DQ3 夜明けの果てに君と


 イシス城の大広間には、華やかな音楽と人々の笑い声が響いていた。

 天井から吊るされた大きな燭台には、いくつもの灯りがともされている。磨き上げられた床には金色の光が映り、壁に施された細かな装飾も、いつも以上に美しく輝いていた。

 広間の中央には長いテーブルが並び、その上には色とりどりの料理が所狭しと置かれている。

 香辛料をたっぷり使った肉料理。焼きたてのパン。野菜や果物を盛り合わせた大皿。甘い香りを漂わせる菓子や、透き通った飲み物まで、どれも見ているだけで食欲をそそるものばかりだった。

 失踪事件が解決し、人々が無事に戻ってきたことを祝う宴。

 城の兵士たちだけでなく、救出された人々やその家族も招かれ、広間は大勢の人々で賑わっていた。

「わあ……! どれもおいしそう!」

 カエデはテーブルに並ぶ料理を眺め、目を輝かせた。

「好きなものを取っていいそうだぞ」

 隣に立つアレルが言う。

「本当に? じゃあ、あれも食べてみたい!」

 カエデはさっそく皿を手に取り、気になる料理を少しずつ盛りつけていった。

 その隣では、シオンが大きな肉料理を皿に取り分けている。

「お前、そんなに食べるのか?」

 ライザが呆れたように尋ねた。

「せっかくのご馳走だぞ。食べられるときに食べておかないとな」

「それはそうだが、少しは加減しろよ」

「心配するな。まだまだ入る」

 シオンはそう言って、皿の上にさらに肉を乗せた。

「ふふっ。シオンって、意外と食いしん坊なのね」

 フレミアが笑う。

「うるさい。お前だって甘いものをずいぶん取っているじゃないか」

「これは別腹よ」

「便利な言葉だな」

「何か文句でも?」

 二人のやり取りに、カエデがくすくすと笑った。

 一方、アレルは料理を皿に取り分けると、少し離れた席へ腰を下ろした。

 右手には、まだ強い痺れが残っている。

 指を動かすことはできるものの、力を込めようとすると感覚が鈍く、細かな動きにも違和感があった。

 そのため、食事は左手で取ることにしていた。

「アレル、右手は大丈夫?」

 カエデが隣に座りながら尋ねる。

「ああ。食べるくらいなら問題ない」

「無理しないでね」

「分かっている」

 アレルは左手でフォークを持ち、料理を口へ運んだ。

 普段は何気なく使っている右手が思うように動かない。それだけでも不便なことは多いはずなのに、彼はあまり気にしていないようだった。

「それにしても、左手で食べるのって大変そうね」

 フレミアが向かい側から覗き込む。

「慣れていないだけだ。少しずつ使っていけば問題ない」

「そう? でも、食べにくそうよ」

「大したことはない」

「本当に?」

 フレミアは疑わしそうに目を細めた。

珍しいアレルとフレミアの絡みに、シオンが横から入る。

「相変わらず世話焼きだな」

「あなたに言われたくないわね!」

「はいはい」

 シオンは楽しそうに笑いながら、肉を一口頬張った。

 その様子を見て、アレルも小さく笑う。

 戦いの最中には見られなかった、穏やかな表情だった。

 広間のあちこちでは、救出された人々が家族や友人と再会を喜び合っている。

 涙を流しながら抱き合う者もいれば、互いの無事を確かめるように何度も肩を叩き合う者もいた。

 兵士たちも、ようやく肩の力を抜いているようだった。

 カエデはそんな光景を眺めながら、料理を口へ運んだ。

 長い間、閉じ込められていた人々。

 帰りを待ち続けていた家族。

 彼らがこうして笑い合っている。

 それを見ているだけで、胸の奥が温かくなった。

「……よかったね」

 カエデが小さく呟く。

「ああ」

 アレルも広間を見渡した。

「こうして、みんなが笑っていられるのが一番だ」

 その声は穏やかだった。

     *

 宴が始まってから、しばらく経った頃。

 広間の中央が少しずつ片づけられ、楽器を持った演奏者たちが前へ出てきた。

 軽快な太鼓の音が響き、弦楽器の明るい旋律が重なる。

「何が始まるのかしら?」

 フレミアが興味深そうに眺める。

「余興じゃないか?」

 シオンが答えた。

 すると、ライザが椅子から立ち上がった。

「ちょうどいい。俺も一つ披露してみるか」

 カエデが目を丸くする。

「ライザ、何をするの?」

「故郷の踊りだ。宴の席では、よくみんなで踊っていた」

 ライザは胸を張り、誇らしげに答えた。

「へえ! 見てみたい!」

