DQ3 夜明けの果てに君と
最初に感じたのは、頬を撫でる風の冷たさだった。
次に、草の匂い。
そして、頬に触れる小さな葉の感触。
「…………ん?」
カエデはゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がっていたのは、青い空だった。
雲が流れている。
風に揺れる草が、さわさわと音を立てている。少し離れたところでは、見たこともない花が小さく揺れていた。
のどかだった。
あまりにも、のどかだった。
「…………え?」
起き上がりかけたカエデは、そこで動きを止めた。
見渡す限りの草原。
遠くに連なる緑の丘。
空を横切る鳥の影。
そして、どこにも見当たらない、見慣れた街並み。
つい先ほどまで、自分はこんな場所にいなかったはずだ。
学校に行って、いつもどおりの一日を過ごして、それから――。
そこまで考えて、頭の中に靄がかかった。
「……え、待って。ここ、どこ?」
当然、返事はない。
カエデは自分の服を見下ろした。
着ているのは、いつもの高校の制服だった。
スカートの裾についた草を払い、膝についた土を手で落とす。怪我はしていない。手足も動く。鞄はないけれど、少なくとも体に異常はなさそうだった。
それだけが、今のところの救いだった。
――いや、救いなのか?
そもそも、どうして草原にいるのだろう。
どうやってここまで来たのだろう。
そして、ここは本当にどこなのだろう。
疑問ばかりが浮かんでくる。
けれど、どれだけ考えても答えは出なかった。
「……と、とりあえず、人を探そう」
ひとりで考えていても仕方がない。
そう自分に言い聞かせ、カエデは立ち上がった。
そのときだった。
――ぷるん。
「…………え?」
何かが跳ねる音がした。
カエデは音のしたほうを振り向いた。
草むらの向こうに、青いものが見えた。
丸い。
つやつやしている。
頭の上には、小さな突起のようなものがある。
黒い目が、こちらを向いていた。
そして、口らしきものが、にこりと笑ったように見えた。
「…………」
カエデは、固まった。
見覚えがあった。
ありすぎるほど、あった。
何度も見たことがある。
ゲームの画面の中で。
旅の始まりに、何度も遭遇したことがある。
その姿を知らない人のほうが少ないかもしれない。
青くて、丸くて、ぷるぷるしていて。
大きな目と、にこにことした口。
「……ス、スライム……?」
口にした瞬間、背筋がぞわりとした。
そうだ。
スライムだ。
ドラゴンクエストシリーズでおなじみの、あのスライム。
けれど。
けれど、待ってほしい。
どうして、目の前にいるのだろう。
どうして、ゲームの画面がないのだろう。
どうして、こんなに生々しいのだろう。
日差しを受けてぬらりと光る体。
地面に触れるたび、柔らかく形を変える輪郭。
こちらをじっと見つめる、黒い目。
可愛らしいはずの笑顔が、今はひどく不気味に見えた。
カエデは一歩、後ずさった。
スライムも、ぴょん、と跳ねた。
「……いや、待って待って待って」
カエデの声が裏返る。
「いやいやいや、スライムって! スライムって、あのスライム!? え、嘘でしょ!? なんで!? ここどこ!? ていうか、近っ……!」
スライムは答えなかった。
ただ、ぷるん、と体を揺らした。
次の瞬間。
スライムの体が、ぐっと沈み込んだ。
「……え?」
嫌な予感がした。
そう思ったときには、もう遅かった。
スライムが、勢いよく跳ねた。
「ひゃっ――!」
カエデは反射的に横へ飛び退いた。
直後、目の前を青い塊が通り過ぎる。
どんっ、と鈍い音がして、スライムが背後の地面にぶつかった。
草が大きく揺れた。
カエデはよろめきながら、なんとか踏みとどまった。
「…………っ!」
心臓が、痛いほど鳴っていた。
今のは。
今のは、当たっていたらどうなっていたのだろう。
可愛いとか、弱いとか、そんな話ではない。
あれは、自分を狙って飛びかかってきたのだ。
目の前にいるのは、画面の中の敵ではない。
現実に、自分を傷つけようとしている生き物だった。
「……うそ、でしょ……」
声が震えた。
逃げなければ。
そう思ったのに、足がうまく動かなかった。
スライムは、何事もなかったかのように体を起こした。
ぷるん、と揺れる。
そして再び、カエデのほうを向いた。
逃がすつもりはないらしい。
「ちょ、ちょっと待って! 話し合おう!? ね!? 私、別に何もしてないよね!?」
もちろん、返事はない。
スライムが、再び身を沈める。
今度こそ、避けられるだろうか。
そもそも、どこへ逃げればいいのだろう。
走ればいい?
