。

「あ、あの……お城はこっちだよ?」

 カエデは、アレルが進もうとしていた道とは別の方向を指さした。

 アレルが足を止めた。

「…………」

「…………」

「……どうして、城の場所が分かる?」

「えっ。あっ。いや、その……」

 しまった。

 またやってしまった。

 アレルはカエデの指さした先を見て、それから彼女に視線を戻した。

「お前、この町に来たことがあるのか?」

「な、ないです!」

「では、どうして城の場所が分かる?」

「…………」

 カエデの額に、冷や汗が浮かんだ。

 どうする。

 なんと説明すればいい。

 まさか、ゲームで何度も歩いたからです、なんて言えるわけがない。

「……なんとなく?」

「なんとなくで分かるものなのか?」

「わ、分かるときは分かるんです!」

「……そうか」

 アレルは納得していない顔をしていた。

 当然だ。

 自分だって、今の説明で納得できるわけがない。

 けれど、彼はそれ以上問い詰めず、カエデの示した道へと歩き出した。

「……案内してくれるか?」

「えっ、いいんですか?」

「お前のほうが詳しそうだからな」

「詳しいわけじゃ……!」

 言いかけて、カエデは口をつぐんだ。

 詳しい。

 確かに、知っている。

 けれど、それを認めるわけにはいかない。

「……なんでもないです」

「……?」

 アレルはまた不思議そうに首を傾げた。

 カエデは顔を逸らし、心の中で叫んだ。

 ――私のばかああああ!!