 カエデが身を乗り出す。

「よし。では、少し場所を借りよう」

 ライザは広間の中央へ進み、演奏者たちに声をかけた。

 やがて、太鼓の音が少し変わる。

 一定のリズムを刻む音に合わせ、ライザがゆっくりと身体を動かし始めた。

 腕を左右へ広げ、足を踏み出す。身体を大きく回し、時折、腰を落として独特の動きを見せる。

 その動きには力強さがありながらも、どこか愛嬌があった。

 ライザは真剣な顔で踊っている。

 まるで故郷の景色を思い浮かべているかのように、ひとつひとつの動作を丁寧に繰り返していた。

「おお……!」

 カエデは目を輝かせた。

「すごい! なんだか楽しそう!」

「そうだろう。故郷では子どもから大人まで、みんな踊るんだ」

 ライザは踊りながら答えた。

 その様子を眺めていたシオンが、ふと首を傾げる。

「……なあ」

「何だ?」

「それ、ふしぎなおどりの間違いじゃないか?」

 一瞬、周囲の空気が止まった。

「何だと?」

 ライザの動きがぴたりと止まる。

 カエデは思わず口元を押さえた。

「ちょっとシオン! せっかく踊ってくれてるのに!」

「いや、どう見ても魔物の踊りにしか見えないぞ」

 ケーキを食べ終えたフレミアがすかさず口を挟んだ。

「故郷はパペットマンの村なのよ」

「そうなのか、ライザ」

「……違うが」

 シオンが首を傾げる。

 カエデはとうとう我慢できず、声を上げて笑った。

「ふふっ、あははは!」

 ライザは少しだけ不満そうな顔をしたものの、やがて自分でもおかしくなったのか、豪快に笑い始めた。

「まったく、お前は余計なことを言う」

「俺は感想を言っただけだ」

 ライザはシオンの肩を軽く叩いた。

 フレミアも笑い、カエデもそれにつられる。

 アレルは席に座ったまま、その様子を眺めていた。

 ジゼルは少し離れたところで部下に囲まれていながらも、たまにこちらを気にかけてくれている。

 いつもは落ち着いているライザが、故郷の踊りを誇らしげに披露している。

 シオンは相変わらず余計な一言を口にし、フレミアはそれに負けじと言い返す。

 カエデはそんな二人を見て、楽しそうに笑っていた。

 このメンバーで過ごす時間が、少しずつ当たり前になってきている。

 そう思うと、アレルの胸にも穏やかなものが広がった。

     *

 宴が終わる頃には、広間の外にも夜の冷たい空気が満ちていた。

 城の窓からは、月明かりに照らされたイシスの街並みが見える。

 救出された人々は、まだしばらく城や街に滞在することになっていた。

 そのため、街の宿屋は彼らで埋まっており、今夜は空き部屋がないという。

 アレルたちが城を後にしようとしたときだった。

「皆さま、少々お待ちください」

 廊下の向こうから、一人の侍女が歩み寄ってきた。

「今夜のお泊まり先は、もうお決まりでしょうか?」

「宿屋に戻るつもりだが……」

 アレルが答えると、侍女は少し申し訳なさそうに微笑んだ。

「実は、救出された方々やそのご家族も今夜は宿屋を利用されるため、町の宿はかなり混み合っているようなのです」

「そうなのか」

「はい。もし差し支えなければ、今夜は城の客室をお使いください。皆さまにゆっくりお休みいただけるかと思います」

 侍女の申し出に、アレルたちは顔を見合わせた。

「いいのか? 俺たちまで世話になってしまって」

「もちろんです。皆さまは事件の解決に大きく貢献してくださいました。どうか遠慮なさらないでください」

 侍女は穏やかに頭を下げた。

「……それなら、お言葉に甘えさせてもらおう」

「ありがとうございます。お部屋へご案内いたしますね」

 こうしてアレルたちは、城の客室を借りることになった。

 一方で、ジゼルは兵士長としての仕事もあり、自分の部屋へ戻ると言う。

「私はまだ確認しなければならないことがある。何かあれば、近くの兵士に声をかけてくれ」

「分かった。ありがとう、ジゼル」

 アレルが答える。

「おやすみなさい、ジゼルさん!」

 カエデも笑顔で手を振った。

「ああ。みんな、ゆっくり休んでくれ」

 ジゼルは軽く頷くと、廊下の奥へと歩いていった。

 残った五人は、城の使用人に案内されて客室へ向かう。

 廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁には美しい絵画や装飾品が並んでいた。高い窓から差し込む月明かりが、床の上に淡い模様を落としている。