でも、追いつかれたら?
武器なんてない。
魔法だって使えない。
ゲームなら、コマンドを選んで戦うことができる。敵の強さだって、ある程度は分かる。
けれど、今は違う。
自分の行動ひとつで、何が起こるのか分からない。
スライムの体が、再び跳ね上がった。
「――っ!」
カエデは身をよじった。
青い体が制服のすぐ脇をかすめる。
避けられた。
けれど、着地した足が草に滑った。
「あっ……!」
体勢が崩れる。
膝が地面につき、手のひらに土が食い込んだ。
顔を上げた先で、スライムが向きを変えていた。
距離が、近い。
近すぎる。
もう一度、あれが飛んできたら。
今度は、避けられないかもしれない。
「……っ、やだ……!」
頭の中が真っ白になった。
何かしなければ。
逃げなければ。
でも、どうすればいいのか分からない。
スライムが跳ねる。
カエデは、とっさに腕で顔を庇った。
――その瞬間。
「伏せろ!」
鋭い声が、草原を切り裂いた。
反射的に、カエデは身を縮めた。
風を切る音。
すぐそばで、金属がぶつかるような鋭い音が響いた。
続いて、青い塊が地面を転がる。
カエデは息を呑んだ。
目の前に、ひとりの少年が立っていた。
剣を構え、こちらを庇うように前へ出ている。
風に揺れる髪と赤いマント。
旅装に身を包み、手にした剣を迷いなく構える姿。
背中越しに見えるその立ち姿には、年齢に似合わないほどの落ち着きがあった。
少年はスライムから目を離さないまま、短く尋ねた。
「怪我は?」
「……え?」
「怪我はないか?」
「あ、え、えっと……た、たぶん……!」
「なら、そこを動くな」
少年の声は落ち着いていた。
それが、かえって不思議だった。
目の前には、どう見ても普通ではない生き物がいる。
自分は今にも泣き出しそうなのに。
彼は、まるでこういうことに慣れているようだった。
スライムが、再び跳ねた。
少年は剣を引き、相手の動きを見極める。
飛びかかってくる青い体を、わずかに身をずらしてかわした。
そして、すれ違いざまに剣を振るう。
乾いた音が響いた。
スライムの体が大きく弾み、地面に落ちる。
もう一度、跳ねようとした。
けれど、少年の剣がそれを許さなかった。
数度の攻防のあと、スライムの動きが止まった。
青い体が淡い光に包まれ、やがて跡形もなく消えていく。
草原に、風の音だけが戻った。
「…………」
カエデは、呆然とその光景を見つめていた。
終わった。
あのスライムが。
本当に、消えた。
少年は剣を下ろし、しばらく周囲を警戒していたが、ほかに敵がいないと分かると、ようやくこちらを振り返った。
「……立てるか?」
その顔を見た瞬間。
カエデの心臓が、別の意味で跳ねた。
見覚えがある。
さっきよりも、ずっとはっきりと。
顔立ちも、髪も、装備も。
何度も見た、あの姿に似ていた。
ゲームの中で、冒険の始まりからずっと見てきた勇者。
けれど、目の前の少年は画面の中の存在ではない。
剣を握る指には力がこもっている。
呼吸をするたび、胸がわずかに上下する。
こちらを気遣う眼差しも、草原に吹く風も、すべてが本物だった。
――まさか。
いや、そんなはずはない。
だって、ここはどこなのかも分からないのだ。
似ているだけかもしれない。
そもそも、本人だったとして、どうして自分がここにいるのだろう。
「……おい?」
「あっ、はいっ!」
声をかけられ、カエデは飛び上がった。
少年が、わずかに眉を寄せる。
「……大丈夫か?」
「だ、大丈夫です! はい! 全然! もう、めちゃくちゃ大丈夫です!」
「……そうは見えないが」
「気のせいです!」
「……?」
少年は不思議そうに首を傾げた。
その仕草まで、妙に見覚えがある気がした。
カエデは慌てて視線を逸らした。
だめだ。
見れば見るほど、考えてしまう。
まさか。
でも。
いやいやいや。
そんなことを考えている場合ではない。
今はとにかく、この場所について聞かなければ。
「あ、あの!」
「なんだ?」
「ここって……どこですか?」
少年は少しだけ目を見開いた。
「……どこ、というのは?」
「えっと、その……国というか、町というか……。私、気がついたらここにいて……」
言いながら、カエデは自分の説明があまりにも頼りないことに気づいた。
けれど、ほかにどう言えばいいのか分からない。
少年は彼女の服装に目を留めた。
制服。
この世界では見慣れない形の服を、彼は不思議そうに眺めている。
けれど、問い詰めることはしなかった。
「ここはアリアハンの近くだ。町まで行けば、人もいる」
「……アリアハン」
カエデは、思わず呟いた。
知っている。
その名前を、知っている。
けれど、それだけではまだ確信できない。
ここが本当に、自分の知っている世界なのだとしたら。
目の前の少年が、本当にあの勇者なのだとしたら。
考えがまとまるより先に、少年が手を差し出した。
「立てるか?」
カエデはその手を見つめた。
少し迷ってから、そっと手を取る。
引き上げられ、なんとか立ち上がった。