 こうして、なぜかカエデが先導する形で、二人はアリアハン城へと向かった。

 * * *

 城門をくぐると、空気が変わった。

 町の喧騒が遠のき、石造りの建物に囲まれた広い通路が目の前に伸びている。

 兵士たちが規則正しく立ち、磨かれた床には高い窓から差し込む光が落ちていた。壁にはアリアハンの紋章が飾られ、通路の奥には重厚な扉が見える。

 カエデは思わず背筋を伸ばした。

 ゲームの中では何度も見た場所だ。

 けれど、ここには画面の向こうにはなかった音がある。

 兵士の鎧が触れ合う音。

 遠くから聞こえる足音。

 誰かが交わす、控えめな会話。

 窓から吹き込む風が、廊下に飾られた旗を静かに揺らしていた。

 そして、城の奥から漂ってくる、どこか厳かな雰囲気。

 ここは、本物のお城なのだ。

「……すごい」

 またしても、口から感想が漏れた。

「何がだ?」

「い、いえ! なんでもないです!」

 アレルは何か言いたげだったが、やがて小さく息をついた。

「……お前は、本当に不思議なやつだな」

「自分でもそう思います……」

 カエデが小声で答えると、アレルはほんの少しだけ笑った。

 その表情に、カエデは胸の奥がきゅっとなるのを感じた。

 この人が、アレル。

 画面の向こうで知っていた勇者が、今、目の前で笑っている。

 その事実を、まだうまく受け止められなかった。

 やがて、玉座の間へと続く大きな扉の前に着いた。

 アレルは扉の前で立ち止まり、カエデを振り返った。

「ここから先は、王様にお目通りする場所だ。お前はどうする?」

「えっ?」

「……一緒に来るか?」

 カエデは一瞬、迷った。

 王様。

 アリアハン王。

 ゲームの始まりに、勇者へ旅立ちを命じる人物。

 その人に会える。

 けれど、自分がここにいていいのだろうか。

「……行っても、いいんですか?」

「お前のことも、説明しておきたい。俺が連れてきたんだからな」

 アレルは、当たり前のことのように言った。

 その言葉に、カエデは少しだけ目を丸くした。

 自分を連れてきた責任を、きちんと感じてくれているのだ。

 初対面なのに。

 ついさっき、スライムに襲われていたところを助けてもらったばかりなのに。

「……ありがとうございます」

「礼を言われるようなことじゃない」

 アレルは扉へ向き直った。

「行こう」

 重い扉が開かれる。

 広い玉座の間の奥に、王冠を戴いた男が座っていた。

 高い天井から吊るされた燭台が、室内を柔らかく照らしている。赤い絨毯が玉座へ向かってまっすぐに伸び、その両脇には兵士たちが控えていた。

 アリアハンの王。

 その眼差しは、入ってきたアレルを見つめた瞬間、わずかに揺れた。

「……おお」

 王はゆっくりと立ち上がった。

「よくぞ来た。勇敢なるオルテガの息子よ」

 その言葉に、アレルは深く頭を下げた。

「お目通りがかない、光栄です」

 カエデも慌てて頭を下げる。

 王の視線が、アレルからカエデへと移った。

「……そなたの隣にいる娘は?」

「道中で出会いました。魔物に襲われていたので、町まで連れてきたのです」

「そうか。危ないところであったな」

「は、はい……助けていただきました」

 カエデは緊張しながら答えた。

 王は一度頷き、それから再びアレルを見た。

「そなたの父、オルテガは……魔王討伐の旅の途中、火山に落ち、帰らぬ人となった」

 その言葉が、玉座の間に落ちた。

 アレルの表情が、わずかに引き締まる。

 カエデは思わず彼の横顔を見た。

 アレルは、父の死を知っている。

 知っていて、それでも旅立とうとしている。

 王はしばらく沈黙した。

「……余は、オルテガを失ったことを、今も悔いておる」

 その声には、王としての威厳とは別の、ひとりの人間としての悔恨が滲んでいた。

「彼を、ひとりで旅立たせてしまった。あれほどの勇者であっても、ひとりでは越えられぬものがあったのだろう。……余は、それをもっと深く考えるべきであった」

 王の手が、玉座の肘掛けを強く握った。

「今さら悔いても、失った命は戻らぬ。だが、同じ過ちを繰り返すわけにはいかぬ」

 王はアレルをまっすぐに見つめた。

「そなたの父の遺志を継ぎ、旅に出たいという願い、しかと聞き届けた。敵は魔王バラモスじゃ。世界はいまだ、その脅威に覆われておる」

 そして、王は厳かに告げた。

「魔王バラモスを倒してまいれ!」

 カエデは息を呑んだ。

 知っている言葉だ。

 ゲームで聞いたことのある、物語の始まりを告げる言葉。

 けれど、実際に聞くと、その重さはまるで違っていた。

 目の前にいるのは、冒険の始まりを告げる役割を与えられた王様ではない。

 ひとりの少年に、世界の命運を託そうとしている人間だった。

 王は、続けた。

「だが、そなたひとりで魔王に立ち向かうのは危険であろう。町のルイーダの酒場へ行き、旅の仲間を集めるがよい。頼れる者たちと力を合わせ、旅立つのじゃ」

「……承知しました」

 アレルは、静かに頭を下げた。

 王は、彼を見つめていた。

 その眼差しには、期待だけではないものがあった。

 恐れ。

 後悔。

 そして、今度こそ同じ結末にしたくないという、切実な願い。

「……オルテガのように、ひとりですべてを背負おうとはするな」

 王の声が、少しだけ低くなった。

「仲間を信じよ。そなたが無事に帰ってくることを、余は願っておる」

 アレルは、もう一度深く頭を下げた。

「……ありがとうございます。必ず、魔王を倒してまいります」

 その横顔を見ながら、カエデは思った。

 この世界の人たちは、本当に生きている。

 父を失った王も。

 父の遺志を継ごうとしているアレルも。

 ゲームでは一つの台詞だったものが、ここでは誰かの後悔や願いとつながっている。

 カエデは胸の前で、そっと手を握りしめた。

 この世界を知っている。

 けれど、知っているだけでは足りないのかもしれない。

 * * *

 城を出た二人は、町の西側にあるルイーダの酒場へ向かった。

 日差しは少しずつ傾き、石畳の上には建物の影が長く伸び始めていた。通りには買い物を終えた人々や、仕事帰りの職人たちの姿がある。店先からは焼きたてのパンの香りが漂い、遠くでは子どもたちの笑い声が聞こえていた。