 やがて案内された部屋の扉が開かれた。

「わあ……!」

 カエデが思わず声を上げる。

 部屋は五人で使うには十分すぎるほど広かった。

 大きな窓には厚手のカーテンがかかり、壁際には美しい彫刻の施された家具が並んでいる。天井には小さな灯りがいくつも設置され、部屋全体を柔らかく照らしていた。

 奥には大きな寝台がいくつも並べられ、それぞれに白い寝具が整えられている。

「ずいぶん豪華な部屋だな」

 ライザが感心したように言う。

「さすがお城ね」

 フレミアは部屋の中を見回し、満足そうに頷いた。

「どうせなら、みんなで寝ましょうよ!」

「……みんなで?」

 カエデが聞き返す。

「そうよ。せっかく広い部屋なんだし、別々に寝るより楽しいじゃない」

「まあ、確かにそうだな」

 シオンは肩をすくめた。

「俺は構わないぞ」

 ライザも頷く。

 アレルは部屋の寝台を見渡した。

「寝る場所は十分にある。問題ないだろう」

「決まりね!」

 フレミアが嬉しそうに手を叩いた。

 五人は荷物を置き、寝る準備を始めた。

 アレルは右手を休ませるようにしながら、左手で寝具を整える。カエデはその様子を気にしつつ、自分の荷物を寝台の脇へ置いた。

 シオンとライザは武器を手の届く場所に置き、フレミアは髪をほどいて寝る支度をしている。

 ようやく一日の終わりが近づいていた。

 ……はずだった。

     *

「……ねえ、シオン」

 寝台に腰を下ろしたカエデが、隣のシオンを見た。

「何だ?」

「これ、当たったら痛いかな?」

 カエデの手には、枕がひとつ握られていた。

 シオンはそれを見て、わずかに眉を寄せる。

「枕だぞ。痛いわけないだろ」

「そっか」

 カエデはにっこり笑った。

 次の瞬間。

「つうこんのいちげき~!!」

 カエデは枕を思い切りシオンへ投げつけた。

「うおっ!?」

 不意を突かれたシオンの顔に、枕がまともにぶつかる。

 ふわりと羽毛が舞った。

「……お前!」

 シオンは手元の枕を掴むとすぐさま投げ返した。

「わっ!」

 カエデは慌てて身を横へずらす。

 枕は彼女の肩先を通り過ぎ、そのまま後ろにいたフレミアへ飛んでいった。

 ぽすっ。

 フレミアの顔に、枕が直撃した。

 部屋の中に、一瞬だけ静寂が流れる。

「ちょっと……」

 フレミアはゆっくりと枕を下ろした。

「何なのよ、今の!」

「えっ? 私じゃないよ!」

 カエデが慌てて両手を振る。

「シオンが投げたの!」

「お前が避けるからだろ!」

「だって当たりそうだったんだもん!」

「当てるつもりで投げたんだよ!」

「何それ!」

 フレミアは二人を交互に見たあと、手元の枕を掴んだ。

「……覚悟しなさいよ!」

「えっ、ちょっと待って!」

 フレミアが枕を投げる。

 今度はカエデの胸元に、ぽすんと当たった。

「なんで私!?」

「あなたが最初に始めたんでしょうが!」

「それはそうだけど!」

 フレミアは枕を拾い上げ、もう一度構える。