「……ありがとうございます」
「いや。間に合ってよかった」
少年はそう言って、ほっとしたように息をついた。
その表情を見て、カエデの胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
怖かった。
本当に、怖かった。
けれど、助けてもらえた。
それだけで、張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
「……あの、あなたは……」
聞きかけて、言葉が止まる。
名前を聞いてしまえば、何かが決定的になってしまう気がした。
少年はそんな彼女の様子を気に留めることなく、剣を鞘に収めた。
「町まで一緒に行こう。ここにひとりでいるのは危ない」
「えっ、でも……」
「さっきのような魔物が、ほかにもいるかもしれない」
「……ま、魔物」
カエデの顔が引きつった。
そうだ。
さっきのは、魔物だった。
ゲームの中では何度も倒した相手。
けれど、現実になった途端、あんなにも恐ろしい存在になるなんて思わなかった。
少年は彼女の顔色を見て、少し声を和らげた。
「町までは、そう遠くない。歩けそうか?」
「は、はい! 歩けます!」
「なら、行こう」
少年が歩き出す。
カエデは慌てて、その後を追った。
草原を抜ける風が、制服の裾を揺らす。
数歩進んだところで、カエデはちらりと隣を見た。
やはり、似ている。
どうしよう。
もし本当に、あの人だったら。
もし、ここが本当に――。
「……あの」
「ん?」
「お名前、聞いてもいいですか?」
少年は、こちらを見た。
「俺はアレル」
その瞬間、カエデの思考が止まった。
「…………」
アレル。
今、アレルって言った?
いや、待って。
落ち着こう。
同じ名前の人なんて、いるかもしれない。
いるかもしれないけれど。
あの見た目で。
あの装備で。
アリアハンの近くにいて。
名前が、アレル。
…………。
「…………あ、そう、なんですね」
声が、ひっくり返りかけた。
アレルが不思議そうに彼女を見る。
「……何か?」
「い、いえ! なんでもないです!」
「……そうか」
納得しているのか、していないのか。
アレルはそれ以上追及せず、前を向いた。
カエデは口元を押さえた。
どうしよう。
どうしようどうしよう。
名前まで一致してしまった。
これはもう、偶然で片づけていいのだろうか。
いや、でも、まだ決まったわけではない。
決まったわけではないのだ。
そう自分に言い聞かせながら、カエデは歩いた。
――そして。
草原の向こうに、町が見えた。
白い壁。
見張りの塔。
遠くからでも分かる、見覚えのある街並み。
町へ近づくにつれて、カエデの足取りが少しずつ遅くなった。
石造りの建物。
道の曲がり方。
門の向こうに見える景色。
知っている。
知っているはずだ。
画面の中で、何度も見た。
何度も歩いた。
けれど、実際に目にする景色は、記憶の中のそれとはまるで違っていた。
建物の壁には細かな凹凸があり、石畳の隙間からは小さな草が顔を出している。人々の声や、どこかの店から漂ってくる食べ物の匂いまでが、風に乗って届いてきた。
町は、生きていた。
ゲームの背景ではない。
誰かが暮らし、笑い、働いている、本物の町だった。
「……すごい」
カエデは、思わず足を止めた。
「……何がだ?」
「えっ、あっ、いや! なんでもないです!」
慌てて歩き出す。
危ない。
また変なことを言うところだった。
でも、仕方がない。
だって、ここは。
ここは、もしかして本当に。
「……アリアハン、なんだ」
小さく漏れた呟きに、アレルが反応した。
「そうだが」
「……えっ」
「さっき、そう言っただろう?」
「そ、そうでしたね!」
カエデは勢いよく頷いた。
やってしまった。
知っていることを、知っているように口にしてしまった。
アレルはしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく息をついた。
「……お前、少し変わっているな」
「へっ!?」
「いや。悪い意味ではない」
「ほ、ほんとですか……?」
「少なくとも、今のところは」
「今のところ!?」
思わず声が大きくなった。
アレルが、ほんのわずかに口元を緩めた。
笑った。
その顔を見たカエデは、またしても言葉を失いかけた。
――ああ、もう。
やっぱり、似ている。
似ているどころではない。
この人は。
もしかして、本当に。
けれど、その答えを確かめる前に、アレルが口を開いた。
「俺は、これから城へ行く」
「……お城?」
「ああ。旅立つ前に、王様に挨拶をしておきたいんだ」
旅立つ。
王様。
城。
その言葉が、カエデの頭の中でつながっていく。
まさか。
まさか、そんな。
アレルは、歩きながら続けた。
「俺は今日、勇者として旅に出る。その前に、王様に報告しておく必要があるんだ」
「…………」
カエデの足が止まった。
勇者。
旅立ち。
頭の中で、すべてがひとつになった。