 扉を開けると、酒と料理の匂いが漂ってきた。

 店内には、冒険者らしき人々の姿があった。大きな剣を背負った男。腰に短剣を差した女。隅の席で、何やら大声で笑っている男たち。

 カエデは思わず、期待に胸を膨らませた。

 ここで仲間を集める。

 勇者の旅が始まる場所だ。

 ――の、はずなのだが。

「なあ、あんたがオルテガの息子か?」

 カウンター近くにいた男が、アレルを見て声をかけてきた。

「……そうだが」

「へえ。あの勇者の息子が、いよいよ旅に出るってわけか」

 男はアレルの装備を上から下まで眺めた。

「それで、俺たちに魔王退治を手伝えって?」

「……仲間を探している。報酬についても、相談できる」

「はっ。相手は魔王様だろ? 親父さんが帰ってこなかった旅だ。そんなところに好き好んで行くやつがいると思うか?」

 アレルは何も言わなかった。

 男は肩をすくめる。

「悪いが、俺は御免だね」

 その言葉を皮切りに、近くにいた冒険者たちも顔を見合わせた。

「オルテガは本当に強かったらしいが……」

「そのオルテガだって、帰ってこなかったんだろ?」

「魔王相手に、命を張る理由なんてねえよ」

 誰かが笑った。

 誰かが視線を逸らした。

 露骨に嘲笑する者もいれば、申し訳なさそうに目を伏せる者もいた。

 それぞれ事情はあるのだろう。

 家族がいる者もいる。

 命を懸けるほどの覚悟を持てない者もいる。

 誰もが、勇者のために命を投げ出せるわけではない。

 それは分かる。

 分かるけれど。

 カエデは、アレルの横顔を盗み見た。

 彼は怒らなかった。

 相手を責めることもしなかった。

 ただ、静かに頭を下げた。

「……そうか。邪魔をしたな」

 その姿が、カエデには少しだけ痛々しく見えた。

 * * *

 その後も、二人は酒場の中を回った。

 腕に覚えがあるという男は、話を聞くなり「魔王退治は冗談じゃない」と笑い飛ばした。

 大きな斧を持った女は、家族のいる町を離れられないと断った。

 旅の経験があるという男は、アレルの父の名を聞くと、急に表情を曇らせた。

「……悪いな。オルテガのことは尊敬している。だが、俺まで同じところへ行く気はない」

 断られるたびに、アレルは「そうか」と答えた。

 それ以上、無理に頼み込むことはしなかった。

 カエデも何度か口を挟もうとしたが、そのたびに言葉を飲み込んだ。

 相手にも事情がある。

 アレルも、それを分かっている。

 だからこそ、誰かを責めることはしないのだろう。

 やがて、酒場の奥から、ひときわ大きな笑い声が響いた。

「魔王退治だって? あはははは! そんなの、勇者様がひとりでやればいいじゃねえか!」

 酔った男が、仲間らしき連中と肩を組んで笑っていた。

「そうそう! オルテガの息子なら、親父の仇を討ってこいよ!」

「……」

 アレルの指が、わずかに動いた。

 けれど、彼は何も言わなかった。

 カエデの胸が、ぎゅっと締めつけられた。

 彼は父の仇を討つためだけに旅立つのではない。

 世界を守るために、自分の意志で旅に出ようとしている。

 それなのに、周囲の人々は、彼をオルテガの息子という肩書きでしか見ていない。

 その重さを、彼はひとりで受け止めていた。

 そのとき、酒場の奥で笑っていた男の一人が、カエデの姿に気づいた。

「……おい、そこの嬢ちゃん」

 突然声をかけられ、カエデはびくりと肩を揺らした。

「えっ、私?」

「ほかに誰がいるんだよ。見ねえ服だな。どこの町から来た?」

「えっと……ちょっと遠くから」

「へえ。そんな格好で一人旅か? ずいぶん変わった服を着てるじゃねえか」

 男は面白がるようにカエデの制服を眺めた。