 その様子を見ていたライザが、とうとう声を上げて笑った。

「ははは! 何をやっているんだ、お前たちは!」

 シオンはその笑い声に気づき、すぐにライザへ顔を向けた。

「……何笑ってんだよ!」

 シオンは枕を掴み、ライザへ向かって投げた。

 枕は真っすぐ飛んでいく。

 ライザは避けようとしなかった。

「ぐあああっ!!」

 わざと大げさに声を上げ、胸元に枕を受けたまま後ろへ倒れ込む。

 どさり。

 寝台の上に仰向けになり、片腕をだらりと垂らした。

「……やられた……」

「お、おい。大丈夫か?」

 シオンが一瞬だけ心配そうに見る。

 しかし、ライザは目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。

「……まさか、そんなに強く投げてないぞ?」

「シオン、やりすぎよ!」

 フレミアが声を上げる。

「いや、今のは明らかにわざとだろ!」

 カエデがライザのそばへ駆け寄ろうとした、そのとき。

「……ふっ」

 ライザの口元がわずかに動いた。

「……?」

 次の瞬間、ライザは勢いよく起き上がった。

「油断したな!」

「うわっ!」

 ライザが枕を掴み、シオンへ投げつける。

 今度はシオンの肩に直撃した。

「この野郎!」

 シオンも枕を構え直す。

「上等だ!」

 こうして、部屋の中は一気に騒がしくなった。

「シオン、こっちよ!」

 フレミアが横から枕を投げる。

「うわっ、危ない!」

 シオンが避けると、枕はライザの顔に当たった。

「おい、フレミア!」

「ごめんなさいね!」

 言葉とは裏腹に、フレミアの顔には楽しそうな笑みが浮かんでいる。

「カエデ、挟み撃ちにしましょう!」

「うん!」

 カエデはフレミアの隣に並び、枕を構えた。

「いくよ、シオン!」

「二人がかりかよ!」

「文句言わない!」

 左右から枕が飛んでいく。

 シオンは身をひねって避けようとしたが、片方を肩に受け、もう片方が頭に当たった。

「いてっ!」

「当たった!」

 カエデが嬉しそうに声を上げる。

「よし、次は俺だ!」

 ライザも枕を拾い、カエデたちへ向けて投げる。

「きゃっ!」

 カエデは慌てて身を伏せた。

 枕はその後ろを通り過ぎ、壁際の寝台に落ちる。

「危なかった……!」

「まだまだ行くぞ!」

 ライザは次の枕を手に取った。

 シオンも負けじと立ち上がり、フレミアへ狙いを定める。

「覚悟しろよ!」

「望むところよ!」

 四人の枕が、次々と部屋の中を飛び交う。

 枕が当たるたびに笑い声が上がり、寝台の上には白い羽毛が少しずつ散らばっていった。

 カエデは枕を抱えたまま寝台の向こうへ隠れ、シオンの隙を窺う。

 フレミアは寝台の端から身を乗り出し、ライザへ枕を投げつける。

 ライザは大げさに避け、時にはわざと受けてみせた。

 シオンは二人を相手にしながら、隙を見てカエデへ反撃する。

「ちょっと、シオン! 私ばっかり狙わないでよ!」

「最初に俺を狙ったのはお前だろ!」

「それはそれ!」