目の前にいる少年。
アリアハン。
――ああ。
やっぱりそういうことか。
ここは、ドラゴンクエストIIIの世界だ。
しかも、物語の始まり。
まだ、バラモスを倒す旅が始まっていない時点の。
理解した瞬間、カエデの口が勝手に動いた。
「……えっ。じゃあ、バラモスを倒しに行くの!?」
言ってから、気づいた。
しまった。
アレルが、ゆっくりと振り返った。
「…………」
「…………」
沈黙。
町を行き交う人々の声が、急に遠くなった気がした。
アレルの表情から、わずかな笑みが消えていた。
「……なぜ、バラモスの名を知っている?」
「…………」
「俺は今、初めてお前に話したはずだが」
「…………」
カエデは、口を開いた。
閉じた。
もう一度、開いた。
「……えっと」
「うん」
「……その」
「……?」
「……あ、あはは、さっきすれ違った人達がそんな噂をしてたというか…」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
アレルは笑わなかった。
当然だ。
出会ったばかりの少女が、見たこともない服装をしていて、町のことを知っているような口ぶりをして、そのうえ、まだ詳しく話していない旅の目的まで言い当てたのだから。
不思議に思わないほうがおかしい。
カエデは、ぎこちなく頷いた。
「……勘、かな?」
どうしよう。
どう説明すればいいのだろう。
異世界から来たことも。
この世界の物語を知っていることも。
あなたが、自分の知っている勇者そのものだということも。
何ひとつ、うまく説明できる気がしなかった。できたとしても、きっと狂った奴だと思われてしまう。
いっそのこと、この世界の住人だとしてしまった方が、この場だけは乗り切れるのか……
アレルは黙り込んでしまった彼女をしばらくの間見つめていたが、やがて城のほうへ視線を向けた。
「……ひとまず、城へ行こう。話はそれからだ」
「……お城?」
「ああ。俺は王様に会わなければならないし、お前のことも気になる」
「……あ、あの、私、怪しい者では……」
「それは、話を聞いてから判断する」
「ですよねぇ……」
カエデは肩を落とした。
どうやら、自分はとんでもないことを口走ってしまったらしい。
怖い。
不安だ。
何も分からない。
それでも。
画面の向こうでしか知らなかった勇者が、今、自分の隣を歩いている。
それだけは、夢でも幻でもなかった。
すぐそばから聞こえる足音も、風に揺れる赤いマントも、隣を歩く少年の気配も、すべてが現実だった。
何度も見てきたはずの横顔を、カエデはそっと盗み見る。
画面越しなら、どれほど見つめていても、こちらの視線に気づかれることはなかった。けれど、今は違う。目が合えば、きっと何かを尋ねられる。自分が知っている彼と、目の前にいる彼。その違いを、どう受け止めればいいのだろう。
そんなことを考えていると、隣を歩いていたアレルが、ふと足を緩めた。
「お前の名前を教えてくれないか?」
不意に向けられた声に、カエデの肩が小さく跳ねる。
そういえば、まだ名乗っていなかった。
当然のことを聞かれただけなのに、胸の奥が落ち着かない。彼に自分の名前を告げる――たったそれだけのことが、どうしてこんなにも特別に感じられるのだろう。
「……カエデです。」
振り絞るようにそう告げると、アレルは確かめるように繰り返した。
「……カエデ、か」
カエデは制服の裾をぎゅっと握りしめた。
そして、心の中で小さく呟いた。
――どうしよう。
私、本当に。
ドラゴンクエストIIIの世界に来ちゃったんだ。
まだ何も知らないまま。
この世界で、これから何が起こるのかも。
隣を歩く勇者と、どんな旅をすることになるのかも。
何ひとつ、知らないまま。
次に、草の匂い。
そして、頬に触れる小さな葉の感触。
「…………ん?」
カエデはゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がっていたのは、青い空だった。
雲が流れている。
風に揺れる草が、さわさわと音を立てている。少し離れたところでは、見たこともない花が小さく揺れていた。
のどかだった。
あまりにも、のどかだった。
「…………え?」
起き上がりかけたカエデは、そこで動きを止めた。
見渡す限りの草原。
遠くに連なる緑の丘。
空を横切る鳥の影。
そして、どこにも見当たらない、見慣れた街並み。
つい先ほどまで、自分はこんな場所にいなかったはずだ。
学校に行って、いつもどおりの一日を過ごして、それから――。
そこまで考えて、頭の中に靄がかかった。
「……え、待って。ここ、どこ?」
当然、返事はない。
カエデは自分の服を見下ろした。
着ているのは、いつもの高校の制服だった。
スカートの裾についた草を払い、膝についた土を手で落とす。怪我はしていない。手足も動く。鞄はないけれど、少なくとも体に異常はなさそうだった。
それだけが、今のところの救いだった。
――いや、救いなのか?