 カエデは居心地の悪さを感じ、そっとアレルの方を見た。

 彼は少し離れた場所で、別の冒険者と話をしていた。

「……あの、私、連れがいるので」

「連れ? ああ、あの勇者様か?」

 男はアレルを見て、鼻で笑った。

「あんな死に急ぎについていくより、俺たちと飲んだほうが楽しいぜ?」

「い、いえ……結構です」

「そう遠慮するなって。ちょっと話すだけだろ?」

 男が距離を詰めてきた。

 カエデは一歩、後ずさった。

 笑って断ればいい。そう思うのに、うまく笑顔が作れない。

「……本当に、大丈夫ですから」

「なんだよ、つれねえな」

 男の手が、カエデの腕に伸びかけた。

 その瞬間。

「……やめろ」

 低い声が、二人の間に割って入った。

 カエデが顔を上げると、アレルが男の前に立っていた。

 いつの間に来たのか、分からなかった。

 ただ、赤いマントがカエデの視界を横切り、その背中が彼女をかばうようにそこにあった。

「……アレル」

 アレルは男から目を離さないまま、静かに言った。

「その子が嫌がっているだろう」

「なんだよ、お前。俺たちは話していただけだぜ」

「本人が断っている」

「ちょっとくらいいいじゃねえか」

「嫌がっている相手に、無理に付き合いを求めるな」

 アレルの声は落ち着いていた。

 怒鳴ることも、剣に手をかけて脅すこともしない。

 ただ、カエデと男の間に立ち、彼女がこれ以上近づかれないようにしていた。

 男は不機嫌そうに顔をしかめた。

「……チッ。つまんねえな」

「行こうぜ。こんなところにいても仕方ねえ」

 男たちは舌打ちしながら離れていった。

 アレルはその姿を確かめてから、ようやくカエデへ振り返った。

「……大丈夫か?」

 カエデは、まだ少し強張っていた肩の力を抜いた。

「……うん。ありがとう」

「……ならいい」

 それだけ言って、アレルは彼女の様子をもう一度確かめた。

 それから、少しだけ眉を寄せる。

「……嫌なら、もっとはっきり断っていい」

「うん……。でも、あなたが大事な話をしてたから、邪魔しちゃいけないと思って」

「……自分のことを後回しにする必要はない」

 その言葉に、カエデは目を瞬かせた。

「……え?」

「困ったことがあれば、呼んでくれればいい」

 アレルはそれだけ言うと、再び仲間探しへ戻っていった。

 カエデはその背中を見つめた。

 魔物から守ってくれたときと同じだ。

 アレルは、困っている自分を放っておかなかった。

 勇者だから、というだけではない。

 彼自身が、そういう人なのだ。

 カエデは胸の奥に広がる温かさを感じながら、小さく息を吐いた。

 ――やっぱり、優しい人だ。

 * * *

 酒場を出ると、外は夕暮れに近づいていた。

 西の空は橙色に染まり、建物の屋根や窓を赤く照らしている。昼間の賑わいは少しずつ落ち着き、通りを行き交う人々の足取りもゆったりとしていた。

 アレルはしばらく黙って歩いていたが、やがて足を止めた。

「……今日は、ここまでにしよう」

「……え?でもまだ一人も……」

「もう少し探してみるつもりだったが、無理に頼むわけにもいかない」

 その声は、いつもと変わらないように聞こえた。

 けれど、カエデには分かった。

 彼は、傷ついている。

 それでも、誰にもそれを見せないようにしている。

「……俺ひとりで行く」

 アレルは前を向いたまま言った。

「父さんも、ひとりで旅に出た。俺も勇者として、やるべきことをやる」

「でも……」

「仲間がいないからといって、旅を諦めるわけにはいかない」

 その言葉には、確かな決意があった。

 カエデは、何も言えなくなった。

 ひとりで行く。

 本当に?