「どういう理屈だよ!」

 フレミアが笑いながら、さらに枕を投げる。

「ほら、よそ見してる場合じゃないわよ!」

「うわっ!」

 今度はシオンの背中に枕が当たった。

「フレミア、お前!」

「ふふん!」

 ライザも笑いながら枕を拾い上げる。

「まだまだ終わらんぞ!」

「ライザまで本気になってるじゃない!」

 カエデが叫ぶ。

「ははは! 楽しいじゃないか!」

 ライザは豪快に笑いながら、枕を投げ返した。

 四人の大乱闘は、なかなか終わりそうになかった。

     *

「……元気だな、お前たちは」

 少し離れた寝台に座っていたアレルが、呆れたように呟いた。

 右手をかばうように膝の上へ置き、左手で軽く額を押さえる。

 枕が飛び交うたびに、四人の声が部屋中に響く。

 カエデが笑い、シオンが言い返し、フレミアがさらに煽る。ライザは普段の落ち着いた姿からは想像できないほど楽しそうに枕を投げていた。

 アレルはその様子を眺めていた。

 自分も参加できればよかったのかもしれない。

 けれど、今の右手ではうまく枕を投げられそうにない。それに、四人の勢いを見ていると、下手に加わらない方がいいようにも思えた。

 そんなことを考えていると、カエデがこちらを振り返った。

「アレルもやる?」

「俺はいい」

「遠慮しなくていいのに!」

「遠慮しているわけじゃない」

「そう?」

「ああ。見ているだけで十分だ」

 アレルは小さく笑った。

 カエデは一度頷き、再び枕を構える。

「じゃあ、私たちで楽しむね!」

「ほどほどにな」

「はーい!」

 返事をした直後、カエデはシオンへ豪速球を投げた。

「お前、今の返事は何だったんだよ!」

 シオンの声が響く。

 アレルは思わず苦笑した。

 どれほど時間が経っただろう。

 やがて、四人の動きが少しずつ鈍くなっていった。

 カエデは枕を抱えたまま寝台に倒れ込み、フレミアもその隣に腰を下ろす。

 ライザは大きく息を吐き、シオンは床に落ちた枕を拾う気力もなく、寝台の端へ身体を預けていた。

「……もう無理」

 カエデが息を切らしながら呟く。

「まったく……何でこんなことになったんだ」

 シオンが肩で息をする。

「あなたが投げ返してくるからでしょう!」

 フレミアが言い返す。

「最初に始めたのはカエデだろ!」

「えっ、私!?」

「そうよ。あなたがシオンに投げたんじゃない」

「うっ……」

 カエデは言葉に詰まった。

 ライザがその様子を見て、また笑う。

「ははは! 面白かったじゃないか」

「ライザは笑ってばっかり!」

「俺もちゃんと参加しただろう」

「大げさに倒れただけじゃない!」

「それも立派な戦い方だ」

「そんな戦い方があるの!?」

 カエデが思わず声を上げる。

 フレミアもシオンも笑い出した。

 アレルは、散らばった枕と羽毛を見渡してから、ゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ片づけた方がいいんじゃないか」