そもそも、どうして草原にいるのだろう。
どうやってここまで来たのだろう。
そして、ここは本当にどこなのだろう。
疑問ばかりが浮かんでくる。
けれど、どれだけ考えても答えは出なかった。
「……と、とりあえず、人を探そう」
ひとりで考えていても仕方がない。
そう自分に言い聞かせ、カエデは立ち上がった。
そのときだった。
――ぷるん。
「…………え?」
何かが跳ねる音がした。
カエデは音のしたほうを振り向いた。
草むらの向こうに、青いものが見えた。
丸い。
つやつやしている。
頭の上には、小さな突起のようなものがある。
黒い目が、こちらを向いていた。
そして、口らしきものが、にこりと笑ったように見えた。
「…………」
カエデは、固まった。
見覚えがあった。
ありすぎるほど、あった。
何度も見たことがある。
ゲームの画面の中で。
旅の始まりに、何度も遭遇したことがある。
その姿を知らない人のほうが少ないかもしれない。
青くて、丸くて、ぷるぷるしていて。
大きな目と、にこにことした口。
「……ス、スライム……?」
口にした瞬間、背筋がぞわりとした。
そうだ。
スライムだ。
ドラゴンクエストシリーズでおなじみの、あのスライム。
けれど。
けれど、待ってほしい。
どうして、目の前にいるのだろう。
どうして、ゲームの画面がないのだろう。
どうして、こんなに生々しいのだろう。
日差しを受けてぬらりと光る体。
地面に触れるたび、柔らかく形を変える輪郭。
こちらをじっと見つめる、黒い目。
可愛らしいはずの笑顔が、今はひどく不気味に見えた。
カエデは一歩、後ずさった。
スライムも、ぴょん、と跳ねた。
「……いや、待って待って待って」
カエデの声が裏返る。
「いやいやいや、スライムって! スライムって、あのスライム!? え、嘘でしょ!? なんで!? ここどこ!? ていうか、近っ……!」
スライムは答えなかった。
ただ、ぷるん、と体を揺らした。
次の瞬間。
スライムの体が、ぐっと沈み込んだ。
「……え?」
嫌な予感がした。
そう思ったときには、もう遅かった。
スライムが、勢いよく跳ねた。
「ひゃっ――!」
カエデは反射的に横へ飛び退いた。
直後、目の前を青い塊が通り過ぎる。
どんっ、と鈍い音がして、スライムが背後の地面にぶつかった。
草が大きく揺れた。
カエデはよろめきながら、なんとか踏みとどまった。
「…………っ!」
心臓が、痛いほど鳴っていた。
今のは。
今のは、当たっていたらどうなっていたのだろう。
可愛いとか、弱いとか、そんな話ではない。
あれは、自分を狙って飛びかかってきたのだ。
目の前にいるのは、画面の中の敵ではない。
現実に、自分を傷つけようとしている生き物だった。
「……うそ、でしょ……」
声が震えた。
逃げなければ。
そう思ったのに、足がうまく動かなかった。
スライムは、何事もなかったかのように体を起こした。
ぷるん、と揺れる。
そして再び、カエデのほうを向いた。
逃がすつもりはないらしい。
「ちょ、ちょっと待って! 話し合おう!? ね!? 私、別に何もしてないよね!?」
もちろん、返事はない。
スライムが、再び身を沈める。
今度こそ、避けられるだろうか。
そもそも、どこへ逃げればいいのだろう。
走ればいい?