 この先には、スライムよりも強い魔物がいる。

 バラモスがいる。

 ゲームで知っているだけでも、ひとりで旅をするには危険すぎる。

 それに、カエデは知っていた。

 アレルがどれほど強くなろうと、ひとりではどうにもならない場面があることを。

 仲間がいるからこそ越えられる危機があることを。

 けれど、今の彼には、まだその仲間がいない。

 カエデは、そっと彼の袖をつまんだ。

「……アレル」

「ん?」

「……ひとりで、全部背負わなくてもいいんじゃないかな」

 アレルが振り返った。

 カエデは、自分でも驚くほど穏やかな声で続けた。

「みんなが怖いのは、仕方ないと思う。命がかかっているんだもん。誰だって、簡単には決められないよ」

「……」

「でも、それはあなたがひとりで戦わなきゃいけない理由にはならないと思う」

 言いながら、カエデは自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと息を吸った。

「アレルは、世界を守るために旅に出るんでしょう?」

「ああ」

「だったら……少しくらい、誰かに頼ってもいいんじゃないかな」

 アレルは黙っていた。

 カエデは彼の顔を見上げた。

「……私が、一緒に行くよ」

「……何?」

「私、アレルと一緒に旅に出たい」

 アレルの目が、わずかに見開かれた。

「……お前が?」

「うん」

「……どうしてだ?」

 当然の質問だった。

 出会ったばかりの少女が、なぜ魔王討伐の旅についてこようとするのか。

 自分でも、説明するのは難しい。

 けれど、理由がないわけではなかった。

 カエデは少しだけ視線を落とした。

「……私ね、ここに来る前は、別の世界にいたの」

「別の世界……?」

「うん。ここじゃない場所。私が住んでいた世界には、魔物はいなかったし、剣を持って旅をする人も、ほとんどいなかった」

 アレルは、驚いたように彼女を見つめていた。

 カエデは続けた。

「気がついたら、この草原にいて……何が起きたのか、私にも分からない。帰り方だって分からない」

 言葉にすると、胸の奥に押し込めていた不安が、少しだけ形になった。

 本当は怖い。

 元の世界に戻れるのか。

 家族や友達に、もう一度会えるのか。

 自分がこれからどうなるのか。

 何も分からない。

 カエデは、アレルの顔をそっと窺った。

 こんな話を、簡単に信じてもらえるとは思っていない。自分でも、何が起きたのか説明できないのだから。

「……信じてくれる?」

 不安を含んだ声で尋ねると、アレルは少しだけ考えるように黙った。

 そして、静かに答えた。

「今のところ、お前に嘘をつく理由がない」

「……そっか」

 思いがけない返事に、カエデの肩から少し力が抜けた。

 すべてを理解してくれたわけではない。それでも、頭ごなしに否定されなかったことが嬉しかった。

「……でも、アレルが旅に出ることは分かった」

 カエデは顔を上げた。

「それに、私は……この世界のことを、少しだけ知っていると思う」

「……どういう意味だ?」

「全部じゃないよ。知らないこともたくさんある。でも、これから起こることについて、気づけることがあるかもしれない。魔物のことも、道のことも……役に立てることがあると思う」