「……そうだね」

 カエデは寝台に倒れ込んだまま答えた。

 しばらくして、ようやく四人は散らばった枕を元の場所へ戻した。

 寝具を整え終える頃には、全員がすっかり疲れ果てていた。

「……ピラミッドより疲れた……」

 カエデが寝台に腰を下ろし、深く息を吐く。

「それは言い過ぎだろ」

 シオンが笑う。

「まあ、確かに疲れたな」

 ライザも苦笑した。

「でも、楽しかったわ」

 フレミアは満足そうに髪を整える。

 アレルはそんな四人を見渡し、穏やかに微笑んだ。

「それならよかった」

 ようやく部屋に静けさが戻ってくる。

 窓の外では、月が砂漠の街を淡く照らしていた。

     *

 枕投げの騒ぎが収まってから、しばらくして。

 フレミアは疲れ切った様子で寝台に横になっていた。枕投げの最中はあれほど元気に笑っていたのに、今ではすっかり静かになり、掛け布を肩まで引き上げている。

 やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

「……もう寝たのか」

 シオンが小さく呟く。

「相当はしゃいでいたからな」

 ライザは苦笑しながら、眠っているフレミアへ目を向けた。

「本人はまだ起きているつもりだったかもしれないけどね」

 カエデは声を潜めて笑った。

 部屋の灯りは少し落とされ、窓から差し込む月明かりが寝台の端を淡く照らしている。

 先ほどまで響いていた笑い声も、今はすっかり消えていた。

 それぞれが寝台に腰を下ろし、ようやく落ち着いた頃。

 シオンが、ふと思い出したように口を開いた。

「それにしても、あの戦いは本当に厳しかったな」

 アレルは顔を上げた。

 少し離れた寝台に座るライザも、腕を組んで静かに頷く。

「戦士として、あそこまで追い詰められたのは生まれて初めてだ……」

 ライザの声には、戦いの記憶がまだ残っているようだった。

 彼は膝の上に置いた手を見つめる。大剣を握り続けた手には、あのときの衝撃がまだ残っているような気がした。

「アレルのライデインがなかったら勝てなかったな」

 シオンが言った。

 その言葉を聞いた瞬間、カエデの表情が変わった。

「……ライデイン」

 思わず、その名前を繰り返す。

「どうした?」

 シオンがカエデを見る。

「ううん。何でもない」

 そう答えたものの、カエデの胸の中には、驚きと戸惑いが広がっていた。

「フレミアとジゼルには一度説明したんだが、お前はアレルと一緒に遅れて合流したからな。詳しい話は聞いていなかったか」

 シオンは少しだけ視線を落とすと、あのときのことを思い返すように、ゆっくりと話し始めた。

 今回の失踪事件の裏には、ピラミッドの奥に潜んでいたナイルのあくまがいたこと。アレルたちは仕掛けを解いてその居場所へたどり着き、そこで魔物と対峙したこと。

 ナイルのあくまは想像以上に強く、シオンとライザも苦戦を強いられたという。

 シオンは話しながら、あのときの戦いを思い返していた。

 薄暗い部屋の中に漂っていた不気味な気配。こちらの攻撃を受けても揺るがない魔物の姿。そして、次々と繰り出される攻撃に、思うように反撃できなかったこと。

 ライザも、腕を組んだまま黙って聞いていた。

 彼の表情は普段よりも硬い。大剣を握る腕に力が入り、指先がわずかに動いた。

 アレルも何度も攻撃を受け、追い詰められていた。

 それでも、誰一人として諦めなかった。

 最後には、アレルが強力な雷の呪文を放ち、ナイルのあくまを倒したのだという。

 シオンはそこで一度言葉を切り、アレルの方へ目を向けた。

「……あのときは、本当に驚いたよ。あんな力を隠していたとはな」

「隠していたわけじゃない。ライザに教えられるまで知らなかった」

 アレルは静かに答えた。

 その声には、勝利を誇るような響きはなかった。

 ただ、あの力を使わなければならなかった状況を思い返しているようだった。

「それでも、あの一撃がなければ、俺たちはどうなっていたか分からない」

 ライザが言った。

 彼はアレルの右手へ視線を向ける。

「……あれだけの力を放ったんだ。身体に負担が残るのも無理はない」

「……それが、ライデインだったんだね」

 カエデは、シオンの話を聞きながら呟いた。

「ああ。俺たちも、あんな呪文を目の前で見たのは初めてだった」

 シオンはアレルの右手へ視線を向けた。

 ライデインの凄まじい威力と引き換えに、アレルの右手には強い痺れが残った。剣を握ることさえ難しくなるほどの負担だったという。