でも、追いつかれたら?
武器なんてない。
魔法だって使えない。
ゲームなら、コマンドを選んで戦うことができる。敵の強さだって、ある程度は分かる。
けれど、今は違う。
自分の行動ひとつで、何が起こるのか分からない。
スライムの体が、再び跳ね上がった。
「――っ!」
カエデは身をよじった。
青い体が制服のすぐ脇をかすめる。
避けられた。
けれど、着地した足が草に滑った。
「あっ……!」
体勢が崩れる。
膝が地面につき、手のひらに土が食い込んだ。
顔を上げた先で、スライムが向きを変えていた。
距離が、近い。
近すぎる。
もう一度、あれが飛んできたら。
今度は、避けられないかもしれない。
「……っ、やだ……!」
頭の中が真っ白になった。
何かしなければ。
逃げなければ。
でも、どうすればいいのか分からない。
スライムが跳ねる。
カエデは、とっさに腕で顔を庇った。
――その瞬間。
「伏せろ!」
鋭い声が、草原を切り裂いた。
反射的に、カエデは身を縮めた。
風を切る音。
すぐそばで、金属がぶつかるような鋭い音が響いた。
続いて、青い塊が地面を転がる。
カエデは息を呑んだ。
目の前に、ひとりの少年が立っていた。
剣を構え、こちらを庇うように前へ出ている。
風に揺れる髪と赤いマント。
旅装に身を包み、手にした剣を迷いなく構える姿。
背中越しに見えるその立ち姿には、年齢に似合わないほどの落ち着きがあった。
少年はスライムから目を離さないまま、短く尋ねた。
「怪我は?」
「……え?」
「怪我はないか?」
「あ、え、えっと……た、たぶん……!」
「なら、そこを動くな」
少年の声は落ち着いていた。
それが、かえって不思議だった。
目の前には、どう見ても普通ではない生き物がいる。
自分は今にも泣き出しそうなのに。
彼は、まるでこういうことに慣れているようだった。
スライムが、再び跳ねた。
少年は剣を引き、相手の動きを見極める。
飛びかかってくる青い体を、わずかに身をずらしてかわした。
そして、すれ違いざまに剣を振るう。
乾いた音が響いた。
スライムの体が大きく弾み、地面に落ちる。
もう一度、跳ねようとした。
けれど、少年の剣がそれを許さなかった。
数度の攻防のあと、スライムの動きが止まった。
青い体が淡い光に包まれ、やがて跡形もなく消えていく。
草原に、風の音だけが戻った。
「…………」
カエデは、呆然とその光景を見つめていた。
終わった。
あのスライムが。
本当に、消えた。
少年は剣を下ろし、しばらく周囲を警戒していたが、ほかに敵がいないと分かると、ようやくこちらを振り返った。
「……立てるか?」
その顔を見た瞬間。
カエデの心臓が、別の意味で跳ねた。
見覚えがある。
さっきよりも、ずっとはっきりと。
顔立ちも、髪も、装備も。
何度も見た、あの姿に似ていた。
ゲームの中で、冒険の始まりからずっと見てきた勇者。
けれど、目の前の少年は画面の中の存在ではない。
剣を握る指には力がこもっている。
呼吸をするたび、胸がわずかに上下する。
こちらを気遣う眼差しも、草原に吹く風も、すべてが本物だった。
――まさか。
いや、そんなはずはない。
だって、ここはどこなのかも分からないのだ。
似ているだけかもしれない。
そもそも、本人だったとして、どうして自分がここにいるのだろう。
「……おい?」
「あっ、はいっ!」
声をかけられ、カエデは飛び上がった。
少年が、わずかに眉を寄せる。
「……大丈夫か?」
「だ、大丈夫です! はい! 全然! もう、めちゃくちゃ大丈夫です!」
「……そうは見えないが」
「気のせいです!」
「……?」
少年は不思議そうに首を傾げた。
その仕草まで、妙に見覚えがある気がした。
カエデは慌てて視線を逸らした。
だめだ。
見れば見るほど、考えてしまう。
まさか。
でも。
いやいやいや。
そんなことを考えている場合ではない。
今はとにかく、この場所について聞かなければ。
「あ、あの!」
「なんだ?」
「ここって……どこですか?」
少年は少しだけ目を見開いた。
「……どこ、というのは?」
「えっと、その……国というか、町というか……。私、気がついたらここにいて……」
言いながら、カエデは自分の説明があまりにも頼りないことに気づいた。
けれど、ほかにどう言えばいいのか分からない。
少年は彼女の服装に目を留めた。
制服。
この世界では見慣れない形の服を、彼は不思議そうに眺めている。
けれど、問い詰めることはしなかった。
「ここはアリアハンの近くだ。町まで行けば、人もいる」
「……アリアハン」
カエデは、思わず呟いた。
知っている。