 ゲームの知識。

 その言葉は、喉の奥で止まった。

 この世界がゲームだなんて、言えない。

 アレルたちが、物語の中の登場人物だなんて。

 そんなことを伝えて、信じてもらえるはずがない。

 何より、彼らの世界は本物なのだ。

 カエデは、もうそれを知っていた。

「……だから、私も連れていってほしい」

 少しだけ、声が震えた。

「私、戦うことはできないし、魔法も使えない。さっきのスライムだって、自分ひとりじゃどうにもできなかった」

 あのときの恐怖が、胸の奥によみがえる。

 けれど、カエデは目を逸らさなかった。

「でも……何もできないまま、ここで待っているのは嫌なの」

 アレルは、じっと彼女を見つめていた。

「……危険だぞ」

「うん。分かってる」

「これから先、さっきのスライムより強い魔物にも出会う。怪我をするかもしれない。命を落とすことだってある」

「……うん」

「それでも、行くのか?」

 カエデは、小さく息を吸った。

「……行きたい」

 そして、ほんの少しだけ笑った。

「それに、アレルをひとりにしたくないんだ」

 その言葉に、アレルは目を見開いた。

「……俺を?」

「うん」

「……どうして、そこまで」

 カエデは答えに迷った。

 本当のことを言えば、理由はいくらでもある。

 あなたが勇者だから。

 あなたが、世界を救う人だから。

 あなたが、この先どんな旅をするのか知っているから。

 でも、それだけではなかった。

 草原で自分を助けてくれたこと。

 危険な場所にひとりで残さず、町まで連れてきてくれたこと。

 仲間を断られても、誰かを恨んだり責めたりしなかったこと。

 そして、自分が困っているときにも、迷わず助けに来てくれたこと。

 そんなアレルを見ていたら、放っておけなくなった。

「……今日、私を助けてくれたでしょう?」

「……ああ」

「だから今度は、私がアレルの力になりたいの」

 カエデは、照れくさそうに笑った。

「……それじゃ、だめかな?」

 夕暮れの風が、二人の間を吹き抜けた。

 アレルはしばらく何も言わなかった。

 カエデを見つめる目には、戸惑いがあった。

 危険な旅だ。

 彼女は戦えない。

 魔法も使えない。

 自分の身を守る術さえ、まだ十分に持っていない。

 本来なら、連れていくべきではないのかもしれない。

 けれど。

 ここに残したとして、彼女はどうなるのだろう。

 元の世界へ帰る方法も分からない。

 頼れる人もいない。

 今日のように魔物に襲われたら、また誰かが助けてくれるとは限らない。

 それなら。

 自分の目の届く場所にいてもらったほうがいい。

 危険から守ることもできる。

 彼女が知っているという、この世界のことについても、旅をしながら確かめていける。

 何より――。

 アレルは、彼女をひとりにしたくなかった。

「……分かった」

 カエデが顔を上げた。

「……え?」

「ただし、約束してほしいことがある」

「な、なに?」

「危険を感じたら、無理をしないこと。俺の指示には従うこと。それから、何かあったら必ず俺に話すこと」

 カエデは、ぱちぱちと瞬きをした。

「……それって」

「……何だ?」

「一緒に行ってもいいってこと?」

「……ああ」

 その瞬間、カエデの顔がぱっと明るくなった。

「……ありがとう、アレル!」

 思わず、声が弾んだ。

 アレルは少しだけ目を逸らした。

「礼を言うのは、まだ早い。旅に出れば、きっと大変なこともある」

「うん!」

「……本当に分かっているのか?」

「分かってるよ!」

 カエデは大きく頷いた。

 それから、ふと気づいたように首を傾げた。

「……あっ。でも、私、武器もお金も何も持ってない……」

「……そこからか」

「だって大事でしょ!?」

 アレルは、とうとう小さく笑った。

 その笑顔を見て、カエデもつられて笑った。

 まだ、何も解決していない。

 帰る方法も分からない。

 旅の目的も、危険も、これから出会うものも。

 それでも、ひとつだけ決まったことがある。

 カエデは、アレルと一緒に旅に出る。

 そしてアレルもまた、ひとりではなくなった。

 勇者と、異世界から来た少女。

 この出会いが、いつか二人の運命を大きく変えることになるとは――まだ、どちらも知らなかった。
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