「お前も知ってるとはな」

 ライザがカエデを見た。

「えっ?」

「ライデインだ。名前を聞いただけで、ずいぶん驚いていたからな」

「あ……うん。聞いたことがあったんだ」

「そうか」

 ライザは特に追及せず、アレルへ視線を移した。

「だが、あの呪文は相当な負担だったようだな」

 アレルは右手を見下ろした。

 膝の上に置いた手を、ゆっくりと持ち上げる。

 指を一本ずつ動かしてみる。動かすこと自体はできる。けれど、手のひらから指先にかけて、感覚が鈍く残っていた。

 試しに軽く握り込もうとすると、指先に力がうまく伝わらない。

 アレルはわずかに眉を寄せた。

「……ああ。まだ痺れが残っている」

「今もそんなに痺れているの?」

 カエデが心配そうに尋ねた。

 彼女の視線は、アレルの右手に向けられていた。

「ああ。時間が経てば戻るだろう」

「でも、剣を握るのは難しいんでしょう?」

「今は左手で持てばいい」

「そういう問題じゃないよ」

 カエデの声には、心配が滲んでいた。

 アレルは彼女の顔を見て、少しだけ困ったように笑う。

「大丈夫だ。今はこうして動かせる」

「それでも……」

 カエデは言葉を止めた。

 ゲームの中では、ライデインを使う勇者の姿を何度も見ていた。

 呪文を唱えれば雷が落ち、敵に大きなダメージを与える。

 そこには、痛みも痺れも描かれていなかった。

 画面の中では、呪文を使った後も勇者は何事もなかったように次の行動へ移っていた。

 けれど、この世界では違う。

 アレルは自分の身体を使って雷を呼び起こした。

 その力は確かに敵を倒したが、彼の身体にも負担を残した。

 カエデは、アレルの右手を見つめた。

 彼の手は、今も膝の上に置かれている。いつもなら剣の柄を握り、迷いなく敵へ向けられる手だった。

 その手が、今は思うように動かない。

 ライデインの威力を知っていたつもりだった。けれど、その力を使うためにどれほどの負担がかかるのかまでは、考えたこともなかった。

 呪文の威力だけを知っていた自分は、その裏にあるものを何も知らなかったのだ。

「……そっか」

 カエデは小さく呟いた。

 自分の知っている世界と、目の前にある現実。

 同じ名前の呪文でも、そこに込められた力も、使う人の負担も、決して同じではない。

 この世界で生きているアレルにとって、ライデインは単なる強力な攻撃手段ではないのだ。

 カエデはそのことを、改めて思い知らされた。

「カエデ?」

 アレルが声をかける。

「……ううん。何でもないよ」

 カエデは顔を上げ、小さく笑った。

「ただ、無理はしないでほしいなって思っただけ」

「ああ。気をつける」

 アレルは静かに頷いた。

 その横顔を見ながら、カエデはもう一度だけ彼の右手に目を向けた。

 今夜はもう、これ以上無理をしてほしくない。

 そんな思いを胸にしまい、彼女はそっと視線を戻した。

「今夜はもう休もう。明日のことは、朝になってから考えればいい」

 ライザの言葉に、全員が頷いた。

     *

 部屋の灯りが落とされる。

 窓の外には、月明かりに照らされたイシスの街が広がっていた。

 昼間の賑わいはすっかり落ち着き、通りを行き交う人々の声も遠くなっている。城の中も静まり返り、時折、廊下を歩く兵士の足音がかすかに聞こえるだけだった。

 五人はそれぞれ寝台に横になった。

 カエデは、今日一日のことを思い返していた。

 大広間に広がっていた料理の数々。

 ライザが誇らしげに披露した故郷の踊り。

 そして、客室で始まった突然の枕投げ大会。

 思い出すたびに、頬が緩んでしまう。

 ピラミッドでは、怖いこともたくさんあった。

 仲間とはぐれたときの不安。魔物との戦い。助けを求めていた人々の姿。

 けれど、今はこうしてみんなで笑い合えている。

 それが何より嬉しかった。

 ふと、カエデは隣の寝台へ目を向けた。

 アレルは仰向けになり、静かに目を閉じている。右手は無理をしないよう、身体の横に置かれていた。

 ……明日には少しでもよくなっているといいな。

 カエデはそう願いながら、ゆっくりと目を閉じた。

 窓の外では、夜風がカーテンを静かに揺らしている。

 砂漠の都イシスに、穏やかな夜が訪れていた。
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