その名前を、知っている。
けれど、それだけではまだ確信できない。
ここが本当に、自分の知っている世界なのだとしたら。
目の前の少年が、本当にあの勇者なのだとしたら。
考えがまとまるより先に、少年が手を差し出した。
「立てるか?」
カエデはその手を見つめた。
少し迷ってから、そっと手を取る。
引き上げられ、なんとか立ち上がった。
「……ありがとうございます」
「いや。間に合ってよかった」
少年はそう言って、ほっとしたように息をついた。
その表情を見て、カエデの胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
怖かった。
本当に、怖かった。
けれど、助けてもらえた。
それだけで、張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
「……あの、あなたは……」
聞きかけて、言葉が止まる。
名前を聞いてしまえば、何かが決定的になってしまう気がした。
少年はそんな彼女の様子を気に留めることなく、剣を鞘に収めた。
「町まで一緒に行こう。ここにひとりでいるのは危ない」
「えっ、でも……」
「さっきのような魔物が、ほかにもいるかもしれない」
「……ま、魔物」
カエデの顔が引きつった。
そうだ。
さっきのは、魔物だった。
ゲームの中では何度も倒した相手。
けれど、現実になった途端、あんなにも恐ろしい存在になるなんて思わなかった。
少年は彼女の顔色を見て、少し声を和らげた。
「町までは、そう遠くない。歩けそうか?」
「は、はい! 歩けます!」
「なら、行こう」
少年が歩き出す。
カエデは慌てて、その後を追った。
草原を抜ける風が、制服の裾を揺らす。
数歩進んだところで、カエデはちらりと隣を見た。
やはり、似ている。
どうしよう。
もし本当に、あの人だったら。
もし、ここが本当に――。
「……あの」
「ん?」
「お名前、聞いてもいいですか?」
少年は、こちらを見た。
「俺はアレル」
その瞬間、カエデの思考が止まった。
「…………」
アレル。
今、アレルって言った?
いや、待って。
落ち着こう。
同じ名前の人なんて、いるかもしれない。
いるかもしれないけれど。
あの見た目で。
あの装備で。
アリアハンの近くにいて。
名前が、アレル。
…………。
「…………あ、そう、なんですね」
声が、ひっくり返りかけた。
アレルが不思議そうに彼女を見る。
「……何か?」
「い、いえ! なんでもないです!」
「……そうか」
納得しているのか、していないのか。
アレルはそれ以上追及せず、前を向いた。
カエデは口元を押さえた。
どうしよう。
どうしようどうしよう。
名前まで一致してしまった。
これはもう、偶然で片づけていいのだろうか。
いや、でも、まだ決まったわけではない。
決まったわけではないのだ。
そう自分に言い聞かせながら、カエデは歩いた。
――そして。
草原の向こうに、町が見えた。
白い壁。
見張りの塔。
遠くからでも分かる、見覚えのある街並み。
町へ近づくにつれて、カエデの足取りが少しずつ遅くなった。
石造りの建物。
道の曲がり方。
門の向こうに見える景色。
知っている。
知っているはずだ。
画面の中で、何度も見た。
何度も歩いた。
けれど、実際に目にする景色は、記憶の中のそれとはまるで違っていた。
建物の壁には細かな凹凸があり、石畳の隙間からは小さな草が顔を出している。人々の声や、どこかの店から漂ってくる食べ物の匂いまでが、風に乗って届いてきた。
町は、生きていた。
ゲームの背景ではない。
誰かが暮らし、笑い、働いている、本物の町だった。
「……すごい」
カエデは、思わず足を止めた。
「……何がだ?」
「えっ、あっ、いや! なんでもないです!」
慌てて歩き出す。
危ない。
また変なことを言うところだった。
でも、仕方がない。
だって、ここは。
ここは、もしかして本当に。
「……アリアハン、なんだ」
小さく漏れた呟きに、アレルが反応した。
「そうだが」
「……えっ」
「さっき、そう言っただろう?」
「そ、そうでしたね!」
カエデは勢いよく頷いた。
やってしまった。
知っていることを、知っているように口にしてしまった。
アレルはしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく息をついた。
「……お前、少し変わっているな」
「へっ!?」
「いや。悪い意味ではない」
「ほ、ほんとですか……?」
「少なくとも、今のところは」
「今のところ!?」
思わず声が大きくなった。
アレルが、ほんのわずかに口元を緩めた。
笑った。
その顔を見たカエデは、またしても言葉を失いかけた。
――ああ、もう。
やっぱり、似ている。
似ているどころではない。
この人は。
もしかして、本当に。
けれど、その答えを確かめる前に、アレルが口を開いた。
「俺は、これから城へ行く」
「……お城?」
「ああ。旅立つ前に、王様に挨拶をしておきたいんだ」
旅立つ。
王様。
城。
その言葉が、カエデの頭の中でつながっていく。
まさか。
まさか、そんな。
アレルは、歩きながら続けた。
「俺は今日、勇者として旅に出る。その前に、王様に報告しておく必要があるんだ」
「…………」
カエデの足が止まった。
勇者。
旅立ち。
頭の中で、すべてがひとつになった。
目の前にいる少年。
アリアハン。
――ああ。
やっぱりそういうことか。
ここは、ドラゴンクエストIIIの世界だ。
しかも、物語の始まり。
まだ、バラモスを倒す旅が始まっていない時点の。
理解した瞬間、カエデの口が勝手に動いた。
「……えっ。じゃあ、バラモスを倒しに行くの!?」
言ってから、気づいた。
しまった。
アレルが、ゆっくりと振り返った。
「…………」
「…………」
沈黙。
町を行き交う人々の声が、急に遠くなった気がした。
アレルの表情から、わずかな笑みが消えていた。
「……なぜ、バラモスの名を知っている?」
「…………」
「俺は今、初めてお前に話したはずだが」
「…………」
カエデは、口を開いた。
閉じた。
もう一度、開いた。
「……えっと」
「うん」
「……その」
「……?」
「……あ、あはは、さっきすれ違った人達がそんな噂をしてたというか…」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
アレルは笑わなかった。
当然だ。
出会ったばかりの少女が、見たこともない服装をしていて、町のことを知っているような口ぶりをして、そのうえ、まだ詳しく話していない旅の目的まで言い当てたのだから。
不思議に思わないほうがおかしい。
カエデは、ぎこちなく頷いた。
「……勘、かな?」
どうしよう。
どう説明すればいいのだろう。
異世界から来たことも。
この世界の物語を知っていることも。
あなたが、自分の知っている勇者そのものだということも。
何ひとつ、うまく説明できる気がしなかった。できたとしても、きっと狂った奴だと思われてしまう。
いっそのこと、この世界の住人だとしてしまった方が、この場だけは乗り切れるのか……
アレルは黙り込んでしまった彼女をしばらくの間見つめていたが、やがて城のほうへ視線を向けた。
「……ひとまず、城へ行こう。話はそれからだ」
「……お城?」
「ああ。俺は王様に会わなければならないし、お前のことも気になる」
「……あ、あの、私、怪しい者では……」
「それは、話を聞いてから判断する」
「ですよねぇ……」
カエデは肩を落とした。
どうやら、自分はとんでもないことを口走ってしまったらしい。
怖い。
不安だ。
何も分からない。
それでも。
画面の向こうでしか知らなかった勇者が、今、自分の隣を歩いている。
それだけは、夢でも幻でもなかった。
すぐそばから聞こえる足音も、風に揺れる赤いマントも、隣を歩く少年の気配も、すべてが現実だった。
何度も見てきたはずの横顔を、カエデはそっと盗み見る。
画面越しなら、どれほど見つめていても、こちらの視線に気づかれることはなかった。けれど、今は違う。目が合えば、きっと何かを尋ねられる。自分が知っている彼と、目の前にいる彼。その違いを、どう受け止めればいいのだろう。
そんなことを考えていると、隣を歩いていたアレルが、ふと足を緩めた。
「お前の名前を教えてくれないか?」
不意に向けられた声に、カエデの肩が小さく跳ねる。
そういえば、まだ名乗っていなかった。
当然のことを聞かれただけなのに、胸の奥が落ち着かない。彼に自分の名前を告げる――たったそれだけのことが、どうしてこんなにも特別に感じられるのだろう。
「……カエデです。」
振り絞るようにそう告げると、アレルは確かめるように繰り返した。
「……カエデ、か」
カエデは制服の裾をぎゅっと握りしめた。
そして、心の中で小さく呟いた。
――どうしよう。
私、本当に。
ドラゴンクエストIIIの世界に来ちゃったんだ。
まだ何も知らないまま。
この世界で、これから何が起こるのかも。
隣を歩く勇者と、どんな旅をすることになるのかも。
何ひとつ、知らないまま。
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